2020年5月18日のブックマーク (525件)

  • 「姓が不詳」の三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには姓のはっきりしない人物を集めてみました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「姓が不詳」の収録人物は11名 999 999 1 ?晏(?あん) ※魏(ぎ)の曹芳(そうほう)配下の太常(たいじょう)、『三国志集解(さんごくししっかい)』では任昊(じんこう)とある、任昊については別枠を置いた 999 999 1 ?栄(?えい) ※李密(りみつ)を秀才(しゅうさい)に推挙した刺史(しし) 999 999 1 ?嘉(?か) ※魏の曹奐(そうかん)配下の太常、蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)が安楽公(あんらくこう。安楽県公)に封ぜられたときの使者 999 999 1 ?逵(?き) ※李密を孝廉(こ

    「姓が不詳」の三国志の登場・関連人物一覧
  • 「わ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子の淮陽王(わいようおう)のみが該当します。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「わ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ろ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには魯氏(ろし)や盧氏(ろし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「ろ」から始まる収録人物は48名 000 000 1 路温舒(ろおんじょ) 000 000 1 路合(ろごう) 084 021 1 路招(ろしょう) ※吉川『三国志』では露昭、『三国志演義』では路昭とある 000 023 1 路粋(ろすい) 000 000 1 路中大夫(ろちゅうたいふ) ※前漢(ぜんかん)時代の斉(せい)の人 000 000 1 路蕃(ろはん) 000 009 1 魯馗(ろき) 000 000 2 魯元公主(ろげんこうしゅ) ※前

    「ろ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「れ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには令狐氏(れいこし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「れ」から始まる収録人物は22名 000 000 1 令狐華(れいこか) ※姓の令狐は令孤との混用が見られる、以下同じ。 000 000 1 令狐愚(れいこぐ) 000 000 1 令狐景(れいこけい) 000 000 1 令狐邵(れいこしょう) 000 000 1 礼(れい) ※朝鮮侯(ちょうせんこう)に仕えた大夫(たいふ) 000 000 1 伶州鳩(れいしゅうきゅう) ※周(しゅう)の景王(けいおう)に仕えた臣 191 060 1 冷苞(れいほう)

    「れ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「る」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには黄帝(こうてい)の正妃のルイ祖(るいそ。女+累)のみが該当します。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「る」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「り」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)

    こちらには劉氏(りゅうし)や呂氏(りょし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「り」から始まる収録人物(2)は359名 000 000 1 劉阿(りゅうあ) 000 020 0 劉哀(りゅうあい) 072 019 0 劉安(りゅうあん)A ※猟師 072 019 0 劉安の(りゅうあんのつま) ※上の劉安Aの、吉川『三国志』では「夫の劉安に殺された」という存在としてのみの登場 000 000 1 劉安(りゅうあん)B ※前漢(ぜんかん)時代の淮南王(わいなんおう)、劉長(りゅうちょう。淮南厲王〈わいなんれいおう〉)

    「り」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)
  • 「り」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)

    こちらには李氏(りし)や陸氏(りくし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「り」から始まる収録人物(1)は187名 251 082 1 李異(りい)A ※呉(ご)の孫権(そんけん)配下の将軍 000 000 1 李異(りい)B ※劉璋(りゅうしょう)配下の部将 000 000 1 李移子(りいし) ※公孫瓚(こうそんさん)が義兄弟の契りを結んだという絹商人 000 000 1 李偉(りい) 249 081 1 李意其(りいき) ※吉川『三国志』、『三国志演義』とも李意とある。前漢(ぜんかん)の文帝(ぶんてい)時代の人だ

    「り」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)
  • 「ら」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには雷氏(らいし)や駱氏(らくし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「ら」から始まる収録人物は31名 000 000 2 羅貫中(らかんちゅう) ※『三国志演義』の撰者(せんじゃ)とされる人物 000 000 1 羅徽(らき) 000 000 1 羅憲(らけん) 000 000 1 羅襲(らしゅう) 000 000 1 羅市(らふつ) ※羅市(らし)と読んでいた文献もあったが、ここでは「らふつ」と読む。イマイチよくわからず……。 000 000 1 羅蒙(らもう) 000 000 1 羅厲(られい) 000 0

    「ら」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「よ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには羊氏(ようし)や楊氏(ようし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「よ」から始まる収録人物は124名 000 000 1 豫且(よしょ) 000 025 1 豫譲(よじょう) ※『三国志演義』では予譲とある 000 026 0 羊角哀(ようかくあい) 000 000 1 羊徽(ようき) 000 120 1 羊祜(ようこ) 000 000 1 羊琇(ようしゅう) 000 000 1 羊続(ようしょく) 000 000 1 羊舌虎(ようぜつこ) 000 000 1 羊度(ようたく) 000 000 1 羊耽(よう

    「よ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ゆ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには庾氏(ゆし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「ゆ」から始まる収録人物は25名 000 000 1 兪賛(ゆさん) 033 000 0 兪氏(ゆし) ※孫堅(そんけん)の妾(めかけ) 027 005 0 兪渉(ゆしょう) 000 000 1 庾顗(ゆぎ) 000 000 1 庾嶷(ゆぎょく) 167 050 0 庾公之斯(ゆこうしし) ※吉川『三国志』では庾公とある 000 000 1 庾シュク(ゆしゅく。雨+儵) 000 000 1 庾峻(ゆしゅん) 000 000 1 庾純(ゆじゅん) 000 000

    「ゆ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「や」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには山の神という不思議キャラが含まれます。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「や」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「も」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには毛氏(もうし)や孟氏(もうし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「も」から始まる収録人物は48名 000 000 1 毛掾(もうえん) ※東曹掾(とうそうえん)の毛玠の意か? 000 000 1 毛嘉(もうか) 097 010 1 毛玠(もうかい) 000 000 1 毛甘(もうかん) 000 000 1 毛暉(もうき) 000 000 1 毛機(もうき) 000 000 1 毛炅(もうけい) 000 000 1 毛公(もうこう) 000 105 1 毛氏(もうし) ※魏(ぎ)の曹叡(そうえい)のもと正室、

    「も」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「め」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには(漢〈かん〉の)明帝(めいてい)などが含まれます。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「め」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「む」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    残念ながら「む」から始まる人物は見つかりませんでした。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「む」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「み」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    残念ながら「み」から始まる人物は見つかりませんでした。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「み」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ま」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには満氏(まんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「ま」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ほ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには歩氏(ほし)・彭氏(ほうし)・龐氏(ほうし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「ほ」から始まる収録人物は111名 000 000 1 甫侯(ほこう) ※呂侯(りょこう)ともある、周(しゅう)の穆王(ぼくおう)に仕えた司寇(しこう。官名)、刑法を作った 000 000 1 歩璣(ほき) 000 000 1 歩協(ほきょう) 000 000 1 歩氏(ほし) ※呉(ご)の孫権(そんけん)の側室、歩皇后(ほこうごう) 146 043 1 歩騭(ほしつ) ※吉川『三国志』では歩隲とある 000 000 1 歩叔(ほ

    「ほ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「へ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには卞氏(べんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「へ」から始まる収録人物は31名 000 000 1 楚の平王(そのへいおう) 000 000 1 平漢(へいかん) 000 000 1 平原君(へいげんくん) 000 000 1 晋の平公(しんのへいこう) 000 037 1 漢の平帝(かんのへいてい) 000 000 1 平陽侯(へいようこう) ※陳寿(ちんじゅ)が国相(こくしょう)として仕えた人物 000 103 1 邴吉(へいきつ) ※『三国志演義』では丙吉とある 000 066 1 邴原(へいげん)

    「へ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ふ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには傅氏(ふし)・馮氏(ふうし)・文氏(ぶんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「ふ」から始まる収録人物は103名 000 000 1 不耐濊王(ふたいわいおう) ※不耐侯(ふたいこう)ともある 000 148 1 夫差(ふさ) ※春秋(しゅんじゅう)時代の呉王(ごおう) 000 000 1 朴胡(ふこ) 000 000 1 扶禁(ふきん) 000 000 1 扶厳(ふげん) 000 000 1 扶蘇(ふそ) ※秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の息子 000 000 1 扶羅韓(ふらかん) ※鮮卑(せんぴ)の

    「ふ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ひ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには費氏(ひし)や麋氏(びし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「ひ」から始まる収録人物は57名 000 000 1 比干(ひかん) ※殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の叔父 000 000 1 皮初(ひしょ) 000 000 1 否(ひ) ※朝鮮王(ちょうせんおう)、準(じゅん)の父 000 000 1 尾生(びせい) 000 000 2 披(ひ) 000 000 1 弥加(びか) ※鮮卑(せんぴ)の大人(たいじん) 000 000 1 邳肜(ひゆう) 000 106 1 卑衍(ひえん) 000 000 1 卑

    「ひ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「は」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには馬氏(ばし)・裴氏(はいし)・潘氏(はんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「は」から始まる収録人物は184名 000 000 1 巴祗(はし) 000 000 1 波調(はちょう) ※大月氏(だいげっし)の王 000 000 1 馬台(ばい) 000 010 1 馬宇(ばう) 119 032 1 馬延(ばえん) 181 029 1 馬援(ばえん) 000 000 1 馬和(ばか) 000 000 1 馬艾(ばがい) 000 000 1 馬恢(ばかい) 182 058 1 馬玩(ばがん) 204 065

    「は」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「の」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには烏丸(うがん)の能臣氐(のうしんてい)のみが該当します。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「の」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ね」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには甯氏(ねいし)が含まれます。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「ね」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ぬ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    残念ながら「ぬ」から始まる人物は見つかりませんでした。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「ぬ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「に」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    残念ながら「に」から始まる人物は見つかりませんでした。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「に」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「な」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには倭国(わこく)がらみの難升米(なんしょうまい)などが含まれます。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「な」から始まる収録人物は8名 000 000 1 那楼(なろう) ※上郡(じょうぐん)の烏丸族(うがんぞく)、行単于(こうぜんう。単于代行) 241 078 0 梨の木の神(なしのきのかみ) ※吉川『三国志』では「梨の精(なしのせい)」とある 000 000 1 南威(なんい) ※春秋(しゅんじゅう)時代に晋(しん)の平公(へいこう)の寵愛を受けた美女 000 000 1 南史(なんし) 000 000 1 南仲(なんちゅう) 214 069 1 南斗(なんと) 000 011 1 南方

    「な」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「と」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには杜氏(とし)や董氏(とうし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「と」から始まる収録人物は195名 000 090 0 土安(とあん) 000 000 1 杜安(とあん) 000 102 0 杜叡(とえい) 107 027 0 杜遠(とえん) 000 000 1 杜延年(とえんねん) 000 000 1 杜乂(とがい) 000 000 1 杜会(とかい) 000 000 1 杜回(とかい) 000 000 1 杜寛(とかん) 000 000 1 杜基(とき) 278 091 1 杜祺(とき) 278 091

    「と」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「て」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    曹丕(そうひ)の側近たちから強く迫られ、ついに献帝(けんてい)は、国を譲る旨の詔書を書く。 そして形式的なやり取りを繰り返した末、延康(えんこう)元(220)年10月、繁陽(はんよう)において帝位に即いた曹丕は、国名を「大魏(たいぎ)」と号... 000 000 1 貞姜(ていきょう) ※昭姜(しょうきょう)ともある、春秋(しゅんじゅう)時代の人、楚(そ)の昭王(しょうおう)の夫人 000 000 1 梯儁(ていしゅん) 000 000 1 程威(ていい) 042 010 1 程昱(ていいく) 000 000 1 程郁(ていいく) 000 000 1 程嬰(ていえい) 000 000 1 程延(ていえん) 010 001 0 程遠志(ていえんし) 000 000 1 程咸(ていかん) 000 000 1 程奐(ていかん) 000 000 1 程祁(ていき) 000 000 1 程喜(ていき

    「て」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「つ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    残念ながら「つ」から始まる人物は見つかりませんでした。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。

    「つ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「ち」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)

    こちらには趙氏(ちょうし)や陳氏(ちんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「ち」から始まる収録人物(2)は200名 000 000 1 萇弘(ちょうこう) 000 000 1 萇奴(ちょうど) ※袁術(えんじゅつ)配下の部将 035 008 0 貂蟬(ちょうせん)A ※王允(おういん)が養っていた歌妓(かぎ) 074 000 0 貂蟬(ちょうせん)B ※呂布(りょふ)の妾(めかけ) 000 113 1 徴崇(ちょうすう) ※李崇(りすう)ともある、『三国志演義』では李崇とある 000 000 1 趙安(ちょうあん)

    「ち」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)
  • 「ち」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)

    こちらには張氏(ちょうし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「ち」から始まる収録人物(1)は292名 039 009 1 池陽君(ちようくん) ※董卓(とうたく)の母、吉川『三国志』、『三国志演義』とも董卓の母として登場 000 000 1 治元多(ちげんた) ※魏(ぎ)の曹丕(そうひ)に対し涼州(りょうしゅう)で反乱を起こした蛮族 000 000 1 治無戴(ちぶたい) ※涼州の蛮王 139 040 1 郗慮(ちりょ) ※吉川『三国志』では郄慮ともあり表記に揺れが見られる 000 000 1 智築鞬(ちうつちくけ

    「ち」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)
  • 「た」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには戴氏(たいし)や段氏(だんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「た」から始まる収録人物は61名 270 089 0 朶思大王(だしだいおう) ※吉川『三国志』では朶思王とある 000 000 1 乃太源(だいたいげん) 000 000 1 大洪(たいこう) 134 000 0 大姓黽氏(たいせいぼうし) ※南陽(なんよう)の富豪 000 000 1 大庭(たいてい) 000 000 1 周の太王(しゅうのたいおう) ※古公亶父(ここうたんぼ)、周(しゅう)の文王(ぶんのう)の祖父 000 000 1 太姜

    「た」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「そ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)

    こちらには孫氏(そんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「そ」から始まる収録人物(2)は194名 000 000 1 巣父(そうほ) ※堯(ぎょう)の時代の隠者 000 000 1 曾夏(そうか) ※掲陽(けいよう)の不服従民の頭目、呉(ご)の孫権(そんけん)配下の鍾離牧(しょうりぼく)に説得されて帰順した 000 000 1 曾子(そうし) ※曾参(そうさん)ともある、孔子(こうし)の弟子、孝行をもって有名 000 112 0 曾宣(そうせん) 000 000 1 曾点(そうてん) 000 000 1 棗拠(そう

    「そ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)
  • 「そ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)

    こちらには蘇氏(そし)・宋氏(そうし)・曹氏(そうし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「そ」から始まる収録人物(1)は229名 000 000 1 祖伊(そい) 000 000 1 祖己(そき) ※殷(いん)の高宗(こうそう。武丁〈ぶてい〉)に仕えた賢臣 000 000 1 祖山(そざん) ※黟(い)の不服従民の頭目、孫権(そんけん)配下の賀斉(がせい)の討伐を受けて降伏した 246 080 0 祖弼(そひつ) 027 005 1 祖茂(そぼう) 000 015 1 祖郎(そろう) ※涇県(けいけん)の大帥(たいす

    「そ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)
  • 「せ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには石氏(せきし)・薛氏(せつし)・全氏(ぜんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「せ」から始まる収録人物は135名 000 000 1 正昂(せいこう) ※蜀(しょく)の劉備(りゅうび)配下の益州太守(えきしゅうたいしゅ。益州郡の太守) 000 020 1 周の成王(しゅうのせいおう) 000 000 1 楚の成王(そのせいおう) 229 074 1 成何(せいか) 182 058 1 成宜(せいぎ) 000 000 1 成紀王(せいきおう) ※呉(ご)の孫晧(そんこう)の息子 000 000 2 魯の成公

    「せ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「す」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには鄒氏(すうし)などが含まれます。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「す」から始まる収録人物は16名 114 030 1 眭元進(すいげんしん) ※吉川『三国志』では眭元(けいげん)とある 075 019 1 眭固(すいこ) 260 000 0 随何(ずいか) 000 000 1 随会(ずいかい) 000 000 1 随侯(ずいこう) 000 000 1 随春(ずいしゅん) ※東冶(とうや)の賊、のち呉(ご)の孫権(そんけん)に降って将軍まで昇った 000 000 1 燧人氏(すいじんし) ※燧皇(すいこう)ともある 000 000 1 鄒衍(すうえん) ※戦国(せんごく)時代の斉(せい

    「す」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「し」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)

    こちらには徐氏(じょし)や諸葛氏(しょかつし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「し」から始まる収録人物(2)は376名 036 008 1 舜(しゅん) ※虞舜(ぐしゅん)や大舜(たいしゅん)などともある、堯(ぎょう)から天下を譲られた古代の聖天子(せいてんし)、顓頊(せんぎょく)の7世孫で瞽叟(こそう)の息子 000 029 1 漢の順帝(かんのじゅんてい) 000 000 1 準(じゅん) ※朝鮮王(ちょうせんおう)、否(ひ)の息子 000 000 1 雋不疑(しゅんふぎ) ※前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい)・

    「し」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)
  • 「し」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)

    こちらには司馬氏(しばし)や荀氏(じゅんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「し」から始まる収録人物(1)は375名 000 000 1 士䵋(しい) 000 000 1 士壱(しいつ) 000 000 1 士幹(しかん) 000 000 1 士徽(しき) 000 000 1 士匡(しきょう) 000 000 1 士廞(しきん) 000 000 1 士祗(しし) 000 000 1 士賜(しし) 000 000 1 士頌(ししょう) 000 000 1 士燮(ししょう) 226 073 1 士仁(しじん) ※吉川『

    「し」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)
  • 「さ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには崔氏(さいし)や蔡氏(さいし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「さ」から始まる収録人物は83名 000 000 1 左奕(さえき) 000 000 1 左延年(さえんねん) 000 000 1 左奥鞬日逐王(さおうけんじつちくおう) ※匈奴(きょうど)の南単于(なんぜんう) 238 077 0 左咸(さかん) 000 022 1 左悺(さかん) ※後漢(ごかん)の桓帝(かんてい)に仕えた常侍(じょうじ)、宦官(かんがん) 000 120 1 左丘明(さきゅうめい) ※『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』

    「さ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「こ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには呉氏(ごし)・胡氏(こし)・黄氏(こうし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「こ」から始まる収録人物は358名 068 017 1 五習(ごしゅう) 000 000 1 五梁(ごりょう) 000 000 1 五鹿(ごろく) ※張角(ちょうかく)に続いて挙兵した賊の頭目のひとり 000 000 1 戸来(こらい) ※王莽(おうもう)の時代に廉斯鑡(れんしさく)に同行した漢人の男 000 000 1 古朴(こぼく) ※蜀(しょく)の劉備(りゅうび)配下の功曹(こうそう) 129 000 0 古冶氏(こやし) ※

    「こ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「け」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには阮氏(げんし)や厳氏(げんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「け」から始まる収録人物は107名 000 000 1 圭泰(けいたい) 000 000 1 児孝徳(げいこうとく) 000 000 1 児尋(げいじん) 000 000 1 児禅(げいぜん) ※丁零(ていれい)の大人(たいじん) 000 000 1 邢挙(けいきょ) 000 000 1 邢喬(けいきょう) 000 000 1 邢顒(けいぎょう) 000 000 1 邢氏(けいし) ※魏(ぎ)の曹芳(そうほう)のもと側室(貴人〈きじん〉)、後に

    「け」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「く」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには虞氏(ぐし)や屈氏(くつし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「く」から始まる収録人物は40名 000 000 1 公羊高(くようこう) ※『春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん)』の撰者(せんじゃ) 000 000 1 苦蝤(くしゅう) ※張角(ちょうかく)に続いて挙兵した賊の頭目のひとり 000 000 1 禺婉(ぐえん) ※魏(ぎ)の曹芳(そうほう)の側室? 000 000 1 虞偉高(ぐいこう) 000 000 1 虞永賢(ぐえいけん) ※許劭(きょしょう)に見いだされた人物、もと牧童 000 000

    「く」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「き」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには魏氏(ぎし)・許氏(きょし)・姜氏(きょうし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「き」から始まる収録人物は182名 000 000 1 杞梁の(きりょうのつま) 000 000 1 其至鞬(きしけん) ※鮮卑(せんぴ)の大人(たいじん) 000 000 1 季桓氏(きかんし) ※春秋(しゅんじゅう)時代の人、魯(ろ)の昭公(しょうこう)に仕えた家老 000 000 1 季札(きさつ) ※延陵(えんりょう)の季子(きし)ともある、春秋時代の人、呉王(ごおう)の寿夢(じゅぼう)の息子、賢者として名高い 281

    「き」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「か」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)

    こちらには桓氏(かんし)・関氏(かんし)・韓氏(かんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「か」から始まる収録人物(2)は200名 263 087 0 鄂煥(がくかん) 000 000 1 鄂邑蓋主(がくゆうがいしゅ) ※蓋公主(がいこうしゅ)ともある、前漢(ぜんかん)の昭帝(しょうてい)の姉 000 000 1 楽隠(がくいん) 000 000 1 楽何当(がくかとう) ※公孫瓚(こうそんさん)と義兄弟の契りを結んだという商人 129 036 1 楽毅(がくき) 000 000 1 楽莒(がくきょ) 000 000

    「か」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(2)
  • 「か」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)

    こちらには何氏(かし)・夏侯氏(かこうし)・郭氏(かくし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「か」から始まる収録人物(1)は283名 171 053 0 戈定(かてい) 000 053 0 戈定の兄弟(かていのきょうだい) 000 106 1 何晏(かあん) 000 000 1 何惲(かうん) 000 000 1 何英(かえい) 000 000 1 何龕(かがん) 000 000 1 何熙(かき) 044 012 1 何儀(かぎ) 000 000 1 何夔(かき) 000 000 1 何休(かきゅう) 017 001

    「か」から始まる三国志の登場・関連人物一覧(1)
  • 「お」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには王氏(おうし)や応氏(おうし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「お」から始まる収録人物は261名 000 000 1 於仇賁(おきゅうほん) ※前漢(ぜんかん)時代の鮮卑王(せんぴおう) 000 000 1 於夫羅(おふら) ※南匈奴(なんきょうど)の単于(ぜんう) 000 000 1 区景(おうけい) 000 002 1 区星(おうせい) 123 034 1 王威(おうい) 202 064 1 王異(おうい) ※趙昂(ちょうこう)の、『三国志演義』では王氏(おうし)として登場 000 000 1 王偉

    「お」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「え」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには衛氏(えいし)・袁氏(えんし)・閻氏(えんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「え」から始まる収録人物は112名 000 000 1 栄邵(えいしょう) 000 000 1 盈(えい) ※竇礼(とうれい)の 000 106 0 衛演(えいえん) 000 000 1 衛温(えいおん) 000 000 1 衛玠(えいかい) 000 000 1 衛開(えいかい) 000 000 1 衛楷(えいかい) 000 116 1 衛瓘(えいかん) 000 066 1 衛覬(えいき) ※『三国志演義』では衛凱(えいがい)

    「え」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「う」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには于氏(うし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「う」から始まる収録人物は20名 112 029 1 于吉(うきつ) 043 010 1 于禁(うきん) 000 000 1 于圭(うけい) 000 000 1 于茲(うじ) 000 000 1 于綽(うしゃく) 000 111 1 于詮(うせん) 000 000 1 于氐根(うていこん) ※于羝根(うていこん)や羝根ともある 000 000 1 于定国(うていこく) 000 000 1 于毒(うどく) 057 015 1 于麋(うび) ※吉川『三国志』では干糜

    「う」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「い」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには尹氏(いんし)・殷氏(いんし)・陰氏(いんし)などが含まれます。姓名にリンクが貼られた人物については個別の記事を作成しました。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「い」から始まる収録人物は68名 000 000 1 伊夷模(いいぼ) ※句麗王(くりおう。高句麗王〈こうくりおう〉)の伯固(はくこ)の息子で抜奇(ばつき)の弟、位宮(いきゅう)の父 020 003 1 伊尹(いいん) 000 000 1 伊健妓妾(いけんぎしょう) ※涼州(りょうしゅう)で反乱を起こした異民族の男 000 000 1 伊氏(いし) ※舜(しゅん)の妃(きさき) 000 000 1 伊声耆(いせいぎ) ※倭(わ)

    「い」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 「あ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧

    こちらには晏氏(あんし)などが含まれます。 左から吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』の登場状況、姓名などの順。 吉川『三国志』と『三国志演義』は初登場した話(回)。「000」は登場せず。 正史『三国志』は「0…登場せず」「1…登場人物」「2…関連人物」に分類。 「あ」から始まる収録人物は14名 264 087 0 阿会喃(あかいなん) 000 000 1 阿貴(あき) ※興国氐(こうこくてい)の王 000 000 1 阿鶩(あぶ) ※荀攸(じゅんゆう)の妾(めかけ)? 000 000 1 阿羅槃(あらはん) ※烏丸単于(うがんぜんう)の寇婁敦(こうろうとん)の弟 000 000 1 魯の哀公(ろのあいこう) 000 037 1 漢の哀帝(かんのあいてい) 042 010 0 悪来(あくらい) ※殷(いん)の紂王(ちゅうおう)に仕えた勇士 000 000 1 閼伯(あつはく) ※

    「あ」から始まる三国志の登場・関連人物一覧
  • 284年(晋の太康5年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【?月】「孫晧(そんこう)の死?」 この年、孫晧が洛陽(らくよう)で死去した。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) ★なお『三国志』(呉書・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『呉録(ごろく)』には、「孫晧は太康4(283)年12月に洛陽で死去し、このとき42歳だった。その後、孫晧は河南県(かなんけん)に葬られた」とあった。なぜ伝と『呉録』にい違いがあるのかはわからなかった。 -283年- 癸卯(きぼう) 【晋】 太康(たいこう)4年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「山濤(さんとう)の死」 晋(しん)の山濤が死去する(205年~)。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こ...

    284年(晋の太康5年)の主な出来事
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    shiromitsu 2020/05/18
    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 283年(晋の太康4年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】「山濤(さんとう)の死」 晋(しん)の山濤が死去する(205年~)。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【03月】「司馬攸(しばゆう)の死」 晋の司馬炎の冷遇を受け、同母弟で斉王(せいおう)の司馬攸が憤死する。 『正史 三国志8』の年表 【10月】 晋の司馬炎が、魏舒(ぎじょ)を司徒(しと)に任ずる。 『正史 三国志8』の年表 【12月】「孫晧(そんこう)の死?」 孫晧が死去する。このとき42歳だった。その後、孫晧は河南県(かなんけん)に葬られた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『呉録(ごろく)』 ⇒12月 晋の帰命侯(きめいこう)の孫晧が、洛陽(らくよう)で死去する(242年~)。 『正史 三国志8』の年表 ★なお『三国志』(呉書・孫晧伝)には、「孫晧は太康5(

    283年(晋の太康4年)の主な出来事
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 282年(晋の太康3年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】「秦州(しんしゅう)の廃止」 晋(しん)の司馬炎が、秦州を廃止して雍州(ようしゅう)に併せる。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【?月】 晋の司馬炎が「占田・課田制」を実施する。自作農や旧屯田民に田地を与え、租調(田租と上納品)を課す制度。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表 【04月】「賈充(かじゅう)の死」 晋の賈充が死去する(217年~)。 『正史 三国志8』の年表 【09月】 呉(ご)のもと部将の莞恭(かんきょう)と帛奉(はくほう)が、晋に対する反乱を起こし、揚州(ようしゅう)を包囲する。晋の嵆喜(けいき)がこれを鎮圧した。 『正史 三国志8』の年表 【12月】 晋の司馬炎が、同母弟で斉王(せいおう)の司馬攸(しばゆう)を大司馬(だいしば)に

    282年(晋の太康3年)の主な出来事
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    shiromitsu 2020/05/18
    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 281年(晋の太康2年)の主な出来事

    -281年- 辛丑(しんちゅう) 【晋】 太康(たいこう)2年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 月別および季節別の主な出来事 【?月】 この年、晋(しん)の揚州刺史(ようしゅうしし)の周浚(しゅうしゅん)が、寿春(じゅしゅん)から秣陵(ばつりょう)に役所を移し、呉(ご)の旧民たちの反乱を鎮めて懐柔にあたった。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【?月】 この年、戦国時代の魏(ぎ)の襄王(じょうおう。安釐王〈あんきおう〉)の冢墓(ちょうぼ)から、大量の竹簡が発見された(いわゆる「汲冢書〈きゅうちょうしょ〉」。発見された年には異説もある)。 『正史 三国志8』の年表 【?月】 この年、鮮卑(せんぴ)の慕容歩帰(ぼようほき)が昌黎(しょうれい)に侵入した。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

    281年(晋の太康2年)の主な出来事
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 280年(〈晋の咸寧6年〉→太康元年・呉の天紀4年)の主な出来事

    -273年- 癸巳(きし) 【晋】 泰始(たいし)9年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 鳳皇(ほうおう。鳳凰)2年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【03月】 呉(ご)の孫晧が、陸抗(り... 【春】「呉の崩壊」 晋(しん)の王濬(おうしゅん)や唐彬(とうひん)が呉に攻め寄せると、呉軍は雪崩を打って崩壊する。 また晋の杜預(とよ)も、呉の江陵督(こうりょうとく)の伍延(ごえん)を斬り、晋の王渾(おうこん)も、呉の丞相(じょうしょう)の張悌(ちょうてい)と丹楊太守(たんようたいしゅ)の沈瑩(しんえい)らを斬るなど、晋軍は至るところで勝利を収めた。 『三国志』(呉書・孫晧伝) ★『晋紀(しんき)』…このときの戦いの様子。 ★『襄陽記(じょうようき)』と『呉録(ごろく)』…張悌について。 ★『捜神記(そうじんき)』…従軍中に病死した柳栄(りゅ

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  • 279年(晋の咸寧5年・呉の天紀3年)の主な出来事

    -279年- 己亥(きがい) 【晋】 咸寧(かんねい)5年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 天紀(てんき)3年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 鮮卑(せんぴ)の樹機能(じゅきのう)が、晋(しん)の涼州(りょうしゅう)を攻略する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【夏】 呉(ご)の郭馬(かくば)が反乱を起こす。郭馬は、もともと合浦太守(ごうほたいしゅ)の脩允(しゅういん)配下の私兵の隊長だった。この脩允が死去すると、配下にいた兵士たちは別々の部署に配属されることになった。郭馬たちは、父祖以来ひとつの軍団をなしてきたので、皆が離ればなれになることを望まなかった。 ちょうどこのころ、孫晧は、広州(こうしゅう)の戸籍を正確に調べて課税しようと考えた。 郭馬は、私兵内の部将であった何典(か

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  • 278年(晋の咸寧4年・呉の天紀2年)の主な出来事

    -278年- 戊戌(ぼじゅつ) 【晋】 咸寧(かんねい)4年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 天紀(てんき)2年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【03月】 晋(しん)の司馬炎が、山濤(さんとう)を尚書左僕射(しょうしょさぼくや)に任ずる。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【06月】 晋の涼州刺史(りょうしゅうしし)の楊欣(ようきん)が、武威(ぶい)で若羅抜能(じゃくらばつのう)と戦って敗死する。 『正史 三国志8』の年表 【06月】 晋の羊祜(ようこ)が病を押して入朝し、司馬炎に平呉の決断を求める。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表 【07月】 呉(ご)の孫晧が、11人の息子を成紀王(せいきおう)や宣威王(せんいおう)などに封じ、そ

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  • 277年(晋の咸寧3年・呉の天紀元年)の主な出来事

    -277年- 丁酉(ていゆう) 【晋】 咸寧(かんねい)3年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 天紀(てんき)元年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「呉(ご)の改元」 呉の孫晧が昨年の決定に従い、「天璽(てんじ)」を「天紀」と改元する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【03月】 晋(しん)の文鴦(ぶんおう)が、鮮卑(せんぴ)の樹機能(じゅきのう)を撃破する。 『正史 三国志8』の年表 【夏】 呉の夏口督(かこうとく)の孫慎(そんしん)が、晋の江夏(こうか)から汝南(じょなん)へ進軍して焼き討ちをかけ、その地の民を略奪して帰る。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) 【07月】 晋の司馬炎が、宗室の諸王の改封を大々的に行う。 『正史 三国志8』の年表 【?月】 この年、呉の司直中郎将

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  • 276年(晋の咸寧2年・〈呉の天冊2年〉→天璽元年)の主な出来事

    -276年- 丙申(へいしん) 【晋】 咸寧(かんねい)2年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 (天冊〈てんさく〉2年) → 天璽(てんじ)元年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【?月】「呉(ご)の改元」 呉の孫晧のもとに、呉郡(ごぐん)から報告が届く。「臨平湖(りんぺいこ)は漢末(かんまつ)以来、雑草が茂って水路が通じなくなっておりましたが、いま再び水路が通じました。土地の古老たちの言い伝えでは、『この湖がふさがれば天下は乱れ、通じれば天下は安定する』とのことでございます。また、湖の岸辺で石の函(はこ)が発見され、中に小石が入っておりました。その小石は青白い色をしていて、長さ4寸、幅2寸余りで、『皇帝』と刻まれているようです」というものだった。 そこで孫晧は、「天冊」を「天璽(天から賜った印璽)」と改元したうえ、大赦を行った。 『三国志

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  • 275年(晋の咸寧元年・呉の天冊元年)の主な出来事

    -275年- 乙未(いつび) 【晋】 咸寧(かんねい)元年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 天冊(てんさく)元年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「晋(しん)の改元」 晋の司馬炎が、「泰始(たいし)」を「咸寧」と改元する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【?月】「呉(ご)の改元」 呉の孫晧のもとに、「呉郡(ごぐん)で土中から、長さ1尺(せき)、幅3寸の銀が掘り出され、それには年月などの文字が刻まれている」との報告が届く。 そこで孫晧は大赦を行い、「鳳皇(ほうおう。鳳凰)」を「天冊(天から賜った冊書)」と改元した。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) ⇒01月 呉の孫晧が、「鳳皇(鳳凰)」を「天冊」と改元する。 『正史 三国志8』の年表 【06月】 鮮卑(せんぴ)の拓跋力微(たく

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  • 274年(晋の泰始10年・呉の鳳皇〈鳳凰〉3年)の主な出来事

    -274年- 甲午(こうご) 【晋】 泰始(たいし)10年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 鳳皇(ほうおう。鳳凰)3年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】「平州(へいしゅう)の設置」 晋(しん)の司馬炎が、幽州(ゆうしゅう)を分割して平州を設置する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【?月】 呉(ご)の会稽郡(かいけいぐん)で、「章安侯(しょうあんこう)の孫奮(そんふん)が天子(てんし)になるだろう」という妖言が広まる。 呉の臨海太守(りんかいたいしゅ)の奚熙(けいき)は、会稽太守の郭誕(かくたん)に書簡を送って国政を非難した。 郭誕は孫晧に、奚熙の(国政を非難した)書簡のことは上言したが、(孫奮が天子になるだろうという)妖言については上言しなかったということで、建安(けんあん)へ送

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  • 273年(晋の泰始9年・呉の鳳皇〈鳳凰〉2年)の主な出来事

    -273年- 癸巳(きし) 【晋】 泰始(たいし)9年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 鳳皇(ほうおう。鳳凰)2年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【03月】 呉(ご)の孫晧が、陸抗(りくこう)を大司馬(だいしば)に任ずる。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) ⇒03月 呉の孫晧が、陸抗を大司馬・荊州牧(けいしゅうぼく)に任ずる。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【03月】 呉の司徒(しと)の丁固(ていこ)が死去する。 『三国志』(呉書・孫晧伝) 【04月】「韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の死」 呉の孫晧が、韋昭(韋曜)を投獄して誅殺する。 『正史 三国志8』の年表 【07月】 晋の司馬炎が、高位高官の娘を対象として宮人を選ぶことにし、この選抜が終わるまで天下の婚姻を禁止する。 『正史三

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  • 272年(晋の泰始8年・呉の鳳皇〈鳳凰〉元年)の主な出来事

    -272年- 壬辰(じんしん) 【晋】 泰始(たいし)8年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 鳳皇(ほうおう。鳳凰)元年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「呉(ご)の改元」 呉の孫晧が、年初より「建衡(けんこう)」を「鳳皇(鳳凰)」と改元する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【?月】 晋(しん)の益州刺史(えきしゅうしし)の王濬(おうしゅん)が大艦を建造する。 『正史 三国志8』の年表 【?月】 呉の建平太守(けんぺいたいしゅ)の吾彦(ごげん)が、「晋が呉の攻略を計画している」と警告する上奏を行ったものの、孫晧は無視する。 『正史 三国志8』の年表 【07月】 晋の司馬炎が、賈充(かじゅう)を司空(しくう)に任ずる。 『正史 三国志8』の年表 【08月】「歩闡(ほせん)の投降と死」

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  • 271年(晋の泰始7年・呉の建衡3年)の主な出来事

    -271年- 辛卯(しんぼう) 【晋】 泰始(たいし)7年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 建衡(けんこう)3年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 庚戌(こうじゅつ)の日(30日)、晦(かい) 呉(ご)の孫晧が多くの人々を引き連れ、建業(けんぎょう)の西方にある華里(かり)まで行幸する。このとき、孫晧の母である何太后(かたいこう)や妃妾(きさき)たちも随行した。 東観令(とうかんれい)の華覈(かかく)らが必死で引き止めたため、ようやく孫晧は都(建業)へ戻ることに同意した。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) ★ここは干支(かんし)を補っておく。 ★『江表伝(こうひょうでん)』…刁玄(ちょうげん)に孫晧がたぶらかされた話。 ⇒01月 呉の孫晧が、「江南(こうなん)の主君が天下を統一するだろう」との讖言(しんげん)を信じ、何太后

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  • 270年(晋の泰始6年・呉の建衡2年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【春】 呉(ご)の万彧(ばんいく)が、武昌(ぶしょう)から建業(けんぎょう)へ戻る。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) 【春】 先(269年11月)に晋(しん)の交趾(こうし)攻めに向かっていた呉の李勖(りきょく)が、建安(けんあん)を経由する道程が難渋したことから、道案内にあたった部将の馮斐(ふうひ)を殺害したうえ、軍勢をまとめて帰還する。 『三国志』(呉書・孫晧伝) 【03月】 呉で天火(雷)が降り注ぎ、1万余戸が焼けて700人の死者が出る。 『三国志』(呉書・孫晧伝) 【04月】「施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)の死」 呉の左大司馬(さだいしば)の施績(朱績)が死去する。 『三国志』(呉書・孫晧伝) 【06月】 晋の胡烈(これつ)が、鮮卑(せんぴ)の討伐にあたったものの、返り討ちに遭って戦死する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳

    270年(晋の泰始6年・呉の建衡2年)の主な出来事
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  • 269年(晋の泰始5年・〈呉の宝鼎4年〉→建衡元年)の主な出来事

    -269年- 己丑(きちゅう) 【晋】 泰始(たいし)5年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 (宝鼎〈ほうてい〉4年) → 建衡(けんこう)元年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 呉(ご)の孫晧が、息子の孫瑾(そんきん)を皇太子に立てる。さらにほかの息子たちも、淮陽王(わいようおう)と東平王(とうへいおう)に、それぞれ封じた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) 【02月】「秦州(しんしゅう)の設置」 晋(しん)の司馬炎が、雍州(ようしゅう)・涼州(りょうしゅう)・梁州(りょうしゅう)の3州を分割して秦州を設置したうえ、胡烈(これつ)を秦州太守(しんしゅうたいしゅ)に任じ、異民族の対策にあたらせる。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 ⇒02月 晋の司馬炎が、雍州・涼州・梁州の3州を分

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  • 268年(晋の泰始4年・呉の宝鼎3年)の主な出来事

    -268年- 戊子(ぼし) 【晋】 泰始(たいし)4年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 宝鼎(ほうてい)3年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 晋(しん)の賈充(かじゅう)らが新しい律令を作り、司馬炎に上呈する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 ⇒01月 晋の賈充・鄭沖(ていちゅう)・荀顗(じゅんぎ)らが新律令(泰始律令)を完成させ、司馬炎に上呈する。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表 【02月】 呉(ご)の孫晧が、左右の御史大夫(ぎょしたいふ)の丁固(ていこ)と孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)を、それぞれ司徒(しと)と司空(しくう)に任ずる。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) ★『呉書』…丁固が尚書(しょうしょ)だっ

    268年(晋の泰始4年・呉の宝鼎3年)の主な出来事
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  • 267年(晋の泰始3年・呉の宝鼎2年)の主な出来事

    -267年- 丁亥(ていがい) 【晋】 泰始(たいし)3年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【呉】 宝鼎(ほうてい)2年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 晋(しん)の司馬炎が、息子の司馬衷(しばちゅう)を皇太子に立てる。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【春】 呉(ご)の孫晧が大赦を行う。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝) 【春】 呉の右丞相(ゆうじょうしょう)の万彧(ばんいく)が長江(ちょうこう)をさかのぼり、巴丘(はきゅう)の守りに就く。 『三国志』(呉書・孫晧伝) 【06月】 呉の孫晧が顕明宮(けんめいきゅう。昭明宮〈しょうめいきゅう〉)を造営する。 『三国志』(呉書・孫晧伝) ★『太康三年地記(たいこうさんねんちき)』…孫権(そんけん)が造営した太初宮(たいしょきゅう)と、こ

    267年(晋の泰始3年・呉の宝鼎2年)の主な出来事
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  • 266年(晋の泰始2年・〈呉の甘露2年〉→宝鼎元年)の主な出来事

    【08月】「呉の改元」 呉の孫晧のもとに、「各地で大きな鼎(かなえ)が発見された」との報告が届く。そこで孫晧は、「甘露」を「宝鼎」と改元したうえ、大赦を行った。 『三国志』(呉書・孫晧伝) 【08月】 呉の孫晧が、陸凱(りくかい)を左丞相(さじょうしょう)に、常侍(じょうじ)の万彧(ばんいく)を右丞相(ゆうじょうしょう)に、それぞれ任ずる。 『三国志』(呉書・孫晧伝) 【10月】 呉の永安(えいあん)で、山賊の施但(したん)らが数千人の徒党を集める。 施但らは、孫晧の異母弟である永安侯の孫謙(そんけん)を強迫し、烏程(うてい)まで同行させた。そして、孫和(そんか)の陵に副葬されていた楽器や曲蓋(柄が曲がった貴人の儀杖用〈ぎじょうよう〉の傘)を奪い取ったりした。 施但らが建業(けんぎょう)まで来たとき、その徒党は1万余人にもなっていた。これを呉の丁固(ていこ)と諸葛靚(しょかつせい)が迎え撃

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  • 265年(晋の泰始元年・魏の咸熙2年・〈呉の元興2年〉→甘露元年)の主な出来事

    -265年- 乙酉(いつゆう) 【晋】 泰始(たいし)元年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉) 【魏】 咸熙(かんき)2年 ※元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉) → 晋に禅譲し滅亡 【呉】 (元興〈げんこう〉2年) → 甘露(かんろ)元年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 甲辰(こうしん)の日(19日) 魏(ぎ)の曹奐に、胊䏰県(くじんけん)で捕獲された神秘的な亀が献上される。曹奐は、この亀を相国府(しょうこくふ)に収めさせた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉) 【02月】 庚戌(こうじゅつ)の日(25日) 魏の曹奐が、かつて鍾会(しょうかい)が反乱を起こした際、成都(せいと)の諸陣営に鍾会の反逆を知らせて回り、命を落とすことになった虎賁(こほん)の張脩(ちょうしゅう)について触れ、その弟の張倚(ちょうい)を関内

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  • 264年(〈魏の景元5年〉→咸熙元年・〈呉の永安7年〉→元興元年)の主な出来事

    -264年- 甲申(こうしん) 【魏】 (景元〈けいげん〉5年) → 咸熙(かんき)元年 ※元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉) 【呉】 (永安〈えいあん〉7年) → 元興(げんこう)元年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉) → 帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 壬戌(じんじゅつ)の日(1日) 魏(ぎ)の曹奐が囚人護送車を差し向け、太尉(たいい)の鄧艾(とうがい)を召還する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉) ⇒01月 魏の曹奐が、鄧艾の逮捕令を出し、鍾会(しょうかい)や賈充(かじゅう)に命じて軍を進めさせるとともに、司馬昭(しばしょう)も長安(ちょうあん)に向かわせる。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 ⇒01月 魏の鍾会が、「鄧艾に異志がある」と誣告(ぶこく)する。こ

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  • 263年(魏の景元4年・〈蜀の景耀6年〉→炎興元年・呉の永安6年)の主な出来事

    -263年- 癸未(きび) 【魏】 景元(けいげん)4年 ※元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉) 【蜀】 (景耀〈けいよう〉6年) → 炎興(えんこう)元年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) → 魏に降伏し滅亡 【呉】 永安(えいあん)6年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 魏(ぎ)の曹奐が詔(みことのり)を下し、大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)を相国(しょうこく)に昇進させ、晋公(しんこう)に封じて九錫(きゅうせき)を加えることに触れ、「先の詔の通りとするように」と再び命ずる。しかし、またしても司馬昭が固辞したので沙汰やみになった。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉) 【04月】 呉(ご)の孫休のもとに、「零陵郡(れいりょうぐん)の泉陵(せんりょう)で黄龍が現れた」との報告が届く。 『三国志』(呉書

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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 262年(魏の景元3年・蜀の景耀5年・呉の永安5年)の主な出来事

    -262年- 壬午(じんご) 【魏】 景元(けいげん)3年 ※元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉) 【蜀】 景耀(けいよう)5年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 永安(えいあん)5年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 蜀(しょく)の西河王(せいかおう)の劉琮(りゅうそう)が薨去(こうきょ)する。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【02月】 魏(ぎ)の軹県(しけん)の井戸の中に青龍が現れる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉) 【02月】 呉で火災があり、白虎門(建業城〈けんぎょうじょう〉の西門)の北楼が焼ける。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝〈そんきゅうでん〉) 【04月】 粛慎国(しゅくしんこく)が魏に使者を遣わし、二重三重の通訳を重ねて入貢する。 この報告は遼東郡(りょう

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    shiromitsu 2020/05/18
    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 261年(魏の景元2年・蜀の景耀4年・呉の永安4年)の主な出来事

    -261年- 辛巳(しんし) 【魏】 景元(けいげん)2年 ※元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉) 【蜀】 景耀(けいよう)4年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 永安(えいあん)4年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉) 月別および季節別の主な出来事 【03月】 蜀(しょく)の劉禅が、亡き将軍の趙雲(ちょううん)に諡号(しごう)を追贈する。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【05月】 丁未(ていび)の日(1日)、朔(さく) 日が起こる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉) ★ここは干支(かんし)を補っておく。 【05月】 呉(ご)で大雨が降り、川や谷があふれる。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝〈そんきゅうでん〉) 【07月】 楽浪(らくろう)の外に住む、蛮族の国の韓(かん)と濊貊(わいばく)が、それぞれ部族民を引き連れ

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  • 260年(〈魏の甘露5年〉→景元元年・蜀の景耀3年・呉の永安3年)の主な出来事

    -260年- 庚辰(こうしん) 【魏】 (甘露〈かんろ〉5年) → 景元(けいげん)元年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉) → 元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉) 【蜀】 景耀(けいよう)3年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 永安(えいあん)3年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 乙酉(いつゆう)の日(1日)、朔(さく) 日が起こる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉) ★ここは干支(かんし)を補っておく。 【03月】 呉(ご)の孫休のもとに、「西陵(せいりょう)で赤い烏(カラス)が現れた」との報告が届く。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝〈そんきゅうでん〉) 【04月】 魏(ぎ)の曹髦が詔(みことのり)を下し、先に沙汰やみとなっていた命令を実施させ、大将軍(だいしょうぐん)の司

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  • 259年(魏の甘露4年・蜀の景耀2年・呉の永安2年)の主な出来事

    -259年- 己卯(きぼう) 【魏】 甘露(かんろ)4年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉) 【蜀】 景耀(けいよう)2年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 永安(えいあん)2年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の寧陵県(ねいりょうけん)の井戸の中に、2匹の黄龍が現れる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉) ★『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…このときしきりに龍が現れたことについて、魏の人々はみな吉兆だと考えたが、曹髦は、「龍は君主の徳の象徴であるのに、天に昇って安住することなく、田に舞い降りて安住することなく、たびたび井戸の中に潜伏しているのは、決してめでたい徴(しるし)ではない」と言い、「潜龍(せんりょう)の詩」を作った。司馬昭(しばしょう)は、この詩を見て不愉快に思っ

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  • 258年(魏の甘露3年・〈蜀の延熙21年〉→景耀元年・〈呉の太平3年〉→永安元年)の主な出来事

    -258年- 戊寅(ぼいん) 【魏】 甘露(かんろ)3年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉) 【蜀】 景耀(けいよう)元年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 (太平〈たいへい〉3年) → 永安(えいあん)元年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉) → 景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 諸葛誕(しょかつたん)が文欽(ぶんきん)を殺害する。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉) ⇒01月 諸葛誕と文欽が寿春(じゅしゅん)の城内で対立し、諸葛誕が文欽を殺害する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【02月】「諸葛誕の死」 魏(ぎ)の大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)が寿春城を陥す。諸葛誕は斬られ、彼の起こした反乱もようやく鎮圧された。 『三国

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  • 257年(魏の甘露2年・蜀の延熙20年・呉の太平2年)の主な出来事

    -257年- 丁丑(ていちゅう) 【魏】 甘露(かんろ)2年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉) 【蜀】 延熙(えんき)20年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 太平(たいへい)2年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 魏(ぎ)の温県(おんけん)の井戸の中に青龍が現れる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉) 【02月】 甲寅(こういん)の日(13日) 呉(ご)で大雨が降り、雷も鳴る。 乙卯(いつぼう)の日(14日) 呉で雪が降り、厳しい寒さとなる。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉) 【03月】 魏の司空(しくう)の盧毓(ろいく)が死去する。 『三国志』(魏書・高貴郷公紀) 【春】 呉の孫亮が、長沙郡(ちょうさぐん)の東部を分割して湘東郡(しょうとうぐん)を、同じ

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  • 256年(〈魏の正元3年〉→甘露元年・蜀の延熙19年・〈呉の五鳳3年〉→太平元年)の主な出来事

    -256年- 丙子(へいし) 【魏】 (正元〈せいげん〉3年) → 甘露(かんろ)元年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉) 【蜀】 延熙(えんき)19年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 (五鳳〈ごほう〉3年) → 太平(たいへい)元年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 辛丑(しんちゅう)の日(24日) 魏(ぎ)の軹県(しけん)の井戸の中に青龍が現れる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉) 【01月】 乙巳(いっし)の日(28日) 魏の沛王(はいおう)の曹林(そうりん)が薨去(こうきょ)する。 『三国志』(魏書・高貴郷公紀) ★『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』…2月丙辰(へいしん)の日(9日)に、曹髦が太極東堂(たいごくとうどう)で催した大宴の席での話。ここで曹髦は、臣下たちと礼法

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  • 255年(魏の正元2年・蜀の延熙18年・呉の五鳳2年)の主な出来事

    -255年- 乙亥(いつがい) 【魏】 正元(せいげん)2年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉) 【蜀】 延熙(えんき)18年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 五鳳(ごほう)2年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱」 乙丑(いっちゅう)の日(12日) 魏(ぎ)の鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹と揚州刺史(ようしゅうしし)の文欽が、反乱を起こす。 戊寅(ぼいん)の日(25日) 魏の大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)が、毌丘倹と文欽の討伐に向かう。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉) ⇒01月 魏の鎮東大将軍(ちんとうだいしょうぐん)の毌丘倹と前将軍(ぜんしょうぐん)の文欽が、淮南(わいなん)の軍勢を挙げて魏に背く。ふたり

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  • 254年(〈魏の嘉平6年〉→正元元年・蜀の延熙17年・呉の五鳳元年)の主な出来事

    -254年- 甲戌(こうじゅつ) 【魏】 (嘉平〈かへい〉6年) → 正元(せいげん)元年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) → 高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉) 【蜀】 延熙(えんき)17年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 五鳳(ごほう)元年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「呉(ご)の改元」 呉の孫亮が昨年の決定に従い、「建興(けんこう)」を「五鳳」と改元する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【01月】 蜀(しょく)の姜維(きょうい)が成都(せいと)に帰還する。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【?月】 蜀の劉禅が大赦を行う。 『三国志』(蜀書・後主伝) 【02月】 己丑(きちゅう)の日(1日) 魏(ぎ)の鎮東将軍(ちんとう

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  • 253年(魏の嘉平5年・蜀の延熙16年・呉の建興2年)の主な出来事

    -253年- 癸酉(きゆう) 【魏】 嘉平(かへい)5年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)16年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 建興(けんこう)2年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 丙寅(へいいん)の日(1日) 呉(ご)の孫亮が、全氏(ぜんし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉) 【01月】 庚午(こうご)の日(5日) 呉に侵攻していた魏の王昶(おうちょう)らが、みな軍を引き揚げる。 『三国志』(呉書・孫亮伝) 【01月】「費禕(ひい)の死」 蜀(しょく)の大将軍(だいしょうぐん)の費禕が、漢寿(かんじゅ)で魏(ぎ)の降人(こうじん)の郭循(かくじゅん。郭脩〈かくしゅう〉)に殺害される。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅ

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  • 252年(魏の嘉平4年・蜀の延熙15年・〈呉の太元2年〉→〈神鳳元年〉→建興元年)の主な出来事

    -252年- 壬申(じんしん) 【魏】 嘉平(かへい)4年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)15年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 (太元〈たいげん〉2年) → (神鳳〈しんぽう〉元年) → 建興(けんこう)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) → 会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 癸卯(きぼう)の日(2日) 魏(ぎ)の曹芳が、撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)の司馬師(しばし)を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) 【01月】 呉(ご)の孫権が、もとの皇太子の孫和(そんか)を南陽王(なんようおう)に封じて長沙(ちょうさ)に、息子の孫奮(そんふん)を斉王(せいおう)に封じて武昌(ぶしょう)に、同じく息子の孫休(そんきゅう)を琅邪王(ろうや

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  • 251年(魏の嘉平3年・蜀の延熙14年・〈呉の赤烏14年〉→太元元年)の主な出来事

    -251年- 辛未(しんび) 【魏】 嘉平(かへい)3年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)14年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 (赤烏〈せきう〉14年) → 太元(たいげん)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の荊州刺史(けいしゅうしし)の王基(おうき)と新城太守(しんじょうたいしゅ)の州泰(しゅうたい)が、呉(ご)を攻めて撃破し、降伏する者が数千人に及ぶ。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) ⇒01月 魏の荊州刺史の王基が、呉の西陵(せいりょう)を攻め、数千人を擒(とりこ)とする。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の『三国志』年表 【02月】 魏の曹芳が、南郡(なんぐん)に夷陵県(いりょうけん)を設置し、呉の降人た

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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 250年(魏の嘉平2年・蜀の延熙13年・呉の赤烏13年)の主な出来事

    -250年- 庚午(こうご) 【魏】 嘉平(かへい)2年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)13年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)13年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【05月】 魏(ぎ)の曹芳が、征西将軍(せいせいしょうぐん)の郭淮(かくわい)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ずる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) 【05月】 夏至の日(?日) 熒惑星(けいわくせい。火星)が南斗(なんと)の星座に入り、7月には魁(かい。北斗七星〈ほくとしちせい〉)の第2星を犯して東へ進む。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【08月】 呉(ご)の丹楊(たんよう)・句容(こうよう)・故鄣(こしょう)・寧国(ねいこく)の各所で山崩れが起こり、洪水になる。孫権は、詔(みことの

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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 249年(〈魏の正始10年〉→嘉平元年・蜀の延熙12年・呉の赤烏12年)の主な出来事

    -192年- 壬申(じんしん) 【漢】 初平(しょへい)3年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 丁丑(ていちゅう)の日(?日) 献帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんてい... ★『角川 新字源 改訂新版』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、西田太一郎〈にしだ・たいちろう〉、赤塚忠〈あかつか・きよし〉、阿辻哲次〈あつじ・てつじ〉、釜谷武志〈かまたに・たけし〉、木津祐子〈きづ・ゆうこ〉編 KADOKAWA)には、まず「父族(父の一家の者)・母族・族」「父・子・孫」「父母・兄弟・子」「父の兄弟・母の兄弟・子の兄弟」の4つの項目が挙げられ、さらに「三族之刑」として「漢代、謀反・大逆の罪を犯した者は、父母・子・同産(兄弟姉妹)をも棄市(市場での首切り)に処する刑罰)」との説明があった。 ⇒01月 魏で大将軍の曹爽らが処刑されたこ

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  • 248年(魏の正始9年・蜀の延熙11年・呉の赤烏11年)の主な出来事

    -248年- 戊辰(ぼしん) 【魏】 正始(せいし)9年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)11年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)11年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 呉(ご)の朱然(しゅぜん)が、江陵(こうりょう)に城壁を築く。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【02月】 魏(ぎ)の衛将軍(えいしょうぐん)・中書令(ちゅうしょれい)の孫資(そんし)が退官し、諸侯の身分のまま私邸に帰る。その際、曹芳は特進(とくしん)の位を授けた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) 【02月】 呉で何度も地震が起こる。 『三国志』(呉書・呉主伝) ★『江表伝(こうひょうでん)』…このとき孫権が下した詔(みことのり)。 【02月】 癸巳(きし)の日(30日) 魏の

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  • 247年(魏の正始8年・蜀の延熙10年・呉の赤烏10年)の主な出来事

    -247年- 丁卯(ていぼう) 【魏】 正始(せいし)8年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)10年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)10年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「全琮(ぜんそう)の死」 呉(ご)の右大司馬(ゆうだいしば)の全琮が死去する。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) ★全琮の死について、『三国志』(呉書・全琮伝)では赤烏12(249)年に亡くなったとあった。この「呉主伝」の記事のほうが正しいように思えるが、確信は持てない。 ★『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表では、全琮の死をこの年(247年)1月としており、『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表では赤烏12

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  • 246年(魏の正始7年・蜀の延熙9年・呉の赤烏9年)の主な出来事

    -246年- 丙寅(へいいん) 【魏】 正始(せいし)7年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)9年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)9年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 魏(ぎ)の幽州刺史(ゆうしゅうしし)の毌丘倹(かんきゅうけん)が高句驪(こうくり。高句麗)を討伐する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) ⇒02月 魏の幽州刺史の毌丘倹が、高句麗王(こうくりおう。高句麗王)の位宮(いきゅう)を討伐し、その都である丸都(がんと)を陥す。 さらに毌丘倹は、玄菟太守(げんとたいしゅ)の王頎(おうき)を追い、沃沮(よくしょ)から粛慎氏(しゅくしんし)の南界にまで軍を進めた。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【02月】 呉(ご)の車

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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 245年(魏の正始6年・蜀の延熙8年・呉の赤烏8年)の主な出来事

    -245年- 乙丑(いっちゅう) 【魏】 正始(せいし)6年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)8年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)8年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 丁卯(ていぼう)の日(17日) 魏(ぎ)の南安郡(なんあんぐん)で地震が起こる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) 【02月】 丙子(へいし)の日(26日) 魏の曹芳が、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の趙儼(ちょうげん)を司空(しくう)に任ずる。 『三国志』(魏書・斉王紀) 【02月】「陸遜(りくそん)の死」 呉の丞相(じょうしょう)の陸遜が死去する。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) ⇒?月 この年、呉では皇太子の孫和(そんか)と、弟で魯王(ろおう)の孫霸(そんは)との確執が深ま

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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 244年(魏の正始5年・蜀の延熙7年・呉の赤烏7年)の主な出来事

    -244年- 甲子(こうし) 【魏】 正始(せいし)5年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)7年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)7年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 呉(ご)の孫権が、上大将軍(じょうだいしょうぐん)の陸遜(りくそん)を丞相(じょうしょう)に任ずる。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【02月】 魏(ぎ)の曹芳が、大将軍(だいしょうぐん)の曹爽(そうそう)に詔(みことのり)を下し、蜀(しょく)の討伐を命ずる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) ⇒閏03月 魏の大将軍の曹爽と夏侯玄(かこうげん)らが漢中に向かう。これに対して、蜀の鎮北大将軍(ちんぼくだいしょうぐん)の王平(おうへい)が興勢(こうせい)で抵抗し、大将軍の費禕(ひい)が諸

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  • 243年(魏の正始4年・蜀の延熙6年・呉の赤烏6年)の主な出来事

    -243年- 癸亥(きがい) 【魏】 正始(せいし)4年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)6年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)6年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の曹芳が元服し、臣下らにそれぞれ格差をつけて品物を下賜する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) 【01月】 呉(ご)の孫権のもとに、「新都郡(しんとぐん)で白虎が現れた」との報告が届く。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【04月】 乙卯(いつぼう)の日(24日) 魏の曹芳が、甄氏(しんし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。 『三国志』(魏書・斉王紀) 【05月】 壬戌(じんじゅつ)の日(1日)、朔(さく) 皆既日が起こる。 『三国志』(魏書・斉王紀) ★ここは干支(かんし)を

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  • 242年(魏の正始3年・蜀の延熙5年・呉の赤烏5年)の主な出来事

    -242年- 壬戌(じんじゅつ) 【魏】 正始(せいし)3年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)5年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)5年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の東平王(とうへいおう)の曹徽(そうき)が薨去(こうきょ)する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) 【01月】 蜀(しょく)の監軍(かんぐん)の姜維(きょうい)が、一軍をひきいて漢中(かんちゅう)から涪県(ふうけん)に戻り、その地に駐屯する。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【01月】 呉(ご)の孫権が、息子の孫和(そんか)を皇太子に立て、併せて大赦を行う。また、禾興(かこう)を嘉興(かこう)と改めた。 呉の群臣が、孫権の妃(きさき)を皇后に、4人の息子たちを王に、

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  • 241年(魏の正始2年・蜀の延熙4年・呉の赤烏4年)の主な出来事

    -241年- 辛酉(しんゆう) 【魏】 正始(せいし)2年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)4年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)4年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 呉(ご)で大雪が降り、平地に3尺(せき)も積もる。このため多くの鳥獣が死んだ。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【02月】 魏(ぎ)の曹芳が初めて『論語(ろんご)』を学び、太常(たいじょう)に命じて太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)の犠牲(いけにえ)を捧げさせ、辟雍(へきよう。天子〈てんし〉が建てた太学〈たいがく〉)で孔子(こうし)を祭らせ、顔淵(がんえん)も併せて祭る。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉) 【05月】 呉の朱然(しゅぜん)らが、魏の襄陽郡(じょうようぐん)の樊

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  • 240年(魏の正始元年・蜀の延熙3年・呉の赤烏3年)の主な出来事

    -240年- 庚申(こうしん) 【魏】 正始(せいし)元年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉) 【蜀】 延熙(えんき)3年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 赤烏(せきう)3年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【春】 蜀(しょく)の劉禅が、張嶷(ちょうぎょく)を越嶲太守(えっすいたいしゅ)に任じ、越嶲郡の平定を命ずる。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【01月】 呉(ご)の孫権が詔(みことのり)を下す。最近の情勢に触れ、しばしば民が軍役に駆り出され、水害や日照りの年も重なって、穀物の実りが不十分であること。そして、役人の中には農繁期の民を労役に充て、飢餓(きが)と困窮を招く者がいることを指摘。 それらを踏まえ、「今後、督軍(とくぐん)と郡守(ぐんしゅ。太守〈たいしゅ〉)は法を守らない者を注意深く察知し、農桑の時

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  • 239年(魏の景初3年・蜀の延熙2年・呉の赤烏2年)の主な出来事

    -205年- 乙酉(いつゆう) 【漢】 建安(けんあん)10年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「袁譚(えんたん)の死」 曹操(そうそう)が袁譚を攻め破り、袁譚と子を処刑する。これにより曹... ★『魏書』…明帝(曹叡)の風姿や、その皇太子時代と即位後の行いについての話。 ★上の『魏書』のくだりには曹叡の皇太子時代とあるが、曹丕はなかなか太子を定めず、危篤に陥って初めて、曹叡が太子に立てられたはず。曹叡の皇子時代ならわかるが、やや引っかかる。「曹叡が皇太子であったころ、朝臣と交際することはなく、政治にも無関心で、ひたすら深く書籍に没頭するのみだった」とある。 ★加えて「孫盛(そんせい)はいう」として、明帝(曹叡)の容姿と行いについて触れている。 ⇒丁亥の日 魏の曹叡が危篤になり、斉王の曹芳を皇太子に立てる。 『三国志』(魏書・斉王紀〈せい

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  • 238年(魏の景初2年・蜀の延熙元年・〈呉の嘉禾7年〉→赤烏元年)の主な出来事

    -238年- 戊午(ぼご) 【魏】 景初(けいしょ)2年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 延熙(えんき)元年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 (嘉禾〈かか〉7年) → 赤烏(せきう)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の曹叡が詔(みことのり)を下し、太尉(たいい)の司馬懿(しばい)に軍を統率させ、遼東(りょうとう)への攻撃を命ずる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) ★『晋紀(しんき)』…このときの明帝(曹叡)と司馬懿のやり取り。 ★『魏名臣奏(ぎめいしんそう)』…散騎常侍(さんきじょうじ)の何曾(かそう)の上奏文。 ★『志記(しき)』…このとき毌丘倹(かんきゅうけん)が司馬懿の副将に選ばれた。 ⇒01月 魏の曹叡が、司馬懿を遼東の討伐に向かわせる。公孫淵(こうそんえん)は呉(ご)に救

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  • 237年(〈魏の青龍5年〉→景初元年・蜀の建興15年・呉の嘉禾6年)の主な出来事

    -237年- 丁巳(ていし) 【魏】 (青龍〈せいりょう〉5年) → 景初(けいしょ)元年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)15年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 嘉禾(かか)6年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【正月】 壬辰(じんしん)の日(?日) 魏(ぎ)の曹叡のもとに、「山茌県(さんしけん)で黄龍が現れた」との報告が届く。 このとき担当官吏が曹叡に上奏し、「魏は地統(ちとう)を得ておりますので、建丑(けんちゅう)の月(12月のこと)を正月とされるべきです」と述べた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) ★ここは理解できない部分があったため、こういう書き方に留めておく。『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)では、正月壬辰(の日)を1

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  • 236年(魏の青龍4年・蜀の建興14年・呉の嘉禾5年)の主な出来事

    -236年- 丙辰(へいしん) 【魏】 青龍(せいりょう)4年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)14年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 嘉禾(かか)5年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【春】 呉(ご)の孫権が大銭(だいせん)を鋳造する。この大銭ひとつが500銭の価値を持つと定めた。また、詔(みことのり)を下して官吏や民衆から銅を供出させ、その重さに応じて相当の値段で買い取った。さらに貨幣の盗鋳に対する罰則も定めた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【02月】 呉の孫権のもとに、「武昌(ぶしょう)の礼賓殿(れいひんでん)に甘露が降った」との報告が届く。 『三国志』(呉書・呉主伝) 【02月】 太白星(たいはくせい。金星)が昼間に現れる。月が太白星を犯し、さらに軒轅(けんえん。しし座)を犯し

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  • 235年(魏の青龍3年・蜀の建興13年・呉の嘉禾4年)の主な出来事

    -235年- 乙卯(いつぼう) 【魏】 青龍(せいりょう)3年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)13年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 嘉禾(かか)4年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 戊子(ぼし)の日(8日) 魏(ぎ)の曹叡が、大将軍(だいしょうぐん)の司馬懿(しばい)を太尉(たいい)に任ずる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) 【01月】 己亥(きがい)の日(19日) 魏の曹叡が、再び朔方郡(さくほうぐん)を設置する。 『三国志』(魏書・明帝紀) 【01月】 魏の洛陽(らくよう)で疫病が大流行する。 『三国志』(魏書・明帝紀) 【01月】 蜀(しょく)の中軍師(ちゅうぐんし)の楊儀(ようぎ)が罷免され、漢嘉郡(かんかぐん)に配流される。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝

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  • 234年(魏の青龍2年・蜀の建興12年・呉の嘉禾3年)の主な出来事

    -234年- 甲寅(こういん) 【魏】 青龍(せいりょう)2年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)12年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 嘉禾(かか)3年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 呉(ご)の孫権が詔(みことのり)を下す。民が兵役に苦しみ、五穀の実りが必ずしも芳しくないことに触れ、「税が払えない者に対する処分を寛(ゆる)やかにし、これ以上は厳しく取り立てないように」というもの。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【02月】 乙未(いつび)の日(?日) 太白星(たいはくせい。金星)が熒惑星(けいわくせい。火星)を犯す。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) ★『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によ

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  • 233年(〈魏の太和7年〉→青龍元年・蜀の建興11年・呉の嘉禾2年)の主な出来事

    -215年- 乙未(いつび) 【漢】 建安(けんあん)20年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 献帝が、曹操(そうそう)の真ん中の娘を皇后に立てる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶて... 【03月】 甲子(こうし)の日(3日) 魏の曹叡が公卿(こうけい)に詔を下し、賢良篤行の士(才能や人格が優れ、行いが誠実な人物)をそれぞれひとりずつ推挙させる。 『三国志』(魏書・明帝紀) 【03月】 呉の孫権が、公孫淵の使者である宿舒と孫綜を帰国させ、その際に呉の太常(たいじょう)の張弥(ちょうび)、執金吾(しつきんご)の許晏(きょあん)、将軍の賀達(がたつ)らに兵1万をひきいて同行するよう命じ、財宝珍貨と九錫(きゅうせき)の下賜品を持たせ、海路で遼東(りょうとう)の公孫淵に授けようとした。 これに対し丞相(じょうしょう)の顧雍(こよう)以下、

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  • 232年(魏の太和6年・蜀の建興10年・呉の嘉禾元年)の主な出来事

    -232年- 壬子(じんし) 【魏】 太和(たいわ)6年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)10年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 嘉禾(かか)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「孫慮(そんりょ)の死」 呉(ご)の孫権の息子で、建昌侯(けんしょうこう)の孫慮が薨去(こうきょ)する。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) ⇒01月 呉の孫権の末子である孫慮が死去する。その後、皇太子の孫登(そんとう)が、武昌(ぶしょう)から建業(けんぎょう)に移った。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【02月】 魏(ぎ)の曹叡が詔(みことのり)を下す。「改めて魏の諸王侯に領地を与え、みな一郡をもって領国とさせる」というもの。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝

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  • 231年(魏の太和5年・蜀の建興9年・呉の黄龍3年)の主な出来事

    -231年- 辛亥(しんがい) 【魏】 太和(たいわ)5年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)9年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 黄龍(こうりょう)3年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の曹叡が籍田(せきでん)を耕す。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) 【02月】「諸葛亮(しょかつりょう)の第四次北伐」 蜀(しょく)の諸葛亮が再び軍を出し、魏の祁山(きざん)を包囲する。この際、初めて木牛(ぼくぎゅう。牛をかたどった、機械仕掛けで動く車。詳細は不明)による輸送を行う。魏の司馬懿(しばい)と張郃(ちょうこう)が、祁山の救援に向かった。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【02月】 呉(ご)の孫権が、太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)に5万の軍勢を付

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  • 230年(魏の太和4年・蜀の建興8年・呉の黄龍2年)の主な出来事

    -230年- 庚戌(こうじゅつ) 【魏】 太和(たいわ)4年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)8年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 黄龍(こうりょう)2年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の曹叡が合肥新城(ごうひしんじょう)を築く。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【02月】 壬午(じんご)の日(4日) 魏の曹叡が詔(みことのり)を下す。「戦乱の勃発以来、経学(けいがく)はまったく廃れ、若者たちの行動も古典によろうとはしなくなった」とし、「郎吏(ろうり)のうち、一経に通暁している者や、民を治めるに足る才能の持ち主があれば、これを博士(はくし)が試験し、優秀な成績を収めた者を速やかに起用せよ」としたうえ、「表面だけ華美で内実がなく、道理の根に努めようとしない者はすべて罷

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  • 229年(魏の太和3年・蜀の建興7年・〈呉の黄武8年〉→黄龍元年)の主な出来事

    -229年- 己酉(きゆう) 【魏】 太和(たいわ)3年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)7年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 (黄武〈こうぶ〉8年) → 黄龍(こうりょう)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【春】「諸葛亮(しょかつりょう)の第三次北伐」 蜀(しょく)の諸葛亮が陳式(ちんしょく)を遣わし、魏(ぎ)の武都(ぶと)・陰平(いんぺい)の両郡を攻め落とす。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【春】 呉(ご)の公卿(こうけい)や百官がそろって孫権に、「正式に皇帝を称されますように」と勧進する。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【04月】 魏の元城王(げんじょうおう)の曹礼(そうれい)が薨去(こうきょ)する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉

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  • 228年(魏の太和2年・蜀の建興6年・呉の黄武7年)の主な出来事

    -228年- 戊申(ぼしん) 【魏】 太和(たいわ)2年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)6年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 黄武(こうぶ)7年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の司馬懿(しばい)が、蜀(しょく)に内通しようとした新城(しんじょう)の孟達(もうたつ)を攻め、これを斬殺したうえ、その首を洛陽(らくよう)に届ける。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) ★ここで「『魏略(ぎりゃく)』にいう」として、「司馬懿が、孟達の部将の李輔(りほ)と孟達の甥の鄧賢(とうけん)を誘ったところ、鄧賢が城門を開き、司馬懿の軍勢を導き入れた。孟達は、包囲されること16日で敗北し、その首は洛陽の大通りの四つ辻(つじ)で焼かれた」とある。 【01月】 魏の曹叡が、新城郡から上庸(じょうよ

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  • 227年(魏の太和元年・蜀の建興5年・呉の黄武6年)の主な出来事

    -227年- 丁未(ていび) 【魏】 太和(たいわ)元年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)5年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 黄武(こうぶ)6年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の曹叡が、洛陽(らくよう)の郊外で武帝(ぶてい。曹操〈そうそう〉)と天帝を併せて祭り、明堂(めいどう。政堂)で文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)と上帝を併せて祭る。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) 【01月】 魏の曹叡が、江夏郡(こうかぐん)の南部を分割し、江夏南部都尉(こうかなんぶとい)の官を設置する。 『三国志』(魏書・明帝紀) 【01月】 西平(せいへい)の麴英(きくえい)が魏に背き、臨羌県令(りんきょうけんれい)と西都県長(せいとけんちょう)を殺害する。曹叡は、郝昭(かくしょう)と鹿磐(

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  • 226年(魏の黄初7年・蜀の建興4年・呉の黄武5年)の主な出来事

    -226年- 丙午(へいご) 【魏】 黄初(こうしょ)7年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉) → 明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) 【蜀】 建興(けんこう)4年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 黄武(こうぶ)5年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【春】 蜀(しょく)の都護(とご)の李厳(りげん)が、永安(えいあん)から帰還して江州(こうしゅう)に駐留し、大規模な城を築く。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【春】 呉(ご)の孫権が令を下す。民が耕地を離れ、父子や夫婦が互いに助け合うことができなくなっている実情を哀れみ、「州郡に伝達して、民を休息させるための方策を実施させるように」というもの。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【01月】 魏(ぎ)の曹丕が許昌(きょしょう)に行幸した際、許昌の城

    226年(魏の黄初7年・蜀の建興4年・呉の黄武5年)の主な出来事
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    shiromitsu 2020/05/18
    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 225年(魏の黄初6年・蜀の建興3年・呉の黄武4年)の主な出来事

    -225年- 乙巳(いっし) 【魏】 黄初(こうしょ)6年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉) 【蜀】 建興(けんこう)3年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 黄武(こうぶ)4年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 魏(ぎ)の曹丕が使者を遣わし、許昌(きょしょう)以東、沛郡(はいぐん)の全域を巡行させ、「民の困苦を慰問し、貧民に救済策を施すように」と命ずる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉) 【02月】 魏の曹丕が詔(みことのり)を下す。「尚書令(しょうしょれい)・潁郷侯(えいきょうこう)の陳羣(ちんぐん)を鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)に、尚書僕射(しょうしょぼくや)・西郷侯(せいきょうこう)の司馬懿(しばい)を撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)に、それぞれ任ずる」というもの。 そして「もし朕が長江(ちょう

    225年(魏の黄初6年・蜀の建興3年・呉の黄武4年)の主な出来事
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 224年(魏の黄初5年・蜀の建興2年・呉の黄武3年)の主な出来事

    -224年- 甲辰(こうしん) 【魏】 黄初(こうしょ)5年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉) 【蜀】 建興(けんこう)2年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 黄武(こうぶ)3年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【春】 蜀(しょく)の劉禅が、農耕に努めて穀物を増産し、越嶲(えっすい)への通路にあたる関門を閉ざして民を休息させる。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉) 【01月】 魏(ぎ)の曹丕が詔(みことのり)を下す。「反逆の企てと大逆罪の場合は密告してもよいが、そのほかの場合は密告に耳を貸したり、取り調べをしてはならない」というもの。 「大胆にも、でたらめの密告をする者があれば、密告された者の罪をもって、密告した者を断罪する」とした。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉) 【03月】 魏の曹丕が、許昌(

    224年(魏の黄初5年・蜀の建興2年・呉の黄武3年)の主な出来事
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 223年(魏の黄初4年・〈蜀の章武3年〉→建興元年・呉の黄武2年)の主な出来事

    -223年- 癸卯(きぼう) 【魏】 黄初(こうしょ)4年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉) 【蜀】 (章武〈しょうぶ〉3年) → 建興(けんこう)元年 ※昭烈帝(しょうれつてい。劉備〈りゅうび〉) → 後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) 【呉】 黄武(こうぶ)2年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の曹真(そうしん)が軍勢を分け、その一隊が江陵(こうりょう)の中洲(なかす)を占領する。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【01月】 呉(ご)の孫権が、夏口(かこう)の江夏山(こうかざん)に城壁を築かせる。 『三国志』(呉書・呉主伝) 【01月】 呉の孫権が四分暦(しぶんれき)を改め、乾象暦(けんしょうれき)を用いることを決める。 『三国志』(呉書・呉主伝) ★『正史 三国志6』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ち

    223年(魏の黄初4年・〈蜀の章武3年〉→建興元年・呉の黄武2年)の主な出来事
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 222年(魏の黄初3年・蜀の章武2年・呉の黄武元年)の主な出来事

    -222年- 壬寅(じんいん) 【魏】 黄初(こうしょ)3年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉) 【蜀】 章武(しょうぶ)2年 ※昭烈帝(しょうれつてい。劉備〈りゅうび〉) 【呉】 黄武(こうぶ)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 丙寅(へいいん)の日(1日) 日が起こる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉) 【01月】 庚午(こうご)の日(5日) 魏(ぎ)の曹丕が許昌宮(きょしょうきゅう)に行幸する。 『三国志』(魏書・文帝紀) 【01月】 魏の曹丕が詔(みことのり)を下す。現在の上計吏(じょうけいり)と孝廉(こうれん)について触れ、郡国に対して「選抜者の年齢にこだわらないように」と命ずるもの。「経学(けいがく)に通じている儒者や法律に通じている者は、全員を試用する」とした。また担当官吏には、「故意に事実に合わない推挙を

    222年(魏の黄初3年・蜀の章武2年・呉の黄武元年)の主な出来事
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 221年(魏の黄初2年・蜀の章武元年)の主な出来事

    -221年- 辛丑(しんちゅう) 【魏】 黄初(こうしょ)2年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉) 【蜀】 章武(しょうぶ)元年 ※昭烈帝(しょうれつてい。劉備〈りゅうび〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 魏(ぎ)の曹丕が、天地の祭りと明堂(めいどう。政堂)の祭祀を執り行う。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉) 【01月】 甲戌(こうじゅつ)の日(3日) 魏の曹丕が、木柵を作って鳥獣の退路をふさぎ、狩猟を催す。この際、原陵(げんりょう)まで行き、使者を遣わして太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)を捧げ、漢(かん)の世祖(せいそ。光武帝〈こうぶてい〉)を祭った。 『三国志』(魏書・文帝紀) 【01月】 乙亥(いつがい)の日(4日) 魏の曹丕が、洛陽(らくよう)の東の郊外で太陽を祭る。 『三国志』(魏書・文帝紀) 【01月】 魏の曹丕が、孝廉(こうれん)の制度を

    221年(魏の黄初2年・蜀の章武元年)の主な出来事
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 220年(〈漢の建安25年〉→延康元年・魏の黄初元年)の主な出来事 後半

    【10月】 曹丕が布令を出す。「むかし周(しゅう)の文王(ぶんのう)は、天下の3分の2を保有しながら殷(いん)に仕え、仲尼(ちゅうじ。孔子〈こうし〉)はその至徳を嘆称した」ことや、「周公旦(しゅうこうたん)は天子の位を踏み、天下の裁きにあずかったが、最後は主君に政治を奉還し、『尚書』(洛誥〈らくこう〉)はその人をたたえている」ことを挙げ、「自分の徳は、ふたりの聖人に及ばず、人柄も極めて低いとし、許芝の言葉のごときは、耳にすべき事柄であろうか」というもの。 『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』 【10月】 曹丕配下の侍中の辛毗と劉曄、散騎常侍(さんきじょうじ)の傅巽(ふそん)と衛臻(えいしん)、尚書令の桓階、尚書の陳矯と陳羣、給事中(きゅうじちゅう)・博士(はくし)・騎都尉(きとい)の蘇林(そりん)と董巴(とうは)らが、曹丕に上奏する。先の許芝の上奏文を見たうえで、曹丕に天命

    220年(〈漢の建安25年〉→延康元年・魏の黄初元年)の主な出来事 後半
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事
  • 220年(〈漢の建安25年〉→延康元年・魏の黄初元年)の主な出来事 前半

    【01月】 曹操(そうそう)が洛陽(らくよう)に帰還する。このころ孫権(そんけん)から、劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)の首が届けられた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【01月】「曹操の崩御(ほうぎょ)」 庚子の日(23日) 曹操が洛陽で崩御する。このとき66歳だった。 曹操は遺令で、「天下は依然として安定をみていない」とし、「このため(自分の葬儀は)古式に従うわけにはいかない」とした。 「埋葬が終われば、みな服喪(ふくそう)を去れ。兵を統率している者は、その部署を離れることを許さぬ。官吏はそれぞれ自己の職に努めよ」と述べたうえ、「遺体を包むには平服を用い、金銀や珍宝を副葬しないように」と命じたとある。 また、諡(おくりな)を武王(ぶおう)という、ともある。 『三国志』(魏書・武帝紀) ★『世語(せいご)』…濯龍祠(たくりょうし)の神木と建始殿(けんしでん)の話。

    220年(〈漢の建安25年〉→延康元年・魏の黄初元年)の主な出来事 前半
  • 219年(漢の建安24年)の主な出来事

    -219年- 己亥(きがい) 【漢】 建安(けんあん)24年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)配下の曹仁(そうじん)が宛(えん)を陥し、反乱を起こしていた侯音(こうおん)を斬る。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【?月】「夏侯淵(かこうえん)の死」 曹操配下の夏侯淵が、陽平(ようへい)で劉備軍(りゅうびぐん)と戦って戦死する。 『三国志』(魏書・武帝紀) ⇒春 劉備が、陽平関から南下して沔水(べんすい)を渡り、山に沿いつつ前進し、定軍山(ていぐんざん)に陣営を築く。曹操配下の夏侯淵が来攻し、その地の争奪戦が演じられた。 劉備は、黄忠(こうちゅう)に命じて高所に登らせ、陣太鼓を打ち鳴らして夏侯淵を攻めさせ、夏侯淵や、曹操が任命した益州刺史(えきしゅうしし)の趙顒(ちょうぎょう)らを斬り殺した。 『三国志』(

    219年(漢の建安24年)の主な出来事
  • 218年(漢の建安23年)の主な出来事

    -218年- 戊戌(ぼじゅつ) 【漢】 建安(けんあん)23年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「吉(きつほん)らの反乱」 大医令(たいいれい)の吉が、少府(しょうふ)の耿紀(こうき)、司直(しちょく)の韋晃(いこう)らと共謀して反乱を起こし、許(きょ)を攻めて丞相長史(じょうしょうちょうし)の王必(おうひつ)の陣営に火を放つ。 王必は、潁川(えいせん)の典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)の厳匡(げんきょう)とともに討伐にあたり、反乱者らを斬った。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) ★『魏武故事(ぎぶこじ)』…王必の働きへの布令。 ★『三輔決録注(さんぽけつろくちゅう)』…このときの反乱について。 ★『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』…耿紀と韋晃の最期について。 ★『山陽公載記(さんようこうさいき)』…曹操(そうそ

    218年(漢の建安23年)の主な出来事
  • 217年(漢の建安22年)の主な出来事

    -217年- 丁酉(ていゆう) 【漢】 建安(けんあん)22年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が居巣(きょそう)に陣取る。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【02月】 曹操が軍を進め、長江(ちょうこう)の西にある郝谿(かくけい)に陣を布(し)く。濡須口(じゅしゅこう)にいた孫権(そんけん)は、城を築いて抵抗するが、曹操軍の攻撃を受けて退却した。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【春】 孫権が都尉(とい)の徐詳(じょしょう)を遣わし、曹操に降伏を申し入れる。曹操も返礼の使者を遣わして好(よしみ)を通じ、誓約を交わし重ねたうえ、婚姻関係を固めた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【03月】 曹操が、軍をひきいて帰途に就く。居巣には、夏侯惇(かこうとん)・曹仁(そうじん)・張遼(ちょうりょう)

    217年(漢の建安22年)の主な出来事
  • 216年(漢の建安21年)の主な出来事

    -216年- 丙申(へいしん) 【漢】 建安(けんあん)21年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)に帰還する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【02月】 甲午(こうご)の日(24日) 曹操が、初めて春の祭りを行う。 『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』 【03月】 壬寅(じんいん)の日(3日) 曹操が籍田(せきでん)を耕す。 『三国志』(魏書・武帝紀) ★『魏書』…有司(担当官吏)が、四季ごとに行っている軍事訓練について上奏。年に一度、立秋のころに吉日を選び、閲兵を行うよう求めて許可された話。 【05月】「魏王(ぎおう)曹操」 献帝が、魏公(ぎこう)の曹操の爵位を進めて魏王とする。 『三国志』(魏書・武帝紀) ★『献帝伝』…このとき下され

    216年(漢の建安21年)の主な出来事
  • 215年(漢の建安20年)の主な出来事

    -181年- 辛酉(しんゆう) 【漢】 光和(こうわ)4年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 霊帝が、初めて騄驥厩丞(りょくききゅうじょう)の官を設置し、郡国から徴発した馬を受け取らせる。この... ★同じく先の109年1月(このサイトでは収録外)の『全譯後漢書 第2冊』の補注によると、「ここでいう爵とは民爵のこと。漢代における『二十等爵制』では、一般庶民に与えられる爵位は第8級の公乗(こうじょう)以下に限られ、第9級の五大夫(ごたいふ)以上の爵位は、秩600石(せき)以上の官になって初めて与えられるものであった。それ以下の吏には、庶民と同じ第8級の公乗以下の爵位が与えられ、これが士と庶を区別する線であった」という。 【01月】 献帝が、雲中(うんちゅう)・定襄(ていじょう)・五原(ごげん)・朔方(さくほう)の4郡を廃止。これらにひとつずつ県

    215年(漢の建安20年)の主な出来事
  • 214年(漢の建安19年)の主な出来事

    -214年- 甲午(こうご) 【漢】 建安(けんあん)19年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が、初めて籍田(せきでん)を耕す。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【?月】 南安(なんあん)の趙衢(ちょうく)と漢陽(かんよう)の尹奉(いんほう)らが馬超(ばちょう)を攻め、その子の首をさらす。馬超は漢中(かんちゅう)に逃走した。 『三国志』(魏書・武帝紀) ⇒01月 馬超が、曹操配下の楊阜(ようふ)らに敗れ、張魯(ちょうろ)のもとに身を寄せる。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表 【?月】 韓遂(かんすい)が金城(きんじょう)に移り、氐族(ていぞく)の王の千万(せんばん)の部落に入る。そして、韓遂は羌族(きょうぞく)の1万余騎をひきい、曹操配下の夏侯淵

    214年(漢の建安19年)の主な出来事
  • 213年(漢の建安18年)の主な出来事

    -213年- 癸巳(きし) 【漢】 建安(けんあん)18年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が濡須口(じゅしゅこう)に軍を進め、長江(ちょうこう)西岸の孫権(そんけん)の陣営を攻め破り、都督(ととく)の公孫陽(こうそんよう)を捕らえて帰還する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) ⇒01月 曹操が濡須を攻める。孫権が防戦にあたり、両軍は1か月余り対峙(たいじ)。曹操は孫権の軍勢を眺め、少しも乱れがないことに感嘆して軍を退かせた。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 【?月】 献帝が詔(みことのり)を下し、現在の14州を9州に併合する。 『三国志』(魏書・武帝紀) ⇒01月 庚寅(こういん)の日(3日) 献帝が、『尚書(しょうしょ)』(禹貢〈うこう〉)に書かれている9州を復活させる。 『後漢書(

    213年(漢の建安18年)の主な出来事
  • 212年(漢の建安17年)の主な出来事

    -212年- 壬辰(じんしん) 【漢】 建安(けんあん)17年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)に帰還する。 献帝は曹操に、蕭何(しょうか)の旧例に倣い、「拝謁の際に名前の称呼を取りやめる」「朝廷で小走りの歩き方をしなくてもよい」「剣を帯びたまま、履き物をはいて殿上に登ってもよい」という3つの特権を与えた。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【?月】 曹操が夏侯淵(かこうえん)を遣わし、藍田(らんでん)に駐屯していた旧馬超(ばちょう)勢力の梁興(りょうこう)らを討伐させる。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【?月】 曹操の意向により、河内郡(かだいぐん)の蕩陰(とういん)・朝歌(ちょうか)・林慮(りんりょ)の3県、東郡(とうぐん)の衛国(えいこく)と頓丘(とんきゅう)・東武陽(とうぶよう)・発干(

    212年(漢の建安17年)の主な出来事
  • 211年(漢の建安16年)の主な出来事

    -211年- 辛卯(しんぼう) 【漢】 建安(けんあん)16年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が、息子の曹丕(そうひ)を五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)に任じて属官を設けたうえ、丞相(じょうしょう)の補佐とする。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【01月】 庚辰(こうしん)の日(11日) 献帝が、曹操に返書を下し、先に曹操が辞退を申し出た2万戸のうち5千戸を削減したうえ、残りの3県1万5千戸を分割して、曹操の3人の息子に与える。 この際、曹植(そうしょく)が平原侯(へいげんこう)に、曹拠(そうきょ)が范陽侯(はんようこう)に、曹豹(そうほう。曹林〈そうりん〉)が饒陽侯(じょうようこう)に、それぞれ封ぜられた。その領邑(りょうゆう)は5千戸ずつとされた。 『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょ

    211年(漢の建安16年)の主な出来事
  • 210年(漢の建安15年)の主な出来事

    -214年- 甲午(こうご) 【漢】 建安(けんあん)19年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が、初めて籍田(せきでん)を耕す。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶてい... 【02月】 乙巳(いっし)の日(1日)、朔(さく) 日が起こる。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) 【?月】 劉備(りゅうび)が、自ら京(けい)に赴いて孫権(そんけん)と会見し、荊州(けいしゅう)の借用を申し入れる。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【冬】 曹操が銅雀台(どうじゃくだい)を築く。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【12月】 己亥(きがい)の日(?日) 曹操が布告を出す。自身のこれまでの行動を振り返り、「江湖(こうこ)の地域(長江〈ちょうこう〉の流域)がまだ鎮まらない以上、

    210年(漢の建安15年)の主な出来事
  • 209年(漢の建安14年)の主な出来事

    -209年- 己丑(きちゅう) 【漢】 建安(けんあん)14年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事【03月】 曹操(そうそう)が、軍をひきいて譙(しょう)に到着する。ここで脚の速い船を造らせて水軍を訓練した。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【07月】 曹操が、渦水(かすい)から淮水(わいすい)に入り、肥水(ひすい)に出て合肥(ごうひ)に陣取る。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【?月】 辛未(しんび)の日(?日) 曹操が布告を出す。「最近の征討により、官吏や士卒の戦死者を出した家で、生活の基礎となる財産を持たず、自活できない者に対して、県官(県の役人)は官倉からの給付を絶つことのないように。長吏(ちょうり。県令〈けんれい〉や県長〈けんちょう〉)は面倒を見ていたわってやるように」というもの。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【?月】 曹操が、揚

    209年(漢の建安14年)の主な出来事
  • 208年(漢の建安13年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事【01月】 曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)に帰還し、玄武池(げんぶち)を造って水軍の肄(い。訓練)を行う。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) ★ここで裴松之(はいしょうし)が「肄は『イ』の音である」としたうえ、「『三蒼(さんそう)』にいう。肄は習(訓練)の意味である」と注釈している。 【01月】 献帝が、司徒(しと)の趙温(ちょうおん)を罷免する。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) ⇒?月 この年、曹操の息子の曹丕(そうひ)が、司徒の趙温から招聘(しょうへい)される。 曹操がこの件を献帝に上奏し、「趙温は私におもねり、故意に実質を無視した選抜を行っております」と述べた。 献帝は、侍中(じちゅう)・守光禄勲(しゅこうろくくん。光禄勲代行)の郗慮(ちりょ)に節(せつ。使者のしるし)を持たせ、趙温に免職の辞令を伝えさせた。 『三国志』(

    208年(漢の建安13年)の主な出来事
  • 207年(漢の建安12年)の主な出来事

    -207年- 丁亥(ていがい) 【漢】 建安(けんあん)12年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 曹操(そうそう)が、淳于(じゅんう)から鄴(ぎょう)に帰還する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【02月】 丁酉(ていゆう)の日(5日) 曹操が布告を出す。挙兵から19年が過ぎたことに触れ、「征伐した相手に必ず勝てたのは、賢明なる士大夫の力である」として、「急いで功績を評定し、封爵を行うように」というもの。 これにより、功臣20余人が列侯(れっこう)に取り立てられ、その他の者もそれぞれ功績の大小に従って封爵を受けた。さらに戦死者の孤児にも、それぞれ軽重の差をつけて特別待遇を与えた。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【?月】「曹操の烏丸(うがん。烏桓)遠征」 曹操が、3郡(遼西〈りょうせい〉・遼東〈りょうとう〉・右北平〈ゆうほくへ

    207年(漢の建安12年)の主な出来事
  • 206年(漢の建安11年)の主な出来事

    -206年- 丙戌(へいじゅつ) 【漢】 建安(けんあん)11年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事【01月】 曹操(そうそう)が、自ら高幹(こうかん)の討伐に向かう。これを聞いた高幹は、配下の部将を壺関(こかん)の守りに残して匈奴(きょうど)へ行き、単于(ぜんう)に救援を求めた。しかし単于は要請を断った。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【01月】 彗星(すいせい)が北斗(ほくと)に現れる。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) 【?月】 曹操が、3か月の包囲を経て壺関を陥す。高幹は荊州(けいしゅう)に逃げようとしたものの、道中で上洛都尉(じょうらくとい)の王琰(おうえん)に捕らえられて斬られた。 『三国志』(魏書・武帝紀) ⇒03月 曹操が、幷州(へいしゅう)で高幹を討ち破り、これを捕らえる。 『後漢書』(献帝紀) ★李

    206年(漢の建安11年)の主な出来事
  • 205年(漢の建安10年)の主な出来事

    -205年- 乙酉(いつゆう) 【漢】 建安(けんあん)10年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「袁譚(えんたん)の死」 曹操(そうそう)が袁譚を攻め破り、袁譚と子を処刑する。これにより曹操が冀州(きしゅう)を平定した。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) ⇒?月 曹操が、南皮(なんぴ)に逃走したあと清河(せいか)を前に駐屯していた袁譚を討ち破り、郭図(かくと)らともども斬り殺す。 『三国志』(魏書・袁紹伝〈えんしょうでん〉) ⇒01月 曹操が、青州(せいしゅう)で袁譚を討ち破り、これを斬る。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) ★李賢注(りけんちゅう)によると「(王沈〈おうしん〉の)『魏書』に、『曹操は袁譚を攻めたものの、勝つことができなかったため、自らばちと太鼓を取(って陣頭指揮をす)ると、たちまちのうちに

    205年(漢の建安10年)の主な出来事
  • 204年(漢の建安9年)の主な出来事

    -204年- 甲申(こうしん) 【漢】 建安(けんあん)9年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事【01月】 曹操(そうそう)が黄河(こうが)を渡り、淇水(きすい)の流れをせき止めて白溝(はくこう。運河の名)に水を入れ、糧道を通ずる。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【02月】 袁尚(えんしょう)が、再び袁譚(えんたん)を攻める。この際、袁尚は、蘇由(そゆう)と審配(しんぱい)を鄴(ぎょう)の守備に残した。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【?月】 曹操が洹水(かんすい)まで軍を進め、袁尚配下の蘇由が降伏する。 曹操は鄴の攻撃に移り、土山と地下道を築く。このとき袁尚配下で、武安県長(ぶあんけんちょう)の尹楷(いんかい)が毛城(もうじょう)に駐屯しており、上党(じょうとう)からの糧道を確保していた。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【04月】 曹操

    204年(漢の建安9年)の主な出来事
  • 203年(漢の建安8年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【03月】 曹操(そうそう)が、袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)の城(黎陽城〈れいようじょう〉か?)を攻める。ふたりは城を出て戦ったものの敗れ、夜に紛れて逃走した。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【04月】 曹操が、鄴(ぎょう)に軍を進める。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【05月】 曹操が許(きょ)に帰還する。この際、賈信(かしん)を残して黎陽に駐屯させた。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【05月】 己酉(きゆう)の日(25日) 曹操が布令を出す。「諸将に出征を命じた際、戦いに敗れた者の罪を問い、利を失った者は、官位や爵位を取り上げる」というもの。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【06月】 庚申(こうしん)の日(6日) 曹操が布令を出す。管仲(かんちゅう)の言葉を引き、「無能の者や不闘の士がともに俸禄恩賞を受けながら、功績が打ち立てられて国

    203年(漢の建安8年)の主な出来事
  • 202年(漢の建安7年)の主な出来事

    -202年- 壬午(じんご) 【漢】 建安(けんあん)7年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が、譙(しょう)で布告を出す。「義兵を挙げて以来、戦死して跡継ぎのない将兵は、親戚を探し出して跡継ぎとせよ。また田地を授けて耕牛を給付し、教師を置いて教育を受ける機会を与えよ。跡継ぎのいる者には廟(びょう)を建ててやり、その先人を祭らせよ」というもの。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【?月】 曹操が浚儀(しゅんぎ)に赴き、睢陽渠(すいようきょ。運河の名)を修理させる。さらに使者を遣わし、太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)の犠牲(いけにえ)を捧げて橋玄(きょうげん)を祭り、軍を官渡(かんと)に進めた。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【05月】「袁紹(えんしょう)の死」 袁紹が病を発して血を吐き、死去する。末子の

    202年(漢の建安7年)の主な出来事
  • 201年(漢の建安6年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事【02月】 丁卯(ていぼう)の日(1日)、朔(さく) 日が起こる。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) 【04月】 曹操(そうそう)が、黄河(こうが)のほとりに兵を上陸させ、倉亭(そうてい)にいた袁紹(えんしょう)の駐屯軍を攻め、これを討ち破る。 袁紹は鄴(ぎょう)に帰還すると、離散した兵を収容し、自分に背いた冀州(きしゅう)の郡県の平定にあたった。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【09月】 曹操が許(きょ)に帰還する。 袁紹は曹操に敗れる前、劉備(りゅうび)に汝南(じょなん)の攻略を命じており、汝南の賊の共都(きょうと。龔都)らが呼応していた。そこで曹操は蔡揚(さいよう。蔡陽)を遣わし、共都を攻めるよう命じたが、逆に討ち破られた。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【09月】 曹操が、劉備討伐のため南方へ向かう。劉備は曹操自身が出

    201年(漢の建安6年)の主な出来事
  • 200年(漢の建安5年)の主な出来事

    -200年- 庚辰(こうしん) 【漢】 建安(けんあん)5年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「曹操(そうそう)殺害計画の発覚」 董承(とうしょう)らの曹操殺害計画が漏れ、曹操は関係者全員を死刑に処した。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) ⇒01月 車騎将軍(しゃきしょうぐん)の董承、偏将軍(へんしょうぐん)の王服(おうふく)、越騎校尉(えっきこうい)の种輯(ちゅうしゅう)が、献帝の密詔(みっしょう)を受けて曹操を誅殺しようとしたものの、その謀議が漏れる。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) ★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「王服は、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)では王子服

    200年(漢の建安5年)の主な出来事
  • 199年(漢の建安4年)の主な出来事

    -198年- 戊寅(ぼいん) 【漢】 建安(けんあん)3年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が許(きょ)に帰還し、初めて軍師祭酒(ぐんしさいしゅ)の官を設置する。 『三国志... 【?月】「公孫瓚(こうそんさん)の死」 袁紹が全軍を挙げ、易京(えきけい)の公孫瓚を包囲する。公孫瓚は敗北を免れないと悟り、子を殺害したのち自殺した。 『三国志』(魏書・公孫瓚伝) ⇒03月 袁紹が易京の公孫瓚を攻め、これを生け捕る。 『後漢書』(献帝紀) ★李賢注(りけんちゅう)によると「公孫瓚はたびたび(袁紹に)敗れたため、易河(えきが)に面して(大きな丘である)京を築いて守りを固めた。それゆえ『易京』と呼んだ。その城壁は三重であり、周囲は6里あった。唐(とう)の内城の中に土京があり、幽州(ゆうしゅう)帰義県(きぎけん)の南にある」という。

    199年(漢の建安4年)の主な出来事
  • 198年(漢の建安3年)の主な出来事

    -197年- 丁丑(ていちゅう) 【漢】 建安(けんあん)2年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 曹操(そうそう)が宛(えん)に赴く。張繡(ちょうしゅう)は曹操に降伏したが、後になって悔やみ... 【04月】 呂布(りょふ)が反乱を起こす。 『後漢書』(献帝紀) 【04月】 袁紹(えんしょう)が、曹操に鄄城(けんじょう)への遷都を求めたものの拒否される。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表 【05月】 劉表(りゅうひょう)が、張繡を救援するために兵を出し、曹操軍の背後を絶つ。曹操は引き揚げようとしたが、張繡の兵が後ろに迫ったため、陣営を連ねて少しずつ進んだ。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【?月】 張繡が、安衆(あんしゅう)で劉表の兵と合流し、曹操軍を挟撃する形を取る。 曹操は、夜中に要

    198年(漢の建安3年)の主な出来事
  • 197年(漢の建安2年)の主な出来事

    -196年- 丙子(へいし) 【漢】 建安(けんあん)元年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】「漢(かん)の改元」 癸酉(きゆう)の日(7日) 献帝が、安邑県(あんゆうけん)で上帝(じょうてい... 【05月】 蝗(イナゴ)の被害が出る。 『後漢書』(献帝紀) ★ここでは具体的な場所についての記述はなかった。 【09月】 袁術が陳(ちん)に侵攻。曹操が征伐に乗り出し、東方に赴く。 袁術は軍を捨てて逃げ、配下の橋蕤(きょうずい)・李豊(りほう)・梁綱(りょうこう)・楽就(がくしゅう)を留める。曹操は到着後、橋蕤らを撃破してみな斬り殺した。袁術は淮水(わいすい)を渡って逃げ、曹操は許(きょ)に帰還した。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【09月】 漢水(かんすい)が氾濫する。 『後漢書』(献帝紀) 【?月】 曹操が舞陰から許に帰るなり、南陽(なんよう

    197年(漢の建安2年)の主な出来事
  • 196年(漢の建安元年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事【01月】「漢(かん)の改元」 癸酉(きゆう)の日(7日) 献帝が、安邑県(あんゆうけん)で上帝(じょうてい)を祭り、大赦を行ったうえ、「興平(こうへい)」を「建安」と改元する。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) 【01月】 曹操(そうそう)が武平(ぶへい)を攻め、袁術(えんじゅつ)に任命された陳国相(ちんこくしょう)である袁嗣(えんし)が降伏する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【02月】 曹操が軍を進め、汝南(じょなん)・潁川(えいせん)の両郡の黄巾(こうきん)である何儀(かぎ)・劉辟(りゅうへき)・黄邵(こうしょう)・何曼(かまん)らを撃破。 劉辟や黄邵らは斬られ、何儀は配下の兵とともに降伏した。献帝は、曹操を建徳将軍(けんとくしょうぐん)に任じた。 『三国志』(魏書・武帝紀) 【02月】 韓暹(かんせん)が、衛将軍(え

    196年(漢の建安元年)の主な出来事
  • 195年(漢の興平2年)の主な出来事

    -195年- 乙亥(いつがい) 【漢】 興平(こうへい)2年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事【01月】 癸丑(きちゅう)の日(11日) 献帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) 【春】 曹操(そうそう)が、定陶(ていとう)の呂布(りょふ)を攻める。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【02月】 乙亥の日(3日) 李傕(りかく)が樊稠(はんちゅう)を殺害したうえ、郭汜(かくし)とも戦う。 『後漢書』(献帝紀) 【03月】 丙寅(へいいん)の日(25日) 李傕が献帝を脅迫し、自分の陣営に行幸させたうえ、長安(ちょうあん)の宮室を焼く。 『後漢書』(献帝紀) 【03月】 朱儁(しゅしゅん)が憤死する。これ以後、献帝は関中(かんちゅう)の地を転々とすることになった。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう

    195年(漢の興平2年)の主な出来事
  • 194年(漢の興平元年)の主な出来事

    -181年- 辛酉(しんゆう) 【漢】 光和(こうわ)4年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 霊帝が、初めて騄驥厩丞(りょくききゅうじょう)の官を設置し、郡国から徴発した馬を受け取らせる。この... 【?月】 劉備(りゅうび)が、陶謙(とうけん)のもとに身を寄せる。陶謙は献帝に上表し、劉備を豫州刺史(よしゅうしし)に任ずるよう推薦した。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【春】 曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)から帰還する。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) 【03月】 韓遂(かんすい)と馬騰(ばとう)が、長平観(ちょうへいかん)で郭汜(かくし)や樊稠(はんちゅう)らと戦って大敗。この戦いで、左中郎将(さちゅうろうしょう)の劉範(りゅうはん)と前の益州刺史(えきしゅうしし)である

    194年(漢の興平元年)の主な出来事
  • 193年(漢の初平4年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事【01月】 甲寅(こういん)の日(1日)、朔(さく) 日が起こる。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) ★李賢注(りけんちゅう)によると「袁宏(えんこう)の『後漢紀(ごかんき)』に、『(午後4時ごろにあたる)晡(ほ)の8刻前、太史令(たいしれい)の王立(おうりゅう)が献帝に上奏し、『太陽が(日が予想されている宿)度をよぎりますが、(日の)変異は起こりません、と述べた』。『朝臣は(天譴〈てんけん〉である日が起こらないということで)みなお祝いを申し上げた。ところが献帝がこれを確認させると、晡の1刻前になって日が起こった』」。 「『賈詡(かく)は献帝に上奏し、王立は観測をつかさどる立場でありながら(事象を)明確にできず、上下の者を誤らせました。どうか刑獄の官に下されますように、と述べた。献帝は、天道は遥かなもの。その事象は明らかにしがたいものだ

    193年(漢の初平4年)の主な出来事
  • 192年(漢の初平3年)の主な出来事

    -192年- 壬申(じんしん) 【漢】 初平(しょへい)3年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 丁丑(ていちゅう)の日(?日) 献帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) 【01月】「孫堅(そんけん)の死」 袁術(えんじゅつ)が部将の孫堅を遣わし、襄陽郡(じょうようぐん)の劉表(りゅうひょう)を攻めたものの、孫堅が戦死する。 『後漢書』(献帝紀) ⇒?月 この年、孫堅が袁術の命を受け、荊州(けいしゅう)の劉表を攻める。孫堅は劉表配下の黄祖(こうそ)を討ち破り、そのまま襄陽を包囲した。 しかし孫堅は、襄陽城外の峴山(けんざん)を単騎で通っていたとき、黄祖の軍卒が放った矢に当たって亡くなった。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝〈そんけんでん〉) ★孫堅の死については時期を含め、ほかにも諸説がある。 【01月】 董卓軍

    192年(漢の初平3年)の主な出来事
  • 191年(漢の初平2年)の主な出来事

    -191年- 辛未(しんび) 【漢】 初平(しょへい)2年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 辛丑(しんちゅう)の日(6日) 献帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉) 【春】 袁紹(えんしょう)と韓馥(かんふく)が、劉虞(りゅうぐ)を皇帝に擁立しようとしたものの、劉虞はあくまで承知しなかった。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) ⇒01月 劉虞が、袁紹と韓馥の即位要請を拒む。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表 【02月】 丁丑(ていちゅう)の日(12日) 董卓(とうたく)が、自ら太師(たいし)に就任する。 『後漢書』(献帝紀) 【02月】 袁術(えんじゅつ)が部将の孫堅(そんけん)を遣わし、陽人聚(ようじんしゅう)で董卓配下の部将の胡軫(こし

    191年(漢の初平2年)の主な出来事
  • 190年(漢の初平元年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事【01月】「反董卓(とうたく)連合軍の結成」 後将軍(こうしょうぐん)の袁術(えんじゅつ)、冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんふく)、豫州刺史(よしゅうしし)の孔伷(こうちゅう)、兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)、勃海太守(ぼっかいたいしゅ)の袁紹(えんしょう)、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)の張邈(ちょうばく)、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁(きょうぼう)、山陽太守(さんようたいしゅ)の袁遺(えんい)、済北国相(せいほくこくしょう)の鮑信(ほうしん)が同時に挙兵。 それぞれ数万の軍勢を擁しており、袁紹を盟主に推挙した。このとき曹操(そうそう)は奮武将軍(ふんぶしょうぐん)を兼務した。 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉) ⇒01月 山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくか

    190年(漢の初平元年)の主な出来事
  • 189年(〈漢の中平6年〉→〈光熹元年〉→〈昭寧元年〉→〈永漢元年〉→中平6年)の主な出来事

    -189年- 己巳(きし) 【漢】 (中平〈ちゅうへい〉6年) → (光熹〈こうき〉元年) → (昭寧〈しょうねい〉元年) → (永漢〈えいかん〉元年) → 中平6年に戻す ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) → 少帝(しょうてい。劉辯〈りゅうべん〉) → 献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 左将軍(さしょうぐん)の皇甫嵩(こうほすう)が、陳倉(ちんそう)で王国(おうこく)を大破する。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【03月】 幽州牧(ゆうしゅうぼく)の劉虞(りゅうぐ)が、懸賞金をかけて漁陽(ぎょよう)の賊の張純(ちょうじゅん)を捕らえ、これを斬る。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 下軍校尉(かぐんこうい)の鮑鴻(ほうこう)が、投獄されて獄死する。 『後漢書』(霊帝紀) 【04月】 丙午(へいご)の日(1日)、朔(さく

    189年(〈漢の中平6年〉→〈光熹元年〉→〈昭寧元年〉→〈永漢元年〉→中平6年)の主な出来事
  • 188年(漢の中平5年)の主な出来事

    -188年- 戊辰(ぼしん) 【漢】 中平(ちゅうへい)5年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 休屠各(きゅうとかく)の胡(こ)が西河郡(せいかぐん)に侵攻し、西河太守(せいかたいしゅ)の邢紀(けいき)を殺害する。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【01月】 丁酉(ていゆう)の日(15日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 彗星(すいせい)が紫宮(しきゅう)に現れる。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 黄巾賊(こうきんぞく)の残党の郭太(かくたい。郭泰)らが、西河郡の白波谷(はくはこく)で蜂起し、太原(たいげん)・河東(かとう)の両郡に侵攻する。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 休屠各の胡が幷州刺史(へいしゅうしし)の張懿(ちょうい)を攻め、これを殺害する。さらに休屠各の胡は、南匈奴(なんきょうど)の左

    188年(漢の中平5年)の主な出来事
  • 187年(漢の中平4年)の主な出来事

    -187年- 丁卯(ていぼう) 【漢】 中平(ちゅうへい)4年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 己卯(きぼう)の日(21日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【02月】 滎陽(けいよう)の賊が中牟県令(ちゅうぼうけんれい)を殺害する。 『後漢書』(霊帝紀) ★李賢注(りけんちゅう)によると「劉艾(りゅうがい)の『霊帝紀』に、『中牟令の落皓(らくこう)と主簿(しゅぼ)の潘業(はんぎょう)は、戦いに臨んで重大事であると深く考えず、ともに殺害された』とある」という。 【02月】 己亥(きがい)の日(11日) 洛陽(らくよう)の南宮の内殿にある、宮門外の塀が自然に壊れる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 河南尹(かなんいん)の何苗(かびょう)が滎陽の賊の討伐にあたり、これを討ち破る。 『後漢書』(霊帝紀) 【

    187年(漢の中平4年)の主な出来事
  • 186年(漢の中平3年)の主な出来事

    -186年- 丙寅(へいいん) 【漢】 中平(ちゅうへい)3年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【02月】 江夏郡(こうかぐん)の郡兵である趙慈(ちょうじ)が謀反を起こし、南陽太守(なんようたいしゅ)の秦頡(しんけつ)を殺害する。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【02月】 庚戌(こうじゅつ)の日(16日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 霊帝が、太尉(たいい)の張延(ちょうえん)を罷免したうえ、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の張温(ちょうおん)を太尉に、中常侍(ちゅうじょうじ)の趙忠(ちょうちゅう)を車騎将軍に、それぞれ任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 霊帝が玉堂殿(ぎょくどうでん)を改修し、銅人(どうじん)4体、黄鍾(こうしょう)4口(こう)、さらに天禄(てんろく)や蝦蟆(がま)を鋳造する。また四出文

    186年(漢の中平3年)の主な出来事
  • 185年(漢の中平2年)の主な出来事

    -185年- 乙丑(いっちゅう) 【漢】 中平(ちゅうへい)2年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 疫病が流行する。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) ★ここでは具体的な場所についての記述はなかった。 【01月】 琅邪王(ろうやおう)の劉據(りゅうきょ)が薨去(こうきょ)する。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 己酉(きゆう)の日(10日) 洛陽(らくよう)の南宮で大規模な火災が起こり、鎮火まで半月もかかる。 『後漢書』(霊帝紀) ★李賢注(りけんちゅう)によると「『続漢書(しょくかんじょ)』(五行志〈ごぎょうし〉)に、『このとき霊台殿(れいだいでん)・楽成殿(らくせいでん)を焼き、延焼して北闕(ほっけつ)および道を渡って西に向かい、嘉徳殿(かとくでん)・和驩殿(かかんでん)を焼いた』とある」という。 【02月】 癸亥(きがい

    185年(漢の中平2年)の主な出来事
  • 184年(〈漢の光和7年〉→中平元年)の主な出来事

    -179年- 己未(きび) 【漢】 光和(こうわ)2年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【春】 疫病が大流行する。霊帝は、中常侍(ちゅうじょうじ)と中謁者(ちゅうえっしゃ)を巡行させ、医薬品を配るよう命... 【04月】 朱儁が、黄巾賊の波才(はさい)に敗れる。 『後漢書』(霊帝紀) 【04月】 侍中(じちゅう)の向栩(しょうく)と張鈞(ちょうきん)が、宦官(かんがん)を弾劾した罪により投獄されて獄死する。 『後漢書』(霊帝紀) ★李賢注によると「このとき張鈞は霊帝に上書し、『いま中常侍を斬り、その首を南郊に掛けて天下に詫びれば、すぐにも賊兵はおのずから消え去りましょう』と述べた。霊帝はこの上書を中常侍に見せた。このため張鈞は投獄されたのである」という。 【04月】 汝南郡(じょなんぐん)の黄巾賊が、邵陵(しょうりょう)で汝南太守の趙謙(ちょうけん)を

    184年(〈漢の光和7年〉→中平元年)の主な出来事
  • 183年(漢の光和6年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 日南郡(にちなんぐん)の塞外の国が通訳を重ね、漢(かん)に貢ぎ物を献ずる。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【02月】 霊帝が、(高祖〈こうそ〉劉邦〈りゅうほう〉の長陵〈ちょうりょう〉がある)長陵県を豊(ほう)・沛(はい)と同様に租税免除とする。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 辛未(しんび)の日(21日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書』(霊帝紀) 【夏】 大日照りとなる。 『後漢書』(霊帝紀) ★ここでは具体的な場所についての記述はなかった。 【秋】 金城郡(きんじょうぐん)で河水が氾濫する。 『後漢書』(霊帝紀) 【秋】 五原郡(ごげんぐん)で山岸が崩れる。 『後漢書』(霊帝紀) 【秋】 霊帝が、初めて圃囿署(ほゆうしょ)を設置し、宦官(かんがん)をその令(れい)に起用する。 『後漢書』(霊帝紀) 【冬】 東海(とうかい)・

    183年(漢の光和6年)の主な出来事
  • 182年(漢の光和5年)の主な出来事

    -182年- 壬戌(じんじゅつ) 【漢】 光和(こうわ)5年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 辛未(しんび)の日(14日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【01月】 陳耽(ちんたん)が霊帝に上言し、宦官(かんがん)勢力に阿付する許戫(きょいく)らを非難する。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 ⇒01月 霊帝が、民に害を与えている刺史(しし)や太守(たいしゅ)の名を挙げるよう命ずる。しかし、大臣らは宦官から賄賂を受け、悪事を働く宦官の子弟や賓客を放置し、遠方の郡の清廉な者を糾弾した。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表 【02月】 疫病が流行する。 『後漢書』(霊帝紀) ★ここでは具体的な場所についての記

    182年(漢の光和5年)の主な出来事
  • 181年(漢の光和4年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 霊帝が、初めて騄驥厩丞(りょくききゅうじょう)の官を設置し、郡国から徴発した馬を受け取らせる。このため豪族が利益を独占するようになり、1頭の価格が200万銭にもなった。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) ★李賢注(りけんちゅう)によると「騄驥とは名馬のことである」という。 【02月】 霊帝のもとに、郡国から芝英草(シエイソウ)が献上される。 『後漢書』(霊帝紀) 【04月】 庚子(こうし)の日(?日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書』(霊帝紀) 【04月】 交趾刺史(こうししし)の朱儁(しゅしゅん)が、交趾・合浦(ごうほ)の両郡の烏滸蛮(うこばん)の討伐にあたり、これを討ち破る。 『後漢書』(霊帝紀) ★以前からの疑問のひとつが交趾刺史。ほかでは幽州刺史(ゆうしゅうしし)や益州刺史(えきしゅうしし)など某州刺史となっているのに、ここだ

    181年(漢の光和4年)の主な出来事
  • 180年(漢の光和3年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 癸酉(きゆう)の日(?日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【02月】 三公の府の駐車場にある廊下の屋根が自然に壊れる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 梁王(りょうおう)の劉元(りゅうげん)が薨去(こうきょ)する。 『後漢書』(霊帝紀) 【04月】 江夏蛮(こうかばん)が反乱を起こす。 『後漢書』(霊帝紀) 【06月】 霊帝が公卿(こうけい)に詔(みことのり)を下し、『古文尚書(こぶんしょうしょ)』『毛詩(もうし)』『左氏春秋(さししゅんじゅう)』『穀梁春秋(こくりょうしゅんじゅう)』に通じた者を、それぞれひとりずつ推挙させて議郎(ぎろう)に任じた。 『後漢書』(霊帝紀) 【秋】 表是県(ひょうしけん)で地震が起こり、水が湧く。 『後漢書』(霊帝紀) 【08月】 霊帝が、縑(きぬ)を納めることで未決囚に罪を

    180年(漢の光和3年)の主な出来事
  • 179年(漢の光和2年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【春】 疫病が大流行する。霊帝は、中常侍(ちゅうじょうじ)と中謁者(ちゅうえっしゃ)を巡行させ、医薬品を配るよう命じた。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【03月】 霊帝が、司徒(しと)の袁滂(えんぼう)を罷免し、大鴻臚(だいこうろ)の劉郃(りゅうこう)を司徒に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 乙丑(いっちゅう)の日(22日) 霊帝が、太尉(たいい)の橋玄(きょうげん)を罷免し、太中大夫(たいちゅうたいふ)の段熲(だんけい)を太尉に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 京兆(けいちょう)で地震が起こる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 霊帝が、司空(しくう)の袁逢(えんほう)を罷免し、太常(たいじょう)の張済(ちょうせい)を司空に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) ★李賢注(りけんちゅう)および『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈

    179年(漢の光和2年)の主な出来事
  • 178年(〈漢の熹平7年〉→光和元年)の主な出来事

    -178年- 戊午(ぼご) 【漢】 (熹平〈きへい〉7年) → 光和(こうわ)元年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 合浦(ごうほ)・交趾(こうし)の両郡の烏滸蛮(うこばん)が反乱を起こす。彼らは九真(きゅうしん)・日南(にちなん)の両郡の民を扇動し、郡県を攻め落とした。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【01月】 霊帝が、太尉(たいい)の孟戫(もういく)を罷免する。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 辛亥(しんがい)の日(1日)、朔(さく) 日が起こる。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 癸丑(きちゅう)の日(3日) 霊帝が、光禄勲(こうろくくん)の袁滂(えんぼう)を司徒(しと)に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 己未(きび)の日(9日) 地震が起こる。 『後漢書』(霊帝紀) ★ここでは具体的な場所についての記

    178年(〈漢の熹平7年〉→光和元年)の主な出来事
  • 177年(漢の熹平6年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 辛丑(しんちゅう)の日(15日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【02月】 南宮の平城門(へいじょうもん)および武庫の東垣(とうえん)の屋根が自然に壊れる。 『後漢書』(霊帝紀) ★李賢注(りけんちゅう)によると「平城門は洛陽城(らくようじょう)の南門である。蔡邕(さいよう)は『平城門は正陽(せいよう。真南)の門であり、宮殿にまっすぐに連なっており、郊祀の際には皇帝の法駕(ほうが)がこの門から出る。門の中で最も尊いものである』としている」という。 「また、武庫は禁中の武器を収める場所。東垣は武庫の外障(外側の塀)である。(京房〈けいぼう〉の)『易伝(えきでん)』に、『小人が位にあると、その障りで城門が自然に壊れる』とある」という。 【04月】 大規模な日照りの被害が出る。 『後漢書』(霊帝紀) ★ここでは具体

    177年(漢の熹平6年)の主な出来事
  • 176年(漢の熹平5年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【04月】 癸亥(きがい)の日(?日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【04月】 益州郡(えきしゅうぐん)の異民族が反乱を起こしたものの、益州太守(えきしゅうたいしゅ)の李顒(りぎょう)が討伐にあたり、これを平定する。 『後漢書』(霊帝紀) 【04月】 霊帝が、崇高山(すうこうざん)を嵩高山(すうこうざん)と改名する。 『後漢書』(霊帝紀) ★李賢注(りけんちゅう)によると「『漢書(かんじょ)』(武帝紀〈ぶていぎ〉)に、武帝が中嶽(ちゅうがく)を祭り、嵩高山を改めて崇高山としたとある」という。「また『東観漢記(とうかんかんき)』に、(霊帝が)中郎将(ちゅうろうしょう)の堂谿典(どうけいてん)に雨乞いを行わせ、これにより(堂谿典が霊帝に)上言して改名し、名づけて嵩高山としたとある」という。 【04月】 霊帝が、大規模な雩祭

    176年(漢の熹平5年)の主な出来事
  • 175年(漢の熹平4年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【03月】「熹平石経(きへいせっけい)の設置」 霊帝が諸儒に詔(みことのり)を下し、五経(ごきょう)の文字を正すよう命じ、それを石に刻ませて太学(たいがく)の門外に立てる。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) ★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「これは熹平石経と呼ばれる石経で、『詩経(しきょう)』『書経(しょきょう)』『易経(えききょう)』『儀礼(ぎらい)』『春秋(しゅんじゅう)』『公羊伝(くようでん)』『論語(ろんご)』の7種が立てられた」という。 ★『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)によると、「蔡邕(さいよう)が馬日磾(ばじってい)らとともに霊帝に願い出て、経書の文字を正定する許可

    175年(漢の熹平4年)の主な出来事
  • 174年(漢の熹平3年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 夫余国(ふよこく)の使者が漢(かん)に来朝し、貢ぎ物を献ずる。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【02月】 己巳(きし)の日(26日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 霊帝が、太常(たいじょう)の陳耽(ちんたん)を太尉(たいい)に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 中山王(ちゅうざんおう)の劉暢(りゅうちょう)が薨去(こうきょ)する。劉暢には息子がなかったため、国が廃された。 『後漢書』(霊帝紀) ★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「劉暢は中山王。順帝(じゅんてい)の永和(えいわ)5(140)年に父である中山孝王(ちゅうざんこうおう)劉弘(りゅうこう)の跡を継いで中山王となり、この年(174

    174年(漢の熹平3年)の主な出来事
  • 173年(漢の熹平2年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 疫病が大流行する。霊帝は使者を巡行させ、医薬品の賜与を命じた。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) ★ここでは具体的な場所についての記述はなかった。 【01月】 丁丑(ていちゅう)の日(27日) 司空(しくう)の宗倶(そうく)が死去する。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 壬午(じんご)の日(3日) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書』(霊帝紀) 【02月】 霊帝が、光禄勲(こうろくくん)の楊賜(ようし)を司空に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 霊帝が、太尉(たいい)の李咸(りかん)を罷免する。 『後漢書』(霊帝紀) 【05月】 霊帝が、司隷校尉(しれいこうい)の段熲(だんけい)を太尉に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【05月】 沛国相(はいこくしょう。正しくは陳国相〈ちんこくしょう〉)の師遷(しせん)が、陳王(ちんおう)の劉寵(

    173年(漢の熹平2年)の主な出来事
  • 172年(〈漢の建寧5年〉→熹平元年)の主な出来事

    -172年- 壬子(じんし) 【漢】 (建寧〈けんねい〉5年) → 熹平(きへい)元年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【03月】 壬戌(じんじゅつ)の日(8日) 太傅(たいふ)の胡広(ここう)が死去する。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【05月】「漢(かん)の改元」 己巳(きし)の日(16日) 霊帝が大赦を行い、「建寧」を「熹平」と改元する。 『後漢書』(霊帝紀) 【05月】 長楽太僕(ちょうらくたいぼく)の侯覧(こうらん)に罪があり、自殺する。 『後漢書』(霊帝紀) 【06月】 洛陽(らくよう)で大雨による被害が出る。 『後漢書』(霊帝紀) 【06月】「竇太后(とうたいこう)の崩御(ほうぎょ)」 癸巳(きし)の日(10日) 竇太后が崩御する。 『後漢書』(霊帝紀) ⇒?月 竇太后の母が配流先(はいるさき)の比景県(ひけいけん)で

    172年(〈漢の建寧5年〉→熹平元年)の主な出来事
  • 171年(漢の建寧4年)の主な出来事

    -171年- 辛亥(しんがい) 【漢】 建寧(けんねい)4年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 甲子(こうし)の日(3日) 霊帝が元服を迎え、大赦を行う。ただし党人(とうじん)は赦さず。また、公卿(こうけい)以下に差をつけて下賜を行った。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【02月】 癸卯(きぼう)の日(13日) 地震が起こって海水があふれる。その一方、黄河(こうが)の水が澄む。 『後漢書』(霊帝紀) ★ここでは地震の具体的な場所についての記述はなかった。 【03月】 辛酉(しんゆう)の日(1日)、朔(さく) 日が起こる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 霊帝が、太尉(たいい)の聞人襲(ぶんじんしゅう)を罷免し、太僕(たいぼく)の李咸(りかん)を太尉に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【03月】 霊帝が、公卿以下600石(せ

    171年(漢の建寧4年)の主な出来事
  • 170年(漢の建寧3年)の主な出来事

    -170年- 庚戌(こうじゅつ) 【漢】 建寧(けんねい)3年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 河内郡(かだいぐん)ではが夫をらい、河南郡(かなんぐん)では夫がらうという事件が起こる。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【03月】 丙寅(へいいん)の日(30日)、晦(かい) 日が起こる。 『後漢書』(霊帝紀) 【04月】 霊帝が、太尉(たいい)の郭禧(かくき)を罷免し、太中大夫(たいちゅうたいふ)の聞人襲(ぶんじんしゅう)を太尉に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【07月】 霊帝が、司空(しくう)の劉囂(りゅうごう)を罷免する。 『後漢書』(霊帝紀) 【08月】 霊帝が、大鴻臚(だいこうろ)の橋玄(きょうげん)を司空に任ずる。 『後漢書』(霊帝紀) 【09月】 執金吾(しつきんご)の董寵(とうちょう)が投獄されて獄

    170年(漢の建寧3年)の主な出来事
  • 169年(漢の建寧2年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 丁丑(ていちゅう)の日(2月5日?) 霊帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【03月】 乙巳(いっし)の日(3日) 霊帝が、母である慎園貴人(しんえんきじん)の董氏(とうし)を尊び、孝仁皇后(こうじんこうごう)とする。 『後漢書』(霊帝紀) ⇒?月 霊帝は中常侍(ちゅうじょうじ)に董氏を迎えに行かせ、併せて董氏の兄の董寵(とうちょう)も召し寄せた。 そして董氏を孝仁皇后と尊称し、南宮の嘉徳殿(かとくでん)に住まわせ、その宮を永楽(えいらく)と称した。また、董寵を執金吾(しつきんご)に任じた。しかし董寵は、後に永楽后(董氏)の依頼と偽って請託した罪により、投獄されて獄死した。 『後漢書』(董皇后紀〈とうこうごうぎ〉) 【04月】 大風が吹き、雹(ひょう)も降る。 『後漢書』(霊帝紀) ★ここでは具体的な場所についての記

    169年(漢の建寧2年)の主な出来事
  • 168年(漢の建寧元年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 壬午(じんご)の日(3日) 竇太后(とうたいこう)が、城門校尉(じょうもんこうい)の竇武(とうぶ)を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。 『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉) 【01月】 己亥(きがい)の日(20日) 河間郡(かかんぐん)から解瀆亭侯(かいとくていこう)の劉宏(りゅうこう)が迎えられ、洛陽(らくよう)の夏門亭(かもんてい)に到着する。竇太后は竇武に節(せつ。使者のしるし)を持たせ、王の青蓋車(せいがいしゃ)をもって、劉宏を殿中に迎え入れるよう命じた。 『後漢書』(霊帝紀) 【01月】「霊帝の即位」 庚子(こうし)の日(21日) 劉宏が帝位に即く。このとき12歳だった。 『後漢書』(霊帝紀) 【01月】「漢(かん)の改元」 霊帝が、「永康」を「建寧」と改元する。 『後漢書』(霊帝紀) 【01月】 霊帝が、前の太尉(たいい)で

    168年(漢の建寧元年)の主な出来事
  • 167年(〈漢の延熹10年〉→永康元年)の主な出来事

    -167年- 丁未(ていび) 【漢】 (延熹〈えんき〉10年) → 永康(えいこう)元年 ※桓帝(かんてい。劉志〈りゅうし〉) 月別および季節別の主な出来事 【01月】 先零羌(せんれいきょう)が三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)に侵攻したものの、中郎将(ちゅうろうしょう)の張奐(ちょうかん)が討伐にあたり、これを平定する。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【01月】 当煎羌(とうせんきょう)が武威郡(ぶいぐん)に侵攻したものの、護羌校尉(ごきょうこうい)の段熲(だんけい)が鸞鳥県(らんちょうけん)まで追撃し、これを大破する。西羌はことごとく平定された。 『後漢書』(桓帝紀) ★鸞鳥県について、李賢注(りけんちゅう)では「鸞は音が雚(かん)である」とあり、『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ

    167年(〈漢の延熹10年〉→永康元年)の主な出来事
  • 166年(漢の延熹9年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 辛卯(しんぼう)の日(1日)、朔(さく) 日が起こる。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【01月】 桓帝が、公卿(こうけい)や校尉(こうい)および郡国の刺史(しし)や太守(たいしゅ)に詔(みことのり)を下し、至孝の者を推挙させる。 『後漢書』(桓帝紀) 【01月】 沛国(はいこく)の戴異(たいい)が、文字の刻まれていない金印を発見。広陵郡(こうりょうぐん)の龍尚(りょうしょう)らとともに井戸を祭って予言書を偽作し、太上皇(たいじょうこう)と称する。このためふたりとも誅殺された。 『後漢書』(桓帝紀) ★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「戴異は沛国の賊。太上皇(『後漢紀〈ごかんき〉』では上皇帝)を自称して誅殺された」とい

    166年(漢の延熹9年)の主な出来事
  • 165年(漢の延熹8年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 桓帝が、中常侍(ちゅうじょうじ)の左悺(さかん)を苦県(こけん)に遣わし、老子(ろうし)を祭らせる。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) ★『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「伏滔(ふくとう)の『北征記(ほくせいき)』に『(陳国〈ちんこく〉の苦県には)老子の廟(びょう)があり、廟の中に九井(きゅうせい)があり、それぞれの水が通じている』とある」という。 ★同じく『後漢書』(郡国志)の劉昭注によると、「『古史考(こしこう)』に『(陳国の苦県には)曲仁里(きょくじんり)があり、老子の郷里である』とある」という。 【01月】 勃海王(ぼっかいおう)の劉悝(りゅうかい)が謀反を起こしたため、桓帝が癭陶王(えいとうおう)に降格する。 『後漢書』(桓帝紀) 【01月】 丙申(へいしん)の日(30日)、晦(か

    165年(漢の延熹8年)の主な出来事
  • 164年(漢の延熹7年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 庚寅(こういん)の日(18日) 沛王(はいおう)の劉栄(りゅうえい)が薨去(こうきょ)する。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【02月】 黄瓊(こうけい)が死去する(86年~)。彼の葬儀の会葬者は6、7千人にも達したという。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【03月】 癸亥(きがい)の日(4月23日?) 鄠県(こけん)に隕石(いんせき)が落ちる。 『後漢書』(桓帝紀) 【04月】 丙寅(へいいん)の日(26日) 梁王(りょうおう)の劉成(りゅうせい)が薨去する。 『後漢書』(桓帝紀) 【05月】 己丑(きちゅう)の日(19日) 洛陽(らくよう)で雹(ひょう)が降る。 『後漢書』(桓帝紀) 【07月】 辛卯(しんぼう)の日(22日) 趙王(ちょうおう)の劉乾(りゅうけん)が薨去する。 『

    164年(漢の延熹7年)の主な出来事
  • 163年(漢の延熹6年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【02月】 戊午(ぼご)の日(11日) 司徒(しと)の种暠(ちゅうこう)が死去する。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【03月】 戊戌(ぼじゅつ)の日(22日) 桓帝が大赦を行う。 『後漢書』(桓帝紀) 【03月】 桓帝が、衛尉(えいい)の許栩(きょく)を司徒に任ずる。 『後漢書』(桓帝紀) 【04月】 辛亥(しんがい)の日(5日) 康陵(こうりょう。殤帝〈しょうてい〉の陵)の東署(とうしょ)で火災が起こる。 『後漢書』(桓帝紀) 【05月】 鮮卑(せんぴ)が遼東属国(りょうとうぞっこく)に侵攻する。 『後漢書』(桓帝紀) 【07月】 甲申(こうしん)の日(10日) 平陵(へいりょう。昭帝〈しょうてい〉の陵)の園寝で火災が起こる。 『後漢書』(桓帝紀) 【07月】 桂陽郡(けいようぐん)の盗賊である李研(りけん)らが郡界に侵攻する。 『後漢書

    163年(漢の延熹6年)の主な出来事
  • 162年(漢の延熹5年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 桓帝が、太官右監丞(たいかんゆうかんじょう)の官を廃止する。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【01月】 壬午(じんご)の日(29日) 洛陽(らくよう)の南宮にある丙署(へいしょ)で火災が起こる。 『後漢書』(桓帝紀) 【03月】 沈氐羌(しんていきょう)が、張掖(ちょうえき)・酒泉(しゅせん)の両郡に侵攻する。 『後漢書』(桓帝紀) 【03月】 壬午の日(30日) 済北王(せいほくおう)の劉次(りゅうじ)が薨去(こうきょ)する。 『後漢書』(桓帝紀) 【04月】 長沙郡(ちょうさぐん)の賊が蜂起し、桂陽(けいよう)・蒼梧(そうご)の両郡に侵攻する。 『後漢書』(桓帝紀) 【04月】 暴れ馬と逃げ出した象が、宮殿に突入するという事件が起こる。 『後漢書』(桓帝紀) 【04月】 乙丑(いっちゅう)の日(5月13日?) 恭陵(きょうり

    162年(漢の延熹5年)の主な出来事
  • 161年(漢の延熹4年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 辛酉(しんゆう)の日(2日) 洛陽(らくよう)の南宮にある嘉徳殿(かとくでん)で火災が起こる。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【01月】 戊子(ぼし)の日(29日) 洛陽の南宮にある丙署(へいしょ)でも火災が起こる。 『後漢書』(桓帝紀) 【01月】 疫病が流行する。 『後漢書』(桓帝紀) ★ここでは具体的な場所についての記述はなかった。 【02月】 壬辰(じんしん)の日(3日) 洛陽の武器庫で火災が起こる。 『後漢書』(桓帝紀) 【02月】 桓帝が、司徒(しと)の盛允(せいいん)を罷免し、大司農(だいしのう)の种暠(ちゅうこう)を司徒に任ずる。 『後漢書』(桓帝紀) 【03月】 桓帝が、冗従右僕射(じょうじゅうゆうぼくや)の官を廃止する。 『後漢書』(桓帝紀) 【03月】 桓帝が、太尉(たいい)の黄瓊(こうけい)を罷免する。

    161年(漢の延熹4年)の主な出来事
  • 160年(漢の延熹3年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 丙申(へいしん)の日(1日) 桓帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【01月】 丙午(へいご)の日(11日) 車騎将軍(しゃきしょうぐん)の単超(ぜんちょう)が死去する。 『後漢書』(桓帝紀) ⇒01月 新豊侯(しんぽうこう)の単超が死去する。桓帝から玉衣などが下賜され、盛大な葬儀が行われた。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【閏01月】 焼何羌(しょうかきょう)が反乱を起こし、張掖郡(ちょうえきぐん)に侵攻する。護羌校尉(ごきょうこうい)の段熲(だんけい)が、積石山(せきせきざん)でこれを大破した。 『後漢書』(桓帝紀) 【閏01月】 白馬県令(はくばけんれい)の李雲(りうん)が、直諫の罪により投獄されて獄死する。 『後漢書』(桓帝紀) 【04月】 桓帝のもとに、「上郡

    160年(漢の延熹3年)の主な出来事
  • 159年(漢の延熹2年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【02月】 鮮卑(せんぴ)が雁門郡(がんもんぐん)に侵攻する。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【02月】 己亥の日(29日) 阜陵王(ふりょうおう)の劉便(りゅうべん)が薨去(こうきょ)する。 『後漢書』(桓帝紀) 【02月】 蜀郡夷(しょくぐんい)が蚕陵県(さんりょうけん)に侵攻し、県令(けんれい)を殺害する。 『後漢書』(桓帝紀) 【03月】 桓帝が、再び刺史(しし)や太守(たいしゅ)が3年の喪に服すことを禁ずる。 『後漢書』(桓帝紀) 【夏】 洛陽(らくよう)で大雨が降る。 『後漢書』(桓帝紀) 【06月】 鮮卑が遼東(りょうとう)に侵攻する。 『後漢書』(桓帝紀) 【07月】 桓帝が顕陽苑(けんようえん)を造営し、苑丞(えんじょう)の官を設置する。 『後漢書』(桓帝紀) 【07月】「梁皇后(りょうこうごう)の崩御(ほうぎょ)」 丙午

    159年(漢の延熹2年)の主な出来事
  • 158年(〈漢の永寿4年〉→延熹元年)の主な出来事

    -158年- 戊戌(ぼじゅつ) 【漢】 (永寿〈えいじゅ〉4年) → 延熹(えんき)元年 ※桓帝(かんてい。劉志〈りゅうし〉) 月別および季節別の主な出来事 【03月】 己酉(きゆう)の日(4日) 桓帝が、初めて鴻徳苑令(こうとくえんれい)の官を設置する。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【05月】 己酉の日(4日) 桓帝が、公卿(こうけい)以下の百官と大いに会し、それぞれに差をつけて賞賜を下す。 『後漢書』(桓帝紀) 【05月】 甲戌(こうじゅつ)の日(29日)、晦(かい) 日が起こる。 『後漢書』(桓帝紀) 【05月】 太史令(たいしれい)の陳授(ちんじゅ)が日にかこつけ、梁冀(りょうき)の専横を非難する上陳を行う。 梁冀は陳授を捕らえて獄死させた。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【05月】 洛陽(らくよう)で蝗(イ

    158年(〈漢の永寿4年〉→延熹元年)の主な出来事
  • 157年(漢の永寿3年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 己未(きび)の日(?日) 桓帝が大赦を行う。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) ★己未の日は1月にないと思う。乙未(いつび)の日なら13日になるが……。 【04月】 九真郡(きゅうしんぐん)の蛮夷(ばんい)が反乱を起こす。九真太守(きゅうしんたいしゅ)の児式(げいしょく)が討伐にあたったものの戦死。九真都尉(きゅうしんとい)の魏朗(ぎろう)が代わってこれを撃破したが、蛮夷は日南郡(にちなんぐん)に再集結し、そこを拠点とした。 『後漢書』(桓帝紀) ★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、『後漢書』(南蛮伝〈なんばんでん〉)からの補足として、「九真郡居風県(きょふうけん)の県令(けんれい)が暴虐だったため、県人の朱達(しゅたつ)が

    157年(漢の永寿3年)の主な出来事
  • 156年(漢の永寿2年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】 桓帝が、初めて宦官(かんがん)が3年の喪に服すことを許す。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) 【02月】 甲申(こうしん)の日(26日) 東海王(とうかいおう)の劉臻(りゅうしん)が薨去(こうきょ)する。 『後漢書』(桓帝紀) 【03月】 蜀郡属国(しょくぐんぞっこく)の異民族が反乱を起こす。 『後漢書』(桓帝紀) 【07月】 鮮卑(せんぴ)が雲中郡(うんちゅうぐん)に侵攻する。 『後漢書』(桓帝紀) ⇒07月 鮮卑の檀石槐(だんせきかい)が雲中に侵攻する。李膺(りよう)が度遼将軍(どりょうしょうぐん)に任ぜられ、これを鎮めた。 『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表 【07月】 泰山郡(たいざんぐん)の賊である公孫挙(こうそんきょ)らが、青州(せいしゅう)・兗州(えんしゅう)・徐州(じょしゅう

    156年(漢の永寿2年)の主な出来事
  • 155年(漢の永寿元年)の主な出来事

    月別および季節別の主な出来事 【01月】「漢(かん)の改元」 戊申(ぼしん)の日(14日) 桓帝が大赦を行い、「永興(えいこう)」を「永寿」と改元する。 『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉) ★特に撰者(せんじゃ)を記さずに『後漢書』と表記している場合は、范曄(はんよう)の『後漢書』が出典です。 ★このサイトで参考にした書籍については「三国志の世界を理解するために役立った(参考文献リスト)」をご覧ください。 当サイトの制作にあたり参考にさせていただいた各種文献です。このリストは適宜追加していきます。 「三国志」を題材にした小説 『新装版 三国志』(全5巻) 吉川英治(よしかわ・えいじ)著 講談社 講談社文庫 初版 2008/10/15 Yaho... 【02月】 司隷(しれい)と冀州(きしゅう)で飢饉(ききん)があり、人々が互いにらい合う。桓帝は刺史(しし)と太守(たいしゅ

    155年(漢の永寿元年)の主な出来事
  • 280~284年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの5年間では孫晧(そんこう)をはじめ、張悌(ちょうてい)・沈瑩(しんえい)・陸晏(りくあん)・陸景(りくけい)・賈充(かじゅう)・薛瑩(せつえい)・司馬攸(しばゆう)・山濤(さんとう)らが世を去りました。 そして呉(ご)の孫晧が晋(しん)の司馬炎(しばえん)に降伏し、ついに三国は晋によって統一されました。

    280~284年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 270~279年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、劉禅(りゅうぜん)や曹芳(そうほう)をはじめ、譙周(しょうしゅう)・朱績(しゅせき。施績〈しせき〉)・丁奉(ていほう)・孟宗(もうそう)・司馬孚(しばふ)・万彧(ばんいく)・歩闡(ほせん)・韋昭(いしょう)・陸抗(りくこう)・羊祜(ようこ)らが世を去りました。 そして、ついに晋(しん)による呉(ご)への総攻撃が開始されます。 年別の主な出来事 -270年- *孫秀(そんしゅう)が晋に投降 *譙周・孫奮(そんふん。さらなる考察を要する)・朱績(施績)の死 -271年- *劉禅の死 *丁奉・孟宗の死 -272年- *呉の改元 *歩闡の反乱 *司馬孚・万彧・歩闡の死 -273年- *丁固(ていこ)・韋昭の死 -274年- *曹芳の薨去(こうきょ) *楊氏(ようし。楊元后〈ようげんこう〉)・陸抗の死 -275年- *晋の改元 *呉の改元 -276年- *呉の改元 *孫楷(そん

    270~279年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 260~269年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、曹髦(そうぼう)や孫休(そんきゅう)をはじめ、孫亮(そんりょう)・嵆康(けいこう)・司馬昭(しばしょう)・高柔(こうじゅう)・阮籍(げんせき)・劉諶(りゅうしん)・諸葛瞻(しょかつせん)・諸葛尚(しょかつしょう)・関彝(かんい)・鄧艾(とうがい)・鍾会(しょうかい)・姜維(きょうい)・張翼(ちょうよく)・廖化(りょうか)・濮陽興(ぼくようこう)・司馬昭(しばしょう)・陸凱(りくかい)らが世を去り――。 一方で、陸機(りくき)や陸雲(りくうん)らが誕生しました。 また、蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)が魏(ぎ)に降伏し、その2年後には魏の曹奐(そうかん)の禅譲を受け、晋(しん)の司馬炎(しばえん)が帝位に即きます。 三国のうちの二国が滅び、ついに残るは呉(ご)一国のみ。いよいよ晋による天下統一が近づいてきました。 年別の主な出来事 -260年- *曹髦の崩御(ほうぎょ)

    260~269年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 250~259年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では孫権(そんけん)をはじめ、孫霸(そんは)・司馬懿(しばい)・王淩(おうりょう)・鄧芝(とうし)・費禕(ひい)・孫和(そんか)・諸葛恪(しょかつかく)・夏侯玄(かこうげん)・張嶷(ちょうぎょく)・司馬師(しばし)・毌丘倹(かんきゅうけん)・郭淮(かくわい)・孫峻(そんしゅん)・呂拠(りょきょ)・滕胤(とういん)・呂岱(りょたい)・孫綝(そんりん)・諸葛誕(しょかつたん)らが世を去りました。 魏(ぎ)では、実権を握っていた司馬懿と長男の司馬師が相次いで亡くなったことで、次男の司馬昭(しばしょう)が跡を引き継ぐ形になります。 蜀(しょく)では姜維(きょうい)の北伐が続けられ、呉(ご)では孫権の跡を継いだ孫亮(そんりょう)が6年余りで廃位されるなど、その混乱ぶりが目立ちました。 年別の主な出来事 -250年- *魏の呉進攻 *姜維の北伐 *曹霖(そうりん)・劉放(りゅうほう)・

    250~259年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 240~249年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、黄権(こうけん)・孫登(そんとう)・諸葛瑾(しょかつきん)・満寵(まんちょう)・顧雍(こよう)・闞沢(かんたく)・陸遜(りくそん)・蔣琬(しょうえん)・董允(とういん)・歩騭(ほしつ)・王平(おうへい)・曹爽(そうそう)・蔣済(しょうせい)・令狐愚(れいこぐ)・馬忠(ばちゅう)・朱然(しゅぜん)らが世を去り――。 一方で、曹髦(そうぼう)・孫晧(そんこう)・孫亮(そんりょう)・曹奐(そうかん)らが誕生。 また、魏(ぎ)では司馬懿(しばい)がクーデター(正始〈せいし〉の政変)を起こして実権を握り、蜀(しょく)では姜維(きょうい)が北伐を繰り返し、呉(ご)では孫権(そんけん)の後継者争いが激化しました。 年別の主な出来事 -240年- *黄権・向寵(しょうちょう)の死 *曹芳が倭国(わこく)へ使者を派遣、詔書や印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を届けさせる -241年

    240~249年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 230~239年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、曹叡(そうえい)や劉協(りゅうきょう。献帝〈けんてい〉)をはじめ、鍾繇(しょうよう)・曹真(そうしん)・張郃(ちょうこう)・華歆(かきん)・曹植(そうしょく)・曹洪(そうこう)・諸葛亮(しょかつりょう)・魏延(ぎえん)・李厳(りげん)・潘璋(はんしょう)・楊儀(ようぎ)・軻比能(かひのう)・陳羣(ちんぐん)・董昭(とうしょう)・張昭(ちょうしょう)・呉懿(ごい)・公孫淵(こうそんえん)らが世を去り――。 一方で、孫綝(そんりん)・曹芳(そうほう)・張華(ちょうか)・陳寿(ちんじゅ)・孫休(そんきゅう)・司馬炎(しばえん)らが誕生しました。 個人的には、倭国(わこく)の使者が魏(ぎ)に来朝した件が興味深いですね。 年別の主な出来事 -230年- *魏の蜀(しょく)進攻、大雨により撤退 *呉(ご)の夷洲(いしゅう)・亶洲(たんしゅう)探索 *鍾繇の死 -231年- *諸葛

    230~239年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 220~229年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、曹操(そうそう)と劉備(りゅうび)をはじめ、夏侯惇(かこうとん)・黄忠(こうちゅう)・法正(ほうせい)・張飛(ちょうひ)・張遼(ちょうりょう)・馬超(ばちょう)・馬良(ばりょう)・曹彰(そうしょう)・曹仁(そうじん)・賈詡(かく)・朱治(しゅち)・韓当(かんとう)・士燮(ししょう)・徐晃(じょこう)・曹休(そうきゅう)・王朗(おうろう)・馬謖(ばしょく)・呂範(りょはん)・趙雲(ちょううん)らが世を去り――。 羊祜(ようこ)・杜預(とよ。どよ)・嵆康(けいこう)・劉璿(りゅうせん)・孫和(そんか)・鍾会(しょうかい)・陸抗(りくこう)・諸葛瞻(しょかつせん)らが誕生しました。 また、曹丕(そうひ)が漢(かん)の献帝(けんてい)の禅譲を受ける形で魏(ぎ)の帝位に即くと、ほどなく劉備も蜀(しょく)で帝位に即きます。さらに曹丕から呉王(ごおう)に封ぜられていた孫権(そんけん

    220~229年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 210~219年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、周瑜(しゅうゆ)・張紘(ちょうこう)・馬騰(ばとう)・荀彧(じゅんいく)・張松(ちょうしょう)・龐統(ほうとう)・荀攸(じゅんゆう)・魯粛(ろしゅく)・関羽(かんう)・関平(かんぺい)・呂蒙(りょもう)・夏侯淵(かこうえん)らが世を去り――。 阮籍(げんせき)・司馬昭(しばしょう)・賈充(かじゅう)・孫峻(そんしゅん)らが誕生しました。 曹操(そうそう)が魏公(ぎこう)を経て魏王(ぎおう)に昇れば、その曹操から漢中(かんちゅう)を奪取した劉備(りゅうび)も漢中王に昇るなど、様々な面で両者の激しい対立が見られた年代でした。 年別の主な出来事 -210年- *曹操の求賢令布告 *曹操の銅雀台(どうじゃくだい)造営 *周瑜・曹純(そうじゅん)の死 *阮籍の誕生 -211年- *曹操の関中(かんちゅう)遠征 *劉璋(りゅうしょう)が益州(えきしゅう)に劉備を迎え入れる *張紘

    210~219年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 200~209年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、孫策(そんさく)・董承(とうしょう)・鄭玄(ていげん。じょうげん)・袁紹(えんしょう)・公孫度(こうそんたく)・太史慈(たいしじ)・張繡(ちょうしゅう)・郭嘉(かくか)・劉表(りゅうひょう)・孔融(こうゆう)・曹沖(そうちゅう)・司馬徽(しばき)・劉琦(りゅうき)らが世を去り――。 官渡(かんと)の戦い、そしてその後の冀州(きしゅう)を巡る戦いで曹操(そうそう)に敗れた袁紹側から、顔良(がんりょう)・文醜(ぶんしゅう)・淳于瓊(じゅんうけい)・審配(しんぱい)といった将軍たちはもとより、田豊(でんほう)・沮授(しょじゅ)・逢紀(ほうき)・許攸(きょゆう)ら参謀に至るまで、多数の有能な人材が亡くなりました。 一方で、譙周(しょうしゅう)・姜維(きょうい)・諸葛恪(しょかつかく)・韋昭(いしょう)・曹叡(そうえい。謎が残る)?・山濤(さんとう)・劉禅(りゅうぜん)・司馬師

    200~209年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 190~199年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、孫堅(そんけん)・劉虞(りゅうぐ)・劉焉(りゅうえん)・陶謙(とうけん)・張邈(ちょうばく)・張超(ちょうちょう)・劉繇(りゅうよう)・公孫瓚(こうそんさん)・袁術(えんじゅつ)といった群雄諸侯が次々に世を去り――。 馬謖(ばしょく)・曹植(そうしょく)・曹彪(そうひゅう)・曹沖(そうちゅう)・陸凱(りくかい)といった面々が誕生しています。 また、王允(おういん)らの画策が功を奏し、一時は巨大な権力を握った董卓(とうたく)も、呂布(りょふ)の手によって成敗されました。 年別の主な出来事 -190年- *反董卓連合軍の結成 *劉辯(りゅうべん)の薨去(こうきょ) *董卓の長安(ちょうあん)遷都 *曹操(そうそう)が滎陽(けいよう)で董卓軍に敗北 *馬謖の誕生 -191年- *孫堅が洛陽(らくよう)に一番乗り *袁紹(えんしょう)が韓馥(かんふく)から冀州(きしゅう)の実

    190~199年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 180~189年の主な出来事(ダイジェスト版)

    -175年- 乙卯(いつぼう) 【漢】 熹平(きへい)4年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉) 月別および季節別の主な出来事 【03月】「熹平石経(きへいせっけい)の設置」 霊帝が諸儒に詔(みことのり)を下し、五経(ごきょう)の文字を正... -184年- *黄巾の乱 *党錮(とうこ)の禁の解除 *長社(ちょうしゃ)の戦い、曹操の活躍 *漢(かん)の改元 *劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)が黄巾討伐に加わる *橋玄(きょうげん)・張角(ちょうかく)・張梁(ちょうりょう)・張宝(ちょうほう)の死 -185年- *北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)らが三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)に侵攻、張温(ちょうおん)が討伐 -186年- *江夏郡(こうかぐん)の郡兵である趙慈(ちょうじ)の謀反、王敏(おうびん)が討伐 *辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)が涼州(

    180~189年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 170~179年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、『三国志』の著名人が数多く誕生していることが目を引きます。 郭嘉(かくか)・魯粛(ろしゅく)・諸葛瑾(しょかつきん)・孫策(そんさく)・周瑜(しゅうゆ)・馬超(ばちょう)・呂蒙(りょもう)・司馬懿(しばい)・龐統(ほうとう)などなど、ホント拾いきれないほど多い。 また、曹操(そうそう)が孝廉(こうれん)に推挙され、郎(ろう)になったのもこの年代のことです。 年別の主な出来事 -170年- *郭嘉の誕生 -171年- *司馬朗(しばろう)の誕生 -172年- *漢(かん)の改元 *竇太后(とうたいこう)の崩御(ほうぎょ) *会稽(かいけい)の許昌(きょしょう。許生〈きょせい〉)親子の反乱 *魯粛・王淩(おうりょう)の誕生 -173年- *劉辯(りゅうべん。少帝〈しょうてい〉)・禰衡(でいこう)の誕生 -174年- *許昌(許生)親子の反乱鎮圧、孫堅(そんけん)も活躍 *

    170~179年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 160~169年の主な出来事(ダイジェスト版)

    こちらの10年間では、やはり劉備(りゅうび)の誕生を押さえておきたいところ。 そのほかにも、荀彧(じゅんいく)・張遼(ちょうりょう)・太史慈(たいしじ)・曹仁(そうじん)・顧雍(こよう)など、いずれ活躍することになる面々もこの世代。第一次および第二次の党錮(とうこ)事件が起こったことも重要なポイントです。 年別の主な出来事 -160年- *特になし -161年- *劉備の誕生 -162年- *特になし -163年- *荀彧の誕生 -164年- *特になし -165年- *鄧皇后(とうこうごう)の廃位と死 *張遼の誕生 -166年- *大秦国王(だいしんこくおう。ローマ皇帝)の使者が漢(かん)に来朝 *第一次党錮の禁 *馬融(ばゆう)の死 *太史慈の誕生 -167年- *漢の改元 *党錮の解除 *桓帝(かんてい)の崩御(ほうぎょ) *竇皇后(とうこうごう)が皇太后として臨朝 -168年- *

    160~169年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    shiromitsu 2020/05/18
    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(10年分)
  • 155~159年の主な出来事(ダイジェスト版)

    当サイトで取り扱う「正史年表」の始まりを155年にしたのは、何と言っても、曹操(そうそう)がこの年に生まれているからです。 また、同じ時期に孫堅(そんけん)も生まれている点は見逃せませんし、張昭(ちょうしょう)が曹操のひとつ年下だったのは意外でした。

    155~159年の主な出来事(ダイジェスト版)
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    shiromitsu 2020/05/18
    三国志に関連する、年ごとの主な出来事(5年分)
  • 吉川『三国志』の考察 第311話「松に古今の色無し(まつにここんのいろなし)」

    生前の諸葛亮(しょかつりょう)が案じた通り、ほどなく魏延(ぎえん)が反乱を起こす。南鄭(なんてい)に入った楊儀(ようぎ)と姜維(きょうい)は、諸葛亮から託された計略に従い、あえて城外へ出たうえ、魏延にあることをしてみせるよう言う。 魏延が言われた通り叫んだところ、彼のすぐ後ろにいた馬岱(ばたい)にあっけなく討ち取られた。成都(せいと)で諸葛亮の葬儀が執り行われた後、その遺言により、遺骸(いがい)は漢中(かんちゅう)の定軍山(ていぐんざん)に葬られた。 第311話の展開とポイント (01)引き揚げ途中の蜀軍(しょくぐん) 旌旗(せいき)色なく、人馬声なく、蜀山の羊腸たる道を哀々と行くものは、五丈原頭(ごじょうげんとう)の恨みを霊車(霊柩車〈れいきゅうしゃ〉)に駕(が)して、むなしく成都へ帰る蜀軍の列だった。 ★原文「施旗色なく」だが、ここは「旌旗色なく」としておく。なお、講談社版(新装版)や

    吉川『三国志』の考察 第311話「松に古今の色無し(まつにここんのいろなし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第308話「銀河の禱り(ぎんがのいのり)」

    魏(ぎ)は渭水(いすい)に、蜀(しょく)は五丈原(ごじょうげん)に、それぞれ陣して、なおもにらみ合いを続けていた。 ここしばらく、諸葛亮(しょかつりょう)は体調を崩す日が増えていたが、ある夜、天を仰ぎ見て、己の命数を悟る。それでも姜維(きょうい)の勧めに従い、祭壇を設けて禳(はらい。神を祭って災いを除くこと)の法を執り行う。 第308話の展開とポイント (01)五丈原 諸葛亮の営 諸葛亮の病は明らかに過労だった。それだけに、ドッと打ち伏すほどのこともない。むしろ病めば病むほど、傍人の案ずるのも押して、軍務に精励してやまない。 近ごろ聞くに敵の軍中には、気負うこと盛んなる将士が、大いに司馬懿(しばい)の怯惰(きょうだ)を罵り、激語憤動、ただならぬ情勢がうかがわれるとしきりに言ってくる。 原因は例の、諸葛亮から贈られた女衣(にょい)巾幗(きんかく)の辱めが、魏の士卒にまですっかり知れ渡ったこ

    吉川『三国志』の考察 第308話「銀河の禱り(ぎんがのいのり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第307話「女衣巾幗(にょいきんかく)」

    葫蘆谷(ころこく)で司馬懿(しばい)父子を討ち漏らしたものの、渭水(いすい)における大勝利に蜀軍(しょくぐん)は沸いていた。 その後、魏蜀(ぎしょく)両陣営ともに不穏な空気が流れだす。魏は司馬懿の消極的な姿勢への不満が、蜀は魏延(ぎえん)の諸葛亮への不満が、それぞれ高まってきたものだった。諸葛亮は五丈原(ごじょうげん)へ陣を移すと、司馬懿のもとに使者を遣わす。 第307話の展開とポイント (01)渭南(いなん) 諸葛亮の営 みな蜀軍の勝ちを、あくまで大勝と喜んでいたが、ひとり諸葛亮の胸には、遺憾やるかたないものが包まれていた。加うるに、ひとまず彼が自軍を渭南の陣にまとめた後、陣中しきりに不穏の空気がある。 ただしてみると、魏延が非常に怒っているという。諸葛亮は彼を呼び、何が不平なのかと尋ねる。 包まずに言うよう促されると、魏延は葫蘆谷でのことを話した。 「幸いにもあのとき、大雨が降り注い

    吉川『三国志』の考察 第307話「女衣巾幗(にょいきんかく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第306話「水火(すいか)」

    諸葛亮(しょかつりょう)が葫蘆谷(ころこく)に大規模な拠点を築いていると伝わると、ようやく司馬懿(しばい)も動きを見せた。魏軍(ぎぐん)は部隊を繰り出すたびに勝利を重ね、蜀軍(しょくぐん)の力を侮るようになる。 そのうち司馬懿は祁山(きざん)を総攻撃すると見せかけ、自身は途中で進路を一転。息子の司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)を従え、中軍の精鋭200騎のみをもって葫蘆谷を急襲する。ところが、谷の内には恐るべき罠が待ち受けていた。 第306話の展開とポイント (01)渭水(いすい) 司馬懿の営 魏軍の一部は翌日も出撃を試み、若干の戦果を上げる。以来、機をうかがっては出撃を敢行するたびに、諸将がそれぞれ功(てがら)を得た。 その多くは、葫蘆(葫蘆谷)の口へ兵糧を運んでいく蜀勢を襲撃したもので、糧米や輸車、そのほかの鹵獲(ろかく)は魏の陣門に山積みされた。捕虜は毎日、数珠つなぎになって送

    吉川『三国志』の考察 第306話「水火(すいか)」
  • 吉川『三国志』の考察 第305話「七盞燈(しちさんとう)」

    蜀(しょく)に情報は届いていないものの、魏(ぎ)の側面を突く形で出兵した呉軍(ごぐん)が引き揚げたことにより、祁山(きざん)の諸葛亮(しょかつりょう)は、渭水(いすい)の司馬懿(しばい)を自力で討ち破るしかなくなった。 しかし、司馬懿は一向に動く気配を見せない。そこで諸葛亮は馬岱(ばたい)を葫蘆谷(ころこく)へ入れ、極秘裏に大掛かりな策を施す。 第305話の展開とポイント (01)祁山 諸葛亮の営 呉はたちまち出て、たちまち退いた。その総退却は弱さではなく、国策だったと言ってよい。なぜならば呉は、自国が積極的に戦争へ突入する意思をもともと持っていないのである。 蜀をして魏の頸(くび)をかませ、魏をして蜀の喉に爪を立たせ、両方の疲れを見比べていた。しかも呉蜀条約というものがあるので、蜀から要請されると無碍(むげ)に出兵を拒むこともできない。 そこで出兵はするが、魏に当たってみて、「これはま

    吉川『三国志』の考察 第305話「七盞燈(しちさんとう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第304話「豆を蒔く(まめをまく)」

    蜀(しょく)の要請を受けて魏(ぎ)へ出兵した呉軍(ごぐん)だったが、巣湖(そうこ)の諸葛瑾(しょかつきん)が満寵(まんちょう)らに敗れ、出鼻をくじかれる。 だが、呉の総帥たる陸遜(りくそん)は、魏の国力に驚きながらも冷静に状況を見極め、営の兵士に陣外を耕し豆を蒔(ま)かせるなどしたうえ、魏の裏をかいて総引き揚げを断行する。 第304話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) 自国の苦しいときは敵国もまた同じ程度に、あるいはそれ以上、苦しい局面にあるという観察は、大概な場合まず誤りのないものである。 この前後、魏都の洛陽は、蜀軍より深刻な危局に立っていた。それは、蜀呉条約の発動による呉軍の北上である。 しかも、かつて見ないほど大規模な水陸軍であると伝えられたので、曹叡(そうえい)は渭水(いすい)の司馬懿(しばい)へ急使を派して厳命した。 「この際、万一にも蜀に乗ぜられるような事態を招いた

    吉川『三国志』の考察 第304話「豆を蒔く(まめをまく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第303話「ネジ(ねじ)」

    「そしておのおの黒衣に素足、手に牙剣を引っ提げて旗を捧げ、腰には葫蘆(ころ。瓢タン〈ヒョウタン。竹+單〉)を掛けて硫黄や焰硝(えんしょう。火薬)を詰め込み、山陰に隠れておれ」 「郭淮の部下が王平軍を追い散らし、木牛流馬を引いて帰らんとする刹那に襲え。必定、敵は狼狽(ろうばい)驚愕(きょうがく)、すべてを捨てて逃げ去るに決まっている」 「その後、木牛流馬の口腔(こうこう)のネジを左に回し、わが祁山へ指して引いてこい」 さらに魏延(ぎえん)と姜維(きょうい)が呼ばれ、何事かまた別の計を受けて去る。 ★井波『三国志演義(6)』(第102回)では、ここで廖化(りょうか)と張翼が、5千の軍勢をひきいて司馬懿の行く手を遮断するよう命ぜられていた。 最後に馬岱(ばたい)と馬忠(ばちゅう)も一方の命令を受け、これは渭水の南のほうへ駆け向かった。 (05)北原の郊外 すでにその日も暮れ、北原の彼方(かなた)

    吉川『三国志』の考察 第303話「ネジ(ねじ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第302話「木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)」

    これまでの北伐において、いつも諸葛亮(しょかつりょう)を悩ませたのは兵糧の確保だった。 そこで今回は葫蘆谷(ころこく)に極秘の作業場を設け、「木牛(もくぎゅう)」や「流馬(りゅうば)」と呼ぶ運搬車を製作。この車が使われ始めると、剣閣(けんかく)から祁山(きざん)の営へ大量の兵糧が運ばれるようになる。 第302話の展開とポイント (01)祁山 諸葛亮の営 ある日、蜀(しょく)の陣へ来て、このように言う者があった。 「それがしは、魏(ぎ)の部将の鄭文(ていぶん)という者です。丞相(じょうしょう。諸葛亮)に謁してお願いしたいことがございます」 諸葛亮が対面して何事かとただすと、鄭文は拝伏し、「降参を容れていただきたい」と、剣を解いて差し出す。理由を問うとこう述べた。 「それがしは、もとから魏の偏将軍(へんしょうぐん)でした。しかるに、司馬懿(しばい)の催しに応じて参軍した後、彼は私より後輩の

    吉川『三国志』の考察 第302話「木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)」
  • 吉川『三国志』の考察 第301話「具眼の士(ぐがんのし)」

    太和(たいわ)4(230)年7月、体調も回復した曹真(そうしん)が朝廷に姿を見せ、曹叡(そうえい)から蜀(しょく)攻めの許可を取りつける。魏軍(ぎぐん)40万が蜀の剣門関(けんもんかん)に押し寄せたのは、それから10か月後のことだった。 と... これは、「魏を討たずんば還らじ」となす諸葛亮の意志を、無言に儼示(げんじ。厳かに示すこと)しているものにほかならない。 ここでその一塁から一報が届き、敵陣に変化のあることを告げる。 「魏の郭淮(かくわい)と孫礼(そんれい)の二軍が、隴西(ろうせい)の軍馬を領して北原へ進出し、何事か為すあらんとするもののごとく動いております」 諸葛亮は、この情報を聞いて言った。 「司馬懿は前に懲りて、隴西の道を我に断たれんことを恐れ、手配を急いだものと思われる。いま偽って、蜀が彼の恐れる隴西を突く態をなすならば、司馬懿は驚き、その主力を応援に差し向けるだろう。敵の

    吉川『三国志』の考察 第301話「具眼の士(ぐがんのし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第300話「木門道(もくもんどう)」

    鹵城(ろじょう)にいた諸葛亮(しょかつりょう)は、永安城(えいあんじょう)の李厳(りげん)から急報を受け、にわかに総退却を命ずる。 司馬懿(しばい)は諸葛亮の計略を警戒したため、あえて追撃の速度を緩めていたが、再三の請いを容れ、張郃(ちょうこう)に先駆けを許す。喜び勇んだ張郃は蜀軍(しょくぐん)を猛追し、木門道(もくもんどう)の谷口まで入り込むが――。 第300話の展開とポイント (01)鹵城 永安城の李厳は増産や運輸の任にあたり、もっぱら戦争の後方経営に努めている。いわゆる軍需相(ぐんじゅしょう)ともいうべき要職にある蜀の大官だった。 その李厳から届けられた書簡を見ると、近ごろ呉(ご)が洛陽(らくよう)へ人を遣り、魏(ぎ)と連和したようだと急告している。 諸葛亮は大きな衝撃を受けた。事実、この書面に見えるような兆候があるとすれば、これは誠に重大である。 魏に対しての蜀の強みは何と言っても

    吉川『三国志』の考察 第300話「木門道(もくもんどう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第299話「北斗七星旗(ほくとしちせいき)」

    4輛(りょう)の同じ四輪車を用いた諸葛亮(しょかつりょう)の巧妙な計に、司馬懿(しばい)ひきいる魏軍(ぎぐん)は大混乱を起こす。 やがて司馬懿は、捕らえた蜀兵(しょくへい)から真相を聞きだすが、かえって諸葛亮の知謀に恐れを抱く。 第299話の展開とポイント (01)隴上(ろうじょう) 「なるほど、妖気が吹いてくる……」 司馬懿は眸(ひとみ)を凝らして遠くを望み見ていた。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「隴上は地域名。隴山、現在の陝西省(せんせいしょう)隴県以西を指していう。現在の甘粛省(かんしゅくしょう)に相当」という。 陰風を巻いて駆けきたる一輛の車には、それを囲む28人の黒衣の兵が見える。髪をさばいて剣を佩(は)き、みな裸足。北

    吉川『三国志』の考察 第299話「北斗七星旗(ほくとしちせいき)」
  • 吉川『三国志』の考察 第298話「麦青む(むぎあおむ)」

    渭水(いすい)で司馬懿(しばい)に勝利した諸葛亮(しょかつりょう)が、祁山(きざん)の営に戻ると、兵糧運搬にあたる苟安(こうあん)が、予定より10日余りも遅れて到着した。 楊儀(ようぎ)の口添えもあり、苟安は死罪を許され、鞭(むち)打ちの... 苟安の隠れ家へ丞相府から保安隊の兵が捕縛に向かったものの、彼は風をらい、とうに魏へ逃げ失せていた。 諸葛亮は百官を正し、蔣琬(しょうえん)や費禕(ひい)などの大官にも厳戒を加え、意気を改めて漢中へ向かう。 (03)漢中 連年の出師に兵の疲れも思われたので、諸葛亮は全軍をふたつに分け、一半をもって漢中に残し、もう一半をもって祁山(きざん)へ進発。そして、これが戦場にある期間を約3か月と定め、百日交代の制を立てた。 要するに100日ごとに、二軍を日月(じつげつ)のごとく戦場に入れ替え、絶えず清新な士気を保ち、魏の大軍を砕かんとしたものである。 ★『

    吉川『三国志』の考察 第298話「麦青む(むぎあおむ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第297話「竈(かまど)」

    渭水(いすい)で司馬懿(しばい)に勝利した諸葛亮(しょかつりょう)が、祁山(きざん)の営に戻ると、兵糧運搬にあたる苟安(こうあん)が、予定より10日余りも遅れて到着した。 楊儀(ようぎ)の口添えもあり、苟安は死罪を許され、鞭(むち)打ちの刑で済まされたが、それでも恨みを含み、そのまま魏(ぎ)に降ってしまう。苟安が成都(せいと)で流言を広めたため、不安を感じた劉禅(りゅうぜん)は、前線の諸葛亮に帰還命令を下す。 第297話の展開とポイント (01)渭水 司馬懿の営 このときの会戦では、司馬懿はまったく一敗地にまみれ去ったものと言える。魏軍の損害もまたおびただしい。以来、渭水の陣営は内に深く守り、再び鳴りを潜めてしまった。 (02)祁山 諸葛亮の営 諸葛亮は、拠るところの祁山へ兵を収めたが、勝ち戦に驕(おご)るなかれと、かえって全軍を戒める。 そしていよいよ初志の目標に向かい、長安(ちょ

    吉川『三国志』の考察 第297話「竈(かまど)」
  • 吉川『三国志』の考察 第296話「八陣展開(はちじんてんかい)」

    魏(ぎ)の太和(たいわ)4(230)年8月、渭水(いすい)を挟み、司馬懿(しばい)ひきいる魏軍(ぎぐん)と諸葛亮(しょかつりょう)ひきいる蜀軍(しょくぐん)が射戦を交えた後、ふたりは陣頭で相まみえ、互いに陣法をもって優劣を競うことにする。 諸葛亮が、司馬懿の布(し)いた陣形を混元一気(こんげんいっき)の陣と見極めると、司馬懿も、諸葛亮の敷いた陣形を八卦(はっけ)の陣と見極める。司馬懿は戴陵(たいりょう)・張虎(ちょうこ)・楽綝(がくりん)に打破の法を授けて攻めかからせる。 第296話の展開とポイント (01)祁山(きざん) 諸葛亮の営 魏は渭水を前に、蜀は祁山を後ろに、対陣のまま秋に入った。 ある日、諸葛亮は敵のほうを眺めてつぶやく。 「曹真(そうしん)の病は重体とみえる……」 斜谷(やこく)から敗退した後、魏の大都督(だいととく)の曹真が病に籠もるとの風説は、かねて伝わっていた。 どう

    吉川『三国志』の考察 第296話「八陣展開(はちじんてんかい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第295話「賭(かけ)」

    陳倉道(ちんそうどう)の長雨で大きな被害を出し、蜀軍(しょくぐん)と戦うことなく退却した魏軍(ぎぐん)。 曹真(そうしん)は諸葛亮(しょかつりょう)が追撃してこないことをいぶかるも、司馬懿(しばい)の見解は彼と異なるものだった。そこで曹真は、司馬懿とふた手に分かれて蜀軍を待ち受けつつ、ある賭けに臨む。 第295話の展開とポイント (01)赤坡(せきは) 魏の総勢が遠く退くと、諸葛亮は八部の大軍を分けて箕谷(きこく)と斜谷(やこく)の両道から進ませ、よたび祁山(きざん)へ出て戦列を布(し)かんと言った。 ★『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)によると、赤坡は正しくは赤阪(せきはん)。 蜀の諸将は尋ねる。 「長安(ちょうあん)へ出る道は幾条(いくすじ)もございます。丞相(じょうしょう。諸葛亮)には、なぜいつも決まって祁山へ出られるのですか?」 諸葛亮は、祁山は長安の首である

    吉川『三国志』の考察 第295話「賭(かけ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第294話「長雨(ながあめ)」

    太和(たいわ)4(230)年7月、体調も回復した曹真(そうしん)が朝廷に姿を見せ、曹叡(そうえい)から蜀(しょく)攻めの許可を取りつける。魏軍(ぎぐん)40万が蜀の剣門関(けんもんかん)に押し寄せたのは、それから10か月後のことだった。 ところが諸葛亮(しょかつりょう)は、王平(おうへい)と張嶷(ちょうぎ)にわずか1千騎ずつをもって、陳倉道(ちんそうどう)の険に拠り、難所を支えよと命ずる。敵の40万に対して味方は2千、さすがにふたりは困惑を覚えるが――。 第294話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) (魏の太和4〈230〉年の)秋7月、曹真は健康を回復して朝廷に姿を見せ、表を奉り、このように勧める。 ★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第99回)では明確だったが、吉川『三国志』では、前年(229年)の祁山(きざん)夏の陣と称する戦いから1年以上経った

    吉川『三国志』の考察 第294話「長雨(ながあめ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第293話「天血の如し(てんちのごとし)」

    ひとまず祁山(きざん)から引き揚げ、漢中(かんちゅう)への帰還命令を出す蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)。魏(ぎ)の張郃(ちょうこう)は追撃を強く願い出、ついに司馬懿(しばい)の許しを得た。 張郃ひきいる精兵3万に続き、司馬懿自身も、中軍の5千騎をひきいて追撃にかかる。しかしこれこそ、諸葛亮が待ち望んでいた動きだった。ほどなく両軍の間で死闘が繰り広げられ――。 第293話の展開とポイント (01)祁山 諸葛亮の営 先に街亭(がいてい)の責めを負うて、諸葛亮は丞相(じょうしょう)の職を朝廷に返していた。 費禕(ひい)がもたらした成都(せいと)からの詔書は、その儀について、再び旧の丞相の任に復すべしという、彼への恩命にほかならない。 諸葛亮は依然として固辞したが、「それでは、将士の心が奮いません」という人々の再三の勧めに従い、ついに朝命を拝して、勅使の費禕が都へ帰るのを見送った。 それ

    吉川『三国志』の考察 第293話「天血の如し(てんちのごとし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第292話「司馬仲達計らる(しばちゅうたつはからる)」

    魏(ぎ)の太和(たいわ)3(229)年4月、司馬懿(しばい)ひきいる魏軍と諸葛亮(しょかつりょう)ひきいる蜀軍(しょくぐん)が、初めて祁山(きざん)で対峙(たいじ)した。 蜀は別動部隊を用いて、武都(ぶと)と陰平(いんぺい)を攻略。諸葛亮の読みはことごとく司馬懿の先を行く。司馬懿は諸葛亮の実力を改めて思い知り、急に動きを見せなくなる。 第292話の展開とポイント (01)祁山 蜀の諸葛亮と魏の司馬懿とが、堂々と正面切って対峙するの壮観を展開したのは、実にこの(蜀の)建興(けんこう)7(229)年4月の、祁山夏の陣をもって最初とする。 それまでの戦いでは、司馬懿はもっぱら洛陽(らくよう)にあって陣頭に立たなかったと言ってよい。 序戦の街亭(がいてい)の役には自ら西城(せいじょう)まで迫ったが、諸葛亮は楼上に琴を弾じ、彼の疑い退くを見るや、風のごとく漢中(かんちゅう)へ去ってしまった。 両々相

    吉川『三国志』の考察 第292話「司馬仲達計らる(しばちゅうたつはからる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第291話「総兵之印(そうへいのいん)」

    諸葛亮(しょかつりょう)は蜀軍(しょくぐん)をひきい、みたび祁山(きざん)に進出する。今回は陰平(いんぺい)と武都(ぶと)の両郡の攻略を目指し、王平(おうへい)と姜維(きょうい)に1万騎ずつを付けて差し向けた。 これに対し魏(ぎ)の曹叡(そうえい)は、長安(ちょうあん)で病臥(びょうが)していた曹真(そうしん)に替え、司馬懿(しばい)を大都督(だいととく)に起用する。 第291話の展開とポイント (01)武昌(ぶしょう) 魏蜀の消耗(しょうこう。「しょうもう」は慣用読み)を喜び、その大戦のいよいよ長く、いよいよ苛烈になることを願っていたのは、言うまでもなく呉(ご)であった。 このときにあたって、呉王(ごおう)の孫権(そんけん)は、ついに宿年の野望を表面にした。彼もまた魏や蜀に倣い、皇帝を僭称(せんしょう)したのである。 (呉の黄武〈こうぶ〉8〈229〉年の)4月、武昌の南郊に盛大な壇を築い

    吉川『三国志』の考察 第291話「総兵之印(そうへいのいん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第290話「食(しょく)」

    袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)が仲たがいすると、長沙(ちょうさ)にいた孫堅(そんけん)は袁術から密書を受け取る。 これを好機と捉えた孫堅は自ら船団をひきい、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を攻めるべく出撃した。 第033話の... (04)祁山 諸葛亮の営 蜀の物見は、鬼の首でも取ったように報告する。 「隴西(ろうせい)から祁山の西を越え、数千輛の車が、陳倉道へ兵糧を運んでいく様子に見えます」 蜀の諸将はみな、その好餌に目色を輝かせたが、諸葛亮はまったく別のことを左右に尋ねた。 「兵糧隊の敵将は、誰だと言ったな?」 それが孫礼だと聞くと、諸葛亮は、その人物を知る者はないかと、また尋ねる。 むかし魏にいた一将が話す。 「かつて魏王(ぎおう)が大石山(だいせきざん)に狩猟をなしたとき、一頭の大きな虎が魏王に跳びかかったことがありました」 「そのとき孫礼がいきなり盾となり、大虎

    吉川『三国志』の考察 第290話「食(しょく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第289話「二度祁山に出づ(ふたたびきざんにいづ)」

    陳倉城(ちんそうじょう)を守る魏(ぎ)の郝昭(かくしょう)は、蜀(しょく)の大軍に包囲されながらもよくしのいだ。諸葛亮(しょかつりょう)は、予想外の苦戦に焦りを募らせる。 このとき姜維(きょうい)が、陳倉の小城にこだわることはないと進言。これを聞いて納得した諸葛亮は、陳倉の谷に魏延(ぎえん)の一軍を留めると、自身は主力軍とともに、間道から祁山(きざん)へ進んだ。 第289話の展開とポイント (01)漢中(かんちゅう)滞陣時の諸葛亮 諸葛亮は漢中に滞陣していた1年の間に、軍の機構からその整備や兵器にまで大改善を加えていた。 例えば突撃や速度の必要には、散騎隊(さんきたい)と武騎隊(ぶきたい)を新たに編制し、馬に練達した将校を配属。 また、従来は弩弓手(どきゅうしゅ)として位置も活用も低かったものを、新たに自身が発明した威力のある新武器を加えて、独立した部隊を作る。この部将を連弩士(れんどし)

    吉川『三国志』の考察 第289話「二度祁山に出づ(ふたたびきざんにいづ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第287話「髪を捧ぐ(はつをささぐ)」

    呉(ご)の鄱陽太守(はようたいしゅ)の周魴(しゅうほう)が届けた密書が、揚州(ようしゅう。楊州)にいる魏(ぎ)の大司馬(だいしば)の曹休(そうきゅう)から、洛陽(らくよう)の曹叡(そうえい)に奉呈される。 曹叡は評議の末に司馬懿(しばい)の意見を採用し、皖城(かんじょう)・東関(とうかん)・江陵(こうりょう)の三道へ軍勢を分けて進めることになった。周魴は曹休と皖城で会見し、彼を完全に信じ込ませるべく、あるものを差し出す。 第287話の展開とポイント (01)洛陽 街亭(がいてい)の大勝は、魏の強大をいよいよ誇らしめた。国内では戦勝気分に拍車をかけ、「この際、蜀(しょく)へ攻め入って、禍根を絶て」という世論さえ起こったほどである。 だが司馬懿は、曹叡がそれに動かされんことを恐れ、常に軽挙を抑えていた。 「蜀に孔明(こうめい。諸葛亮〈しょかつりょう〉のあざな)あり、剣閣(けんかく)の難所あり。

    吉川『三国志』の考察 第287話「髪を捧ぐ(はつをささぐ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第285話「高楼弾琴(こうろうだんきん)」

    司馬懿(しばい)は長安(ちょうあん)で20万の大軍を整えると、張郃(ちょうこう)を先鋒に進軍を開始。司馬懿の狙いは、いち早く街亭(がいてい)の地を押さえることにあった。 しかし諸葛亮(しょかつりょう)は、馬謖(ばしょく)と王平(おうへい)に2万余の軍勢を付け、すでに街亭を押さえていた。ところが、馬謖の失態から蜀軍(しょくぐん)は総崩れとなり、西城(せいじょう)に入った諸葛亮に、司馬懿ひきいる魏(ぎ)の大軍が迫る。 第285話の展開とポイント (01)長安 魏の大陣容は整った。辛毘(しんび。辛毗)は、あざなを佐治(さじ)といい、潁川郡(えいせんぐん)陽翟県(ようてきけん)の生まれ。大才の聞こえつとに高く、今や曹叡(そうえい)の軍師となり、常に帝座間近く奉侍している。 孫礼(そんれい)は、あざなを徳達(とくたつ)という。護軍(ごぐん)の大将として、早くより戦場にある曹真(そうしん)の大軍へ、5

    吉川『三国志』の考察 第285話「高楼弾琴(こうろうだんきん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第284話「洛陽に生色還る(らくようにせいしょくかえる)」

    曹叡(そうえい)の詔(みことのり)を宛城(えんじょう)で拝受した司馬懿(しばい)。すぐさま兵を集めると、洛陽(らくよう)ではなく、謀反の兆しを見せていた孟達(もうたつ)がいる新城(しんじょう)へ急ぐ。 孟達は、司馬懿が洛陽に向かっているとの偽情報を信じて備えを怠り、突然現れた魏軍(ぎぐん)になすすべなく討たれた。この知らせに洛陽は沸き返る。 第284話の展開とポイント (01)行軍中の司馬懿 このときの司馬懿の行軍は、2日の道のりを1日で進んでいったというから、何にしても非常に迅速なものだったに違いない。 しかも彼はこれに先立ち、参軍(さんぐん)の梁畿(りょうき)という者に命じ、あまたの第五部隊を用いて新城付近に潜行させ、このように言い触らさせた。 「司馬懿の軍勢は洛陽へ上り、天子(てんし。曹叡)の勅を受けた後、諸葛亮(しょかつりょう)を討ち破ることになっている。功を成し名を遂げんとする者

    吉川『三国志』の考察 第284話「洛陽に生色還る(らくようにせいしょくかえる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第283話「鶏家全慶(けいかぜんけい)」

    西羌(せいきょう)の鉄車隊を鮮やかに撃破し、祁山(きざん)の営に戻った諸葛亮(しょかつりょう)。魏(ぎ)の曹真(そうしん)は敗戦を重ね、渭水(いすい)から総退却せざるを得なくなる。 ここで曹叡(そうえい)は鍾繇(しょうよう)の進言を容れ、先に追放した司馬懿(しばい)を再び起用し、平西都督(へいせいととく)に任ずる詔(みことのり)を下す。 第283話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) 渭水からの早馬は櫛(くし)の歯を引くように、洛陽へ急を告げる。そのことごとくが敗報だった。 魏の曹叡は色を失い、群臣を会して、誰かいま国を救う者はなきや、と憂いに満ちて言う。 華歆(かきん)は曹叡自身の出馬を勧めるが、太傅(たいふ)の鍾繇は反対して述べた。 「『彼ヲ知リ、己ヲ知ルトキハ百度戦ッテ百度勝ツ』と古語にあります」 ★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よ

    吉川『三国志』の考察 第283話「鶏家全慶(けいかぜんけい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第282話「西部第二戦線(せいぶだいにせんせん)」

    魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の指示を受けた西羌国王(せいきょうこくおう)の徹里吉(てつりきつ)は、武相(ぶしょう)の越吉(えつきつ)と宰相の雅丹(がたん)に25万の軍勢を預け、蜀境(しょくきょう)の西平関(せいへいかん)へ向かわせる。 諸葛亮(しょかつりょう)は祁山(きざん)と渭水(いすい)の間に営を置いていたが、この急報を聞くや、関興(かんこう)と張苞(ちょうほう)に地理に詳しい馬岱(ばたい)を添え、5万の援軍を西平関へ差し向けた。 第282話の展開とポイント (01)西羌王国と魏 この当時、中国の人士が西羌の夷族(いぞく。異民族)と呼び習わしていたのは、現今の青海省(せいかいしょう)地方――いわゆる欧州と東洋との大陸的境界の脊梁(せきりょう)をなす大高原地帯――の西蔵(チベット)人種と蒙古(もうこ)民族との混合体よりなる一王国を指して言っていたものかと考えられる。 その西羌王国と魏とは

    吉川『三国志』の考察 第282話「西部第二戦線(せいぶだいにせんせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第281話「祁山の野(きざんのや)」

    太和(たいわ)元(227)年、魏(ぎ)の曹叡(そうえい)は曹真(そうしん)を大都督(だいととく)に任じ、20万の大軍を委ねる。副将には郭淮(かくわい)が選ばれ、さらに王朗(おうろう)が軍師として従軍することになった。 やがて諸葛亮(しょかつりょう)ひきいる蜀軍(しょくぐん)と、祁山(きざん)の前で対陣した魏軍。ここで王朗が陣頭に馬を進め、諸葛亮の論破を試みるが――。 第281話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) このとき(蜀の建興〈けんこう〉5〈227〉年)、魏は太和元年にあたっていた。 ★原文「大化元年」だが、ここは「太和元年」としておく。ただの誤りなのか、何か特別な意味があるのかは判断つかず。 魏の国議は、国防総司令の大任を一族の曹真に命ずる。彼は固辞したものの、曹叡は許さない。 さらに王朗もこう言った。 「将軍は社稷(しゃしょく。土地と五穀の神。国家)の重臣。ご辞退あるときで

    吉川『三国志』の考察 第281話「祁山の野(きざんのや)」
  • 吉川『三国志』の考察 第279話「中原を指して(ちゅうげんをさして)」

    諸葛亮(しょかつりょう)は北伐の軍勢をひきいて大路を進む。蜀軍(しょくぐん)が堂々と直進してきたことに、各所に軍勢を分けていた魏軍(ぎぐん)は意表を突かれる。 魏の総大将の夏侯楙(かこうも)は鳳鳴山(ほうめいざん)で敗れた後、諸葛亮の計略の前に安定(あんてい)と南安(なんあん)の両郡も失う。 第279話の展開とポイント (01)沔陽(べんよう) 蜀の大軍は沔陽まで進む。ここまで来たとき、「魏は関西(かんぜい。函谷関〈かんこくかん〉以西の地域)の精兵をもって長安(ちょうあん)に布陣し、そこに大営を置いた」という情報が的確になった。 いわゆる天下の険。蜀の桟道を越えて出てくるだけでも、軍馬は一応疲れる。諸葛亮は沔陽に着くと言った。 「ここには亡き馬超(ばちょう)の墳(つか)がある。いまわが蜀軍の北伐に会うて、地下白骨の自己を嘆じ、懐かしくも思っているだろう。祭りを営んでやるがよい」 こうして

    吉川『三国志』の考察 第279話「中原を指して(ちゅうげんをさして)」
  • 吉川『三国志』の考察 第278話「出師の表(すいしのひょう)」

    諸葛亮(しょかつりょう)は、魏(ぎ)の要職を占めるまでになった司馬懿(しばい)を警戒していた。 その司馬懿が曹叡(そうえい)に免官され、故郷へ帰されたと聞くや、諸葛亮は劉禅(りゅうぜん)に「出師(すいし)の表」を奉呈。宿願の北伐を断行し、自ら大軍をひきいて成都(せいと)を発つ。 第278話の展開とポイント (01)成都 丞相府(じょうしょうふ) 馬謖(ばしょく)は、魏における司馬懿の立場を自己分析してみせたうえ、諸葛亮に一計を献ずる。 「司馬懿は自ら封を乞うて西涼州(せいりょうしゅう)へ着任しました。明らかに彼の心には、魏の中央から身を避けたいものがあるのでしょう。当然、魏の重臣どもはその行動を気味悪く思い、狐疑していることも確かです」 「そこで、司馬懿に謀反の兆しありと、世上へ流布させ、かつ偽りの回文を諸国へ放てば、魏の中央はたちまち惑い、司馬懿を殺すか、官職を褫奪(ちだつ。奪うこと)し

    吉川『三国志』の考察 第278話「出師の表(すいしのひょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第277話「鹿と魏太子(しかとぎたいし)」

    魏(ぎ)の皇太子の曹叡(そうえい)は15歳になり、その英才は皆の注目を集めていた。彼は父の曹丕(そうひ)と狩りに出たとき、母鹿を亡くした子鹿をどうしても殺せず、思いやりのある一面を見せる。 黄初(こうしょ)7(226)年5月、曹丕が40歳で崩ずると曹叡が帝位を継ぎ、曹真(そうしん)・陳群(ちんぐん。陳羣)・司馬懿(しばい)を中心に、新帝を補佐する体制が固められた。 第277話の展開とポイント (01)成都(せいと) 成都の上下は沸き返るような歓呼である。その日、劉禅(りゅうぜん)も鸞駕(らんが。天子〈てんし〉の車)に召され、宮門30里の外まで諸葛亮(しょかつりょう)と三軍を出迎えた。 鸞駕の内に諸葛亮の座を分け、同車相並んで、成都宮の華陽門(かようもん)を入る。全市の民は天にも響く喜びを上げ、宮中の百楼千閣は一時に音楽を奏し、紫雲金城の上に降りるかと思われた。 だが、諸葛亮は自己の功を忘れ

    吉川『三国志』の考察 第277話「鹿と魏太子(しかとぎたいし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第276話「王風万里(おうふうばんり)」

    盤蛇谷(ばんだこく)へ誘い込み、兀突骨(ごつとつこつ)と配下の藤甲軍(とうこうぐん)を焼き尽くした諸葛亮(しょかつりょう)。 ななたび孟獲(もうかく)を捕らえ、ななたび放そうとするも、彼はいつものように立ち去らず、男泣きに許しを乞う。ついに諸葛亮の思いが通じたのだった。 第276話の展開とポイント (01)諸葛亮の営 その夜、諸葛亮は諸将と会した末に、今回の盤蛇谷における計(はかりごと)などについて、兵法講義にも似た打ち明け話を聞かせる。諸将はみな、丞相(じょうしょう)の神知測るべからずと、三嘆して拝服した。 翌日、諸葛亮は営内の檻房(かんぼう)から、孟獲や祝融(しゅくゆう)、帯来(たいらい)や孟優(もうゆう)に至るまで数珠つなぎに引き出し、憫然(びんぜん)と言った。 「さてさて、性なき者にはついに天日の愛も通らぬものか。人とも思えぬ輩(やから)、見る目も恥ず。早く解いて山野へ帰せ」 そ

    吉川『三国志』の考察 第276話「王風万里(おうふうばんり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第275話「戦車と地雷(せんしゃとじらい)」

    拠としていた銀坑山(ぎんこうざん)を失い、むたび捕らえられ、むたび諸葛亮(しょかつりょう)に放された孟獲(もうかく)。義弟の帯来(たいらい)の進言に従い、今度は烏戈国(うかこく)の兀突骨(ごつとつこつ)を頼る。 かの地の藤甲軍(とうこうぐ... 兀突骨は敵の脆(もろ)さを疑いだし、追撃の手を緩める。すると魏延は急に気勢を上げ、新手を加えて逆襲を試みた。 魏延自身が先頭を進み、兀突骨に一騎討ちを挑む。そうしたうえで矛先から逃げ走ったので、兀突骨も「今こそ」と、拍車をかけて魏延を追う。 誘導作戦は難しい。逃げすぎても疑われる。魏延は折々に引き返して敵を罵った。そうしてはまた虚勢を示し、ついに15日の間、15か所の白旗をたどり、逃げに逃げる。 ここに至っては猜疑(さいぎ)深い兀突骨も、自身の武勲に思い上がらざるを得ない。部下を顧みて大象の上から豪語した。 上げた戦果と分捕った酒に酔い、すさまじ

    吉川『三国志』の考察 第275話「戦車と地雷(せんしゃとじらい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第274話「藤甲蛮(とうこうばん)」

    拠としていた銀坑山(ぎんこうざん)を失い、むたび捕らえられ、むたび諸葛亮(しょかつりょう)に放された孟獲(もうかく)。義弟の帯来(たいらい)の進言に従い、今度は烏戈国(うかこく)の兀突骨(ごつとつこつ)を頼る。 かの地の藤甲軍(とうこうぐん)は不敗の精鋭として知られ、実際に刃(やいば)を交えた魏延(ぎえん)から話を聞くと、諸葛亮は付近の地勢を見て回り、馬岱(ばたい)にある秘策を授けた。 第274話の展開とポイント (01)銀坑山の郊外 すでに国なく、王宮もなく、行く当てもない孟獲は、悄然として周囲の者に諮る。 「どこに落ち着いて、再挙を図ろうか?」 彼のの弟である帯来が言った。 「ここから東南(たつみ)のほうへ700里行くと烏戈国があります。国王は兀突骨という者です」 「五穀を(は)まず、火せず、猛獣蛇魚をい、身には鱗(うろこ)が生えているとか聞きます。また彼の手下には、藤甲軍と

    吉川『三国志』の考察 第274話「藤甲蛮(とうこうばん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第273話「歩く木獣(あるくもくじゅう)」

    孟獲(もうかく)の求めに応じ、八納洞(はちのうどう)の木鹿王(もくろくおう)が銀坑山(ぎんこうざん)に到着する。彼のひきいる3万の軍勢には、1千頭近くの猛獣も交じっていた。 木鹿軍と激突した蜀軍(しょくぐん)は総崩れになるも、この様子を聞いた諸葛亮(しょかつりょう)は笑い、あらかじめ用意していた20余輛(りょう)の車を引いてこさせる。 第273話の展開とポイント (01)銀坑山 隣国への使いから帰った帯来(たいらい)が告げた。 「我々の申し入れを承知し、数日の間に、木鹿王は自国の軍勢をひきいて来ましょう。木鹿軍が来れば、蜀軍などは木っ端微塵(こっぱみじん)です」 帯来の姉である祝融(しゅくゆう)も、その夫である孟獲も、今はそれだけを一縷(いちる)の希望につないでいたところである。やがて八納洞の木鹿が数万の兵を連れ、市門に着くと聞くや、孟獲と祝融は王宮の門を出て迎えた。 木鹿大王は白象に乗っ

    吉川『三国志』の考察 第273話「歩く木獣(あるくもくじゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第272話「女傑(じょけつ)」

    ごたび捕らえられ、ごたび諸葛亮(しょかつりょう)に放された孟獲(もうかく)。とうとう蛮都の銀坑山(ぎんこうざん)まで戻り、八納洞長(はちのうどうちょう)の木鹿王(もくろくおう)に協力を求めるべく、義弟の帯来(たいらい)を遣わす。 だが、三江城(さんこうじょう)に置いた朶思大王(だしだいおう)の敗報が伝わると、孟獲は焦りの色を濃くし、一族を集めて評議を開く。そのとき屛風(びょうぶ)の陰から、の祝融(しゅくゆう)の笑う声が聞こえてきた。彼女が言うには――。 第272話の展開とポイント (01)禿龍洞(とくりょうどう) 諸葛亮の営 諸葛亮は五度(ごたび)孟獲を放したが、放つに際して言った。 「汝(なんじ)の好む土地で、汝の望む条件で、さらに一戦してやろう。しかし今度は、汝の九族まで滅ぼすかもしれないぞ。心して戦えよ」 弟の孟優(もうゆう)と朶思大王も同時に許す。3人は馬をもらい、恥ずるがごと

    吉川『三国志』の考察 第272話「女傑(じょけつ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第271話「蛮娘の踊り(ばんじょうのおどり)」

    万安渓(ばんあんけい)の孟節(もうせつ)のおかげで、泉の毒から回復した蜀軍(しょくぐん)。目指す禿龍洞(とくりょうどう)に近づくが、朶思大王(だしだいおう)も孟獲(もうかく)兄弟も、この地まで敵軍がやってきた事実を受け入れられない。 そこへ銀冶洞(ぎんやどう)の楊鋒(ようほう)一族が、3万余の援軍をひきいて合流。みな喜んで酒宴を催すも、楊鋒が余興に披露した蛮娘たちの踊りの最中に……。 第271話の展開とポイント (01)万安渓 海を行くような青さと暗さ、また果てない深林と沢道をたどるうちに忽然(こつぜん)、天空から虹のごとき日がこぼれた。広やかな山懐の谷である。諸葛亮(しょかつりょう)は「おお、万安渓はここに違いない」と馬を下りて、隠士の家を探させた。 (02)万安渓 万安隠者(ばんあんいんじゃ。孟節)の山荘 やがて山荘に至ると、長松大柏(たいはく)は森々と屋を覆い、南国の茂竹や椰子樹(ヤ

    吉川『三国志』の考察 第271話「蛮娘の踊り(ばんじょうのおどり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第270話「毒泉(どくせん)」

    よたび自陣に戻った孟獲(もうかく)は、弟の孟優(もうゆう)と相談し、南蛮国(なんばんこく)の知恵者として名高い朶思王(だしおう)の助力を仰ぐ。 朶思王の治める禿龍洞(とくりょうどう)へ向かった蜀軍(しょくぐん)は、強烈な毒泉の影響で死傷者を出す。諸葛亮(しょかつりょう)も困り果てたが、馬援(ばえん)を祭る廟(びょう)に祈りを捧げて窮状を訴えたところ、ひとりの老人が現れる。 第270話の展開とポイント (01)孟獲の営 孟獲は自陣に帰ったものの、数日はぼんやりと考え込んでばかりいる。その様子を見て弟の孟優が言った。 「兄貴。とても孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)にはかなわないから、いっそ降参したらどうかね?」 これを聞くと俄然(がぜん)、孟獲は魂が入ったように目をむいて怒る。そしてこう言った。 「俺が四度も生け捕られたのは計略に負けたのだ。だから今度は、俺のほうから孔明を計略にかけてやろう

    吉川『三国志』の考察 第270話「毒泉(どくせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第269話「王風羽扇(おうふううせん)」

    みたび捕らえられ、みたび諸葛亮(しょかつりょう)に放された孟獲(もうかく)。さすがに懲りて蛮界の中心まで引くと、各地の洞長に呼びかけ、入念な反撃の準備を整える。 しかし、西洱河(せいじが)両岸における戦いで諸葛亮の計略にはまり、よたび捕らえられ、よたび解放されてしまう。 第269話の展開とポイント (01)その後の孟獲 蛮界幾千里、広さの果ても知れない。蜀(しょく)の大軍は瀘水(ろすい)も後ろにして、さらに前進を続けていたが、幾十日も敵影を見なかった。 孟獲は深く懲りたとみえる。蛮国の中心へ遠く退き、入念に再起を図っていた。そこから蛮邦八境九十三甸(でん)の各洞長に向かって檄(げき)を飛ばす。使いを遣って金銀や栄位を贈り、協力して蜀軍を撃退しようと呼びかけた。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき

    吉川『三国志』の考察 第269話「王風羽扇(おうふううせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第268話「孔明・三擒三放の事(こうめい・さんきんさんほうのこと)」

    味方の董荼奴(とうとぬ)に捕らえられた孟獲(もうかく)だったが、諸葛亮(しょかつりょう)は再び解放する。 そのうち弟の孟優(もうゆう)が、銀坑山(ぎんこうざん)から援軍をひきいて駆けつけると孟獲は大喜び。ふたりでひと晩じゅう策を練り、翌日には孟優が蜀陣(しょくじん)を訪ねて降伏を申し入れた。だが、孟獲らの意図は諸葛亮に看破されていて――。 第268話の展開とポイント (01)瀘水(ろすい)の南岸 孟獲の山城 孟獲は、山城に帰ると諸洞の蛮将を呼び集め、例によって怪気炎を吐き散らす。 「今日も孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)に会ってきた。あいつは俺が縛られていっても殺すことができないのだ。なぜかと言えば、俺は不死身だからな。刃をかみ折り、奴らの陣所を蹴破って帰るぐらいな芸当は朝飯前のことだ」 そして皆で手分けして、董荼奴と阿会喃(あかいなん)の首を持ってくるよう命じた。 ★『三国志演義(6)』

    吉川『三国志』の考察 第268話「孔明・三擒三放の事(こうめい・さんきんさんほうのこと)」
  • 吉川『三国志』の考察 第267話「心縛(しんばく)」

    馬岱(ばたい)に糧道が遮断されたと知った孟獲(もうかく)は、忙牙長(ぼうがちょう)を差し向けるも、あえなく討ち死に。続けて董荼奴(とうとぬ)を差し向けたが、彼は先に諸葛亮(しょかつりょう)に助命された恩を感じており、まともに戦わなかった。 帰還した董荼奴は、孟獲から百杖(ひゃくじょう)の刑打を加えられて面目を失う。そこで配下の者と相談し、昼寝中の孟獲を捕らえて蜀陣(しょくじん)へ赴く。ところが諸葛亮は――。 第267話の展開とポイント (01)瀘水(ろすい)の南岸 孟獲の営 蜀の馬岱へ差し向けた忙牙長が、簡単に返り討ちにされたと聞き、疑いを抱く孟獲。しかし夜になると、土人が忙牙長の首を拾って届けてきた。 孟獲は討たれた忙牙長に代わり、馬岱の首を取ってくる者を募る。董荼奴が名乗りを上げると、孟獲は5千の勢を付けて励まし、夾山(きょうざん)へ向かわせた。 ★『三国志演義(6)』(井波律子〈い

    吉川『三国志』の考察 第267話「心縛(しんばく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第266話「輸血路(ゆけつろ)」

    趙雲(ちょううん)に捕らえられた孟獲(もうかく)だったが、諸葛亮(しょかつりょう)の判断で解放される。 自陣に戻った孟獲は作戦を変更し、瀘水(ろすい)の対岸に頑丈な防寨(ぼうさい)を築く。これを見た諸葛亮は、ちょうど成都(せいと)から到着した馬岱(ばたい)に命じ、蛮軍(ばんぐん)の唯一の糧道を断とうとする。 第266話の展開とポイント (01)孟獲の営 孟獲が生きて帰ったと聞くと、諸方に隠れていた敗軍の蛮将や蛮卒は、たちまち蝟集(いしゅう)して彼を取り巻いた。 孟獲は事もなげに笑ってみせ、部下たちに言う。 「運悪く難所に行き詰まって、一度は蜀軍(しょくぐん)に生け捕られたが、夜に入って檻(おり)を破り、番兵を10余人ほど打ち殺してきたのさ」 「すると別の一隊の軍馬が来て、俺の道を遮ったが、多寡の知れた中国兵。八方へ蹴散らした末に馬を奪い、帰ってきたというわけだ。ははは。おかげで蜀軍の内部

    吉川『三国志』の考察 第266話「輸血路(ゆけつろ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第265話「孟獲(もうかく)」

    進軍を続ける蜀軍(しょくぐん)に対し、ついに孟獲自身も王平(おうへい)の部隊と遭遇して一戦に及ぶ。 兵法を知る蜀軍を相手に、南蛮勢(なんばんぜい)は組織的な反撃ができないまま四散。錦帯山(きんたいざん)へ逃げた孟獲も、趙雲(ちょううん)の手で難なく捕らえられてしまう。 第265話の展開とポイント (01)反撃に出る孟獲 南蛮国(なんばんこく)における「洞」は寨(とりで)の意味であり、「洞の元帥」とはその群主をいう。 いま国王の孟獲は、部下の三洞の元帥がみな諸葛亮(しょかつりょう)に生け捕られ、その軍勢も大半は討たれたと聞き、俄然(がぜん)、形相を変えた。この孟獲という者の勢威と地位とは、南方の蛮界の内では最も強大なものらしい。 彼がひきいてきた直属の軍隊は、いわゆる蛮社(蛮国)の黒い猛者どもだが、弓馬剣槍(けんそう)を輝かせ、怪奇な物の具を身に着け、赤幡(せきばん。赤色の幟〈のぼり〉)や紅

    吉川『三国志』の考察 第265話「孟獲(もうかく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第264話「南方指掌図(なんぽうししょうず)」

    諸葛亮(しょかつりょう)は益州(えきしゅう)南部の諸郡を平定し、永昌(えいしょう)で孤軍奮闘していた太守(たいしゅ)の王伉(おうこう)と対面する。 王伉から呂凱(りょがい)を紹介された諸葛亮は、さっそく蛮国征伐についての意見を聴く。このとき呂凱は一枚の絵図を献ずるが、これは蜀軍(しょくぐん)にとって何物にも代えがたい宝となった。 第264話の展開とポイント (01)永昌 益州の平定により、蜀蛮(しょくばん)の境を乱していた諸郡の不良太守も、ここにまったくその跡を絶つ。したがって、諸葛亮が来るまで反賊の中に孤立していた永昌郡の囲みも、自ら解けた。 太守の王伉は感涙に顔を濡らしながら、城門を開いて蜀軍を迎え入れる。諸葛亮は王伉の孤忠をたたえ、同時にこうも尋ねた。 「ご辺(きみ)には良い家臣がおると思われる。そも、誰がもっぱら力になって、この小城をよく守らせたのであるか?」 王伉が呂凱のことを話

    吉川『三国志』の考察 第264話「南方指掌図(なんぽうししょうず)」
  • 吉川『三国志』の考察 第263話「南蛮行(なんばんこう)」

    数年をかけ、蜀(しょく)の国力回復に努めた諸葛亮(しょかつりょう)。孟獲(もうかく)を中心とする勢力が南方の諸郡で騒動を起こすと、自ら討伐を行いたいと願い出て劉禅(りゅうぜん)の許しを得る。 諸葛亮は数十名の部将と50余万の大軍を整え、速やかに成都(せいと)を発つ。益州(えきしゅう)南部は気候や地勢が厳しく、行軍は困難を極めた。 第263話の展開とポイント (01)淮河(わいが) 壮図むなしく曹丕(そうひ)が引き揚げてから数日後、淮河一帯を眺めると、縹渺(ひょうびょう)として見渡す限りのものは、焼け野原となった両岸の蘆(アシ)や萱(カヤ)と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と、油まじりの水面に漂う魏兵(ぎへい)の死骸だけ。 実にこのときの魏の損害は、かつて曹操(そうそう)時代に受けた赤壁(せきへき)の大敗にも劣らないものであった。 ことに人的損傷は全軍の3分の1以上に及んだともいわれ、航行不能に

    吉川『三国志』の考察 第263話「南蛮行(なんばんこう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第262話「淮河の水上戦(わいがのすいじょうせん)」

    第262話の展開とポイント (01)徐盛の営 孫権(そんけん)にとって、甥の孫韶(そんしょう)は義理ある兄の子であり、また兄の家である兪氏(ゆし)の相続人でもあった。彼が死罪になれば、兄の家が絶えることになる。 ★前の第261話(03)から引き続き、徐盛の営がどこにあったのかわからない。 ★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「『三国志』(呉書〈ごしょ〉・宗室伝〈そうしつでん〉)によれば、孫策(そんさく)にかわいがられて孫の姓を与えられたのは、孫韶の叔父の孫河(そんか)である」とあった。また「『三国志演義』(第82回)に登場する孫桓(そんかん)はこの孫河の息子であり、したがって孫韶の従兄弟にあたる」ともあった。 なお井波『三国志演義(5)』(第86回)では、孫権が徐盛に「この子(孫韶)はもとの姓を兪氏というが、亡兄(孫策)が非常にかわいがって孫

    吉川『三国志』の考察 第262話「淮河の水上戦(わいがのすいじょうせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第261話「建艦総力(けんかんそうりょく)」

    曹丕(そうひ)は、呉(ご)が蜀(しょく)と同盟を結んだ事実が明らかになるや激怒し、ただちに大軍を南下させると言いだす。そして司馬懿(しばい)の進言を容れ、総力を挙げて軍船の建造に取りかかるよう命じた。 黄初(こうしょ)5(224)年8月、曹丕は自ら3千隻を超える大艦隊をひきい、呉の建業(けんぎょう)へ向かう。 第261話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう)? このところ魏(ぎ)では、ふたりの重臣を相次いで失った。大司馬(だいしば)の曹仁(そうじん)と(太尉〈たいい〉の)賈詡(かく)の病死。いずれも大きな国家的損失である。 ★史実の曹仁は魏の黄初4(223)年3月に、賈詡も同年6月に、それぞれ死去した。 初め曹丕は、侍中(じちゅう)の辛毘(しんび。辛毗)から、呉が蜀と同盟を結んだと聞いても当にしなかった。 しかし次々と届く報告から事実だとわかると、怒った曹丕は、ただちに大軍を南下させ

    吉川『三国志』の考察 第261話「建艦総力(けんかんそうりょく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第260話「蜀呉修交(しょくごしゅうこう)」

    劉備(りゅうび)の死を聞いた曹丕(そうひ)は、司馬懿(しばい)の献策を容れ、五路の大軍を動かして蜀(しょく)の混乱に乗じようとする。 ところが、劉禅(りゅうぜん)の頼みとする諸葛亮(しょかつりょう)は朝廷に姿を見せず、丞相府(じょうしょうふ... まず遼東勢(りょうとうぜい)は、西平関(せいへいかん)を境として蜀の馬超(ばちょう)に撃退されている模様。 ★西平関について『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「(西平関は)虚構の関名」との指摘があった。 南蛮勢(なんばんぜい)は、益州(えきしゅう)の南方で蜀軍の擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)の計に遭って壊乱。上庸(じょうよう)の孟達(もうたつ)は噓か当か病と称して動かず。 中軍の曹真(そうしん)も敵の趙雲(ちょううん)に要害を占められ、陽平関(ようへいかん)を退き、さらに斜谷(やこく)からも退き

    吉川『三国志』の考察 第260話「蜀呉修交(しょくごしゅうこう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第259話「魚紋(ぎょもん)」

    劉備(りゅうび)の死を聞いた曹丕(そうひ)は、司馬懿(しばい)の献策を容れ、五路の大軍を動かして蜀(しょく)の混乱に乗じようとする。 ところが、劉禅(りゅうぜん)の頼みとする諸葛亮(しょかつりょう)は朝廷に姿を見せず、丞相府(じょうしょうふ)に籠もって池の魚を眺め続けていた。 第259話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう)? 劉備の死は、影響するところ大きかった。蜀帝崩ずと聞こえて、誰よりも喜んだのは魏(ぎ)の曹丕。 ★蜀や呉(ご)に比べ、魏の曹丕の居所に触れないことが多いのが気になる。このときもどこにいたのかよくわからず。おそらく洛陽だろう。 曹丕は、この機会に大軍を出せば、一鼓して成都(せいと)も陥せるのではないかと群臣に諮る。 しかし賈詡(かく)は、「孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)がおりますよ」と言わぬばかりに、その軽挙に固く反対した。 すると、侍側から司馬懿が立って言う。

    吉川『三国志』の考察 第259話「魚紋(ぎょもん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第257話「孔明を呼ぶ(こうめいをよぶ)」

    陸遜(りくそん)に大敗して白帝城(はくていじょう)へ逃げ込んだ後、劉備(りゅうび)は成都(せいと)に戻ろうとしない。この地を永安(えいあん)と改めて留まり続ける。 また劉備は、諸葛亮(しょかつりょう)の進言を無視して東征を強行した己を恥じ、容易に立ち直る気配を見せなかった。 第257話の展開とポイント (01)凱旋(がいせん)途中の陸遜 蜀(しょく)を破ったこと疾風迅雷だったが、退くこともまた電馳奔来(でんちほんらい)の速さだった。勝ち驕(おご)っている呉(ご)の大将たちは、半ばからかいぎみに陸遜に尋ねる。 「せっかく白帝城へ近づきながら、石の擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)や乱石の八陣を見て、急に退いてしまったのは、いったいいかなるわけですか? 物の孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)が現れたわけでもありますまいに」 陸遜は、まじめに言った。 「そうだ。わが輩が孔明を恐れたことは確かだ

    吉川『三国志』の考察 第257話「孔明を呼ぶ(こうめいをよぶ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第256話「石兵八陣(せきへいはちじん)」

    大規模な火計を用いて蜀軍(しょくぐん)に大勝した陸遜(りくそん)。逃げた劉備(りゅうび)を追って魚腹浦(ぎょふくほ)の近くまで進み、古城の一関に野営する。 翌朝、陸遜は、魚腹浦から感じられる強烈な殺気の正体を確かめようと、自ら十数騎を連れて周辺を見て回る。土地の漁夫から、諸葛亮(しょかつりょう)が残したという怪しげな石組みの話を聞き、陸遜らはその石陣に踏み入るが……。 第256話の展開とポイント (01)劉備敗走後の蜀軍 全軍ひとたび総崩れに陥ちてからは、700余里を連ねた蜀の陣々も、さながらみなぎる洪水に分離され、浮き島の姿となった村々と同じようなものだった。 その機能も連絡も失い、各個各隊が思い思いに、呉(ご)の滔々(とうとう)たる濁水の勢と戦うほかはない。このため、昨日から今日にかけて討ち死にを遂げた蜀の大将は、幾人か知れなかった。 まず傅彤(ふとう)は、呉の丁奉(ていほう)に包囲さ

    吉川『三国志』の考察 第256話「石兵八陣(せきへいはちじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第255話「白帝城(はくていじょう)」

    新たな呉軍(ごぐん)の総司令官として猇亭(おうてい)に着任した陸遜(りくそん)は、出撃したがる年長の諸将を粘り強く説得して引き留め、蜀軍(しょくぐん)を殲滅(せんめつ)する機会をうかがっていた。 そして劉備(りゅうび)が水軍に軸足を移すと、長く延びる蜀の陣線を見た陸遜は、にわかに行動を起こす。彼の遠大な計略が発動するや、戦場は火の海となり、劉備は敗走を重ねて白帝城へ逃げ込む。 第255話の展開とポイント (01)猇亭 劉備の営 敵を誘うに、漫罵愚弄(ぐろう)し怒りを駆ろうとするのは、もう兵法として古すぎる。 そこで、蜀軍はわざと虚陣の油断を見せたり、弱兵を前に立てたり、日々工夫して釣り出しを策す。だが呉は土龍(モグラ)のように、依然として陣地から一歩も出てこない。 一木の日陰もない広野のこと。夜はともかく、昼の炎暑は草も枯れ、土も燃えるようだった。それに水は遠くに求めなければならないし、

    吉川『三国志』の考察 第255話「白帝城(はくていじょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第254話「一書生(いちしょせい)」

    和睦の使者として遣わした程秉(ていへい)が追い返されたことから、孫権(そんけん)は劉備(りゅうび)の決意の固さを思い知る。 呉(ご)の重臣たちは蜀軍(しょくぐん)の勢いに恐れをなすが、このとき闞沢(かんたく)は、荊州(けいしゅう)にいる陸遜(りくそん)の起用を強く求めた。 第254話の展開とポイント (01)建業(けんぎょう) 呉の使者の程秉は、猇亭(おうてい)から逃げ帰るように急いで引き揚げた。 その結果、再び建業城中の大会議となり、呉の諸将はいまさらのごとく蜀の旺盛な戦意を再認識する。満堂の悽気(せいき。ひどく悲しい雰囲気)、恐愕(きょうがく。ひどく恐れ驚く様子)のわななき、覆うべくもなかった。 ここで闞沢が提唱する。 「諸員。何をか恐れるか。幸いにも呉には、国家の柱とも言うべき大才が生まれておる。なぜ各位は、かかる時にこの人を王に薦め、もって蜀を破ろうとしないのか?」 にわかに孫権が

    吉川『三国志』の考察 第254話「一書生(いちしょせい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第253話「慰霊大望(いれいたいぼう)」

    猇亭(おうてい)で勝利を収め、呉軍(ごぐん)を追撃する途中、関興(かんこう)は父の敵(かたき)である潘璋(はんしょう)に出くわす。 関興は潘璋を追いかけて山中に入るも、道に迷ったうえ夜を迎える。そこで一軒の山家に泊めてもらったが、やがて同じく道に迷った潘璋も、この家にたどり着く。 第253話の展開とポイント (01)猇亭 奮迅奮迅、帰るも忘れて、呉の勢を追いかけた蜀(しょく)の関興は、乱軍の中で父の関羽を殺した潘璋に出会ったのである。 関興は逃げ走る潘璋を追って山中まで入ったが、その仇(あだ)は見失ってしまい、道に迷って闇夜をさまよっていたのだった。 (02)とある山家 関興は一軒の山家に立ち寄り、一飯一宿の恩を乞う。老翁に導かれて内なる一堂へ立つやいな、驚いて拝伏した。正面の小さい壇に明々と灯を照らし、亡父の関羽の画像が祭られていたのである。 関興が素性を明かして訳を尋ねると、老翁は答え

    吉川『三国志』の考察 第253話「慰霊大望(いれいたいぼう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第252話「冬将軍(ふゆしょうぐん)」

    快進撃を続ける蜀軍(しょくぐん)は、陣中で章武(しょうぶ)2(222)年の正月を迎えた。劉備(りゅうび)の述懐を聞いた黄忠(こうちゅう)は、もうひと働きせんとばかりに、わずか10騎ほどで呉陣(ごじん)へ向かう。 黄忠は、潘璋(はんしょう)の陣を搔(か)き回して戦果を上げたが、翌日には一転、危地に追い込まれる。重傷を負った黄忠は自陣へ運ばれ、劉備らが見守る中で息を引き取った。 第252話の展開とポイント (01)劉備の営 冬が来た。連戦連勝の蜀軍は、巫峡(ふきょう)・建平(けんぺい)・夷陵(いりょう。彝陵)にわたる70余里の戦線を堅持したまま、章武2(222)年の正月を迎える。 ★このとき劉備の営がどこにあったのかわからなかった。『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第83回)を見ると、秭帰(しき)のようだが……。 賀春の酒を近臣に賜うの日、劉備も微酔してこう

    吉川『三国志』の考察 第252話「冬将軍(ふゆしょうぐん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第251話「この一戦(このいっせん)」

    孫権(そんけん)は曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられたものの、魏(ぎ)は蜀軍(しょくぐん)を牽制(けんせい)するような動きを見せない。 やむなく孫権は、甥の孫桓(そんかん)に副将として朱然(しゅぜん)を付け、総勢5万の軍勢を与えて宜都(ぎと)へ急がせる。ところが初陣の孫桓は、蜀の関興(かんこう)や張苞(ちょうほう)に大敗してしまう。 第251話の展開とポイント (01)白帝城(はくていじょう) その後、蜀の大軍は白帝城もあふるるばかりに駐屯していたが、あえて発せず、おもむろに英気を練り、ひたすら南方と江北(こうほく)の動静をうかがっていた。ここへ諜報(ちょうほう)が入る。 「呉は魏へ急きょ援軍を求めたようですが、魏はただ呉王の位を孫権に贈ったのみで、曹丕の態度は依然、中立を固持しております」 劉備(りゅうび)は自身の予測が誤っていないと見ると、ここに初めて、断固として帷幕(いばく。

    吉川『三国志』の考察 第251話「この一戦(このいっせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第250話「呉の外交(ごのがいこう)」

    張飛(ちょうひ)の首を携えて降った范疆(はんきょう。范彊)と張達(ちょうたつ)の口から、孫権(そんけん)は蜀(しょく)の大軍が迫っていることを聞く。 そこでまず諸葛瑾(しょかつきん)を白帝城(はくていじょう)に遣わし、劉備(りゅうび)の説得を試みるも失敗。次いで趙咨(ちょうし)を曹丕(そうひ)のもとへ遣わすと、こちらは望外の成功を収め、魏(ぎ)から援助の確約を取りつけた。 第250話の展開とポイント (01)建業(けんぎょう) 蜀の大軍が呉(ご)の境へ急ぐ前のこと、張飛の首を船底に隠し、范疆(范彊)と張達は上流から千里を一帆に逃げ下っていた。 ふたりは建業に着くと、孫権に首を献じ、今後の随身と忠節を誓った揚げ句、声を大にして告げる。 「蜀軍70余万が、近く呉に向かって寄せてきます。一刻も早く国境へ大兵をお送りにならないことには、玄徳(げんとく。劉備のあざな)以下、積年の恨みに燃ゆる蜀の輩(

    吉川『三国志』の考察 第250話「呉の外交(ごのがいこう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第249話「雁のみだれ(かりのみだれ)」

    劉備(りゅうび)は75万の大軍とともに東進していたが、野営地で張飛(ちょうひ)の訃報に接する。やむなく陣中にささやかな祭壇を設け、亡き張飛を弔った。 翌日、劉備が出発しようとしたところ、張飛の嫡子の張苞(ちょうほう)が駆けつける。さらに同じ日に、関羽(かんう)の次男の関興(かんこう)も合流した。ふたりの雄姿を見た劉備は涙を流し、大いに気を取り直す。 第249話の展開とポイント (01)行軍中の劉備 (蜀〈しょく〉の章武〈しょうぶ〉元〈221〉年の)大暑7月、すでに蜀軍75万は成都(せいと)を離れ、延々と行軍を続けていた。 諸葛亮(しょかつりょう)は劉備に侍し、100里の外まで送ってきたが、「ただ太子(劉禅〈りゅうぜん〉)の身を頼む。さらばぞ」と促され、心なしか愁然と成都へ帰る。 ★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第81回)では、諸葛亮らが劉備の出発を見送っ

    吉川『三国志』の考察 第249話「雁のみだれ(かりのみだれ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第247話「蜀また倣う(しょくまたならう)」

    新帝(弁皇子〈べんおうじ〉。辯皇子)と陳留王(ちんりゅうおう。協皇子〈きょうおうじ〉)が無事に洛陽(らくよう)へ戻ってくると、これまで澠池(べんち)に兵馬を留めて動かなかった董卓(とうたく)が姿を見せる。 ほどなく実権を握った董卓は温明園(... ★このあたりの記述には混乱が見られる。玉璽は文字通り玉でできていて、黄金の印章ではないし、もちろん金色燦爛としているはずもない。これに「受命于天 既寿永昌」と刻んであったのなら、不可解な話としか言いようがない。 『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)には、群臣が劉備に帝位に即くよう勧めた上奏文の中に、関羽(かんう)が樊(はん)と襄陽を包囲したとき、襄陽の男子の張嘉と王休(おうきゅう)が玉璽を献納したことが見えている。 諸葛亮は太傅(たいふ)の許靖(きょせい)や光禄大夫(こうろくたいふ)の譙周(しょうしゅう)らをにわかに集め、故典

    吉川『三国志』の考察 第247話「蜀また倣う(しょくまたならう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第246話「改元(かいげん)」

    曹操(そうそう)の跡を継ぎ、魏王(ぎおう)となった曹丕(そうひ)は、長安(ちょうあん)から10万の軍勢をひきいて駆けつけた弟の曹彰(そうしょう)と話をつける。 次いで「建安(けんあん)」を「延康(えんこう)」と改元したうえ、鄴都(ぎょうと)... また、夏の6月には魏王(ぎおう)曹丕の巡遊が実現。亡父曹操(そうそう)の郷里である沛(はい)の譙県(しょうけん)を訪れ、先祖の墳(はか)を祭らんと沙汰し、文武百官を伴い、精兵30万を従えた。 沿道の官民は道を掃き、儀仗(ぎじょう)の列にひれ伏す。わけて郷里の譙県では、道端に出て酒を献じ、を供えて祝し合う。 だが、曹丕の滞留はひどく短く、墓祭を済ませたとたんに帰ってしまったので、郷人たちは何か張り合い抜けがした。 これは、大将軍(だいしょうぐん)の夏侯惇(かこうじゅん)が危篤だという報を受け取ったためである。しかし曹丕が帰国したとき、すでに彼は亡

    吉川『三国志』の考察 第246話「改元(かいげん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第245話「私情を斬る(しじょうをきる)」

    上庸(じょうよう)の孟達(もうたつ)が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)に降ると、同じ城にいた劉封(りゅうほう)のもとに、劉備(りゅうび)から孟達討伐の厳命が届く。 ところが、劉封は襄陽(じょうよう)で魏軍に大敗し、やむなく成都(せいと)へ逃げ帰った。劉備は、養子でもある劉封の扱いを決めかねたものの、結局は処刑を断行する。 第245話の展開とポイント (01)成都 漢中王(かんちゅうおう)の劉備はこの春、建安(けんあん)25(220)年をもって、ちょうど60歳になる。魏の曹操(そうそう)より6つ年下だった。 曹操の死は早くも成都に聞こえ、多年の好敵手を失った劉備の胸中には、一抹落莫(らくばく)の感なきを得なかったであろう。 敵ながら惜しむべき巨人と、歴戦の過去を顧みると同時に、「我もまた人生六十齢――」と、やがては自分の上にも必然きたるべきものを期せずにはいられなかったに違いない。 折ふし魏では、曹

    吉川『三国志』の考察 第245話「私情を斬る(しじょうをきる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第243話「武祖(ぶそ)」

    愛児の病が癒えた袁紹(えんしょう)は上洛の決意を固め、曹操(そうそう)との全面対決へ突き進む。 そして袁紹は白馬(はくば)の野に自軍を集め、曹操ひきいる15万の軍勢と対峙(たいじ)した。 第101話の展開とポイント (01)冀州(きしゅう。... (02)鄴都 魏王宮 かくて魏は、次の若い曹丕の世代に入る。彼は父の臨終のとき鄴都の城にいた。やがて洛陽を出た喪の大列をここに迎える日、曹丕は哀号を上げて城外の門に拝した。 ここで侍側の司馬孚(しばふ)が言う。 「太子(曹丕)には、いたずらに悲しみ沈んでおられるときではありません。また左右の重臣たちも、なぜ嗣君(世継ぎ)を励まし、一日も早く治国万代の政策を掲げ、民心を鎮めたまわぬか」 すると重臣たちは、いまだに太子が魏王の位を継ぐことを許すとの勅命が下っていないと答える。 これを聞いた兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)の陳矯(ちんきょう)は、やにわに

    吉川『三国志』の考察 第243話「武祖(ぶそ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第241話「梨の木(なしのき)」

    洛陽(らくよう)に留まっていた曹操(そうそう)は、このところ体の不調を訴えることが増えていた。 そこで皆の勧めに従い、新たな宮殿の造営を決め、名工の蘇越(そえつ)に図面を描かせる。蘇越は大殿の棟木に、躍龍潭(やくりょうたん)の淵(ふち)に生えている梨の神木を使う案を示す。 第241話の展開とポイント (01)洛陽 戦陣にある日は年を知らない曹操も、凱旋(がいせん)して少し閑になずみ、栄耀(えいよう)贅沢(ぜいたく)をほしいままにしていると、どこが痛む、ここが悪いと、とかく体のことばかり訴える日が多くなった。 如何(いか)んせん彼も、すでに65歳という老齢(とし)である。体のままにならないのは自然だったが、まだ自分ではそう思わないらしい。 「どうもこう近ごろのように優れないのは、関羽(かんう)の霊でも祟(たた)っているのではあるまいか?」などと、ときどき気に病んだりした。 あるとき侍臣たちが

    吉川『三国志』の考察 第241話「梨の木(なしのき)」
  • 吉川『三国志』の考察 第240話「成都鳴動(せいとめいどう)」

    関羽(かんう)の最期を聞き、昏絶(こんぜつ)する劉備(りゅうび)。それから数日は事も取らず、誰とも会おうとしなかった。 それでも諸葛亮(しょかつりょう)に諫められると、気力を奮い起こし、すぐさま孫権(そんけん)討伐の意思を示す。しかし諸葛亮は――。 第240話の展開とポイント (01)成都(せいと) 王妃の呉氏(ごし)は燭(しょく)が消えているのに気づくと、侍女に明かりを点けさせながら劉備のそばへ寄った。 劉備は机に寄って書を読んでいたのだが、呉氏に聞くとうなされていたという。二度までも大きなお声がしたので、何事かと見に来たのだと。 居眠って夢でも見ていたのだろうと、ようやく我に返った様子を見せる劉備。子どもらも呼び、呉氏とともにしばらく興じていたが、やがて寝所に入った。 ところが明け方、またも劉備は宵に見たのと同じ夢を見る。夢の中には一痕(いっこん)の月があった。 墨のごとき冷風は絶え

    吉川『三国志』の考察 第240話「成都鳴動(せいとめいどう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第239話「国葬(こくそう)」

    洛陽(らくよう)にいた曹操(そうそう)のもとに、孫権(そんけん)から関羽(かんう)の首が届けられる。 曹操は、司馬懿(しばい)の進言によって孫権の意図を悟るが、その受け取りを拒むことなく、王侯の礼をもって盛大に関羽の国葬を執り行う。 第239話の展開とポイント (01)荊州(けいしゅう。江陵〈こうりょう〉?) 孫権は、呂蒙(りょもう)の死に万斛(ばんこく)の涙を注ぐ。爵を贈り、棺槨(かんかく。柩〈ひつぎ〉。棺は死体をじかに入れる箱。槨は棺を入れる外側の箱)を備え、その大葬を手厚く執り行った後、建業(けんぎょう)から呂覇(りょは。呂霸)を呼ぶよう言った。 呂覇は呂蒙の子である。やがて張昭(ちょうしょう)に連れられて荊州へ来た。孫権は可憐(かれん)な遺子を眺め、「父の職をそのまま継ぐがよい」と慰めた。 ★ここでの書き方だと、呂覇は父の大葬に関わっていないことになる。彼の生年はわからないが、そう

    吉川『三国志』の考察 第239話「国葬(こくそう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第237話「蜀山遠し(しょくざんとおし)」

    麦城(ばくじょう)に立て籠もり、上庸(じょうよう)からの援軍を待つ関羽(かんう)。しかし、この間にも傷病者や脱走者が増え続け、もはや手勢は300人ほどになった。 関羽は王甫(おうほ)と100余人の兵士を麦城に留め、自身は関平(かんぺい)らと200人たらずの兵士をひきいて城外へ打って出ると、孫権軍(そんけんぐん)の包囲を突破して蜀(しょく)を目指す。ところが行く手を遮るように、次々と孫権配下の部将が現れる。 第237話の展開とポイント (01)麦城の城外 孫権の営 麦城への使いから戻った諸葛瑾(しょかつきん)は、ありのまま孫権に復命する。関羽に降伏を勧めたが、耳も貸さなかったと。 ★この第237話の冒頭で「閑話休題(それはさておきの意。ただし余談の始めに使うのは誤用)――」として、著者の吉川先生の中国観や三国志観が語られていた。 すると、そばにいた呂範(りょはん)が言った。 「私が占ってみ

    吉川『三国志』の考察 第237話「蜀山遠し(しょくざんとおし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第236話「月落つ麦城(つきおつばくじょう)」

    今や敗将の身となり、逃走を続ける関羽(かんう)。荊州(けいしゅう)の呂蒙(りょもう)に玉砕覚悟で挑もうと考えたが、配下の兵士に脱走者が相次いだことから断念する。 関羽は、4、500人まで減った手勢とともに麦城(ばくじょう)へ入ると、上庸(じょうよう)の劉封(りゅうほう)や孟達(もうたつ)に救援を要請すべく、この難役を買って出た廖化(りょうか)に決死の使いを命じた。 第236話の展開とポイント (01)敗走中の関羽 進もうとすれば、前には荊州の呉軍(ごぐん)がある。退こうとすれば、後には魏(ぎ)の大軍が満ちている。 配下の趙累(ちょうるい)が関羽に勧めた。 「大将軍(だいしょうぐん)。試みに、呂蒙へお手紙を送られてみたらいかがですか?」 「かつて呂蒙が陸口(りくこう)にいた時分は、よく彼のほうから密書を届け、時きたらば提携して、呉を討ち、魏を滅ぼさんと、刎頸(ふんけい)の交わりを求めてきたも

    吉川『三国志』の考察 第236話「月落つ麦城(つきおつばくじょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第235話「鬢糸の雪(びんしのゆき)」

    偃城(えんじょう)の城外で徐晃(じょこう)の軍勢とぶつかった関平(かんぺい)は、すでに荊州(けいしゅう)が陥落したとのうわさを聞いて動揺。偃城を失い、四冢(しちょう)にある廖化(りょうか)の陣へ急ぐ。 だが、ほどなく徐晃の計略にはまって四冢も失い、樊城(はんじょう)を包囲中の関羽(かんう)と合流。しかし関羽も敵の勢いを止められず、関平らともに、敗軍をひきいて荊州各地をさまようことになる。 第235話の展開とポイント (01)偃城の城外 荊州が陥ちたと言われると、関平は戦う気も萎え、徐晃を捨てて一散に引き返す。 ところが思い迷って偃城の近くまで駆けてくると、城は濛々(もうもう)と黒煙を吹いている。炎の下から逃げてきた味方の兵が口々に言う。 「いつの間にか搦(から)め手(城の裏門)へ迫ってきた徐晃の手勢が、火炎をみなぎらせて攻め込んだ――」 関平は徐晃の思うつぼにはまったことを悟ったが、事すで

    吉川『三国志』の考察 第235話「鬢糸の雪(びんしのゆき)」
  • 吉川『三国志』の考察 第234話「荊州変貌(けいしゅうへんぼう)」

    荊州(けいしゅう)に入城した孫権(そんけん)は、虞翻(ぐほん)を遣って公安(こうあん)の傅士仁(ふしじん)を説かせ、戦わずして降伏させる。次いで傅士仁を用いて南郡(なんぐん)の糜芳(びほう。麋芳)を説かせ、こちらも戦うことなく降す。 孫権の使者から戦況を伝えられた曹操(そうそう)は、陽陵坡(ようりょうは)に留めていた徐晃(じょこう)に進撃を命じ、自身も大軍をひきいて南下する。 第234話の展開とポイント (01)荊州(江陵〈こうりょう〉?) 呉(ご)は大きな宿望のひとつを遂げた。荊州を版図に加えることは、実に劉表(りゅうひょう)が滅んで以来の積年の望みだった。 やがて陸口(りくこう)から陸遜(りくそん)もやってきて祝賀を述べる。その折、呂蒙(りょもう)が列座の中で尋ねた。 「すでに荊州の中府は占領したが、これで荊州の版図がわが手に帰したとは言えない。公安には傅士仁があり、南郡には糜芳(麋芳

    吉川『三国志』の考察 第234話「荊州変貌(けいしゅうへんぼう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第233話「笠(かさ)」

    関羽(かんう)が頼みにしていた烽火台(のろしだい)も機能せず、呂蒙(りょもう)の知謀の前に荊州(けいしゅう)は陥ちた。 呂蒙は占領後の民心の安定にも気を配り、自ら城内を巡察したが、にわか雨の中、ひとりの兵士が百姓の笠をかざして駆けてくるのを目にする。 第233話の展開とポイント (01)荊州(江陵〈こうりょう〉?) 荊州の城は実に脆(もろ)く陥ちた。 ★ここでも荊州城(荊州の城)が、どこを指しているのかはっきりしない。おそらく江陵城だと思われるが……。 関羽はあまりに後方を軽んじすぎた。戦場のみに充血し、内政と防御の点には重大な手抜かりをしていたきらいがある。 烽火台の備えに頼みすぎていたこともひとつだが、とりわけまずいのは、国内を守る人物に人を得ていなかった点である。留守の大将の潘濬(はんしゅん)は凡将だったし、公安(こうあん)の守将たる傅士仁(ふしじん)も軽薄な才人にすぎない。 ★

    吉川『三国志』の考察 第233話「笠(かさ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第232話「呂蒙と陸遜(りょもうとりくそん)」

    曹操(そうそう)と孫権(そんけん)は濡須(じゅしゅ)で激戦を続けていたが、孫権は軽率な判断から劣勢を招き、陸遜(りくそん)がひきいた援軍の到着で何とか総崩れを免れる。 陸遜の反撃を受けた曹操軍は一転して敗北を喫し、その勢いも大きく削がれる。... 呂蒙と陸遜は同船して、陸口から建業へ帰る。そして孫権にまみえ、荊州の実情を詳しく告げた。併せて呂蒙は、自分の仮病は敵方に対する当面の一謀にすぎない旨を語り、心を煩わせたことを詫びた。 さらに呂蒙はこうも言い、自分の後任として陸遜を推す。 「この機会に陸口の守りには、ぜひ誰か別人をご任命ください。それがしがおっては、関羽は防御の手を緩めません」 初めは陸遜の起用に難色を示した孫権も、呂蒙に説かれて決断。まもなく陸遜は偏将軍(へんしょうぐん)・右都督(ゆうととく)に昇った。 ★この肩書きを見る限り、それほど破格な昇進とは思えないが……。 こうして陸口

    吉川『三国志』の考察 第232話「呂蒙と陸遜(りょもうとりくそん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第231話「建業会議(けんぎょうかいぎ)」

    樊川(はんせん)地方から敗報が伝わるや、鄴都(ぎょうと)の魏王宮(ぎおうきゅう)は騒然とした。 曹操(そうそう)は、孫権(そんけん)を説いて関羽(かんう)の後ろを突かせようと考え、実際に徐晃(じょこう)を大将とする5万の援軍を差し向けたうえ、別に孫権のもとへ急使を遣わす。 第231話の展開とポイント (01)樊城(はんじょう)の城外 関羽の営 左臂(ひだりひじ)の手術を終えて退がると、翌日、華陀(かだ。華佗)は改めて関羽の容体を診る。 関羽は、夕べは熟睡したうえ、今朝は目覚めてみると痛みも忘れていると言い、華陀を天下の名医とたたえる。 すると華陀も、これまで多くの患者に接してきたが、まだ将軍のような患者には出会ったことがないと言い、関羽を天下の名患者と評した。 関羽は百金を包んで贈ろうとしたが、華陀は手にも取らない。飄然(ひょうぜん)と小舟に乗り、江上へ去る。 (02)鄴都 魏王宮 その

    吉川『三国志』の考察 第231話「建業会議(けんぎょうかいぎ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第230話「骨を削る(ほねをけずる)」

    龐徳(ほうとく。龐悳)との一騎討ちで負った関羽(かんう)の矢傷が悪化し、関平(かんぺい)をはじめ、幕僚も体調を心配する。 彼らが名医を捜していたところへ、呉(ご)からひとりの医者がやってくる。広く名が知られた華陀(かだ。華佗)だった。 第230話の展開とポイント (01)樊城(はんじょう)の城外 関羽の営 まだ敵味方とも気づかないらしいが、樊城の完全占領も時の問題とされている一歩手前で、関羽軍の内部には微妙な変化が起こっていた。 このことを知っているのは関平ら、ごく少数の幕僚だけだったものの、彼らは今も額を集め、沈痛にささやき交わしていた。 そこへひとりの参謀が奥房から走ってきて、関羽の命を伝える。明日の暁天より総攻撃を開始するという。さらに、関羽自身が出馬するともいうのだった。 人々は愕然(がくぜん)と顔を見合わせると、一同で関羽の房に出向き、もうしばらくご養生なされては、と諫める。

    吉川『三国志』の考察 第230話「骨を削る(ほねをけずる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第228話「関平(かんぺい)」

    樊城(はんじょう)の包囲を続けていた関羽(かんう)のもとに、曹操(そうそう)の援軍が迫っているとの知らせが届く。 関羽が迎撃に向かおうとすると、養子の関平(かんぺい)が、自分を代わりに遣わしてほしいと強く請う。許しを得た関平は、敵の先鋒の龐徳(ほうとく。龐悳)に挑むが――。 第228話の展開とポイント (01)樊城の城外 樊城の包囲は完成した。水も漏らさぬ布陣である。関羽は中軍に座し、夜中頻々と報じてくる注進を聞いていた。 曰(いわ)く、魏(ぎ)の援軍数万騎。曰く、大将は于禁(うきん)、副将は龐徳(龐悳)。さらに魏王(ぎおう。曹操)直属の七手組(ななてぐみ)の7人の大将も、おのおの士馬精鋭を引っ提げ、旋風のごとく進軍中と。 また言う。先鋒の龐徳は、関羽の首を挙げずんば帰らずと、白き旗に「必殺関羽」と書き、軍卒に柩(ひつぎ)を担がせ、すでにここから30里余りの地に陣して螺鼓(らこ)銅鉦(どう

    吉川『三国志』の考察 第228話「関平(かんぺい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第227話「生きて出る柩(いきてでるひつぎ)」

    樊城(はんじょう)の曹仁(そうじん)が関羽(かんう)に包囲されると、曹操(そうそう)は援軍の総大将に于禁(うきん)を指名したうえ、豪勇の龐徳(ほうとく。龐悳)を副将とし、七手組(ななてぐみ)と呼ぶ、自身の親衛軍も添えることにした。 すでに副将の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を授かった龐徳だったが、夜半に曹操から急な呼び出しがあり、軍令の変更を伝えられる。その理由を聞いた龐徳は――。 第227話の展開とポイント (01)樊城 樊城は包囲された。弱敵に囲まれたのと違い、名だたる関羽とその精鋭軍に包囲されたのであるから、落城の運命は当然に迫った。 (02)鄴都(ぎょうと) 魏王宮(ぎおうきゅう) 樊城から来援を乞う早馬が着くと、魏王宮中は大いに憂える。 ★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第73回)では、このとき曹操は長安(ちょうあん)にいた。 曹操は評議

    吉川『三国志』の考察 第227話「生きて出る柩(いきてでるひつぎ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第226話「烽火台(のろしだい)」

    魏王(ぎおう)の曹操(そうそう)に対抗し、劉備(りゅうび)が漢中王(かんちゅうおう)に即位したことを知り、呉侯(ごこう)の孫権(そんけん)はいらだちを隠せない。 さらに、荊州(けいしゅう)へ遣わした諸葛瑾(しょかつきん)が関羽(かんう)に追い返されたと聞くや、密かに曹操と結んで荊州攻略に動きだす。だが、そのころ関羽は王甫(おうほ)の進言を容れ、各地に烽火台(のろしだい)を築かせていた。 第226話の展開とポイント (01)建業(けんぎょう) 諸葛瑾の荊州への使いは失敗に帰す。ほうほうの態で帰ってありのままを復命したところ、孫権は荊州攻略の大兵を動かさんと、建業城の大閣に群臣を集めた。 その場で歩隲(ほしつ。歩騭)が、荊州進攻は断じてご無用と、反対の意見を述べた。それは魏の思うつぼで、呉の兵馬を曹操のために用いるも同様ではないかと。 さらに歩隲は主戦的な人々を抑え、今こそかねて懸案の対魏方策

    吉川『三国志』の考察 第226話「烽火台(のろしだい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第225話「漢中王に昇る(かんちゅうおうにのぼる)」

    曹操軍(そうそうぐん)を漢中(かんちゅう)から退けた劉備(りゅうび)の版図は、今や一大強国と呼ぶにふさわしい広さとなる。 そこで諸葛亮(しょかつりょう)をはじめとする群臣は、劉備に漢中王(かんちゅうおう)の位に即くよう繰り返し勧めるが、なかなかよい返事がもらえない。しかし、ついに劉備も覚悟を固め――。 第225話の展開とポイント (01)漢中 魏(ぎ)の勢力が全面的に後退すると当然、蜀軍(しょくぐん)がこの地方を風靡(ふうび)した。上庸(じょうよう)も陥ち、金城(きんじょう)も降る。申耽(しんたん)や申儀(しんぎ)などの旧漢中の豪将たちも、みな降人となって出た。 劉備は布告を発し、よく軍民の一致を得、政治・軍事・経済の三面にわたって画期的な基礎を築いた。 こうして彼の領有は一躍、四川(しせん)や漢川(かんせん)の広大な地域をみるに至り、今や蜀というものは、江南(こうなん)の呉(ご)、北方の

    吉川『三国志』の考察 第225話「漢中王に昇る(かんちゅうおうにのぼる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第223話「次男曹彰(じなんそうしょう)」

    漢水(かんすい)で黄忠(こうちゅう)と趙雲(ちょううん)に敗れた曹操(そうそう)は、北山(ほくざん)に続いて米倉山(べいそうざん)も失い、南鄭(なんてい)の辺りまで引く。 さらに曹操は、陽平関(ようへいかん)も捨てて斜谷(やこく)へ後退したが、ここで思わぬ援軍が現れる。代州(だいしゅう)の反乱を治めに遣わしたはずの息子、曹彰(そうしょう)だった。 第223話の展開とポイント (01)漢水 横道から米倉山の一端へ出て、魏(ぎ)の損害をさらに大にしたものは、蜀(しょく)の劉封(りゅうほう)と孟達(もうたつ)だった。 これらの別動隊は、もちろん諸葛亮(しょかつりょう)の指図により遠く迂回(うかい)し、敵も味方も不測な地点から、黄忠や趙雲らを助けたものである。 それにしても、ふたり(黄忠と趙雲)の功は大きい。わけて趙雲の今度の働きには、平常よく彼を知る劉備(りゅうび)も、「満身これ胆(きも)の人か

    吉川『三国志』の考察 第223話「次男曹彰(じなんそうしょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第222話「趙子龍(ちょうしりゅう)」

    ここへ前線の張著(ちょうちょ)から急報が届く。曹操自ら20万騎をひきい、徐晃(じょこう)を先陣に立てて漢水まで迫ってきたという。そこで兵馬を留め、米倉山(べいそうざん)の兵糧を北山のほうへ移している様子だとも。 諸葛亮(しょかつりょう)は情勢を判断し、劉備に対策を漏らす。これは魏軍(ぎぐん)の弱点を自ら暴露するものだとして、味方の一軍を深く境外へ潜行させるようにと。 敵の輜重(しちょう)を奪うことに成功したら、それは今次の戦いにおいて、第一の勲功と言っても差し支えないとも。 傍らで聞いていた黄忠がその任を望むと、諸葛亮は冷静な面を振り、今度の敵の張郃(ちょうこう)は、夏侯淵とは桁が違うと言う。 結局、諸葛亮は黄忠に散々大言を吐かせてから承知したが、副将として趙雲を連れていくよう言った。 ★先の第219話(16)では、諸葛亮は張郃より夏侯淵を評価する発言をしており、ここで言っていることと矛盾

    吉川『三国志』の考察 第222話「趙子龍(ちょうしりゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第220話「絶妙好辞(ぜつみょうこうじ)」

    天蕩山(てんとうざん)を奪われた張郃(ちょうこう)と夏侯尚(かこうしょう)は、定軍山(ていぐんざん)まで逃げ延び、夏侯淵(かこうえん)に味方の劣勢を伝える。 夏侯淵の報告を受けた南鄭(なんてい)の曹洪(そうこう)から急報がもたらされると、曹操(そうそう)は自ら大軍をひきいて都(鄴都〈ぎょうと〉)を発つ。そして道中、藍田(らんでん)で蔡邕(さいよう)の山荘に立ち寄った。 第220話の展開とポイント (01)葭萌関(かぼうかん) 「ご辺(きみ)はすでに張郃に勝ちたれど、夏侯淵には及ぶまい」 思いがけぬ諸葛亮(しょかつりょう)の言葉に、黄忠(こうちゅう)の憤懣(ふんまん)はやるかたなく、色をなして迫った。 「むかし廉頗(れんぱ)は年80に及んで、なお米1斗と肉10斤をい、天下の諸侯これを恐れ、あえて趙(ちょう)の国境を侵さなかったと言います」 「まして私はいまだ70に及ばず、何ゆえ老いたりとて

    吉川『三国志』の考察 第220話「絶妙好辞(ぜつみょうこうじ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第219話「老将の功(ろうしょうのこう)」

    巴西(はせい)で張飛(ちょうひ)に惨敗し、3つの寨(とりで)を失い、瓦口関(がこうかん)へ逃げ込んだ張郃(ちょうこう)。 南鄭(なんてい)の曹洪(そうこう)に救援を要請するも拒否され、かえって激しい怒りを含んだ厳命が届く。 第218話の展開... 葭萌関を守っていたのは蜀(しょく)の孟達(もうたつ)と霍峻(かくしゅん)。張郃軍が改めて攻めてきたとの報を得て、軍議を開く。 霍峻が言う。 「天然の要害にある葭萌関を、わざわざ出て戦うは愚である。関を頼んでよく守るが良策と思う」 だが孟達は反対し、敵の来攻を待つは戦略の下である。すべからく関を出でて、即決進撃を阻むべし、と称して退かない。 何度かの議が凝らされた結果、孟達の議を採り、蜀兵は葭萌関を出て張郃の軍勢と戦闘を交えた。孟達も自分から張郃に挑んだが、散々に破れてしまう。彼が逃げ戻ったのを見た霍峻は驚き、成都へ救援を求める早馬を送る。 (02

    吉川『三国志』の考察 第219話「老将の功(ろうしょうのこう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第218話「敗将(はいしょう)」

    巴西(はせい)で張飛(ちょうひ)に惨敗し、3つの寨(とりで)を失い、瓦口関(がこうかん)へ逃げ込んだ張郃(ちょうこう)。 南鄭(なんてい)の曹洪(そうこう)に救援を要請するも拒否され、かえって激しい怒りを含んだ厳命が届く。 第218話の展開とポイント (01)巴西 張飛の軍はすさまじい勢いで進撃。魏延(ぎえん)と雷同(らいどう。雷銅)を両翼とした態勢もよかった。 魏(ぎ)の張郃が構えた3か所の陣は、瞬く間に討ち破られ、3万余の兵力のうち2万余を失い、張郃自身もかろうじて瓦口関まで落ち延びていく。 (02)瓦口関 ここで張郃は救援を求めたが、南鄭にいる曹洪は烈火のごとく怒り、峻烈(しゅんれつ)な命を返してくる。 「張郃はわが命を用いず、なまじ自信を持った戦いをして要害を奪われたのだ。今は我に救援に送る兵なし。すべからく逆襲して、もとの陣を奪取すべし」 曹洪の怒りを聞くと、張郃の驚きや恐れは

    吉川『三国志』の考察 第218話「敗将(はいしょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第217話「陣前公用の美酒(じんぜんこうようのびしゅ)」

    巴西(はせい)から漢中(かんちゅう)を目指して出撃した張飛(ちょうひ)は、宕渠寨(とうきょさい)に籠もった曹操(そうそう)配下の張郃(ちょうこう)をおびき出そうとする。 しかし張郃に打って出る気配が見えなかったので、張飛は宕渠山のふもとまで営を進め、敵前で酒宴を開く。この報告を成都(せいと)で聞いた諸葛亮(しょかつりょう)は笑い、驚く劉備(りゅうび)に意外な提案をした。 第217話の展開とポイント (01)下弁(かべん。下辨) 四川(しせん)の巴西と下弁地方は、今やみなぎる戦気に雲は風をはらみ、鳥獣も声を潜めている。魏兵(ぎへい)5万は漢中から積極的に蜀(しょく)の境へと出て、その辺りの険阻に霧のごとく密集していた。 正面の敵は馬超(ばちょう)である。馬超は下弁方面に、そして張飛は巴西から漢中をうかがってきたのだ。これに対し魏の総大将は曹洪(そうこう)、その下に張郃。兵力と装備においては

    吉川『三国志』の考察 第217話「陣前公用の美酒(じんぜんこうようのびしゅ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第216話「御林の火(ぎょりんのひ)」

    建安(けんあん)23(218)年の正月15日の夜、東華門(とうかもん)の門外にある王必(おうひつ)の営中の各所から火の手が上がる。 反乱軍の射た矢を受け落馬した王必は、助けを求めて金褘(きんい)の屋敷を訪ねるが、夫が帰ったものと思い込んだ金褘のの口から思わぬ言葉を聞く。 第216話の展開とポイント (01)許都(きょと) 東華門の門外 街は戸ごとに灯を連ね、諸門の陣々も篝(かがり)に染まる。人の寄るところ、家のあるところ、五彩の灯(ひ)に彩られているため、こよい(建安23〈218〉年の)正月15日の夜、天上一輪の月はなおさら美しく見えた。 東華門の門外にある王必の営中では、宵の口から酒宴が開かれ、将士はもとより馬飼いの小者に至るまで、怪しげな鳴り物を叩いたり、放歌したり、踊ったり、無礼講というので大変なにぎわいだった。 ここへ招かれていた金褘(きんい)は大酔を装い、酒席を退がりかける。

    吉川『三国志』の考察 第216話「御林の火(ぎょりんのひ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第215話「正月十五夜(しょうがつじゅうごや)」

    曹操(そうそう)は管輅(かんろ)の予言にあった、「明春早々、都の内に火の災いあらん」という部分が気になっていた。 その対策として夏侯惇(かこうじゅん)に3万の兵を付け、許都(きょと)の郊外に配置。加えて王必(おうひつ)を府内に入れ、御林(ぎょりん)の兵馬(近衛軍の兵馬)をつかさどらせる。やがて正月15日の夜がやってきた――。 第215話の展開とポイント (01)鄴都(ぎょうと) 魏王宮(ぎおうきゅう) 漢中(かんちゅう)の境を防ぐため大軍を送り出した後も、曹操は何となく安からぬものを抱く。管輅の予言に「明春早々、都の内に火の災いあらん」とある、そのことだった。 「都というからには、もちろんこの鄴都ではあるまい」 曹操は夏侯惇を呼び、兵3万を付与。そして、許都には入らず郊外に屯(たむろ)し、不慮の災いに備えるよう命ずる。また長史(ちょうし)の王必を府内に入れ、御林の兵馬はすべて彼の手につかさ

    吉川『三国志』の考察 第215話「正月十五夜(しょうがつじゅうごや)」
  • 吉川『三国志』の考察 第214話「神卜(しんぼく)」

    曹操(そうそう)は左慈(さじ)の一件以来、何となく体調が優れない。そこで許芝(きょし)の勧めに従い、卜(うらない)の名人として知られる管輅(かんろ)を招く。 そして管輅から、左慈の見せたものの正体は幻術だと聞かされると、曹操の顔色もようやく晴れた。 第214話の展開とポイント (01)鄴都(ぎょうと) 魏王宮(ぎおうきゅう) 左慈の一件以来、体調が優れない曹操は、太史丞(たいしじょう)の許芝を病室へ召し、許都(きょと)の卜者(うらないしゃ)に観てもらいたいと言った。 ★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第69回)では、太史の許芝とある。 すると許芝は、卜の名人なら近くにいると言い、管輅の名を挙げる。曹操が管輅の実力について尋ねると、許芝はいくつかの例話を交えて説明し始めた。 管輅はあざなを公明(こうめい)といい、平原(へいげん)の人である。 容貌は醜く、風采

    吉川『三国志』の考察 第214話「神卜(しんぼく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第213話「藤花の冠(とうかのかんむり)」

    左慈(さじ)は魏王宮(ぎおうきゅう)落成を祝う大宴を台なしにしたうえ、痛烈な曹操(そうそう)批判を繰り返す。 そして宴席から姿を消すと、曹操の命を受けた許褚(きょちょ)の追跡もかわしたが、ほどなく人相書きそっくりの左慈が各地で捕らえられる。 第213話の展開とポイント (01)鄴都(ぎょうと) 魏王宮 左慈が嬋娟(せんけん)たる牡丹(ボタン)の大輪を咲かせてみせると、王宮の千客は目をこすり合う。 そこへ各人の卓上に、庖人(ほうじん)が魚の鱠(なます)を供えた。左慈は一眄(いちべん)し、人もなげに言う。 「魏王が一代のごちそうと言ってもいい大宴に、名も知れぬ魚の料理とは貧弱ではないか。大王、なぜ松江(しょうこう)の鱸(スズキ)をお取り寄せにならなかったのか?」 曹操は赤面しながら、客の百官に言い訳をする。 「温州(うんしゅう)の果実はともかく、鱸と言っては生きていなければ値打ちがない。何で千

    吉川『三国志』の考察 第213話「藤花の冠(とうかのかんむり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第212話「柑子と牡丹(こうじとぼたん)」

    ついに魏王(ぎおう)となった曹操(そうそう)は、さっそく鄴都(ぎょうと)に魏王宮を造営する。これが完成をみると、祝宴のため各地の名産品が集められた。 呉(ご)からは、温州(うんしゅう)の柑子(こうじ。蜜柑〈ミカン〉)40荷が送られることになった。だが、柑子を背負って運ぶ人夫たちの前にひとりの老人が現れる。 第212話の展開とポイント (01)許都(きょと) 呉に年々の貢ぎを誓わせてきたことは、魏の遠征軍にとって、赫々(かっかく)たる大戦果といえる。 まして漢中(かんちゅう)の地も版図に加えられたので、都府の百官は曹操を尊び、「魏王の位に即いていただこうじゃないか」と、寄り寄り議していた。 侍中(じちゅう)の王粲(おうさん)は、曹操の徳を頌(しょう)した長詩を賦(ふ)し、これを侍側の手から彼に見せたりした。 曹操も王位に昇ろうという色を示していたものの、諸人の議場において、尚書(しょうしょ)

    吉川『三国志』の考察 第212話「柑子と牡丹(こうじとぼたん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第211話「休戦(きゅうせん)」

    曹操(そうそう)と孫権(そんけん)は濡須(じゅしゅ)で激戦を続けていたが、孫権は軽率な判断から劣勢を招き、陸遜(りくそん)がひきいた援軍の到着で何とか総崩れを免れる。 陸遜の反撃を受けた曹操軍は一転して敗北を喫し、その勢いも大きく削がれる。さらにひと月余りの対陣を経て、両軍の間で和睦がまとまった。 第211話の展開とポイント (01)濡須 曹操は百戦錬磨の人。孫権は体験が少なく、ややもすれば血気に陥る。今や濡須の流域を境として、魏(ぎ)の40万、呉(ご)の60万、ひとりも戦わざるはなく、全面的な大激戦を現出した。 天候が利さなかったとはいえ、呉は孫権の軽忽(けいこつ)な動きにより軸枢を見失う。孫権自身もまんまと張遼(ちょうりょう)と徐晃(じょこう)の二軍に待たれ、その包囲鉄環の内に捉われてしまった。 曹操は小高い丘の上から心地よげに見ていたが、「今ぞ、孫権を擒(とりこ)にするのは」との声に

    吉川『三国志』の考察 第211話「休戦(きゅうせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第210話「鵞毛の兵(がもうのへい)」

    劉備(りゅうび)に嫁いでいた妹が南徐(なんじょ)へ戻ってくると、いよいよ孫権(そんけん)は荊州(けいしゅう)を突こうとするが、そこに曹操(そうそう)の大軍が南下を開始したとの知らせが届く。 曹操と孫権は濡須(じゅしゅ)で対峙(たいじ)。今回... (02)濡須 「来たれ、遠路の兵馬」と、呉軍は待ち構えていた。先陣を希望して争った者は、またしても宿怨ある甘寧と凌統(りょうとう。淩統)だった。 孫権は凌統を第一陣、甘寧を第二陣として、ふたりで行けと言う。そして自身もほかの諸将と輪陣を作り、堂々と後から押し出した。 濡須一帯は戦場と化す。曹操の先鋒は張遼(ちょうりょう)とみえ、功に逸(はや)った凌統は見境なく当たる。 ぶつかった凌統の陣形が微塵(みじん)になって分離するのが、遠く孫権の陣からも見えた。孫権は呂蒙(りょもう)に、凌統を救い出すよう命ずる。 そのあと甘寧が来て、案外に敵が堅固である

    吉川『三国志』の考察 第210話「鵞毛の兵(がもうのへい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第209話「遼来々(りょうらいらい)」

    魏(ぎ)の皖城(かんじょう)を攻略した孫権(そんけん)は、余勢を駆って合淝(がっぴ。合肥)へ迫る。曹操(そうそう)はこの要地を張遼(ちょうりょう)に任せ、さらに副将として楽進(がくしん)と李典(りてん)を付けていた。 勝ちに驕(おご)り前進を続ける孫権だったが、逍遥津(しょうようしん)で敵の奇襲に遭い、危うく討ち死にしそうになる。凌統(りょうとう。淩統)の働きで命拾いしたものの、一連の戦いで張遼の勇名は広く知れ渡ることになった。 第209話の展開とポイント (01)合淝(合肥) 合淝城を預かって以来、張遼は城の守りを夢寐(むび)にも怠った例しはない。ここは魏の境、国防の第一線と、身の重責を感じていたからである。 ところが呉軍(ごぐん)10万の圧力の下に、前衛の皖城はひと支えもなく潰(つい)えてしまった。洪水のような快速をもって、はや敵はこの合淝へ迫ると、急を告げる早馬は櫛(くし)の歯を挽(

    吉川『三国志』の考察 第209話「遼来々(りょうらいらい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第208話「剣と戟と楯(けんとほことたて)」

    曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)まで進出してくると、劉備(りゅうび)は諸葛亮(しょかつりょう)の進言を容れ、伊籍(いせき)を孫権(そんけん)のもとへ遣わし、荊州(けいしゅう)3郡の返還に応じた。 孫権は併せて伝えられた劉備の要請に応え、自ら軍勢をひきいて魏(ぎ)の皖城(かんじょう)を攻略。だがこれを祝う宴席で、甘寧(かんねい)と凌統(りょうとう。淩統)が余興にかこつけ、互いの意地をぶつけ合う。容易ならぬ事態と察知した呂蒙(りょもう)は――。 第208話の展開とポイント (01)漢中 司馬懿(しばい)は中軍の主簿(しゅぼ)を務め、漢中攻略の時も曹操のそばにあった。 ★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(主簿は)将軍府や州郡などに置かれた属吏。文書行政をつかさどる」という。 戦後経営の施政などにはもっぱら参与して、その才能と

    吉川『三国志』の考察 第208話「剣と戟と楯(けんとほことたて)」
  • 吉川『三国志』の考察 第207話「漢中併吞(かんちゅうへいどん)」

    曹操(そうそう)は蜀(しょく)を手にした劉備(りゅうび)の動きを封ずるべく、まずは漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)攻めを決断する。 曹操は自ら大軍をひきいて遠征に臨み、策を用いて陽平関(ようへいかん)を突破すると、敵方の楊松(ようしょう)を内応させ、南鄭(なんてい)も陥す。張魯は降伏し、曹操は新たに漢中を版図に加えた。 第207話の展開とポイント (01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ) 「急に魏公(ぎこう。曹操)が、あなたと夏侯惇(かこうじゅん)のおふたりに内々に密議を諮りたいとのお旨である。すぐ府堂までお越しありたい」 賈詡(かく)の手紙を受け取った曹仁(そうじん)は、洛中の屋敷から内府へ急ぐ。 ★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第66回)では、このとき曹仁と夏侯惇は許都におらず、曹操が使者を遣って呼び寄せている。 ここの政庁の府でも、曹仁

    吉川『三国志』の考察 第207話「漢中併吞(かんちゅうへいどん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第206話「冬葉啾々(とうようしゅうしゅう)」

    先に魏公(ぎこう)に封ぜられた曹操(そうそう)だったが、彼の追従者たちからは、さらに魏王に爵位を進めるべきだという声が上がる。 このことはすぐに実現をみなかったものの、いよいよ不安を募らせた献帝(けんてい)は、皇后の父である伏完(ふくかん)のもとへ密書を届けさせた。こうした動きをいち早くつかんだ曹操は――。 第206話の展開とポイント (01)許都(きょと) 魏の大軍が呉(ご)へ押し寄せてくるとの飛報は、うわさだけにとどまった。噓でもなかったが、早耳の誤報だったのである。 この(建安〈けんあん〉19〈214〉年の)冬を期して、曹操が宿望の呉国討伐を果たそうとしたのは事実で、すでに南下の大部隊を編制し、各部の諸大将も内々決定していた。 ところが、ここで参軍(さんぐん)の傅幹(ふかん)から長文の上書がある。 「今はその時ではないこと」「漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)、蜀(しょく)の劉備(

    吉川『三国志』の考察 第206話「冬葉啾々(とうようしゅうしゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第205話「臨江亭会談(りんこうていかいだん)」

    広大な蜀(しょく)の地を手にした劉備(りゅうび)に対し、孫権(そんけん)も当然のごとく、荊州(けいしゅう)返還問題の決着を迫る。 使いを命じた諸葛瑾(しょかつきん)が戻り、劉備が荊州のうち3郡の返還を認めたとの報告を受けると、孫権は官吏に軍勢を付けて差し向けた。ところが、みな関羽(かんう)の配下に追い払われてしまう。 第205話の展開とポイント (01)成都(せいと) ある日、劉備は、やや狼狽(ろうばい)の色を眉にたたえながら、諸葛亮(しょかつりょう)を呼んで言った。 「先生の兄上が蜀へ来たそうではないか」 諸葛亮は、昨夜客館に着いたようだと話し、もとより荊州の問題で見えたのだろうと言う。そして座へ寄り、劉備の耳元に何かささやく。 (02)成都 諸葛瑾の客館 その晩、諸葛亮は不意に兄の諸葛瑾を訪ねる。 諸葛瑾は声を放って大いに泣き、子一族がみな呉(ご)で投獄されたと話す。 諸葛亮は、お気

    吉川『三国志』の考察 第205話「臨江亭会談(りんこうていかいだん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第204話「成都陥落(せいとかんらく)」

    李恢(りかい)の説得に応じて劉備(りゅうび)に降った馬超(ばちょう)。さっそく従弟の馬岱(ばたい)と成都(せいと)へ行き、漢中(かんちゅう)から援軍が来ない旨を伝え、劉璋(りゅうしょう)に降伏を促してみたいと願い出て許される。 成都城内では重臣の意見が分かれ、なかなかまとまらない。そのうち劉備の使いとして簡雍(かんよう)がやってくると、劉璋はひと晩考えた末に開城を決断した。 第204話の展開とポイント (01)葭萌関(かぼうかん) 馬超は李恢に伴われ、劉備に会う。劉備はほとんど上賓の礼をもって遇した。 そこへ(馬超の)腹心の馬岱(ばたい)がひとつの首級をもたらす。漢中軍の軍監(ぐんかん)たる楊柏(ようはく)の首だった。馬超はこの首を劉備に献ずる。 こうして葭萌関の守備も、今は憂いも除かれたので、劉備は最初の通りに孟達(もうたつ)と霍峻(かくしゅん)に任せ、その余の軍勢をひきいて綿竹(めんち

    吉川『三国志』の考察 第204話「成都陥落(せいとかんらく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第203話「馬超と張飛(ばちょうとちょうひ)」

    再び隴西(ろうせい)で曹操(そうそう)に敗れた馬超(ばちょう)は、馬岱(ばたい)や龐徳(ほうとく。龐悳)ら6、7名で漢中(かんちゅう)へたどり着き、張魯(ちょうろ)のもとに身を寄せる。 ほどなく張魯の許しを得た馬超が、漢中の兵馬をひきいて葭萌関(かぼうかん)へ攻め寄せると、劉備(りゅうび)は諸葛亮(しょかつりょう)の助言を受け、張飛(ちょうひ)に荊州(けいしゅう)の関羽(かんう)と留守を交代するよう言い渡す。 第203話の展開とポイント (01)許都(きょと) 隴西の州郡はホッとして、もとの治安を取り戻した。夏侯淵(かこうえん)は治安の任を姜叙(きょうじょ)に託すとともに、楊阜(ようふ)を勲功第一の人と敬い、車に乗せ、強いて上洛させる。このとき楊阜は数か所の戦傷を負っていた。 やがて車が許都へ着くと、曹操は忠義をたたえ、「以後、関内侯(かんだいこう)に封ぜん」と言った。 楊阜は固辞して恩爵

    吉川『三国志』の考察 第203話「馬超と張飛(ばちょうとちょうひ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第202話「西涼ふたたび燃ゆ(せいりょうふたたびもゆ)」

    建安(けんあん)18(213)年、先に曹操(そうそう)に惨敗を喫し、いずこともなく落ち延びた馬超(ばちょう)が隴西(ろうせい)諸郡の攻略を進め、勢いを盛り返しつつあった。 しかし、冀城(きじょう)で馬超に降って許された楊阜(ようふ)は、従兄弟の姜叙(きょうじょ)らとともに曹操への忠義を貫き、馬超討伐に起ち上がる。 第202話の展開とポイント (01)冀県 忽然(こつぜん)と蒙古高原(もうここうげん)に現れ、胡夷(えびす)の猛兵を従えてたちまち隴西の州郡を切り取り、日に日に旗を増す一軍があった。 ★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「(ここで隴西とあるのは)『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・馬超伝)や(魏書〈ぎしょ〉・楊阜伝)によれば隴上(ろうじょう。隴山一帯)。隴上には、隴西・南安(なんあん)・漢陽(かんよう)・永陽(えいよう)の諸郡が含まれる」と

    吉川『三国志』の考察 第202話「西涼ふたたび燃ゆ(せいりょうふたたびもゆ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第201話「金雁橋(きんがんきょう)」

    雒城(らくじょう)の守りは堅く、劉備(りゅうび)らが攻めても陥ちる気配はない。やがて城内の劉璋軍(りゅうしょうぐん)が反撃に転ずると、不意を突かれた劉備軍は敗走。だが荊州(けいしゅう)から張飛(ちょうひ)が合流し、劉備は命拾いする。 その後、出撃した呉蘭(ごらん)と雷同(らいどう)が捕らえられ、劉備に降ったことが伝わると、雒城の士気は著しく低下。そこで張任(ちょうじん)は一計を案じ、呉懿(ごい)や劉璝(りゅうかい)の意向を聞く。 第201話の展開とポイント (01)涪城(ふじょう) 諸葛亮(しょかつりょう)が荊州を発つときに出した(建安〈けんあん〉18〈213〉年の)7月20日付の返簡は、やがて劉備の手に届いた。水陸ふた手に分かれて蜀(しょく)へ急ぐとのことに、涪城に籠もる劉備は到着を待ち遠しく思う。 ある日、黄忠(こうちゅう)が、寄せ手の蜀兵は長陣に倦(う)み飽き、惰気満々のていたらくだ

    吉川『三国志』の考察 第201話「金雁橋(きんがんきょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第200話「草を刈る(くさをかる)」

    先に蜀(しょく)に入った劉備(りゅうび)の要請を受け、諸葛亮(しょかつりょう)の指示で巴郡(はぐん)を経由し、雒城(らくじょう)へ向かう張飛(ちょうひ)。 だが、巴郡を守る厳顔(げんがん)は世に聞こえた名将で、張飛の策をことごとく退ける。それでも彼は諦めず、苦心の末にひとつの奇策を思いつく。 第200話の展開とポイント (01)巴城の城外 百計も尽きたときに、苦悩の果てが一計を生む。人生、いつの場合も同じである。張飛は一策を案出し、7、800の兵を集めて命じた。 「貴様たちはこれから鎌を持って山路を尋ね、馬糧の草を刈ってこい。なるべく巴城の裏山に面したところの奥深い山の草を刈ってまいれ」 翌日もその翌日も、草刈り部隊は盛んに隊へ草を運んだ。城中の厳顔は察しがつかなかったので、10人の物見を選んで鎌を持たせ、こう密命を下した。 「夜のうちに裏山へ入り込み、夜明けとなり張飛の兵がやってきたら

    吉川『三国志』の考察 第200話「草を刈る(くさをかる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第199話「破軍星(はぐんせい)」

    涪城(ふじょう)を出てから劉備(りゅうび)とふた手に分かれ、雒城(らくじょう)を目指す龐統(ほうとう)。彼が落鳳坡(らくほうは)で無念の戦死を遂げたころ、ちょうど荊州(けいしゅう)では七夕の祭りが行われていた。 劉備が遠征中のため、城中で催す酒宴もささやかなものだったが、このとき諸葛亮(しょかつりょう)は西の夜空に破軍星を見る。 第199話の展開とポイント (01)荊州(襄陽〈じょうよう〉?) (建安〈けんあん〉18〈213〉年の)七夕の宵だった。城内の街々は紅燈(こうとう)や青燈に彩られている。 ★いつもながら荊州(城)がどこの城を指しているのかわかりにくく、ここでもはっきりしない。 毎年の例なので荊州の城中でも、諸葛亮は主君の留守ながら祭を営み、酒宴を設けて諸将を慰めた。 すると夜も更けたころ、ひとつの大きな星が怪しい光芒(こうぼう)を引き、西の空へ飛んだと思うと白い光煙を残し、パッと

    吉川『三国志』の考察 第199話「破軍星(はぐんせい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第197話「短髪壮士(たんぱつそうし)」

    雒城(らくじょう)郊外で奪取した敵陣に黄忠(こうちゅう)と魏延(ぎえん)を置き、ひとまず涪城(ふじょう)へ戻る劉備(りゅうび)。涪城では龐統(ほうとう)が留守を預かっていた。 漢中(かんちゅう)の張魯軍(ちょうろぐん)が葭萌関(かぼうかん)に攻め寄せたと聞くと、劉備は龐統の進言を容れ、孟達(もうたつ)と霍峻(かくしゅん)を遣って守りを固める。ふたりの出発を見送った龐統が仮の住まいに帰ってくると、見知らぬ男が玄関で寝ていた。 第197話の展開とポイント (01)涪城 奪取した2か所の陣地に、黄忠と魏延の二軍を入れて涪水(ふすい)の線を守らせ、ひとまず劉備は涪城へ帰った。このころ遠くへ行っていた細作(さいさく。間者)が戻り、蜀外(しょくがい)の異変を伝える。 呉(ご)の孫権(そんけん)が密使を送り、漢中の張魯に兵や軍需の援助を約束したという。これに力を得た張魯は、かねての野望を達せんと、漢中軍

    吉川『三国志』の考察 第197話「短髪壮士(たんぱつそうし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第196話「魏延と黄忠(ぎえんとこうちゅう)」

    涪城(ふじょう)に入った劉備(りゅうび)は続いて雒城(らくじょう)を狙う。雒城は涪城と成都(せいと)の間に位置する要害だった。 雒城から出撃した劉璋(りゅうしょう)配下の冷苞(れいほう)と鄧賢(とうけん)に対し、劉備側では魏延(ぎえん)と黄忠(こうちゅう)が先鋒の座を巡って言い争う。結局ふたりもふた手に分かれ、それぞれ敵陣を攻めることになるが――。 第196話の展開とポイント (01)成都 玄徳(げんとく。劉備のあざな)、涪城を取ってこれに拠る、と聞こえ渡るや蜀中(しょくちゅう)は鳴動した。とりわけ成都の混乱と、太守(たいしゅ)の劉璋の驚き方といったらない。 痛嘆する一部の側臣を尻目にかけ、劉璝(りゅうかい)・冷苞・張任(ちょうじん)・鄧賢などは、「それ見たことか」と自分たちの先見を誇ってみたものの、今は内輪もめしていられる場合でもなかった。 彼ら4人は劉璋の一任を取り付け、成都の精鋭5万

    吉川『三国志』の考察 第196話「魏延と黄忠(ぎえんとこうちゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第195話「酒中別人(しゅちゅうべつじん)」

    劉備(りゅうび)は劉璋(りゅうしょう)との間に戦端を開き、首尾よく涪水関(ふすいかん)を攻略する。 城内では勝利の祝い酒が存分に振る舞われ、劉備も大酔。そして翌朝に目覚めると、劉備は起き抜けに龐統(ほうとう)から皮肉を言われ、思わず怒鳴りつけてしまう。 第195話の展開とポイント (01)涪城(ふじょう) 葭萌関(かぼうかん)を退いた劉備は、ひとまず涪城の城下で総軍をまとめる。そして涪水関を固める楊懐(ようかい)と高沛(こうはい)に、荊州(けいしゅう)への帰還と翌日の関門通過の旨を言い送った。 ★『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(涪水関〈ふうすいかん〉は)涪関とも呼ばれるが、正しくは白水関(はくすいかん)」だという。 (02)涪水関 楊懐と高沛は、劉備が関門を通過したあと酒宴を設けて刺殺する手はずを整え、夜が明けるのを待つ。 (03

    吉川『三国志』の考察 第195話「酒中別人(しゅちゅうべつじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第194話「上・中・下(じょう・ちゅう・げ)」

    葭萌関(かぼうかん)の劉備(りゅうび)のもとに、曹操軍(そうそうぐん)が南下を開始したとの情報が入る。 そこで劉備は龐統(ほうとう)の進言を容れ、孫権(そんけん)に助力するためいったん荊州(けいしゅう)へ帰る旨の書簡を送り、劉璋(りゅうしょう)に兵士と兵糧の提供を頼む。ところが劉璋から届けられたのは――。 第194話の展開とポイント (01)葭萌関 葭萌関は四川(しせん)と陝西(せんせい)の境にあり、ここはいま漢中(かんちゅう)の張魯軍(ちょうろぐん)と、蜀(しょく)に代わって関を守る劉備軍とが対峙(たいじ)していた。 攻めるも難、防ぐも難。両軍は悪戦苦闘のまま互いに譲らず、はや幾月かを過ごしていた。 曹操が呉(ご)へ攻め下ったことが伝わると、劉備は龐統に対応を諮る。龐統はこの際、その聞こえを利用し、劉璋に一書を送るよう勧めた。 曹操軍が南下したので、呉の孫権から荊州へ救援を求めてきている

    吉川『三国志』の考察 第194話「上・中・下(じょう・ちゅう・げ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第192話「珠(たま)」

    建安(けんあん)12(207)年、孫権(そんけん)の母の呉氏(ごし)が大病を患い、娘(孫権の妹)のことを託して息を引き取った。 そして翌建安13(208)年、孫権は母の遺言である劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)討伐に乗り出すが、ちょ... 孫権が一室に沈吟していると、張昭が一計をささやく。母公のお叱りは、ただただ愛娘への情に引かれておいでになるだけのことだとして、ひとりの大将に500騎ほどを授け、急きょ荊州へ差し向けられるようにと。 そして妹君に密書を送り、「母公の病篤し、命旦夕にあり、すぐ帰りたまえ」と促すのだと。その折に劉備の一子である阿斗(あと)をも連れ呉へ下ってこられたなら、後はもうこちらのものだと。それを人質に荊州を返せと迫るのだとも。 孫権は妙計だと言い、張昭が薦めた周善(しゅうぜん)を呼び、妹への密書を託す。 ★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちく

    吉川『三国志』の考察 第192話「珠(たま)」
  • 吉川『三国志』の考察 第191話「鴻門の会に非ず(こうもんのかいにあらず)」

    劉璋(りゅうしょう)は、要請に応じてくれた劉備(りゅうび)への謝意を伝えるため涪城(ふじょう)まで出向き、城内で歓迎の宴(うたげ)を催す。 ほどなく答礼として、今度は劉備が劉璋らを招いて酒宴を開いたものの、この席で両者の重臣たちが険悪な雰囲気になる。やがて事態は一触即発の危機を迎えるが――。 第191話の展開とポイント (01)蜀(しょく)の国境 建安(けんあん)16(211)年の冬12月、ようやく劉備は蜀へ入る。国境には、劉璋の命を受けた孟達(もうたつ)が4千騎とともに出迎えていた。 ★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第60回)では、孟達は5千の軍勢とともに出迎えている。 先に法正(ほうせい)がもたらした返事により、劉備が来援を承諾したことを聞くと、劉璋は無性に喜ぶ。そして道々の地頭(じとう)や守護人に命じ、あらゆる歓待をさせた。 ★ここで地頭という表現

    吉川『三国志』の考察 第191話「鴻門の会に非ず(こうもんのかいにあらず)」
  • 吉川『三国志』の考察 第190話「進軍(しんぐん)」

    劉備(りゅうび)は劉璋(りゅうしょう)の求めに応じ、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を討伐するとの名目で入蜀(にゅうしょく)の決意を固める。 そして黄忠(こうちゅう)・魏延(ぎえん)・龐統(ほうとう)らを遠征軍に加える一方で、荊州(けいしゅう)には諸葛亮(しょかつりょう)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・趙雲(ちょううん)らを残すことにした。 第190話の展開とポイント (01)成都(せいと) 張松(ちょうしょう)の復命を受けた劉璋は、面に狼狽(ろうばい)の色を隠せない。そこで張松は荊州の劉備を頼むよう勧め、そのための使者として孟達(もうたつ)と法正(ほうせい)を推薦する。 ところが、ここへ入ってきた黄権(こうけん)が大声で反対を唱えた。 劉備といえば、曹操(そうそう)すら恐れる人物。彼を迎え入れたら、たちまち人心が集まってしまうかもしれない。国にふたりの主なしだと。 さらに、張松は

    吉川『三国志』の考察 第190話「進軍(しんぐん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第188話「孟徳新書(もうとくしんしょ)」

    会見の席で曹操(そうそう)の機嫌を損じた張松(ちょうしょう)は、声をかけてきた楊修(ようしゅう。楊脩)に誘われるまま奥書院で話をする。 なおも非難を続ける張松に、楊修が曹操の著書である『孟徳新書(もうとくしんしょ)』を紹介したところ、張松は思わぬことを言いだす。 第188話の展開とポイント (01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ) 楊修(楊脩)は張松を奥書院に連れていき、座を勧めると、自ら茶を煮て遠来の労を慰める。そして、蜀(しょく)の国情や地理などについて話を聴いた。 張松は、名門楊家の子たる者が、なぜ丞相府の一官吏となり、卑しき曹操の頤使(いし)に甘んじておられるかと言い、なぜ廟堂(びょうどう。朝廷)に立って天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を助け、四海の政事(まつりごと)に身命を捧げようとはなさらぬかと尋ねる。 楊修は身を恥ずるがごとく、顔を赤らめたまま、しばしうつむいていたが

    吉川『三国志』の考察 第188話「孟徳新書(もうとくしんしょ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第187話「蜀人・張松(しょくじん・ちょうしょう)」

    蜀(しょく)の地を治める劉璋(りゅうしょう)配下の張松(ちょうしょう)は、漢中(かんちゅう)の張魯軍(ちょうろぐん)の南下に対抗すべく、許都(きょと)の曹操(そうそう)の助力を得るため使者となる。 ところが曹操は張松の物言いに激怒し、会見の途中で席を立つ。この態度にあきれる張松に、あえて声をかけた若者がいた。 第187話の展開とポイント (01)漢中 近年、漢中の土民の間を「五斗米教(ごとべいきょう)」と呼ばれる一種の道教が風靡(ふうび)していた。その宗教へ入るには、信徒になる証(しるし)として5斗の米を持っていくことが掟(おきて)になっていた。教主は師君(しくん)と称している。 素性を洗えば、蜀の鵠鳴山(こうめいざん。鶴鳴山〈かくめいざん〉)で道教を広めていた張衡(ちょうこう)という道士の子で張魯、あざなを公祺(こうき)という人物だった。 師君の張魯を巡り、治頭(じとう)や大祭酒(だいさ

    吉川『三国志』の考察 第187話「蜀人・張松(しょくじん・ちょうしょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第186話「兵学談義(へいがくだんぎ)」

    韓遂(かんすい)と仲間割れした馬超(ばちょう)は奮戦むなしく曹操(そうそう)に敗れ、龐徳(ほうとく)や馬岱(ばたい)とも別れて落ち延びる。 一方、曹操は許都(きょと)へ凱旋(がいせん)の途に就く前夜、諸将を集めて宴会を催し、その席で兵学談義に興じた。 第186話の展開とポイント (01)渭水(いすい)の南岸 馬超と韓遂の仲間割れと同時に(曹操と馬超の)和睦も決裂する。馬超は、自ら付けた火と自ら招いた禍いの兵に追われ、辛くも渭水の仮橋まで逃げ延びてきた。 顧みると龐徳(龐悳)や馬岱とも散りぢりになり、付き従う兵はわずか100騎に足らない。近づいてくる李堪(りたん)を味方だと信じていると、彼は真っ先に槍(やり)をひねって馬超へ打ちかかった。 ★李堪について手元にある3種類の吉川『三国志』を見比べてみると、講談社版(新装版および別の古いもの)では「李湛(りたん)」となっていたが、新潮社版では「李

    吉川『三国志』の考察 第186話「兵学談義(へいがくだんぎ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第185話「敵中作敵(てきちゅうさくてき)」

    曹操(そうそう)は賈詡(かく)の献策を容れ、馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)の離間を図る。 曹操の芝居にまんまと騙(だま)された馬超は、韓遂のことが信じられなくなった。ついには韓遂の営に押し入り、彼の左腕を斬り落とすに至る。ふたりの亀裂は修復不可能になってしまう。 第185話の展開とポイント (01)渭水(いすい)の南岸 韓遂の営 韓遂の幕舎へ、不意に曹操の使いがやってくる。韓遂が受け取った書面を開いてみると、曹操の直筆に違いなく、かつての交わりに触れたものだった。 (02)渭水 曹操の営 韓遂は旧情を動かされ、翌日、鎧(よろい)も着ず武者も連れず、ぶらりと曹操を訪ねる。ところがなぜか曹操は内へ導かず、自分から陣外へ出てきて、いとも親しげに平常の疎遠を詫びた。 ★ここで曹操は、かつて韓遂の父とともに孝廉(こうれん)に挙げられ、少壮のころにはいろいろ世話になったと話していた。また曹操

    吉川『三国志』の考察 第185話「敵中作敵(てきちゅうさくてき)」
  • 吉川『三国志』の考察 第184話「火水木金土(かすいもくきんど)」

    曹操(そうそう)は渭水(いすい)北岸に寨(とりで)を築こうと考えたものの、完成間近を狙って西涼軍(せいりょうぐん)が襲来するため、なかなかうまくいかない。 しかし夢梅(むばい)と名乗る老人から妙案を聞き、ついに完成に漕(こ)ぎつける。それは氷の城ともいうべきものだった。 第184話の展開とポイント (01)渭水の北岸 曹操の営 渭水は大河だが水深は浅く、その流れは無数に分かれており、河原が多くて瀬は速い。場所によって深い淵(ふち)もあるが、浅瀬は馬でも渡れるし、徒渉もできる。 ここを挟み、曹操は野陣を布(し)き西涼軍と対していたが、夜襲や朝討ちの不安は絶え間がなかった。 そこで曹仁(そうじん)を急き立て、半永久的な寨の構築にあたらせる。曹仁は築造奉行(ちくぞうぶぎょう)となり、渭水の淵に船橋を架け、2万人の人夫に石や材木を運搬させ、沿岸の3か所に仮城を建てるべく日夜急いでいた。 馬超(ば

    吉川『三国志』の考察 第184話「火水木金土(かすいもくきんど)」
  • 吉川『三国志』の考察 第182話「不俱戴天(ふぐたいてん)」

    父の馬騰(ばとう)が曹操(そうそう)に処刑されたことを知った馬超(ばちょう)は、あまりの衝撃に、その場で昏絶(こんぜつ)してしまう。 だが、ほどなく劉備(りゅうび)の密使から書簡を受け取ると、馬超は父の親友だった韓遂(かんすい)とともに起ち上がり、潼関(どうかん)を突破して長安(ちょうあん)へ攻め寄せる。 第182話の展開とポイント (01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ) このとき丞相府には、荊州(けいしゅう)の劉備がいよいよ蜀(しょく)に攻め入りそうだとの報が届いていた。 もし劉備が蜀に入ったら、淵(ふち)の龍が雲を得、江岸の魚が蒼海(あおうみ)へ出たようなものである。再び一僻地(いちへきち)へ屈服せしめることはもうできない。魏(ぎ)にとって新たに重大な強国が出現することになろう。 曹操は数日、庁の奥に閉じ籠もり対策を練っていた。 ここで治書侍御史(ちしょじぎょし)・参軍事(さ

    吉川『三国志』の考察 第182話「不俱戴天(ふぐたいてん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第181話「馬騰と一族(ばとうといちぞく)」

    建安(けんあん)16(211)年、許都(きょと)の曹操(そうそう)は、荊州(けいしゅう)の劉備(りゅうび)が人材をそろえ、軍備の拡張に注力していることを聞く。 そこで荀攸(じゅんゆう)の献策を容れ、西涼(せいりょう)の馬騰(ばとう)に劉備を討伐させようと考える。献帝(けんてい)の詔(みことのり)を拝受した馬騰は軍勢をひきい、甥の馬岱(ばたい)とともに都へ上るが――。 第181話の展開とポイント (01)荊州(江陵〈こうりょう〉?) 龐統(ほうとう)は、その日から副軍師中郎将(ふくぐんしちゅうろうしょう)に任ぜられた。総軍の司令を兼ね、最高参謀府にあって諸葛亮(しょかつりょう)の片腕にもなるべき重職に就いたわけである。 ★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第57回)では、龐統は副軍中郎将に任ぜられたとある。 (02)許都 建安16(211)年の初夏、丞相府(じ

    吉川『三国志』の考察 第181話「馬騰と一族(ばとうといちぞく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第180話「酔県令(すいけんれい)」

    ちょうど諸葛亮(しょかつりょう)が荊州(けいしゅう)南部4郡の視察に出ていたとき、龐統(ほうとう)が劉備(りゅうび)を訪ねてくる。 しかし劉備は、風采の上がらない龐統の実力を見抜けず、耒陽県令(らいようけんれい)という閑職に就けてしまう。さっそく赴任した龐統だったが――。 第180話の展開とポイント (01)荊州(江陵〈こうりょう〉?) ここしばらく、諸葛亮は荊州にいなかった。新領治下の民情を見、4郡(武陵〈ぶりょう〉・桂陽〈けいよう〉・長沙〈ちょうさ〉・零陵〈れいりょう〉)の産物などを視察して歩いていた。 その留守中に龐統がやってくる。劉備は取り次ぎの家臣に、すぐ丁重に案内せよと命じた。 だが堂に迎えられても、龐統は長揖(ちょうゆう。簡単な敬礼。両手を組み合わせて上げ下ろしする)して拝すでもなく、すこぶる無作法に佇立(ちょりつ)している。 のみならず、風体は卑しげだし、顔は醜いときている

    吉川『三国志』の考察 第180話「酔県令(すいけんれい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第179話「鳳雛去る(ほうすうさる)」

    周瑜(しゅうゆ)の逝去を受け、孫権(そんけん)は遺言通りに魯粛(ろしゅく)を後任の大都督(だいととく)とした。 周瑜の弔問に駆けつけた諸葛亮(しょかつりょう)は、帰りの江岸で旧知の龐統(ほうとう)と再会。劉備(りゅうび)への仕官を勧めたうえ、自筆の推薦状も渡す。 第179話の展開とポイント (01)南徐(なんじょ。京城〈けいじょう〉?) 喪旗を垂れ、柩(ひつぎ)を載せた船は哀々たる弔笛を流しながら夜航し、巴丘(はきゅう)を出て呉(ご)へ下っていった。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「(ここで出てきた巴丘は巴丘山のことで、)巴丘山は周瑜が死んだ場所である」という。 また「巴丘という地名は『三国志演義』(第29回)にも、周瑜の駐屯してい

    吉川『三国志』の考察 第179話「鳳雛去る(ほうすうさる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第177話「文武競春(ぶんぶきょうしゅん)」

    袁紹(えんしょう)をはじめとする袁氏一門を滅ぼした後、曹操(そうそう)は鄴城(ぎょうじょう)に築かせた銅雀台(どうじゃくだい)で盛宴を催す。 武官には弓の腕前を競わせ、文官には詩の出来を競わせるなど、まさに文武競春の趣だった。だが、この場に劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)に関する急報が届く。 第177話の展開とポイント (01)鄴城 銅雀台 冀北(きほく)の強国である袁紹が滅び、今年で9年目。 ★ここは建安(けんあん)7(202)年の袁紹の死から数えて9年目になる。 その後、袁紹の息子の袁譚(えんたん)は建安10(205)年に討ち死にし、続いて袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)も、建安12(207)年に公孫康(こうそんこう)に殺害された。 こうして人文すべて改まったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変わらなかった。建安15(210)年の春、鄴城の銅雀台は足かけ8年にわたる大工事

    吉川『三国志』の考察 第177話「文武競春(ぶんぶきょうしゅん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第176話「周瑜・気死す(しゅうゆ・きしす)」

    諸葛亮(しょかつりょう)の周到な手回しの前に、とうとう劉備(りゅうび)を取り逃がした周瑜(しゅうゆ)。 さらに、劉備を迎えに来た諸葛亮から辛辣(しんらつ)な言葉を投げかけられると、周瑜は血を吐き倒れてしまう。 第176話の展開とポイント (01)劉郎浦(りゅうろうほ) 諸葛亮が従えてきた荊州(けいしゅう)の舟手の兵は、みな商人に姿を変えていた。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「劉郎浦は劉郎洑ともいう。後漢(ごかん)では荊州(けいしゅう)南郡(なんぐん)に属した。なお、この地名は実際には三国時代以後に登場した地名であり、唐宋(とうそう)時代の書物には、劉備が呉(ご)の孫権の妹を娶(めと)ったところとして記されている」という。 劉備と夫

    吉川『三国志』の考察 第176話「周瑜・気死す(しゅうゆ・きしす)」
  • 吉川『三国志』の考察 第175話「凜々細腰の剣(りんりんさいようのけん)」

    の承諾を得たうえで密かに孫権(そんけん)のもとを離れ、荊州(けいしゅう)への帰路を急ぐ劉備(りゅうび)主従。 ほどなく孫権や周瑜(しゅうゆ)の手配した追手に阻まれたが、この危機を新の一喝で退ける。 第175話の展開とポイント (01)柴桑(さいそう)の郊外 劉備らは夜も日も馬に鞭(むち)打ち続け、ようやく柴桑へ近づく。劉備はややホッとしたが、夫人の呉氏(ごし)は何と言っても女性の身、騎馬の疲れは思いやられた。 ★ここで劉備の夫人を呉氏としていたのは誤り。彼女は孫堅(そんけん)の娘なので、正しくは孫氏。ちなみに呉氏は生母の姓である。 だが、幸いにも途中の一豪家で車を求めることができ、夫人は車の内に移る。そして、なお道を急いで落ち延びた。 やがて山の一方から大声がする。約500の兵がふた手になり追ってきたのだ。趙雲(ちょううん)は劉備と夫人を先へ行かせ、後に残って防ぐ。 この日の難は一応

    吉川『三国志』の考察 第175話「凜々細腰の剣(りんりんさいようのけん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第174話「朝の月(あさのつき)」

    赤壁(せきへき)の戦いにおける大勝の余勢を駆り、孫権(そんけん)は自ら大軍をひきいて合淝(がっぴ。合肥)を攻めた。しかし曹操(そうそう)配下の張遼(ちょうりょう)に加え、その副将たる李典(りてん)と楽進(がくしん)の前に戦況は振るわない。 ... ★また井波『三国志演義(4)』(第55回)では婚礼の後、劉備は孫乾(そんけん)を荊州(けいしゅう)へ帰らせ、(諸葛亮〈しょかつりょう〉らに)結婚の報告をさせたとある。だが吉川『三国志』では、孫乾を荊州へ帰したことに触れていなかった。 その中にあって、ひとり密かに憤(うっぷん)のやり場もなく仮病を唱え、一室に耳をふさぎ、目を閉じていたのは孫権。 そこへ柴桑の周瑜から早馬が着き、一書を届けてくる。まだ金瘡(きんそう。刀傷や矢傷)の病は癒えないとのことながら、今後の方策がしたためてあった。 ★井波『三国志演義(4)』(第55回)では、孫権のほうが柴桑

    吉川『三国志』の考察 第174話「朝の月(あさのつき)」
  • 吉川『三国志』の考察 第173話「鴛鴦陣(えんおうじん)」

    劉備(りゅうび)は孫権(そんけん)の妹を娶(めと)るため、趙雲(ちょううん)らを伴い、船で呉城(ごじょう)の港に到着した。 その一方、喬国老(きょうこくろう)から話を聞き、初めて娘の縁組みを知った呉夫人(ごふじん。孫権の継母)。いったんは激怒するも、甘露寺(かんろじ)で対面した劉備のことを大いに気に入る。 第173話の展開とポイント (01)呉城(京城〈けいじょう〉?) 喬国老邸(橋国老邸) 喬国老は、劉備と呉妹君(ごまいくん)に縁談があったと聞いて驚く。そして、劉備が着船を呉城へ届けていないと知ると、すぐに家臣を走らせる。 さらに家族には劉備一行を心から歓待させ、一応宮中へお伺いしてくると言い、白馬に乗って登城した。 ★この第173話で呉城としているところは、『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第54回)では南徐(なんじょ)となっていた。南徐については先の第

    吉川『三国志』の考察 第173話「鴛鴦陣(えんおうじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第172話「柳眉剣簪(りゅうびけんさん)」

    劉琦(りゅうき)の死をきっかけに、孫権(そんけん)は再び劉備(りゅうび)に荊州(けいしゅう)の返還を要求し、使者として魯粛(ろしゅく)を遣わす。 ところが劉備は、諸葛亮(しょかつりょう)の助言を得てうまくかわそうとしたため、魯粛は周瑜(しゅうゆ)と相談のうえ、ある女性を劉備に娶(めあわ)せてはどうかと考える。 第172話の展開とポイント (01)荊州(江陵〈こうりょう〉?) その後、劉備の身辺にひとつの異変が生ずる。劉琦の死であった。亡き劉表(りゅうひょう)の嫡子として劉備はあくまで劉琦を立ててきたが、生来多病の彼は若くして襄陽(じょうよう)城中で長逝した。 諸葛亮が、その葬儀委員長の任を済ませて荊州へ帰ると、すぐに劉備にこう求めた。 「琦君(劉琦)の代わりに、誰かただちに彼処(かしこ)の守りにお遣わしください」 劉備が適任者を尋ねると、やはり関羽(かんう)だという。諸葛亮も心では、何と言

    吉川『三国志』の考察 第172話「柳眉剣簪(りゅうびけんさん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第171話「針鼠(はりねずみ)」

    赤壁(せきへき)の戦いにおける大勝の余勢を駆り、孫権(そんけん)は自ら大軍をひきいて合淝(がっぴ。合肥)を攻めた。しかし曹操(そうそう)配下の張遼(ちょうりょう)に加え、その副将たる李典(りてん)と楽進(がくしん)の前に戦況は振るわない。 さらに、孫策(そんさく)の時代から仕えてきた太史慈(たいしじ)が裏をかかれ、合淝城内へ誘い込まれた末に壮絶な戦死を遂げる。 第171話の展開とポイント (01)その後の劉備(りゅうび) ほどなく劉備は荊州(けいしゅう)へ引き揚げる。中漢(ちゅうかん)9郡のうち、すでに4郡は彼の手に収められた。 ★中漢9郡がよくわからず。荊襄(けいじょう)9郡と同義か? ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「(荊襄9郡は

    吉川『三国志』の考察 第171話「針鼠(はりねずみ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第170話「黄忠の矢(こうちゅうのや)」

    曹操(そうそう)に汝南(じょなん)を追われて以来、劉備(りゅうび)主従は荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せていた。 劉備らの立場は規模の大きい客のようなものだったが、劉表のほうでも彼らをうまく活用しようとする。しかし... 諸葛亮が「もしご辺(きみ)に不覚があった場合は?」と、わざと危ぶむがごとく念を押すと、張飛は「軍法にかけて、この首を今後の見せしめに献じよう」と応ずる。 ここで張飛が憤然と誓紙を書き示すと、劉備は兵3千を授けた。張飛は勇躍して武陵へ馳(は)せ向かう。 (02)武陵 そのころ城将の鞏志(きょうし)は太守の金旋(きんせん)を諫め、劉備軍への抗戦は無意味だと説いていた。怒った金旋は鞏志の首を斬ろうとしたが、人々が止めるので一命は助ける。 金旋は即座に戦備を整え、城外20里に防御の陣を布(し)く。張飛の戦法はほとんど暴力一方の驀進(ばくしん)だったが、無

    吉川『三国志』の考察 第170話「黄忠の矢(こうちゅうのや)」
  • 吉川『三国志』の考察 第168話「一摑三城(いっかくさんじょう)」

    赤壁(せきへき)の戦いで大勝利を収めた周瑜(しゅうゆ)は、当然のごとく荊州(けいしゅう)へ軍勢を進める。 一方の劉備(りゅうび)は油江口(ゆこうこう)まで営を進めて留まっており、この動きを警戒した周瑜は直接会談に臨む。そして、その席で荊州併吞への強い自信を見せた。だが、事態は思わぬ方向に転がり始め――。 第168話の展開とポイント (01)油江口 劉備の営 劉備は戻った孫乾(そんけん)から、いずれ周瑜自ら答礼に来ると言っていたとの報告を受ける。 諸葛亮(しょかつりょう)は、まず今度は探りだけのことでしょうと言い、劉備に対談の際の受け答えを助言した。 先触れのあった日、劉備は油江口の岸に兵船を並べ、軍馬や兵旗を整々と立てて周瑜の到着を待つ。周瑜は随員と守護の兵3千騎を連れて上陸。趙雲(ちょううん)の一隊に迎えられ、陣の轅門(えんもん。陣中で車の轅〈ながえ〉を向かい合わせ、門のようにしたも

    吉川『三国志』の考察 第168話「一摑三城(いっかくさんじょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第167話「功なき関羽(こうなきかんう)」

    赤壁(せきへき)から逃避行を続けた曹操(そうそう)主従は、いよいよ関羽(かんう)が待ち受ける華容道(かようどう)へ差しかかった。 曹操は関羽の姿を見て最期を覚悟したが、程昱(ていいく)に勧められると、彼が許都(きょと)に留まっていたころの話を持ち出し助命を乞う。迷い抜いた末に関羽が下した決断は――。 第167話の展開とポイント (01)華容道 難路へかかって全軍まったく進路を失い、雪も吹き積もるばかりなので、曹操は馬上から叱った。そして自ら下知にかかると、負傷兵や老兵はみな後陣へ退かせ、屈強な壮士ばかりを前に出す。 こうして付近の山林を切って橋を架け、柴(シバ)や草を刈って道を開き、泥濘(でいねい)を埋めていく。すさまじい努力と叱咤(しった)により第一の難所は越えたものの、残った士卒を数えてみると300騎足らずになっていた。 峠を越えて5、6里ばかり急いでくると、また曹操は鞍(くら)を叩き

    吉川『三国志』の考察 第167話「功なき関羽(こうなきかんう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第166話「山谷笑う(さんこくわらう)」

    赤壁(せきへき)の戦いで惨敗を喫し、一夜にして全軍の3分の2以上を失ってしまった曹操(そうそう)。 彼自身は何とか戦場を離脱できたものの、逃げる先々に待っていた劉備(りゅうび)配下の諸将から追撃を受ける。 第166話の展開とポイント (01)長江(ちょうこう)の北岸 曹操の営 80余万と唱えていた曹操軍は、この一敗戦で一夜に3分の1以下になったという。溺死(できし)した者、焼け死んだ者、矢に当たって倒れた者――。また陸上でも、馬に踏まれ、槍(やり)に追われ、山をなすばかりな死傷者を出し、三江(さんこう)の要塞から壊乱した。 だが当然ながら、犠牲者は呉(ご)のほうにも多かった。 (02)長江 乱戦中に波間から声を聞いた韓当(かんとう)が熊手で引き上げてみると、今宵の大殊勲者の黄蓋(こうがい)で、肩に矢を受けている。韓当は鏃(やじり)を掘り出すと旗を裂いて傷口を包み、さっそく後方へ送った。

    吉川『三国志』の考察 第166話「山谷笑う(さんこくわらう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第164話「降参船(こうさんぶね)」

    長江(ちょうこう)南岸に営を置く周瑜(しゅうゆ)のもとに、曹操(そうそう)から一書が届く。これを読んだ周瑜は魯粛(ろしゅく)の制止を聞かずに使者を斬り、諸将を集めて水陸の戦備について言い渡す。 ほどなく両軍は江上で激突したが、緒戦は孫権軍... 趙雲を遣った翌朝も望楼に上がり、今か今かと江を眺めていた。すると一艘の小舟がさかのぼってくる。だが、これは江夏の劉琦(りゅうき)だった。 劉琦は、東南風が吹くとともに呉の兵船や陸兵が色めき立っているとして、この風がやまないうちに必ず一会戦あらん、という物見の報告を伝える。 ふたりが語り合っているうちに番将のひとりが駆け上がってきて、樊口(はんこう)のほうから趙雲の舟らしきものが近づいてくると告げた。 劉備と劉琦が急いで楼を降り、埠桟(ふさん)にたたずんで待っていると、果たして諸葛亮を乗せた趙雲の舟だった。互いに無事を祝すと、袂(たもと)を連ねて夏

    吉川『三国志』の考察 第164話「降参船(こうさんぶね)」
  • 吉川『三国志』の考察 第163話「南風北春(なんぷうほくしゅん)」

    南屛山(なんぴょうざん)に築いた祭壇で祈りを捧げ、見事に東南(たつみ)の風を吹かせてみせた諸葛亮(しょかつりょう)だったが、その直後に行方をくらます。 周瑜(しゅうゆ)の命を受けた丁奉(ていほう)と徐盛(じょせい)が水陸ふた手に分かれて捜索にあたり、ようやく諸葛亮の舟を見つけたものの、その舟には趙雲(ちょううん)も同乗していた。 第163話の展開とポイント (01)長江(ちょうこう) 徐盛は水夫や帆綱の番を励まし、諸葛亮の舟を追う。すると諸葛亮と同船していた趙雲が舷端(ふなばた)に立ち、強弓から一矢を放つ。矢は徐盛の舟に張られている帆の親綱を射切った。 帆は大きく横になり、水中に浸る。そのため舟は江上に回り、立ち騒ぐ兵を乗せたまま危うく転覆しそうに見えた。水浸しの帆を張り、再び徐盛が追いかけようとしたときには、もう諸葛亮の舟は遠い煙波の彼方(かなた)に霞(かす)んでいた。 江岸づたいに陸地

    吉川『三国志』の考察 第163話「南風北春(なんぷうほくしゅん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第162話「孔明・風を祈る(こうめい・かぜをいのる)」

    -208年- 戊子(ぼし) 【漢】 建安(けんあん)13年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) 漢の建安13年は西暦(ユリウス暦)208年2月4日~209年2月21日 ユリウス暦 漢 干支 年 月 日 曜 年 月 日 208 2 4 ... そうしたうえで、南屛山(なんぴょうざん)の上に七星壇(しちせいだん)を築かせてほしいと願い出る。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「南屛山は山の名。荊州(けいしゅう)江夏郡(こうかぐん)に属す。現在の湖北省(こほくしょう)蒲圻市(ほきし)西北。後漢(ごかん)・三国時代にはこの地名はなかった」という。また「現在では蒲圻市赤壁山(せきへきざん)のうち、長江に突き出た先端部分を南屛山と呼んでいるよ

    吉川『三国志』の考察 第162話「孔明・風を祈る(こうめい・かぜをいのる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第161話「鉄鎖の陣(てっさのじん)」

    先に龐統(ほうとう)から勧められた連環の配列を完成させると、いよいよ曹操(そうそう)は大船団をひきいて烏林(うりん)まで進む。 吹きすさぶ烈風にも鎖でつながれた船の動揺は少なかったが、程昱(ていいく)はある不安を覚え、曹操に注意を促す。 第161話の展開とポイント (01)長江(ちょうこう)の北岸 曹操の営 数日後、水軍の総大将の毛玠(もうかい)と于禁(うきん)が、命令通りに連環の配列を成し終えたと報告。曹操は旗艦に上がって水軍を閲兵し、手分けを定める。 中央の船団は黄旗を翻し、毛玠や于禁のいる中軍の目印とする。前列の船団は檣頭(しょうとう。帆柱の先)に紅旗を掲げ、この一手の大将には徐晃(じょこう)。 ★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第48回)では、(水軍の)前軍の紅旗は張郃(ちょうこう)となっており、徐晃は(陸軍として歩騎をひきいる)前軍の紅旗とある

    吉川『三国志』の考察 第161話「鉄鎖の陣(てっさのじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第160話「月烏賦(つきよがらすのうた)」

    長江(ちょうこう)北岸に陣取る曹操(そうそう)は、諸将を一船に集めて盛大な夜宴を催す。 そのうち曹操は一羽の鴉(カラス)が月をかすめて飛ぶのを目にし、即興の賦(ふ)を吟じ始める。しかしこの賦が因(もと)で、揚州刺史(ようしゅうしし。楊州刺史)の劉馥(りゅうふく)は命を失うことになった。 第160話の展開とポイント (01)長江の北岸 曹操の営 曹操は、西涼(せいりょう)の馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)が蜂起したとのうわさを聞くと、許都(きょと)へ帰って都府を守る者を募った。 すると、この役目を徐庶(じょしょ)が買って出る。曹操は3千騎の精兵を付け、すぐに許都へ向かうよう命じた。 ★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第48回)では、徐庶は許都ではなく散関(さんかん)へ差し向けられており、その先鋒を臧霸(ぞうは。臧覇)が務めたとある。 (02)長江 建安(

    吉川『三国志』の考察 第160話「月烏賦(つきよがらすのうた)」
  • 吉川『三国志』の考察 第159話「竹冠の友(ちくかんのとも)」

    蔣幹(しょうかん)の誘いに乗ったふりをして曹操(そうそう)と会い、すっかり信用された龐統(ほうとう)。さらに、周瑜(しゅうゆ)に不満を持つ諸将の取りまとめ役を引き受ける。 そして、曹操の営を去るべく江岸の小舟に乗ろうとしたとき、龐統はいきなり後ろから抱きつかれる。意中の秘計をことごとく看破してみせた人物の正体は――。 第159話の展開とポイント (01)長江(ちょうこう)の北岸 曹操の営 龐統は、ここが大事だと密かに警戒。曹操が、呉(ご)の諸将の誘降に成功したうえは三公に封ずると言うと、言下に顔を横に振った。 そして、このような務めを目前の利益や将来の栄達のためにするわけではないとして、どうか呉へ攻め入られても、無辜(むこ)の民だけは殺さないよう計らってほしいと頼む。 さらに龐統は、一族が荊州(けいしゅう)を追われて呉の僻地(へきち)に住んでいることを話し、兵士の狼藉(ろうぜき)から免

    吉川『三国志』の考察 第159話「竹冠の友(ちくかんのとも)」
  • 吉川『三国志』の考察 第158話「鳳雛・巣を出ず(ほうすう・すをいず)」

    先に曹操(そうそう)の許しを得て周瑜(しゅうゆ)の説得にあたり、失敗した蔣幹(しょうかん)。黄蓋(こうがい)の投降が真実か見極めるため、再び長江(ちょうこう)南岸の周瑜の営を訪ねる。 だが周瑜は前回と態度を一変させ、前に来たときに寝房から軍の機密書簡が盗まれたとして、蔣幹を西山(せいざん)の山小屋に閉じ込める。蔣幹はうまく逃げ出して山中をさまようも、思わぬ人物の住まいへたどり着く。 第158話の展開とポイント (01)長江の北岸 曹操の営 曹操は、蔡兄弟(さいきょうだい。蔡和〈さいか〉と蔡仲〈さいちゅう。蔡中〉)と闞沢(かんたく)から伝えてきた話がうますぎる嫌いもあると、諸将に諮ってみる。 そのとき蔣幹が、先に周瑜の説得に失敗した罪を償いたいとし、再び呉(ご)へ渡り、蔡兄弟や闞沢の申し越しが真実か否かを確かめてくると言う。 いずれにせよ、曹操はにわかに決定できない大事と深く用心していた

    吉川『三国志』の考察 第158話「鳳雛・巣を出ず(ほうすう・すをいず)」
  • 吉川『三国志』の考察 第157話「裏の裏(うらのうら)」

    闞沢(かんたく)の巧みな弁舌の前に、さすがの曹操(そうそう)も黄蓋(こうがい)が投降するとの話をいくらか信じ始める。 一方、すでに周瑜(しゅうゆ)のもとに送り込まれていた蔡和(さいか)と蔡仲(さいちゅう。蔡中)は、自分たちが主役的な働きをしていることに高揚感を覚えたが――。 第157話の展開とポイント (01)長江(ちょうこう)の北岸 曹操の営 曹操は酒宴の間に、蔡和と蔡仲(蔡中)からの諜報(ちょうほう)を卓の陰で読んでいたが、すぐに袂(たもと)に秘め、さりげなく言った。 「さて闞沢とやら。今はご辺(きみ)に対し一点の疑いも抱いておらん。このうえは再び呉(ご)へ帰り、予が承諾した旨を黄蓋に伝え、十分に示し合わせてわが陣へ来てくれ」 すると闞沢は首を振って断り、使いにはほかにしかるべき者を遣ってほしいと言う。それでも何度も乞われると、闞沢は初めて承知した。 なお警戒していたものの、曹操も十

    吉川『三国志』の考察 第157話「裏の裏(うらのうら)」
  • 吉川『三国志』の考察 第156話「一竿翁(いっかんおう)」

    皆の前で周瑜(しゅうゆ)に罵倒されたうえ、百杖(ひゃくじょう)の刑まで受けて寝込む黄蓋(こうがい)。そこへ闞沢(かんたく)が見舞いにやってくる。 秘策を打ち明けられた闞沢は、黄蓋から託された曹操(そうそう)あての書簡を懐に、漁翁姿で長江(ちょうこう)北岸の敵地へ乗り込む。 第156話の展開とポイント (01)長江の南岸 黄蓋の軍営 ここ4、5日というもの、黄蓋は陣中の臥床(ふしど)に横たわったまま粥(かゆ)をすすり、日夜うめいていた。入れ替わり立ち替わり諸将が見舞いに来ている。 そのうち日ごろ親しい闞沢が来ると、黄蓋は無理に身を起こした。そして秘策を打ち明け、曹操あての書簡を託す。 闞沢は、それを受け取るとさりげなく暇(いとま)を告げ、いつか呉(ご)の陣中から姿を消していた。 (02)長江の北岸 曹操の営 その後、曹操の水寨(すいさい)のほとりで、ひとり釣り糸を垂れている漁翁があった。

    吉川『三国志』の考察 第156話「一竿翁(いっかんおう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第155話「風を呼ぶ杖(かぜをよぶつえ)」

    第155話の展開とポイント (01)長江(ちょうこう)の北岸 曹操の営 諸葛亮の計に乗せられて十数万の無駄矢を射たことが知れ渡ると、江北(こうほく)の陣地はすこぶる士気が上がらなかった。 ★曹操軍が十数万の無駄矢を射たことについては、前の第154話(02)を参照。 荀攸(じゅんゆう)は苦念の末、内情を探るため呉軍(ごぐん)に埋伏の毒を飲ませるよう献策。 曹操は最上の計だと認めながらも、兵法では最も難しい謀略と言われていることにも触れ、適任者がいるかと尋ねる。 荀攸は、先に丞相(じょうしょう。曹操)がご成敗になった蔡瑁(さいぼう)の甥に、蔡和と蔡仲(蔡中)という者がいると話す。ふたりが丞相を恨んでいると誰もが考えるであろうことこそ、この策の狙いどころなのだとも。 荀攸は許しを得ると、翌日に謹慎中のふたりを訪ね、まずは赦免の命を伝えて恩を売る。その後、ふたりを伴い曹操の前に出た。 曹操は酒を

    吉川『三国志』の考察 第155話「風を呼ぶ杖(かぜをよぶつえ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第154話「覆面の船団(ふくめんのせんだん)」

    周瑜(しゅうゆ)の頼みを引き受ける形で、10万もの矢を3日のうちに調達することになった諸葛亮(しょかつりょう)。 借り受けた船20余艘(そう)に妙な細工を施すと、魯粛(ろしゅく)を伴い夜の長江(ちょうこう)へ漕(こ)ぎだす。その行き先は何と――。 第154話の展開とポイント (01)長江 夜靄(よもや)が深く垂れ込める中、諸葛亮と魯粛らを乗せた20余艘の兵船は纜(ともづな)を長くつなぎ合い、北方へ向かい徐々に遡航していた。 魯粛は、藁(ワラ)と布でくまなく船体を覆い隠したことを「覆面の船」と表現。船団の目的をしきりに尋ねるが、諸葛亮は、夜靄が晴れたらわかると言うばかり。 (02)長江の北岸 曹操(そうそう)の営 この夜靄に対し、曹操は宵のうちから特に江岸の警備に厳令を出していた。そして部下を督励したばかりでなく、自身も深更(深夜)まで寝ていなかった。 すると案の定、四更(午前2時前後)

    吉川『三国志』の考察 第154話「覆面の船団(ふくめんのせんだん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第153話「陣中戯言なし(じんちゅうぎげんなし)」

    曹操(そうそう)が送り込んだ蔣幹(しょうかん)を逆に用い、敵の水軍首脳部の入れ替えに成功した周瑜(しゅうゆ)。 次の狙いは自陣に留まっている諸葛亮(しょかつりょう)。そこで周瑜は軍議の席上、水戦に備えてどのような武器を多く調えておくべきか、という話を諸葛亮に向ける。 第153話の展開とポイント (01)長江(ちょうこう)の南岸 周瑜の営 周瑜は、曹操が蔡瑁(さいぼう)と張允(ちょういん)を殺し、水軍の首脳部を入れ替えたことを聞く。そこで計略の成功を喜ぶ一方、魯粛(ろしゅく)を通じて諸葛亮の反応を探らせる。 (02)長江の南岸 諸葛亮の船住居 翌日、魯粛が船住居を訪ねると、諸葛亮は今日にも出向き、周都督(しゅうととく。周瑜)に賀を述べたいと思っていたと言う。 魯粛が、何の慶事があったのかと尋ねると、諸葛亮は、周都督があなたをここへ遣わし私の胸を探らせようとなさった、そのことだと言う。 そし

    吉川『三国志』の考察 第153話「陣中戯言なし(じんちゅうぎげんなし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第152話「群英の会(ぐんえいのかい)」

    曹操(そうそう)が新たに整備したという要塞を、ある夜ひそかに探りに行く周瑜(しゅうゆ)。彼はその規模や出来栄えに驚かされる。 翌日、心配の種が増えた周瑜の軍営を、旧友の蔣幹(しょうかん)が訪ねてくる。すぐに周瑜は来意を見抜き――。 第152話の展開とポイント (01)曹操の営 蔡瑁(さいぼう)と張允(ちょういん)は曹操の前に出て百拝し、こたびの不覚を陳謝する。 ★このとき曹操がいた場所がよくわからなかった。 だが曹操は、要は将来にあると言い、ふたりをとがめない。すると蔡瑁は敗因を自己分析し、攻撃をやめて守備の態を取るよう献策。 渡口(わたし)を固めて要害を擁し、水中には遠くにわたり水寨(すいさい)を構え、一大要塞とする。そしておもむろに敵を誘い、その虚を突き、疲れを待って一挙に下江を図るのだと。 曹操は任せることにし、さっそくふたりは軍の再整備に取りかかった。長江(ちょうこう)北岸の要地

    吉川『三国志』の考察 第152話「群英の会(ぐんえいのかい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第151話「狂瀾(きょうらん)」

    長江(ちょうこう)南岸に営を置く周瑜(しゅうゆ)のもとに、曹操(そうそう)から一書が届く。これを読んだ周瑜は魯粛(ろしゅく)の制止を聞かずに使者を斬り、諸将を集めて水陸の戦備について言い渡す。 ほどなく両軍は江上で激突したが、緒戦は孫権軍(そんけんぐん)の大勝だった。戦況を聞いた曹操は、もと劉表(りゅうひょう)配下の蔡瑁(さいぼう)と張允(ちょういん)を呼ぶ。 第151話の展開とポイント (01)三江(さんこう) 周瑜の営 帳外から様子をうかがっていた諸葛亮(しょかつりょう)。劉備(りゅうび)の背後に関羽(かんう)が侍立しているのを見て、ひとまず安心する。 雑談の末、劉備はそばにいた魯粛を顧み、ここへ諸葛亮を呼んでもらえないかと言ってみた。するとすぐに周瑜が返事を奪い、話を脇へ逸らす。 劉備の袂(たもと)を引き、後ろからそっと目くばせする関羽。ここで劉備は、うまく席を立つ機をつかみ、別

    吉川『三国志』の考察 第151話「狂瀾(きょうらん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第150話「殺地の客(さっちのきゃく)」

    孫権(そんけん)が曹操(そうそう)との開戦を決断すると、周瑜(しゅうゆ)は呉軍大都督(ごぐんだいととく)として出陣し、長江(ちょうこう)の南岸に営を設けた。 このとき諸葛亮(しょかつりょう)も参陣したが、周瑜は彼を呼び、ある難題をふっかける。諸葛亮はすぐに周瑜の意図を看破するが――。 第150話の展開とポイント (01)長江 諸葛亮は改めて孫権に暇(いとま)を告げ、その日、少し遅れて一隻の軍船に身を託す。同船の人々はみな前線に赴く将士で、この中に程普(ていふ)や魯粛(ろしゅく)もいた。 (02)長江の南岸 周瑜の営 周瑜が諸葛亮を呼ぶよう言うと、魯粛は自ら迎えに行く。雑談の末に周瑜は、白馬(はくば)や官渡(かんと)の戦いにおける曹操の大勝利が、何に起因するものなのか説き明かしてほしいと言った。 諸葛亮は、大勝を決定的にしたのは、曹操軍の奇兵が袁紹側(えんしょうがわ)の烏巣(うそう)の兵

    吉川『三国志』の考察 第150話「殺地の客(さっちのきゃく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第148話「酔計二花(すいけいにか)」

    鄱陽湖(はようこ)で水軍の調練にあたっていた周瑜(しゅうゆ)は、孫権(そんけん)から柴桑(さいそう)に来るよう呼び出しを受けた。 そして、ちょうど訪ねてきた魯粛(ろしゅく)から事情を聴くと、彼が呉(ご)へ連れてきたという諸葛亮(しょかつりょう)に会う。しかし、その席で諸葛亮は周瑜の心を揺さぶる話をする。 第148話の展開とポイント (01)これまでの周瑜 周瑜は、呉の先主(せんしゅ)の孫策(そんさく)と同い年だった。また、(小喬〈しょうきょう。小橋〉)が孫策の妃(きさき。大喬〈たいきょう。大橋〉)の妹だったので、孫権とは義兄弟にあたっていた。 廬江(ろこう)の生まれで、あざなを公瑾(こうきん)という。孫策に知られて将となるや、わずか24歳で中郎将(ちゅうろうしょう)になったほどの英俊だった。 ★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)による

    吉川『三国志』の考察 第148話「酔計二花(すいけいにか)」
  • 吉川『三国志』の考察 第147話「火中の栗(かちゅうのくり)」

    呉(ご)の重臣をことごとく論破してみせた諸葛亮(しょかつりょう)は、黄蓋(こうがい)の案内で孫権(そんけん)の居室へ通される。 そこで孫権から曹操軍(そうそうぐん)の実情について尋ねられたものの、あえて孫権を侮ったような受け答えに終始する。諸葛亮の無礼な態度に、一度は腹を立てた孫権だったが――。 第147話の展開とポイント(01)柴桑(さいそう)その沓音(くつおと)に一同が振り返って見ると、呉の糧財奉行(りょうざいぶぎょう)を務める黄蓋だった。 黄蓋は賓客に愚問難題を並べた群臣を叱り、諸葛亮に向かっては極めて慇懃(いんぎん。丁寧)に、主君の孫権がお待ちしていると告げる。 黄蓋と魯粛(ろしゅく)の案内で諸葛亮が中門まで通ってくると、門扉の傍らに兄の諸葛瑾(しょかつきん)が出迎えていた。兄弟は久しぶりの再会だったが、まずは主命が大事と、いくらか言葉を交わしただけで別れる。 孫権は諸葛亮を迎える

    吉川『三国志』の考察 第147話「火中の栗(かちゅうのくり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第145話「一帆呉へ下る(いっぱんごへくだる)」

    禰衡(ねいこう)は半ば強制的に、曹操(そうそう)の使者として荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとへ遣わされた。 劉表は禰衡の毒舌を疎ましく感じ、ひとまず領内の江夏(こうか)に行かせた。だが、かの地でも黄祖(こうそ)を怒らせ、ついに... 荀攸(じゅんゆう)に書かせた檄文(げきぶん)を送りつけるとともに、総勢83万の大軍を号して100万と唱え、西は荊陝(けいせん)から東は蘄黄(きこう)にわたる300里の間、煙火連々と陣線を引き、呉の境を威圧。 ★井波『三国志演義(3)』(第42回)では、「西方は荊・峡(きょう)に連なり、東方は蘄・黄に続くなど……」となっていた。 ★このことについて井波『三国志演義(3)』の訳者注によると、「荊は荊州(湖北省〈こほくしょう〉江陵市)、峡は峡州(湖北省宜昌市〈ぎしょうし〉)、蘄は蘄州(湖北省蘄春市〈きしゅんし〉)、黄は黄州(湖北省黄岡県〈こうこうけん〉

    吉川『三国志』の考察 第145話「一帆呉へ下る(いっぱんごへくだる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第144話「長坂橋(ちょうはんきょう)」

    趙雲(ちょううん)は阿斗(あと。劉禅〈りゅうぜん〉)を懐に抱きながら、ついに曹操軍(そうそうぐん)の分厚い包囲を突破する。劉備(りゅうび)はわが子の無事よりも趙雲の無事を喜んだ。 押し寄せる曹操軍に対し、張飛(ちょうひ)は単騎で長坂橋(ちょうはんきょう)に立ちふさがり、ことごとく敵をい止める。 第144話の展開とポイント(01)当陽(とうよう)この日、曹操は景山(けいざん)の上から戦の情勢を眺めていた。するとひとりの敵将が、まるで無人の境を行くように陣地を駆け破るのを見る。 曹洪(そうこう)に確かめさせたところ、劉備配下の趙雲だとわかった。曹操は各陣に矢や石弩(せきど)を使うなと言い、生け捕りにするよう命ずる。 行く先々の敵の囲みは分厚いものだったが、趙雲は鎧(よろい)の胸当ての下に阿斗(劉禅)を抱えながら悪戦苦闘し、次々と駆け破っていく。 敵陣の大旗を斬り倒すこと二、敵の大矛を奪うこ

    吉川『三国志』の考察 第144話「長坂橋(ちょうはんきょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第142話「母子草(ははこぐさ)」

    曹仁(そうじん)と曹洪(そうこう)ひきいる第1軍の10万と、許褚(きょちょ)ひきいる精兵3千は、諸葛亮(しょかつりょう)の計略にことごとくはまり、新野(しんや)に続いて白河(はくが)でも多くの味方を失う。 敗報を聞いた曹操(そうそう)は大い... 先に江夏の劉琦(りゅうき)へ援軍を頼みに行った関羽(かんう)からも、あれきり沙汰がなかった。 そこで劉備は、諸葛亮にも様子を見に行くよう頼む。諸葛亮は承知して江夏へ急いだ。 それから2日目の昼、劉備がふと一陣の狂風に野を振り返ると、塵埃(じんあい)天日を覆い、異様な声が地殻の底に鳴るような気がする。 ★井波『三国志演義(3)』(第41回)では、諸葛亮が江夏へ向かったその日に突風が吹き、濛々(もうもう)たる土煙を上空まで噴き上げ、太陽を陰らせたとあった。 劉備がいぶかると、駒を並べていた糜竺(びじく。麋竺)・糜芳(びほう。麋芳)・簡雍(かんよう)ら

    吉川『三国志』の考察 第142話「母子草(ははこぐさ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第141話「亡流(ぼうりゅう)」

    曹仁(そうじん)と曹洪(そうこう)ひきいる第1軍の10万と、許褚(きょちょ)ひきいる精兵3千は、諸葛亮(しょかつりょう)の計略にことごとくはまり、新野(しんや)に続いて白河(はくが)でも多くの味方を失う。 敗報を聞いた曹操(そうそう)は大いに立腹し、一気に劉備(りゅうび)の拠点を屠(ほふ)ろうと考えた。だが劉曄(りゅうよう)に諫められると、あえて徐庶(じょしょ)を樊城(はんじょう)へ遣わし、劉備に降伏を促してみる。 第141話の展開とポイント (01)新野の郊外 この夜、白河の底に溺れ死んだ人馬の数はどれほどか、その大量なこと計り知るべくもない。曹仁と曹洪はこの大難から辛くも免れ、博陵(はくりょう)の渡口(わたし)まで逃げてきた。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふ

    吉川『三国志』の考察 第141話「亡流(ぼうりゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第140話「新野を捨てて(しんやをすてて)」

    病死した劉表(りゅうひょう)の跡を継いだ劉琮(りゅうそう)は、戦うことなく曹操(そうそう)に降伏してしまった。 関羽(かんう)は配下の部隊からこの話を聞き知ると、降使を務めた宋忠(そうちゅう)を伴い新野(しんや)の劉備(りゅうび)に報告する。劉備は新野を捨て、樊城(はんじょう)へ向かう決断を下すが――。 第140話の展開とポイント (01)宛城(えんじょう) 曹操の大軍が宛城に到着。近県の糧米や軍需品を徴発し、いよいよ進撃に移るべく再整備をしていた。そこへ荊州(けいしゅう)の劉琮から、降参の使いとして宋忠の一行がやってくる。 曹操は大満足で、劉琮を忠烈侯(ちゅうれつこう)に封じ、長く荊州太守(けいしゅうたいしゅ)たる保証を与えようと言う。宋忠は衣服や鞍馬(あんば)を拝領し、首尾よく荊州へ帰っていった。 ★忠烈侯がよくわからず。何だか雑号将軍(ざつごうしょうぐん)みたいな爵位だが、忠烈という

    吉川『三国志』の考察 第140話「新野を捨てて(しんやをすてて)」
  • 吉川『三国志』の考察 第139話「許都と荊州(きょととけいしゅう)」

    諸葛亮(しょかつりょう)の鮮やかな軍略の前に、博望坡(はくぼうは)で大敗を喫した夏侯惇(かこうじゅん)が許都(きょと)へ逃げ戻ってくる。 しかし曹操(そうそう)はとがめず、今度は自ら80余万の大軍をひきいて荊州(けいしゅう)を目指す。この急報に驚いた劉表(りゅうひょう)は、再び劉備(りゅうび)を病床に招き――。 第139話の展開とポイント (01)新野(しんや) 諸葛亮は劉備に、病が重い劉表から荊州を借り、万策を図るよう勧める。荊州に拠れば、地は広く険は狭く、軍需財源すべて十分だと。 しかし彼がどう説いても、劉備は、恩人である劉表から荊州を奪うようなことはできないと言うばかりだった。 (02)許都 丞相府(じょうしょうふ) 博望坡で大敗を喫した夏侯惇は命からがら都(許都)へ逃げ戻ると、自ら面縛して恐る恐る階下にひざまずく。 曹操はその姿を見て苦笑し、「あれを解いてやれ」と左右の者に顎で言い

    吉川『三国志』の考察 第139話「許都と荊州(きょととけいしゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第138話「臨戦第一課(りんせんだいいっか)」

    しばらく許都(きょと)で職制改革などに取り組んでいた曹操(そうそう)だったが、新野(しんや)の劉備(りゅうび)が諸葛亮(しょかつりょう)を軍師に迎え、近ごろ兵馬の調練に励んでいることを聞く。 そこでこの邪魔石を取り除いておくべく、夏侯惇(かこうじゅん)を大将とし、于禁(うきん)と李典(りてん)を副将に添えた10万の軍勢を差し向ける。 第138話の展開とポイント(01)許都この当時、曹操は大いに職制改革を行った。常に内政の清新を図り、有能な人材はどしどし登用し、臨戦態勢を整えていた。 ★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第39回)では、ここで曹操が三公(太尉〈たいい〉・司徒〈しと〉・司空〈しくう〉)の官職を廃止し、自ら丞相(じょうしょう)の職をもってこれらを兼任したとある。 この件に吉川『三国志』は触れていなかったが、『三国志演義』ともども、だいぶ前から曹操を

    吉川『三国志』の考察 第138話「臨戦第一課(りんせんだいいっか)」
  • 吉川『三国志』の考察 第136話「鈴音(れいおん)」

    建安(けんあん)12(207)年、孫権(そんけん)の母の呉氏(ごし)が大病を患い、娘(孫権の妹)のことを託して息を引き取った。 そして翌建安13(208)年、孫権は母の遺言である劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)討伐に乗り出すが、ちょうど黄祖のもとを離れた甘寧(かんねい)がやってくる。 第136話の展開とポイント (01)丹陽(たんよう。丹楊) 孫高(そんこう)と傅嬰(ふえい)はその夜すぐに50人の兵士を連れ、戴員(たいいん)の屋敷を襲って首を取る。 ★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第38回)では、戴員も嬀覧(ぎらん)と同じく徐氏(じょし)に宴会に招かれ、(孫高と傅嬰の手で)殺されたとあった。 徐氏は喪服を着け、亡夫の孫翊(そんよく)の霊を祭り、嬀覧と戴員の首を供えて誓う。 「お恨みは晴らしました。私は生涯、他家へは嫁ぎません」 この騒動を聞いた孫

    吉川『三国志』の考察 第136話「鈴音(れいおん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第135話「呉の情熱(ごのじょうねつ)」

    諸葛亮(しょかつりょう)の出廬(しゅつろ)からさかのぼること6年(建安〈けんあん〉7〈202〉年)、許都(きょと)の曹操(そうそう)の使者が着き、孫権(そんけん)に長子を上洛させるよう迫った。 対応を決めかねた孫権は母の呉氏(ごし)の助言に従い、呉城(ごじょう)に重臣たちを呼び集めて意見を聴く。激しい討論の末、孫権が下した決断は――。 第135話の展開とポイント (01)呉城 建安7(202)年ごろ、すなわち諸葛亮の出廬よりさかのぼること6年前、一隻の官船が揚子江(ようすこう。長江〈ちょうこう〉)を下ってくる。中央からの使者だった。 ★この前のところで孫権の若さに触れた記述があった。そこでは彼が曹操より28歳も年下で、劉備(りゅうび)と比べても22歳も若いと言っていた。3人はそれぞれ、孫権が光和(こうわ)5(182)年、曹操が永寿(えいじゅ)元(155)年、劉備が延熹(えんき)4(161)

    吉川『三国志』の考察 第135話「呉の情熱(ごのじょうねつ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第132話「雪千丈(ゆきせんじょう)」

    降りしきる雪の中、劉備(りゅうび)は何とか諸葛亮(しょかつりょう)の草廬(そうろ)にたどり着く。 しかし前回と同様、今回も諸葛亮は不在で、弟の諸葛均(しょかつきん)に自身の思いをしたためた一書を託して帰るほかなかった。 第132話の展開とポイント (01)隆中(りゅうちゅう) 劉備らが隆中に近づいたころ、天地の物はことごとく真っ白になっていた。張飛(ちょうひ)は無意味な苦労だと言い、新野(しんや)へ引き返すよう勧めるが、劉備は叱りつけて相手にしない。 やがて、村の居酒屋からふたりの歌声が聞こえてくるのに気づく。その詩の内容から、どちらかひとりは諸葛亮に違いないと、劉備は居酒屋へ入っていった。 しかし、飲んでいたふたりの処士に声をかけてみたが、どちらも諸葛亮ではない。潁州(えいしゅう)の石広元(せきこうげん。広元は石韜〈せきとう〉のあざな)と汝南(じょなん)の孟公威(もうこうい。公威は孟建〈

    吉川『三国志』の考察 第132話「雪千丈(ゆきせんじょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第131話「孔明を訪う(こうめいをおとなう)」

    徐庶(じょしょ)が去った後、劉備(りゅうび)は関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)をはじめ、わずかな人数で隆中(りゅうちゅう)の諸葛亮(しょかつりょう)を訪ねる。 だが不在だったため、やむなく劉備は新野(しんや)へ引き返す。数日後、諸葛亮が帰っていると聞き、再び隆中を目指した。 第131話の展開とポイント (01)新野 徐庶と別れた後、劉備は一時、何となく空虚(うつろ)だった。呆然(ぼうぜん)と幾日かを過ごすが、徐庶が別れ際に言い残した諸葛亮を訪ねてみようと、側臣を集め意見を聞いた。 そこへ司馬徽(しばき)が訪ねてくる。劉備は堂上に請ずるが、彼は徐庶が仕えていると聞き、気まぐれに立ち寄ったのだという。 徐庶が去った経緯を聞くと司馬徽はいぶかる。彼は徐庶の母を知っており、愚痴の手紙など寄こして子を呼ぶような人ではないという。 劉備は、徐庶が去る折に隆中の諸葛孔明(しょかつこうめい。孔明は諸葛亮の

    吉川『三国志』の考察 第131話「孔明を訪う(こうめいをおとなう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第130話「臥龍の岡(がりょうのおか)」

    劉備(りゅうび)のもとを去り許都(きょと)へ向かう徐庶(じょしょ)だったが、別れ際に推薦した諸葛亮(しょかつりょう)のことが気になる。彼が容易に起つとは思えなかったからだ。 そこで隆中(りゅうちゅう)に立ち寄り諸葛亮を訪ね、これまでの経緯を語ったうえ、ぜひとも劉備に仕えてほしいと頼む。ところが諸葛亮の反応は――。 第130話の展開とポイント (01)新野(しんや)の郊外 見送ってくれた劉備と別れた後、徐庶は推薦した諸葛亮のことを考えていた。近日中に必ず劉備は訪ねるだろうが、果たして彼が乞いを容れるかどうか? その性格を考えると容易には動かないと思われた。 徐庶は責任を感じ、隆中へ立ち寄って諸葛亮に会い、別辞かたがた、劉備から懇望があったら召しに応じてくれるよう、よく頼んでおこうと考える。 (02)隆中 諸葛亮の草廬(そうろ) 徐庶は諸葛亮と会い、先ごろから新野で劉備に仕えていたことや、曹操

    吉川『三国志』の考察 第130話「臥龍の岡(がりょうのおか)」
  • 吉川『三国志』の考察 第129話「諸葛氏一家(しょかつしいっか)」

    諸葛亮(しょかつりょう)は4人きょうだいの次男で、兄の諸葛瑾(しょかつきん)と弟の諸葛均(しょかつきん)、そしてひとりの妹がいた。 だが、彼が10代半ばになるころまでには父母とも亡くなってしまい、一時は流浪を経験するなど苦労を重ねる。縁あって石韜(せきとう)の下で学んだ後、ようやく襄陽(じょうよう)郊外の隆中(りゅうちゅう)に落ち着いたのだった。 第129話の展開とポイント (01)諸葛亮の祖先 諸葛亮の祖先には諸葛豊(しょかつほう)がおり、前漢(ぜんかん)の元帝(げんてい。劉奭〈りゅうせき〉。在位、前48~前33)のころに司隷校尉(しれいこうい)を務めた。 諸葛豊は非常に剛直な性で、法律に従わない輩(やから)はどのような特権階級でも容赦しなかったという。 元帝の外戚にあたる許章(きょしょう)の不法行為を厳しく取り締まったことで、かえって元帝から恨まれ、城門校尉(じょうもんこうい)に左遷さ

    吉川『三国志』の考察 第129話「諸葛氏一家(しょかつしいっか)」
  • 吉川『三国志』の考察 第128話「立つ鳥の声(たつとりのこえ)」

    単福(たんふく)こと徐庶(じょしょ)は、使いの男から受け取った手紙を母が書いたものと信じ込み、劉備(りゅうび)に名を打ち明けこれまでの厚恩を謝すと、事情を話して許都(きょと)へ行く許しを得る。 徐庶の出立を見送るため、新野(しんや)の郊外まで馬を並べる劉備。いつまでも名残は尽きないが、別れ際の徐庶から隆中(りゅうちゅう)に住む諸葛亮(しょかつりょう)を訪ねるよう勧められた。 第128話の展開とポイント (01)新野 母の手紙を受け取った翌日、徐庶は朝一番に出仕。劉備に会って詫びると、単福という名は故郷の難を逃れてきたときの仮の名であると明かす。 さらに名を告げ、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)に仕えてみたが、その人物を見限り同地を去ったこと、そして司馬徽(しばき)に勧められ新野へ来、仕官の機をうかがっていたことなども話す。 徐庶は、素性も定かでない自分を抜てきしてくれたことへの

    吉川『三国志』の考察 第128話「立つ鳥の声(たつとりのこえ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第127話「徐庶とその母(じょしょとそのはは)」

    許都(きょと)へ逃げ帰った曹仁(そうじん)と李典(りてん)から、劉備(りゅうび)に大敗した経緯を聴き取る曹操(そうそう)。 新たに劉備の軍師になったという単福(たんふく)こと徐庶(じょしょ)の影響が大きいと判断し、程昱(ていいく)の献策を容れて徐庶の老母を迎えに行かせる。 第127話の展開とポイント(01)許都 丞相府(じょうしょうふ)河北(かほく)の広大を併せて遼東(りょうとう)や遼西(りょうせい)からも貢ぎせられ、許都は年々の殷賑(いんしん)に拍車をかけ、名実ともに中央の府たる偉観と規模の大を具備してきた。 やがて曹仁と李典が地に拝伏し、劉備との数度の合戦に打ち負けた様子をつぶさに報告する。 だが、聞き終えた曹操は一笑の下に、「勝敗は兵家の常だ」と言って責任を問わず、とがめもしなかった。 それでも、戦巧者の曹仁の画策をことごとく撃砕し、鮮やかに裏をかいた敵の手並みだけが腑(ふ)に落ちな

    吉川『三国志』の考察 第127話「徐庶とその母(じょしょとそのはは)」
  • 吉川『三国志』の考察 第126話「軍師の鞭(ぐんしのむち)」

    新野(しんや)で出会った単福(たんふく)を軍師に迎え、劉備軍(りゅうびぐん)の戦いぶりは一変した。 樊城(はんじょう)にあった曹仁(そうじん)は、新野攻めを命じた呂曠(りょこう)と呂翔(りょしょう)の敗報を聞くと、李典(りてん)の反対を押し切り自ら出撃する。 第126話の展開とポイント (01)樊城 新野の劉備軍に敗れて樊城へ逃げ帰った残兵は、口々に敗戦の始末を訴える。しかも、呂曠と呂翔はいくら待っても帰ってこなかった。 するとしばらく経ってから、ふたりは敗軍をひきいて帰る途中、山間の狭道に待ち伏せた関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)に捕捉され、おのおの斬り捨てられたうえ、ほかの者も皆殺しになったことがわかる。 ★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第35回)では、呂曠は趙雲(ちょううん)に、呂翔は張飛に、それぞれ討たれたとあった。 曹仁は大いに怒り、ただちに新

    吉川『三国志』の考察 第126話「軍師の鞭(ぐんしのむち)」
  • 吉川『三国志』の考察 第125話「吟嘯浪士(ぎんしょうろうし)」

    劉備(りゅうび)は自分を捜していた趙雲(ちょううん)らの一団に合流すると、世話になった司馬徽(しばき)に別れを告げた。 その後、新野(しんや)に戻った劉備は劉琦(りゅうき)を見送った帰り、城内でひとりの浪士と出会う。 第125話の展開とポイント(01)司馬徽の庵(いおり)劉備は駆けつけた趙雲と再会。司馬徽に促されると、すぐに暇(いとま)を告げて庵を去る。 十数里来たところで関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)の一軍とも合流。ふたりとも趙雲と同じく、昨夜来、劉備の身を案じ狂奔していたのだった。 (02)新野劉備は城中の将士を一堂に集め、昨日の襄陽(じょうよう)の会から檀渓(だんけい)を跳ぶまでの一部始終を話す。そして皆の意見に従い、さっそく劉表(りゅうひょう)あての一書をしたため孫乾(そんけん)に届けさせる。 (03)荊州(けいしゅう。襄陽)劉表は劉備の書簡を読むと、襄陽の会が蔡瑁(さいぼう)の

    吉川『三国志』の考察 第125話「吟嘯浪士(ぎんしょうろうし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第124話「琴を弾く高士(ことをひくこうし)」

    劉表(りゅうひょう)配下の蔡瑁(さいぼう)の計略をかわし、檀渓(だんけい)を跳んで対岸へ逃れた劉備(りゅうび)。 しばらく進んだところでひとりの童子に呼び止められると、誘われるまま司馬徽(しばき。水鏡先生〈すいきょうせんせい〉)の住まいを訪ねた。 第124話の展開とポイント (01)司馬徽の庵(いおり) 檀渓を跳んで辛くも一命を拾った劉備。ひとりさまよっていたところを童子に呼び止められ、誘われるまま司馬徽(水鏡先生)の庵を訪ねる。 ★ここで劉備自身が、はや47歳になったことを嘆じていた。延熹(えんき)4(161)年生まれの彼が、このとき(建安〈けんあん〉12〈207〉年)47歳だったというのは史実とも合う。 ★またここで童子が、劉備の耳が人並み優れて大きく、「大耳子(だいじし)」とあだ名されていたことを語っていた。 劉備が童子に取り次ぎを頼んでいると、はたと琴の音がやみ、たちまちひとりの老

    吉川『三国志』の考察 第124話「琴を弾く高士(ことをひくこうし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第123話「檀渓を跳ぶ(だんけいをとぶ)」

    曹操(そうそう)に汝南(じょなん)を追われて以来、劉備(りゅうび)主従は荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せていた。 劉備らの立場は規模の大きい客のようなものだったが、劉表のほうでも彼らをうまく活用しようとする。しかし... 張飛(ちょうひ)や孫乾(そんけん)は子細を知ると、行くべきではないと止める。だが関羽(かんう)と趙雲(ちょううん)は、いま命に背けば、いよいよ劉表の疑心を買うだろうと言い、軽く役目を務めてすぐに立ち帰るのが無事だと勧めた。 劉備もこの意見に同意。300余騎の供ぞろいを立てて趙雲を連れ、襄陽の会へと出向く。 (03)襄陽 襄陽は新野から遠かったが、劉備らが80里ほど来ると、すでに蔡瑁以下、劉琦と劉琮の兄弟や王粲(おうさん)・文聘(ぶんぺい)・鄧義(とうぎ)・王威(おうい)ら荊州の諸将まで盛んな列伍を布(し)き、出迎えに立ち並んでいた。 ★『三国志演

    吉川『三国志』の考察 第123話「檀渓を跳ぶ(だんけいをとぶ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第122話「食客(しょっかく)」

    曹操(そうそう)に汝南(じょなん)を追われて以来、劉備(りゅうび)主従は荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せていた。 劉備らの立場は規模の大きい客のようなものだったが、劉表のほうでも彼らをうまく活用しようとする。しかし、この状況を不快に感じた劉表配下の蔡瑁(さいぼう)は――。 第122話の展開とポイント (01)冀州(きしゅう。鄴城〈ぎょうじょう〉) 北方攻略の業の完成をみた曹操だったが、この地がよほど気に入ったとみえ、久しく逗留(とうりゅう)していた。そして1年余りの工を積み、漳河(しょうが)のほとりに銅雀台(どうじゃくだい)を築いた。 ★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)では、曹操がこの地から銅雀を掘り出したことに触れていた。 その広大な建物を中心に楼台や高閣を巡らせ、一座の閣を玉龍(ぎょくりゅう)と名付け、一座の楼を金鳳(きんほう)

    吉川『三国志』の考察 第122話「食客(しょっかく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第120話「野に真人あり(やにしんじんあり)」

    建安(けんあん)9(204)年、曹操(そうそう)は袁氏(えんし)の拠だった鄴城(ぎょうじょう)を陥落させ、堂々たる入城を果たす。 そして袁氏に仕えていた賢才を余すところなく用い、冀州(きしゅう)の復興に注力させる。 第120話の展開とポイント (01)冀州(鄴城) 曹操は審配(しんぱい)の忠烈な死に心を打たれ、城北に墳(つか)を建て手厚く葬る。 建安9(204)年の秋7月、さしもの強大な河北(かほく)もここに滅ぶ。冀州の城たる鄴城には曹操軍の軍馬が充満した。 曹操の嫡子の曹丕(そうひ)はこのとき18歳で、今回の戦にも参加していたが、城が陥ちるとすぐに随身の兵を連れて城内へ入った。 ★史実の曹丕は中平(ちゅうへい)4(187)年生まれ。このとき(建安9〈204〉年)18歳というのは史実とも合っている。 曹丕は、後堂の片隅で震えていた袁紹(えんしょう)の後室(身分の高い人の未亡人)の劉夫人

    吉川『三国志』の考察 第120話「野に真人あり(やにしんじんあり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第119話「邯鄲(かんたん)」

    曹操(そうそう)の思惑通り、袁紹(えんしょう)の遺子たちの対立が激化し、ついに袁譚(えんたん)が曹操に取り込まれる。 袁尚(えんしょう)とともに鄴城(ぎょうじょう)を守っていた審配(しんぱい)は、曹操が運河まで築いて大量の兵糧を運び入れる様子に不安を募らせ、ある献言を行う。 第119話の展開とポイント (01)平原(へいげん) 建安(けんあん)8(203)年の冬10月の風とともに、「曹操きたる」の声は西平(せいへい)のほうから枯れ野を掃いて聞こえてくる。 袁尚は平原で兄の袁譚を包囲していたが、にわかに囲みを解き鄴城へ退却しだした。 これを見た袁譚は袁尚の後備えを追撃。殿軍(しんがり)の部将の呂曠(りょこう)と呂翔(りょしょう)をなだめて味方に手なずけ、降人として曹操の見参に入れる。 曹操は袁譚の武勇を褒め、後で自分の娘を娶(めあわ)せた。 ★『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

    吉川『三国志』の考察 第119話「邯鄲(かんたん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第118話「自壊闘争(じかいとうそう)」

    袁紹(えんしょう)が逝くと、彼の正室だった劉氏(りゅうし)は実子の袁尚(えんしょう)を跡継ぎに立てようともくろみ、袁尚の異母兄である袁譚(えんたん)や袁熙(えんき)を遠ざけようとした。 そのころ曹操(そうそう)は再び冀北(きほく)討伐へと動きだしていたが、郭嘉(かくか)の意見に納得し、袁氏兄弟の自壊を待つ策に切り替える。 第118話の展開とポイント(01)荊州(けいしゅう。襄陽〈じょうよう〉?)劉備(りゅうび)が劉表(りゅうひょう)を頼って荊州へ赴いたのは、建安(けんあん)6(201)年の秋9月のこと。劉表は郭外30里まで出迎えたうえ互いに疎遠の情を述べ、城中での好遇もすこぶる丁重だった。 (02)凱旋(がいせん)途中の曹操曹操は汝南(じょなん)から許都(きょと)へ引き揚げる途中でこのことを知り、愕然(がくぜん)とする。劉備を荊州へ追い込んだのは、籠の魚をつかみ損ねて水沢へ逃がしたようなも

    吉川『三国志』の考察 第118話「自壊闘争(じかいとうそう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第117話「泥魚(でいぎょ)」

    袁紹(えんしょう)を死に追いやった曹操(そうそう)は許都(きょと)に戻るが、帰途で劉備(りゅうび)の動きを聞くと、そのまま汝南(じょなん)へ急行する。 劉備は穣山(じょうざん)一帯で曹操に大敗し、漢江(かんこう。漢水〈かんすい〉)のほとりまで逃げ延びた。己を恥じる劉備に、関羽(かんう)は河洲(かわす)の渚(なぎさ)にいた泥魚(でい)を指さして言葉をかける。 第117話の展開とポイント (01)許都へ向かう曹操 許都へ戻る途中の曹操だったが、劉備の動きを聞くと曹洪(そうこう)を黄河(こうが)に残し、ただちに自身は汝南へ向かう。 (02)穣山 すでに汝南を発していた劉備は、曹操の大軍があまりにも早く南下したばかりか、逆寄せの勢いで攻めてきたと聞き、穣山の地の利を占めようと急ぐ。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎

    吉川『三国志』の考察 第117話「泥魚(でいぎょ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第114話「霹靂車(へきれきしゃ)」

    官渡(かんと)において70万もの袁紹軍(えんしょうぐん)と対峙(たいじ)することになった曹操(そうそう)。 序戦で大勝した袁紹は、官渡の北岸に人工の山を築かせ、築山の上に組ませたいくつもの高櫓(たかやぐら)から矢石を撃ち込む。曹操は劉曄(りゅうよう)の献策を容れ、発石車(はっせきしゃ)を造らせて対抗した。 第114話の展開とポイント (01)呉城(ごじょう) 孫権(そんけん)は諸葛瑾(しょかつきん)の献策を容れ、河北(かほく)の袁紹とは絶縁することを決める。 ★ここで、諸葛瑾は長く河北にいたので袁紹の帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)の内輪もめをよく知っていたとあった。諸葛瑾は若くして洛陽(らくよう)の太学(たいがく)で学んだというが、長く河北にいたとするのはどうなのだろうか? しばらくは曹操に従うと見せ、時節が来たら討つ。それが孫権の方針の根底だった。 この決定を受け、河

    吉川『三国志』の考察 第114話「霹靂車(へきれきしゃ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第112話「于吉仙人(うきつせんにん)」

    廬江(ろこう)を攻略した「江東(こうとう)の小覇王」こと孫策(そんさく)は、まさに日の出の勢いだったが、先に処刑した呉郡太守(ごぐんたいしゅ)の許貢(きょこう)の客に命を狙われ、丹徒(たんと)で狩猟中に重傷を負う。 名医の華陀(かだ。華佗)の治療により快方へ向かっていた孫策のもとに、袁紹(えんしょう)の使者として陳震(ちんしん)がやってくる。孫策は陳震を上座に迎えて大宴を開いたものの、その途中で諸将が席を立ち、街に現れた于吉(うきつ)の姿を見に行く。 第112話の展開とポイント(01)孫策の近況呉の孫策は、ここ数年の間に実に目覚ましい躍進を遂げていた。浙江(せっこう)一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江(ようすこう。長江〈ちょうこう〉)流域とその河口をも扼(やく)していた。 気温が高く天産は豊饒(ほうじょう)で、いわゆる南方系の文化と北方系の文化との飽和により、宛然たる呉国色をここに画し

    吉川『三国志』の考察 第112話「于吉仙人(うきつせんにん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第111話「兄弟再会(きょうだいさいかい)」

    汝南(じょなん)の古城で張飛(ちょうひ)と合流した後、関羽(かんう)は孫乾(そんけん)とともに汝南城へ急ぐ。ところが劉辟(りゅうへき)から、劉備(りゅうび)が再び河北(かほく)へ戻ってしまったことを聞かされる。 関羽は冀州(きしゅう)の境まで進んでひとまず留まり、孫乾を遣って劉備に連絡をつける。劉備は簡雍(かんよう)の献策を用いて袁紹(えんしょう)のもとを離れ、関定(かんてい)の屋敷で関羽との再会を果たした。 第111話の展開とポイント (01)汝南(平輿〈へいよ〉?)近くの古城 劉備の二夫人と関羽らが迎えられた晩、山上の古城にはある限りの燭(しょく)が灯され、原始的な音楽が雲の間に聞こえていた。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第28回)では古城を地名として扱っているが、吉川『三国志』では(汝南近くの)古い城としていた。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊

    吉川『三国志』の考察 第111話「兄弟再会(きょうだいさいかい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第110話「古城窟(こじょうくつ)」

    汝南(じょなん)にたどり着いた関羽(かんう)一行は、とある古城で張飛(ちょうひ)に再会する。 ところが張飛は、いったん曹操(そうそう)に降った関羽に疑いの目を向け、彼の話を信じようとしない。そこで関羽は――。 第110話の展開とポイント(01)臥牛山(がぎゅうざん)関羽は、路傍にうずくまり拝礼を施している周倉(しゅうそう)を助け起こす。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「臥牛山は山の名。後漢(ごかん)・三国時代には存在しない」という。 また「河南省(かなんしょう)嵩県(すうけん)の西南には伏牛山(ふくぎゅうざん)という山脈があり、当時の司隷州(しれいしゅう)弘農郡(こうのうぐん)から荊州(けいしゅう)南陽郡(なんようぐん)に及んでいる

    吉川『三国志』の考察 第110話「古城窟(こじょうくつ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第109話「のら息子(のらむすこ)」

    黄河(こうが)北岸へ上陸を果たした関羽(かんう)一行。ほどなく汝南(じょなん)で別れたきりになっていた孫乾(そんけん)と再会し、数日前に劉備(りゅうび)が汝南へ向かったことを聞く。 そのため関羽は向きを変え汝南を目指すが、ある晩に泊めてもらった家の主人の郭常(かくじょう)は、息子の所業にほとほと手を焼いていた。 第109話の展開とポイント(01)河北(かほく)関羽一行は黄河の北岸に着くと車を陸に揚げ、簾(れん)を垂れ劉備の二夫人を隠し、再び旅を続けた。そうして幾日目かのこと、汝南で別れたきりになっていた孫乾と出会う。 孫乾は、袁紹(えんしょう)の帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)にいろいろな内紛が起こったため、当初の計画がい違ってきたことを話す。劉備は孫乾と密かに示し合わせ、つい2、3日前に河北を出て汝南へ向かったという。 そこで関羽は道を変え、孫乾の案内で汝南へ急ぐ。す

    吉川『三国志』の考察 第109話「のら息子(のらむすこ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第108話「五関突破(ごかんとっぱ)」

    劉備(りゅうび)が河北(かほく)にいるとの情報は周知の事実となり、曹操(そうそう)は関羽(かんう)が自分のもとから去っていくことを恐れ始める。 そこで関羽に別れの挨拶をさせないよう、避客牌(ひかくはい。客の訪問を断る札)を用いた一計を施す。... ★小ネタとしてはうまいと思うが、史実の関羽は寿亭侯ではなく漢寿亭侯(かんじゅていこう。漢寿は地名)である。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第26回)では、曹操の上表により関羽が漢寿亭侯に封ぜられ、印を贈られたとしか書かれていない。 ★また、韓福は洛陽太守だとあったが官名がおかしい。このときの都は洛陽ではなく許都だが、洛陽太守に相当するのは河南尹だろう。 関羽が孔秀を斬ったことを公言すると、四面に銅鑼(どら)が鳴り、山地や低地には金鼓が轟(とどろ)く。 韓福配下の猛者である孟坦(もうたん)があっさり関羽に討たれ

    吉川『三国志』の考察 第108話「五関突破(ごかんとっぱ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第107話「関羽千里行(かんうせんりこう)」

    曹操(そうそう)に別辞を述べられないまま許都(きょと)から去った関羽(かんう)。 曹操は、何度も挨拶に来ていた関羽との対面を避け続けた己を恥じ、軽装のまま許都の郊外まで一行を追いかけ、信義の別れを告げる。 第107話の展開とポイント (01)許都 明け方、時刻ごとに見回りに来る巡邏(じゅんら)の一隊が、関羽の屋敷にまるで人の気配がないことに気づく。 奥まった苑内(えんない)に10人の美女が残されていたが、これは以前、曹操から贈られた関羽が、すぐに劉備(りゅうび)の二夫人にそば仕えとして献上したものだった。 (02)許都 丞相府(じょうしょうふ) その朝、曹操は虫が知らせたか常より早めに起き、諸将を招いて何事か凝議していた。そこへ巡邏から注進が入る。 関羽が寿亭侯(じゅていこう)の印をはじめ、金銀緞匹(だんひつ。練り糸で織った厚い絹織物)の類いをすべて庫内に封じて留め置き、内室に10人の美女

    吉川『三国志』の考察 第107話「関羽千里行(かんうせんりこう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第106話「避客牌(ひかくはい)」

    劉備(りゅうび)が河北(かほく)にいるとの情報は周知の事実となり、曹操(そうそう)は関羽(かんう)が自分のもとから去っていくことを恐れ始める。 そこで関羽に別れの挨拶をさせないよう、避客牌(ひかくはい。客の訪問を断る札)を用いた一計を施す。何度訪ねても会おうしない曹操の態度を見て、ついに関羽はある決断を下す。 第106話の展開とポイント (01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ) 劉備が河北にいるという事実は、やがて曹操の耳にも入ってきた。そこで張遼(ちょうりょう)を呼び、最近の関羽の様子を尋ねる。 張遼も主君の思いを察し心を痛めていたところだったので、近いうちに訪ね、それとなく心境を探ってみると言って退がった。 (02)許都 関羽邸 数日後、張遼はふらりと内院の番兵小屋を訪ねる。関羽は読んでいた『春秋(しゅんじゅう)』を置いて迎え入れた。 ★この記事の主要テキストとして用いている新

    吉川『三国志』の考察 第106話「避客牌(ひかくはい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第105話「風の便り(かぜのたより)」

    曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)の戦いは長引き、袁紹が陽武(ようぶ)へ移ると、曹操もひとまず許都(きょと)へ帰った。 汝南(じょなん)で曹洪(そうこう)が黄巾(こうきん)の残党に苦戦しているとの急報が届き、関羽(かんう)は曹操に願い出て援軍に駆けつける。かの地では思いがけない旧友との再会があった。 第105話の展開とポイント(01)許都 丞相府(じょうしょうふ)曹操と袁紹の大戦は長引いた。黄河(こうが)沿岸の春も熟すと、袁紹軍は地の利を改めて陽武の要害へ移る。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第26回)では武陽(ぶよう)とあるが、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)には吉川『三国志』と同じく陽武とある。 ひとまず曹操も許都に帰り、将兵を慰安しようと慶賀の宴を開いた。 この席で曹操は延津(えんしん)の戦に触れ、わざと輜重(しちょう)部隊を先

    吉川『三国志』の考察 第105話「風の便り(かぜのたより)」
  • 吉川『三国志』の考察 第104話「燈花占(とうかせん)」

    曹操(そうそう)の計略にはまり、延津(えんしん)で壊滅した袁紹(えんしょう)配下の文醜軍(ぶんしゅうぐん)。先の顔良(がんりょう)に続き、文醜を討ち取ったのも関羽(かんう)だった。 袁紹の許しを得て文醜の第二陣となっていた劉備(りゅうび)は、黄河(こうが)の対岸に遠目ながら関羽の姿を確認し、ひとり密かにその無事を喜ぶ。 第104話の展開とポイント(01)白馬(はくば)? 曹操の営顔良を討ってから、ますます曹操は関羽を重んずるようになる。彼の勲功を献帝(けんてい)に奏し、わざわざ朝廷の鋳工に封侯の印を作らせた。 これができ上がると、張遼(ちょうりょう)に使いを命じて届けさせる。しかし関羽は、「寿亭侯之印(じゅていこうのいん)」とある印面を見て受け取りを辞退した。 曹操は張遼の復命を受け、関羽が印文を見てから辞退したと聞くと、さっそく鋳工を呼んで改鋳させる。改めてでき上がった印面には漢(かん

    吉川『三国志』の考察 第104話「燈花占(とうかせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第103話「黄河を渡る(こうがをわたる)」

    頼みの顔良(がんりょう)が関羽(かんう)に討たれたことで、袁紹(えんしょう)の陣に衝撃が走った。 袁紹のもとに身を寄せ、こたびの戦いにも加わっていた劉備(りゅうび)は、自分から願い出て文醜(ぶんしゅう)の第二陣となる。 第103話の展開とポイント (01)白馬(はくば)? 袁紹の営 顔良が討たれたため、その指揮下にあった部隊は支離滅裂となって壊走を続ける。後陣の支援により辛くも退勢をい止めたものの、袁紹の陣も少なからず動揺した。 袁紹が、顔良をたやすく討ち取った敵とは何者だろうと周囲に尋ねると、沮授(そじゅ)は、おそらく劉備の義弟の関羽だと答える。 袁紹は、劉備が自分のもとに身を寄せているうえ、こたびも従軍していたので疑って信じなかったが、念のため前線から敗走してきた兵士に問いただす。 兵士は見たままを語ったが、袁紹は話の中の容貌などから関羽と確信。たちまち怒気を発し、劉備を連れて

    吉川『三国志』の考察 第103話「黄河を渡る(こうがをわたる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第102話「報恩一隻手(ほうおんいちせきしゅ)」

    愛児の病が癒えた袁紹(えんしょう)は上洛の決意を固め、曹操(そうそう)との全面対決へ突き進む。 そして袁紹は白馬(はくば)の野に自軍を集め、曹操ひきいる15万の軍勢と対峙(たいじ)した。 第101話の展開とポイント (01)冀州(きしゅう。... 魏続は長桿(ちょうかん)の矛を執り、まっしぐらに駆け出し、敢然と馬首をぶつけて挑む。 しかし黄塵(こうじん)煙るところ、刀影わずか7、8合、顔良の一喝に人馬もろとも斬り倒された。続いて名乗りかける者、取り囲む者、ことごとく顔良の好餌となるばかり。 さすがの曹操も肝を冷やし、舌打ちしておののいた。顔良ひとりのために右翼が壊滅し、その余波は中軍まで及んでくる。 そのとき中軍の一端から霜毛馬(そうもうめ)にまたがり、白炎のごとき一斧(いっぷ)を引っ提げ徐晃(じょこう)が出た。 徐晃と顔良の刀斧(とうふ)は烈々と火を降らせて戦ったが、20合、50合、70

    吉川『三国志』の考察 第102話「報恩一隻手(ほうおんいちせきしゅ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第101話「白馬の野(はくばのの)」

    愛児の病が癒えた袁紹(えんしょう)は上洛の決意を固め、曹操(そうそう)との全面対決へ突き進む。 そして袁紹は白馬(はくば)の野に自軍を集め、曹操ひきいる15万の軍勢と対峙(たいじ)した。 第101話の展開とポイント (01)冀州(きしゅう。鄴城〈ぎょうじょう〉?) 冀州の袁紹のもとに身を寄せていた劉備(りゅうび)は、無為の毎日に苦しんでいた。 あるとき袁紹がやってきて劉備に意見を聴く。愛児の病も癒えて山野の雪も解け始めたから、多年の宿志たる上洛の兵を催し、一挙に曹操を平らげようと思い立ったという。 ところが田豊(でんほう)は、今は攻めるより守る時期であると述べて反対するのだと。 劉備は、田豊の考えは安全だと一応の理解を示しながら、「時は今なりと信じます」と告げて出兵を促す。 その後、袁紹は田豊を呼びつけ、消極的な意見を痛罵する。 田豊は誰かが主君を唆したことを察するが、なお面を冒して反論を

    吉川『三国志』の考察 第101話「白馬の野(はくばのの)」
  • 吉川『三国志』の考察 第099話「大歩す臣道(たいほすしんどう)」

    6歳になる一子がある。けれど病弱だった。 ★これは単に劉備の一子という意味なのか、糜夫人が生んだ劉備の一子という意味なのかつかめなかった。このとき(建安5〈200〉年)6歳であるなら、興平(こうへい)2(195)年生まれということになるはず。 劉備の母は徐州城(じょしゅうじょう)にいたころ世を去った。劉備としては不足だったが、老母としては十分に安心して逝ったであろうほど、子が世に出たのも見て逝った。 ★ここまでは劉備の母と子について語られていたが、突っ込みどころ満載の観。 ふたりは関羽の話を聴き、もし夫の居どころがわかっても、おそばへ行けないのではないか、と気色ばんでなじる。関羽は曹操と約束した条件を話し、ふたりから承諾を取り付けた。 (03)下邳の城外 曹操の営 やがて関羽は残兵10騎ばかりを従え、悠々と陣門にやってくる。曹操は自ら轅門(えんもん。陣中で車の轅〈ながえ〉を向かい合わせ

    吉川『三国志』の考察 第099話「大歩す臣道(たいほすしんどう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第098話「恋の曹操(こいのそうそう)」

    劉備(りゅうび)から小沛(しょうはい)と徐州(じょしゅう)の両城を奪った曹操(そうそう)は、残る下邳(かひ)に目を転ずる。 この城を守っているのは関羽(かんう)だったが、ここで曹操は、何とかして彼を配下に加えたいとの意向を漏らす。 第098話の展開とポイント (01)徐州 小沛と徐州の両城を一戦の間に占領した曹操の勢いは、旭日(きょくじつ)のごときものがあった。 徐州は劉備配下の簡雍(かんよう)と糜竺(びじく。麋竺)のふたりが守っていたが、城を捨ててどこかに落ち去り、残った陳珪(ちんけい)と陳登(ちんとう)の父子が内から城門を開いて曹操軍を迎え入れた。 曹操は陳父子の罪をとがめない代わりに、領内の百姓を宣撫(せんぶ)するよう命ずる。ふたりは慴伏(しょうふく。恐れてひれ伏すこと)して寛仁を仰ぐと、その日から城内の民の鎮撫に力を注ぎ、治安の実績を表した。 続いて曹操は下邳に目を向け、事情に明る

    吉川『三国志』の考察 第098話「恋の曹操(こいのそうそう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第097話「玄徳冀州へ奔る(げんとくきしゅうへはしる)」

    袁紹(えんしょう)の援軍が来ないと聞き落胆する劉備(りゅうび)だったが、その間にも曹操(そうそう)の大軍は小沛(しょうはい)へ迫っていた。 劉備は張飛(ちょうひ)の献策を容れて奇襲を試みるも、裏をかかれ失敗。小沛と徐州(じょしゅう)の両城を失って行き場をなくし、やむなく冀州(きしゅう)へ向かう。 第097話の展開とポイント (01)小沛 劉備は冀州から帰った孫乾(そんけん)の報告を聞き、明らかに周章していた。彼がふさぎ込んでいるところへ、張飛が陽気に献策する。 短気な曹操のことだから、軍勢は許都(きょと)から休む間もなく駆け下ってきたに違いない。敵軍の用意が整わないうちに、また長途の疲れも癒えないうちに、自分が部下の猛卒をひきいて奇襲を仕掛け、まず敵の出はなに大打撃を加えるという。 その後、下邳(かひ)の関羽(かんう)と掎角(きかく)の形を取り、呼応して敵に変化の暇(いとま)を与えないよう

    吉川『三国志』の考察 第097話「玄徳冀州へ奔る(げんとくきしゅうへはしる)」
  • 吉川『三国志』の考察 第096話「小児病患者(しょうにびょうかんじゃ)」

    曹操(そうそう)は荀彧(じゅんいく)や郭嘉(かくか)の意見を聴き、徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)討伐に乗り出す。 劉備は曹操軍の動きをつかむと、すぐさま孫乾(そんけん)に書簡を託し、河北(かほく)の袁紹(えんしょう)へ救援を求めた。しかしこのとき袁紹の愛息が――。 第096話の展開とポイント (01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ) 粛清の嵐と血の清掃をひとまず済ませた曹操。翌日には何事もなかったような顔をして、明日への百計にふけっていた。 曹操は、まだ西涼(せいりょう)の馬騰(ばとう)と徐州の劉備が片づいていないと言い、策を尋ねる。 荀彧は、いま許都を手薄にはできないとして、まず甘言をもって馬騰を都へ呼び寄せ、欺いて殺す。次に劉備へも交術を施して鋭気を削ぎ、一面では流言の法を行い、彼と袁紹との間を猜疑(さいぎ)させるのが万全の計だと述べた。 ★『三国志演義(2)』(井波律子

    吉川『三国志』の考察 第096話「小児病患者(しょうにびょうかんじゃ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第095話「火か人か(ひかひとか)」

    董承(とうじょう)に仕える召し使いの慶童(けいどう)の密告により、すべてが露見した曹操(そうそう)毒殺計画。 実行役である太医(たいい)の吉平(きっぺい)は凄惨(せいさん)な拷問を加えられた末に自害し、曹操の命令で董承邸の捜索が強行されると、献帝(けんてい)の密詔や血判状も見つかった。 第095話の展開とポイント (01)許都(きょと) 董承邸 曹操は強いて董承に面会すると、昨夜の宴に欠席した理由を尋ねる。昨年からの痼疾(こしつ。長く治らない病気)のため、心ならずも欠席したと答える董承。 すると曹操は笑って、「卿(けい)の痼疾は吉平に毒を盛らせたら癒えるものであろう」と言う。震え恐れる董承。語尾はかすれて歯の根も合わない。 ここで曹操が武士に命ずると、この場に吉平が連れてこられる。30余人の獄吏と兵士は、客堂の階下に物々しく引き据えた。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳

    吉川『三国志』の考察 第095話「火か人か(ひかひとか)」
  • 吉川『三国志』の考察 第094話「美童(びどう)」

    太医(たいい)の吉平(きっぺい)が持ち出した妙計のおかげで、春先には董承(とうじょう)の体調も回復した。 しかしある晩、董承が秘妾(ひしょう)と密会していた召し使いの慶童(けいどう)を厳しく罰したことから、事態は思わぬ方向へ転がる。 第094話の展開とポイント (01)許都(きょと) 董承邸 冬を越え南枝の梅花のほころびが見えたころ、董承はすっかり復し、後閣の苑(にわ)を逍遥(しょうよう)できるまでになる。 今宵もひとりで後苑(こうえん)を歩いていたが、秘妾と召し使いの慶童が密会しているのを見つけた。 ★慶童は『三国志演義』では秦慶童(しんけいどう。秦慶堂とも)とある。 駆けつけた家臣たちは、董承の言いつけにより秘妾を杖で100回打ち、慶童を100回以上も叩く。さらに董承は慶童を木の幹に縛らせ、秘妾は後閣の一室に監禁した。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫

    吉川『三国志』の考察 第094話「美童(びどう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第093話「太医吉平(たいいきっぺい)」

    車騎将軍(しゃきしょうぐん)の董承(とうじょう)は献帝(けんてい)から血の密詔を賜って以来、曹操(そうそう)を除く妙計がないか考え続けていた。 ほどなく董承が病を得て寝込むと、容体を心配した献帝は太医(たいい)の吉平(きっぺい)を遣って治療にあたらせる。吉平は日々診察に通ううち、ついに病根を突き止めるが――。 第093話の展開とポイント (01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ) 荊州(けいしゅう)へ遣わした禰衡(ねいこう)が劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)に殺されたことが伝わると、曹操はこれを口実に大軍を向け、一気に荊州を取ろうかと議した。 ★冒頭で若き日の曹操を振り返ったり、重臣の荀彧(じゅんいく)の出自や才能などが語られていた。 諸将は奮い立ったものの、荀彧は賛成しない。彼は袁紹(えんしょう)との戦が片づいていないことや、徐州(じょしゅう)に劉備(りゅうび)が健在である

    吉川『三国志』の考察 第093話「太医吉平(たいいきっぺい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第092話「鸚鵡州(おうむしゅう)」

    禰衡(ねいこう)は半ば強制的に、曹操(そうそう)の使者として荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとへ遣わされた。 劉表は禰衡の毒舌を疎ましく感じ、ひとまず領内の江夏(こうか)に行かせた。だが、かの地でも黄祖(こうそ)を怒らせ、ついに斬殺される。 第092話の展開とポイント (01)荊州(襄陽〈じょうよう〉?) 曹操の使者として来た禰衡が江夏へ行っている間に、荊州には袁紹(えんしょう)の使者も着き、友好を求めてくる。 いずれを選ぶも胸ひとつとなったが、こうなると劉表は欲目に迷い、かえって大勢の判断がつかなくなった。 そこで従事中郎将(じゅうじちゅうろうしょう)の韓嵩(かんすう)に尋ねると、彼は群臣を代表して答えた。もし天下への望みがあるなら曹操に従うべきで、そうでないならどちらでも歩のいいほうに加担すればよいと。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第

    吉川『三国志』の考察 第092話「鸚鵡州(おうむしゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第090話「奇舌学人(きぜつがくじん)」

    曹操(そうそう)は襄城(じょうじょう)へ劉曄(りゅうよう)を遣わし、張繡(ちょうしゅう)を説いて帰順させることに成功する。 続いて孔融(こうゆう)の推薦を容れ、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとへ禰衡(ねいこう)を遣わすことにしたが、この使者はなかなかのくせ者だった。 第090話の展開とポイント (01)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ) 劉岱(りゅうたい)と王忠(おうちゅう)は徐州(じょしゅう)から許都へ帰ると、すぐに曹操に目通りする。そして、劉備(りゅうび)はひたすら朝廷を敬い、丞相(曹操)にも服していると伝えた。 これを聞いた曹操は激怒し、ふたりを死罪に処そうとするが、そばにいた孔融になだめられる。そこで死罪を許す代わりに官爵を取り上げ、身の処置は後日の沙汰とした。 その後、日を改め、曹操は自ら大軍をひきいて徐州へ攻め下らんと議したが、また孔融は自重を勧める。 孔融

    吉川『三国志』の考察 第090話「奇舌学人(きぜつがくじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第089話「不戦不和(ふせんふわ)」

    徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)を攻めていた曹操(そうそう)配下の劉岱(りゅうたい)だったが、張飛(ちょうひ)の策にはまって生け捕られる。 だが劉備は、先に関羽(かんう)の手で生け捕った王忠(おうちゅう)ともども解放し、曹操に敵対する意思がない旨を伝えてほしいと頼む。 第089話の展開とポイント (01)徐州の郊外 張飛は劉備の許しを得ると、3千の兵をひきいて曹操配下の劉岱の生け捕りに向かう。 だが劉岱は陣門を固く守って出ず、短兵急に押し寄せた張飛も手の下しようがない。毎日、寨(とりで)の下まで行っては士卒をけしかけ悪口雑言を浴びせたが、敵は首さえ出さなかった。 そこで張飛は、今宵の二更(午後10時前後)のころに夜討ちをかけるとして、準備を整えておくよう命ずる。これが済むと昼から士卒に酒を振る舞い、張飛もしたたか飲んだ。 そのうち張飛は、科(とが)のない士卒を散々に打擲(ちょうちゃく)

    吉川『三国志』の考察 第089話「不戦不和(ふせんふわ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第088話「鬮(くじ)」

    黎陽(れいよう)から許都(きょと)に戻った曹操(そうそう)は、徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)攻めに送り込んだ劉岱(りゅうたい)と王忠(おうちゅう)のまずい戦いぶりを聞く。 そこで急使を遣わし、速やかに徐州へ攻めかかれと厳しく催促する。ところが、劉岱と王忠はどちらが先鋒に立つかでもめ始め、やむなく軍使は鬮(くじ)で決めさせた。 第088話の展開とポイント (01)許都 丞相府(じょうしょうふ) 黎陽から許都に帰った曹操は、さっそく諸官から徐州の戦況を聞き取る。 そして劉岱と王忠が(建安〈けんあん〉4〈199〉年の)8月以来、命令通り丞相旗を打ち立てて徐州から100里に布陣し、まだ一度も攻撃していないことを知った。 ★『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(ここでいう徐州は)下邳(かひ)」だという。 曹操はふたりの対応にあきれ返り、急に

    吉川『三国志』の考察 第088話「鬮(くじ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第087話「丞相旗(じょうしょうき)」

    曹操(そうそう)は河北(かほく)の袁紹(えんしょう)との決戦に臨むべく、自ら20万の大軍をひきいて許都(きょと)を発つ。 さらにその際、劉岱(りゅうたい)と王忠(おうちゅう)に5万の兵を分け与えて徐州(じょしゅう)の劉備(りゅうび)に当たらせるが、ふたりには丞相旗(じょうしょうき)も授け、この旗を掲げることで曹操自身が中軍にいるように見せかけた。 第087話の展開とポイント (01)許都 丞相府 このころ北海太守(ほっかいたいしゅ)の孔融(こうゆう)は、将軍に任ぜられ都に逗留(とうりゅう)していた。 孔融は、河北の大軍が黎陽(れいよう)まで進出したことを聞き、すぐに丞相府に駆けつけ曹操に直言する。 それは、袁紹とは軽々しく戦えない。多少は彼の条件を容れても、対策を他日に期して和睦を求めるのが万全であるというものだった。 曹操は是とも非とも答えず、とにかく諸人に問うてみようと言い、この日の評

    吉川『三国志』の考察 第087話「丞相旗(じょうしょうき)」
  • 吉川『三国志』の考察 第086話「一書十万兵(いっしょじゅうまんぺい)」

    関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)が独断で曹操(そうそう)配下の車冑(しゃちゅう)を殺害したため、やむなく劉備(りゅうび)は徐州(じょしゅう)へ入城する。 曹操との対立が決定的になったと憂える劉備に、陳登(ちんとう)は、ある人物に袁紹(えんしょう)あての手紙を書いてもらうよう勧めた。 第086話の展開とポイント (01)徐州 関羽と張飛らにより曹操配下の車冑が殺されると、やむなく劉備は徐州城へ入る。 しかし、事の成り行きや四囲の情勢は、従来のような曖昧な態度や卑屈を許さなくなっていた。 劉備が曹操の反応を憂えていると、陳登はご心配は無用だと言い、徐州の郊外に住む高士の鄭玄(ていげん)のことを話しだす。 鄭玄と河北(かほく)の袁紹とは、ともに宮中の顕官だった関係から三代の通家(つうか)なのだという。 陳登は、鄭玄に会って袁紹への手紙を書いてもらうよう勧める。そこで劉備は陳登を案内に鄭玄の住まい

    吉川『三国志』の考察 第086話「一書十万兵(いっしょじゅうまんぺい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第085話「霧風(むふう)」

    徐州(じょしゅう)の統治を任されていた車冑(しゃちゅう)のもとに、許都(きょと)の曹操(そうそう)から劉備(りゅうび)を殺害せよとの密命が届く。 この話を陳登(ちんとう)に聞かされた関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)は、劉備に相談しないまま、車冑と一族を独断で始末する。 第085話の展開とポイント (01)徐州 仮の太守(たいしゅ)として徐州を治めている車冑のもとに、許都の曹操から劉備を殺せとの密命が届く。 車冑が相談したところ、陳登は城門の内に伏兵を置き、劉備を招いて十方から剣槍(けんそう)の餌とするよう勧める。また、自分も櫓(やぐら)にいて、劉備に続く部下の者をつるべ撃ちに射伏せてみせるとも言う。 さっそく車冑は兵の手配にかかると、城外の劉備に使いを遣り、城楼の仰月台(ぎょうげつだい)での酒宴に招いた。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第21回)では、

    吉川『三国志』の考察 第085話「霧風(むふう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第083話「兇門脱出(きょうもんだっしゅつ)」

    (02)許都 丞相府 曹操は劉備を見ると今日も至極機嫌がよく、先日の清雅淡味と趣を変え、この日は贅美(ぜいび)濃厚な盞肴(さんこう。酒と料理)をもって卓を満たす。 そこへ、河北の情勢を探りに行っていた満寵が帰ってきたとの知らせが届く。曹操はすぐに通して報告を促す。 満寵が、北平(ほくへい)の公孫瓚(こうそんさん)が袁紹(えんしょう)に滅ぼされたと伝えると、座にあった劉備が驚く。 曹操は劉備から公孫瓚との関わりを聞き、満寵に公孫瓚滅亡の子細を語るよう言う。 満寵は、公孫瓚が冀州(きしゅう)の要地に易京楼(えきけいろう)と名付ける大城郭を築き、一族でそこへ移っていたこと。その後、味方の一部隊を敵の中に捨て殺しにしたことから信望が薄れ、士気もすさびだしたこと。 公孫瓚が黒山(こくざん)の張燕(ちょうえん)に協力を求め、袁紹を挟み撃ちにする策を立てたものの、裏をかかれて惨敗に終わったこと。 袁紹が

    吉川『三国志』の考察 第083話「兇門脱出(きょうもんだっしゅつ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第080話「鶏鳴(けいめい)」

    董承(とうじょう)は献帝(けんてい)から賜った血の密詔を懐に忍ばせ、あえて夜中に劉備(りゅうび)の客館を訪ねる。 密詔を見せられた劉備はとめどなく涙を流し、自分も董承らの同志に加わる決意を固め、官職と名を義状に記した。 第080話の展開とポイント (01)許都(きょと) 劉備の客館 ある夜、董承は献帝の密詔を懐に秘め、頭巾で面を隠して劉備の客館へ向かった。 このとき彼は曹操(そうそう)の密偵に尾行されてはならないと警戒。日ごろ詩文だけの交わりをしている風雅の老友を先に訪ね、わざと深更(深夜)まで話し込み、三更(午前0時前後)ごろなってその家を辞した。 劉備の客館に着いたのは四更(午前2時前後)に近かった。劉備は怪しみながら迎え入れたが、およそ用向きを察しており、客院ではなく奥の小閣へ案内した。 ★ここで劉備の客館が、当初の丞相府(じょうしょうふ)のすぐ隣から今の場所(許都の郊外)に移ったこ

    吉川『三国志』の考察 第080話「鶏鳴(けいめい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第079話「油情燈心(ゆじょうとうしん)」

    帰宅した董承(とうじょう)は、献帝(けんてい)に賜った玉帯の中から血でしたためられた密詔を見つけ、その文面に涙する。 さっそく董承は信頼できる仲間を捜し始めたが、集めた同志は今ひとつ決め手に欠けていた。 第079話の展開とポイント (01)許都(きょと) 董承邸 献帝から御衣と玉帯を賜った董承。急いで屋敷に帰ると一室に閉じ籠もり、ふた品を改めてみる。しかし御衣からも玉帯からも、一葉の紙片さえ出てこなかった。 それから4、5日後、この夜も董承は卓に向かって物思わしく頰杖をついていたが、いつの間にか疲れが出てウトウトと居眠ってしまう。 このとき漏れてきた風で、傍らの灯火から丁子頭が落ちた。董承が焦げた臭いに驚き目を覚ますと、灯心の丁子が玉帯の上に落ちていぶりかけている。あわてて手でもみ消したものの、龍の丸の紫錦襴(しきんらん)に親指の頭ほどの焦げ穴が開いていた。 ところがその焦げ穴を凝視してい

    吉川『三国志』の考察 第079話「油情燈心(ゆじょうとうしん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第078話「秘勅を縫う(ひちょくをぬう)」

    これまで数々の苦難を耐え忍んできた献帝(けんてい)だったが、このところの曹操(そうそう)の専横ぶりにはさすがに不安を募らせる。 そこで伏皇后(ふくこうごう)の父である伏完(ふくかん)と相談のうえ、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の董承(とうじょう)に秘勅を下し、曹操の排除に動きだす。 第078話の展開とポイント (01)許都(きょと) 禁中(宮中) 献帝は世の行く末を思い、その日も終日、暗い顔をしていた。伏皇后と涙ながらに嘆き合っていると、皇后の父の伏完が入ってくる。 伏完は曹操調伏の意中を打ち明け、献帝も心を動かす。伏完は車騎将軍の董承を召し、密詔を下すよう勧めた。 深く思い悩んだ献帝だったが、自ら指をい破り、白絖(しろぎぬ)の玉帯に血潮をもって詔(みことのり)をしたためる。伏皇后に命じ、これに紫錦の裏を重ねさせ、玉帯の芯に縫い込ませた。 翌日、献帝は密かに董承を召すと、長安(ちょうあん)

    吉川『三国志』の考察 第078話「秘勅を縫う(ひちょくをぬう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第077話「許田の猟(きょでんのかり)」

    呂布(りょふ)討伐を終えた曹操(そうそう)は、劉備(りゅうび)を伴い許都(きょと)に凱旋(がいせん)する。 その後、許田(きょでん)で盛大な巻き狩りを催し献帝(けんてい)の出御(しゅつぎょ)を仰いだが、この場でわざと尊大な態度を取ってみせ、皆の様子をうかがう。 第077話の展開とポイント (01)徐州(じょしゅう) 下邳(かひ)での呂布討伐を終え、曹操の大軍が徐州に着く。このとき一群の老民が進み出て、劉備を太守(たいしゅ)としてこの地に留めてほしいと懇願する。 曹操は馬上から、劉備には莫大(ばくだい)な功労があるため、私とともに都(許都)へ上って天子(てんし。献帝)に拝謁し、やがてまた徐州へ帰ってくるだろうと答え、沿道の民を沸かせた。 (02)許都 日を経て三軍は許都に凱旋。曹操は功ある将士に恩賞を分かち、都民には3日間の祝祭を行わせる。 劉備の旅舎は丞相府(じょうしょうふ)の左に定められ

    吉川『三国志』の考察 第077話「許田の猟(きょでんのかり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第076話「白門楼始末(はくもんろうしまつ)」

    曹操(そうそう)の包囲を受け続けた末に、下邳(かひ)城内の呂布(りょふ)は味方の部将たちの信頼を完全に失い、とうとう彼らの手で捕縛される。 曹操は下邳への入城を果たし、白門楼(はくもんろう)において呂布や陳宮(ちんきゅう)を処刑するが、劉備(りゅうび)の願いを聞き入れる形で張遼(ちょうりょう)の命は助けた。 第076話の展開とポイント (01)下邳の城外 曹操の営 夜明けごろ曹操は侍者に起こされ、下邳の城中から侯成(こうせい)が降伏を乞うてきていると伝えられる。すぐに会って子細を聞くと、侯成は呂布の厩舎(うまや)から盗んできた赤兎馬(せきとば)を献じた。 さらに曹操は、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)のふたりも城中にあり、内応する手はずになっていると聞き限りなく喜悦。ただちに降伏を促す檄文(げきぶん)をしたため、同文の矢文を何十となく城中へ射込ませる。 ★この矢文の中で、曹操が大将軍(

    吉川『三国志』の考察 第076話「白門楼始末(はくもんろうしまつ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第075話「破瓶(はへい)」

    曹操(そうそう)配下の郭嘉(かくか)の献策による水攻めに遭い、下邳(かひ)城内の呂布軍(りょふぐん)は日ごとに動揺の色を濃くする。 そのうち暴酒にふけるようになった呂布は、ある朝、鏡の中に見た己の姿に衝撃を受け、すぐさま全軍に禁酒令を出す。ところが――。 第075話の展開とポイント (01)下邳 最後の一計がむなしく半途に終わり、それ以来、呂布は城にあって悶々(もんもん)と酒ばかり飲んでいた。 だが、下邳を包囲し60余日を経た曹操にも後方に憂いがあり、すでに冬期に入り凍死する兵馬が数知れなかった。 (02)下邳の城外 曹操の営 そのころ曹操のもとに早打ちが着き、河内(かだい)の張楊(ちょうよう)が呂布を助けんと称し、兵を動かしたことが伝わる。 ところが張楊は心変わりした配下の楊醜(ようしゅう)に殺され、軍勢が奪い取られて大混乱が起こったということで、眭固(けいこ)という者が張楊の仇(あだ

    吉川『三国志』の考察 第075話「破瓶(はへい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第074話「煩悩攻防戦(ぼんのうこうぼうせん)」

    曹操(そうそう)は下邳(かひ)を包囲し、城内の呂布(りょふ)に揺さぶりをかける。そのうち呂布は、腹心の陳宮(ちんきゅう)の進言さえ冷静に聞けなくなってきた。 さらに呂布は、延期していた自分の娘と袁術(えんじゅつ)の息子との縁談を再び持ち出し、これに最後の望みを託す。 第074話の展開とポイント (01)下邳 下邳城を巡る泗水(しすい)の流れを隔て、櫓(やぐら)に現れた呂布に城外から呼びかける曹操。 彼の話を聞いた呂布は、やがてしばらくの猶予を求め、城中の者と商議し降使を遣わすことにすると言いだす。 そばにいた陳宮は意外な返事に愕然(がくぜん)として跳び上がり、突然、横合いから大音声で曹操を罵り始める。そして一矢を放つと、矢は曹操の兜(かぶと)の眉庇(まびさし)に当たって折れた。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第19回)では、陳宮が放った矢は曹操の絹傘に

    吉川『三国志』の考察 第074話「煩悩攻防戦(ぼんのうこうぼうせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第073話「奇計(きけい)」

    呂布(りょふ)は曹操(そうそう)と通じていた陳登(ちんとう)の計略にはまり、蕭関(しょうかん。蕭県〈しょうけん〉)の関外で大規模な同士討ちを演じてしまう。 こうして蕭関で大敗を喫したうえ、徐州(じょしゅう)や小沛(しょうはい)も立て続けに失い、ついに下邳(かひ)へと追い込まれた。 第073話の展開とポイント (01)行軍中の呂布 陳登は蕭関(蕭県)を後にし、夜明けごろに呂布の陣へ戻ってきた。 さっそく呂布は蕭関の様子をただすが、陳登は、孫観(そんかん)や呉敦(ごとん)ら山野の賊頭に加え、陳宮(ちんきゅう)までも裏切りを謀っている様子だと答える。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第19回)では、陳登は呂布に、孫観らがそろって曹操に関を献上しようとしていると告げ、陳宮を残し守備させてきたと伝えていた。 呂布は陳登に一策を授け、再び蕭関へ差し向けた。伝令と偽っ

    吉川『三国志』の考察 第073話「奇計(きけい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第072話「黒風白雨(こくふうはくう)」

    呂布(りょふ)に占拠された小沛(しょうはい)から、かろうじて脱出できた劉備(りゅうび)。許都(きょと)を目指して単騎で逃げ延びるうち、孫乾(そんけん)と配下の数十騎が合流する。 そしてさらに道を急ぐと、梁城(りょうじょう)の近くで曹操(そうそう)自身がひきいる援軍に運よく出会えた。戦況を聞いた曹操は、さっそく小沛の奪回に乗り出す。 第072話の展開とポイント (01)小沛 城内が呂布軍に蹂躙(じゅうりん)されるに及び、劉備は西門から脱出。小沛から遠く落ちたときにはただ一騎となる。 呂布は小沛を占領すると糜竺(びじく。麋竺)を呼び、劉備の子を預けた。そして徐州城(じょしゅうじょう)へ移して固く守るよう命じ、自分の佩剣(はいけん)を授け、狼藉(ろうぜき)する兵は斬ってもよいと告げた。 呂布は高順(こうじゅん)と張遼(ちょうりょう)を小沛に留め、自身は兗州(えんしゅう)の境まで進み、威を振るっ

    吉川『三国志』の考察 第072話「黒風白雨(こくふうはくう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第071話「健啖天下一(けんたんてんかいち)」

    呂布(りょふ)の一計で劉備(りゅうび)との和睦を吞まざるを得なくなり、何ら戦果を上げられずに帰国する袁術(えんじゅつ)配下の紀霊(きれい)。 報告を聞くなり激怒した袁術だったが、紀霊は、いっそ呂布の娘を(袁術の息子の)嫁として迎えてはどうか... 陳宮(ちんきゅう)は、心腹の大事まで陳珪父子に諮るのはどうかと諫めるが、かえって呂布から退けられる。陳宮はしばらく自邸に引き籠もり、徐州城へも出なくなった。 そうしたある日、陳宮は下僕の童子ひとりを連れ、秋の山野を狩りして歩く。 ★『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第18回)では、陳宮は数騎のお供を連れ、小沛へ巻き狩りに出かけたとある。 そこで捕らえた怪しげな男を厳しく拷問してみると、小沛の劉備に返書をもらい、許都へ帰る使いだとわかった。 その男は、返書は先へ行った者が持っていると言ったが、陳宮が男を殺して童子に遺

    吉川『三国志』の考察 第071話「健啖天下一(けんたんてんかいち)」
  • 吉川『三国志』の考察 第070話「北客(ほっきゃく)」

    またも宛城(えんじょう)の張繡(ちょうしゅう)討伐を果たせず、許都(きょと)に戻ってきた曹操(そうそう)。 そこへ冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)の使節団が到着。北平(ほくへい)の公孫瓚(こうそんさん)との間で国境を巡る争いが起きたことを伝え、兵員や兵糧の援助を求める旨の書簡を差し出す。 第070話の展開とポイント (01)許都 許都に帰り着いた曹操は軍隊を解くにあたり、先ごろ安象(あんしょう)で劉表(りゅうひょう)と張繡の連合軍に待ち伏せされた際、100人足らずの手勢をひきいて苦戦を助けた将を捜すよう命ずる。 ★安象は、正史『三国志』や『三国志演義』では安衆(あんしゅう)とある。 幕僚のひとりが将台に立ち、その由を全軍に伝えると、李通(りつう)という者が名乗り出た。 かつて李通は黄巾(こうきん)の乱で功を立て、一時は鎮威中郎将(ちんいちゅうろうしょう)を務めていたが、その後、思うとこ

    吉川『三国志』の考察 第070話「北客(ほっきゃく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第069話「梅酸・夏の陣(ばいさん・なつのじん)」

    建安(けんあん)3(198)年4月、曹操(そうそう)は再び大軍をひきい、先に敗北を喫した宛城(えんじょう)の張繡(ちょうしゅう)討伐へ向かう。 行軍は夏の5月から6月にかかり、伏牛(ふくぎゅう)山脈を越える難路では一滴の水さえ見当たらず、多くの兵士が倒れる。この状況を見た曹操は、兵士たちにあることを叫ぶ。 第069話の展開とポイント (01)許都(きょと) 年が明け建安3(198)年の正月、曹操は朝廷に参内し献帝(けんてい)に拝謁。賀を述べた後で、「今年もまた西へ征旅に赴かねばなりますまい」と言った。 その年の4月、丞相府(じょうしょうふ)の大令が発せられると、一夜にして張繡討伐の大軍が西方へと動きだす。献帝自ら鑾駕(らんが。天子〈てんし〉の車)を促し、曹操を外門の大路まで見送った。 (02)行軍中の曹操 大軍が許都の郊外から田舎道へ流れていくと、麦畑で働いていた百姓は恐れて我がちに逃げ隠

    吉川『三国志』の考察 第069話「梅酸・夏の陣(ばいさん・なつのじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第068話「空腹・満腹(くうふく・まんぷく)」

    曹操(そうそう)は孫策(そんさく)に加え、呂布(りょふ)や劉備(りゅうび)の助力も得て寿春(じゅしゅん)を包囲したが、袁術(えんじゅつ)はいち早く城から逃げ出していた。 寿春の城下は洪水で大きな被害を受けており、とても兵糧を集められそうにない。そのうち滞陣が1か月近くになると陣中の兵糧も尽きかけてくる。そこで曹操は一計を案じ――。 第068話の展開とポイント (01)淮南(わいなん) 寿春 楊大将(ようたいしょう)が進言した、一時寿春を捨てて城をほかへ遷(うつ)すという意見はひどく悲観的なものだったが、結局は袁術も許容する。 李豊(りほう)・楽就(がくしゅう)・陳紀(ちんき)・梁剛(りょうごう)の四将が10万の兵とともに残り、城を守ることになった。 ★楊大将がわかりにくい。『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫策伝)によると、袁術の長史を務めていたのは楊弘(ようこう)。ただ『三国志演義(1)』(

    吉川『三国志』の考察 第068話「空腹・満腹(くうふく・まんぷく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第067話「仲秋荒天(ちゅうしゅうこうてん)」

    宛城(えんじょう)と淯水(いくすい)で張繡(ちょうしゅう)に敗れた後、しばらく許都(きょと)から動かなかった曹操(そうそう)。 曹操は孫策(そんさく)の助力を取りつけるや30余万の大軍を動員し、今度は淮南(わいなん)の袁術(えんじゅつ)討伐へ向かう。 第067話の展開とポイント (01)呉城(ごじょう) 袁術の使者に返書を持たせて追い返した後、ひとりおかしがる孫策。しかしその一方で、必ず袁術は怒り立って攻めてくるに違いないと、大江の沿岸一帯に兵船を浮かべて備えていた。 そこへ許都の曹操の使者が到着。天子(てんし。献帝〈けんてい〉)の詔(みことのり)を伝え、孫策を会稽太守(かいけいたいしゅ)に任ずる。 孫策は詔を受けたが、同時に朝命として曹操からの要求もあった。それはただちに淮南へ出兵し、偽帝袁術を誅伐せよというもの。 もとより拒むところではなく、玉璽(ぎょくじ)を預けた一半の責任もあるので

    吉川『三国志』の考察 第067話「仲秋荒天(ちゅうしゅうこうてん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第066話「増長冠(ぞうちょうかん)」

    袁術(えんじゅつ)は呂布(りょふ)が曹操(そうそう)と通じていたことを知り激怒し、すぐさま20余万の大軍を動員。軍を7つに分けて徐州(じょしゅう)へ攻め込む。 これを受け呂布配下の陳宮(ちんきゅう)が、この事態を招いた陳珪(ちんけい)父子を... 大粒の雨とともに雷鳴も激しい中で戦は開始され、呂布も防戦に出た。夜になっても戦況はわからない。 ところが急に寄せ手の陣形が乱れ、流言、同士討ち、退却、督戦、また混乱と、まったく収まりがつかなくなってしまう。 夜が明けると、袁術の第1軍の張勲(ちょうくん)の後ろから、第6軍の韓暹と第7軍の楊奉が火の手を上げ、討ってかかったことがわかる。 これを知った呂布は勢いを得て、敵の中央に備える紀霊(きれい)・雷薄(らいはく)・陳紀(ちんき)らの諸陣を突破し、瞬く間に袁術の営に迫った。 山上に姿を現した袁術を見ると、呂布は中軍の前備えを一気に蹴破り、峰の懐へ

    吉川『三国志』の考察 第066話「増長冠(ぞうちょうかん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第063話「胡弓夫人(こきゅうふじん)」

    建安(けんあん)2(197)年、曹操(そうそう)は徐州(じょしゅう)の呂布(りょふ)の官位を進め懐柔を図ると、自ら大軍をひきいて宛城(えんじょう)の張繡(ちょうしゅう)討伐に向かう。 張繡は謀士の賈詡(かく)の進言に従い、戦うことなく降伏。こうして難なく宛城へ入った曹操だったが、ある夜、美しい胡弓(こきゅう)の音を耳にする。 第063話の展開とポイント (01)小沛(しょうはい) 小沛へ押し寄せた呂布に対し、劉備(りゅうび)は城を捨てて許都(きょと)の曹操を頼る。 関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)は2千余騎をもって殿軍(しんがり)となり、呂布配下の部将の魏続(ぎぞく)や宋憲(そうけん)らに手痛い打撃を与えたうえ、先に落ちていった劉備の後を追い慕う。 ★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第16回)では張飛が前軍、関羽が後軍とある。 (02)許都 建安元(196

    吉川『三国志』の考察 第063話「胡弓夫人(こきゅうふじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第062話「馬盗人(うまぬすびと)」

    陳珪(ちんけい)の画策により、呂布(りょふ)の娘と袁術(えんじゅつ)の息子との縁組みは先延ばしになった。 ちょうどそのころ、呂布の命令で山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)へ軍馬の買い付けに行っていた宋憲(そうけん)らが戻ってきたが、小沛(しょうはい)の境で強盗に遭い、良馬ばかりを200頭以上も奪われてしまったと復命する。 第062話の展開とポイント (01)徐州(じょしゅう) 陳登邸(ちんとうてい) 呂布を諫めて娘の輿入れを延期させた翌日、陳珪は息子の陳登の屋敷で病床に横臥(おうが)していた。 だが、つらつら険悪な世上の動きを考えると、陳登が仕えている小沛の劉備(りゅうび)の位置は実に危険なものに思えてならない。陳珪は心配のあまり一書をしたため、使いを立てて呂布に届けさせた。 (02)徐州 呂布が陳珪の意見書を開いてみると

    吉川『三国志』の考察 第062話「馬盗人(うまぬすびと)」
  • 吉川『三国志』の考察 第061話「花嫁(はなよめ)」

    呂布(りょふ)の一計で劉備(りゅうび)との和睦を吞まざるを得なくなり、何ら戦果を上げられずに帰国する袁術(えんじゅつ)配下の紀霊(きれい)。 報告を聞くなり激怒した袁術だったが、紀霊は、いっそ呂布の娘を(袁術の息子の)嫁として迎えてはどうかと進言する。 第061話の展開とポイント (01)淮南(わいなん) 寿春(じゅしゅん) 呂布の仲介で劉備との和睦がまとまると、紀霊は軍勢をひきいて帰国。子細を聞いた袁術は嚇怒(かくど。激しく叱ること)する。 そして自ら大軍をひきいて徐州(じょしゅう)と小沛(しょうはい)の攻略に乗り出そうとするが、紀霊は諫める。そのうえ、呂布の娘を(袁術の)息子の嫁に迎えて婚を通じ、彼の心を籠絡してみるよう勧めた。 そこで袁術は一書をしたため、今回の和睦に対する謝意を伝える。その後、わざと2か月ほど間を置いてから、今度は縁談の使者を遣わした。 ★ここで呂布のの姓が厳氏(

    吉川『三国志』の考察 第061話「花嫁(はなよめ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第059話「名医(めいい)」

    江東(こうとう)諸郡の攻略を進める孫策(そんさく)のもとに、母や弟の孫権(そんけん)らを残してきた宣城(せんじょう)が夜襲を受けたとの知らせが届く。 孫策が急ぎ宣城に戻ると、母たちの身は無事だったものの、孫権を助けようとして重傷を負った周泰(しゅうたい)の容体が想像以上に悪かった。孫策は皆に妙案を求めるが――。 第059話の展開とポイント (01)宣城 江東の平定が一段落した孫策は、曲阿(きょくあ)にいる老母と一族を迎えに行かせる。そして弟の孫権に周泰を付けて宣城を守らせ、自分に代わり母に孝養を尽くすよう言い、再び南方の制覇へ赴いた。 ★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第15回)では、孫策は母・叔父・弟たちを迎えて曲阿へ帰らせ、弟の孫権と周泰に宣城を守らせると、自分は軍勢をひきいて南の呉郡(ごぐん)を攻略したとある。 (02)呉郡 そのころ呉郡では、「東呉

    吉川『三国志』の考察 第059話「名医(めいい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第057話「小覇王(しょうはおう)」

    神亭山(しんていざん)における一騎討ちでは劉繇(りゅうよう)配下の太史慈(たいしじ)と引き分けた孫策(そんさく)だったが、別動部隊を使って劉繇の拠である霊陵城(れいりょうじょう)を攻略する。 孫策は追撃の手を緩めようとせず、劉繇はわずかな残兵とともに荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼って逃げ落ちた。 第057話の展開とポイント (01)神亭山の南 劉繇の営 劉繇の陣前まで攻め寄せた孫策だったが、昨日の一騎討ちで奪われた兜(かぶと)をさらされ太史慈に笑い返されると、勝負をつけようと馬を躍らせかける。 それを制した程普(ていふ)が太史慈に向かっていく。ところが、まだ戦がたけなわともならないうち、劉繇がにわかに退却を命じた。 太史慈が引き揚げて不満を述べると、劉繇は苦々しげに、孫策軍に城の霊陵城を攻め取られたことを話す。 ★霊陵城については先の第55話(03)を参照。 孫策は一部

    吉川『三国志』の考察 第057話「小覇王(しょうはおう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第056話「好敵手(こうてきしゅ)」

    神亭山(しんていざん)で光武帝(こうぶてい。劉秀〈りゅうしゅう〉)の御霊廟(みたまや)を祭った孫策(そんさく)が、この機会に敵の様子を探っておこうと言いだす。 孫策と部将たちは敵陣に近づき、布陣を見届けて帰ろうとするが、そのとき山のふもとから、槍(やり)を手にした劉繇(りゅうよう)配下の太史慈(たいしじ)が駆け上ってくる。 第056話の展開とポイント (01)神亭山 後漢(ごかん)の光武帝(劉秀)の御霊廟に祈りを捧げた孫策。もとの道ではなく南へ向かって下りていこうとし、諸将から注意される。 すると孫策は意を明かし、事のついでに谷を下り、彼方(かなた)の峰を越え、敵の動静を探って帰ろうと言いだす。 このとき付き従っていたのは、程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)・蔣欽(しょうきん)・周泰(しゅうたい)など13人しかいなかったため、豪胆な彼らもさすがに驚く。 結局みな孫策について

    吉川『三国志』の考察 第056話「好敵手(こうてきしゅ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第055話「神亭廟(しんていびょう)」

    首尾よく袁術(えんじゅつ)から兵馬を借りた孫策(そんさく)は快進撃を見せ、牛渚(ぎゅうしょ)の要塞を陥すと劉繇(りゅうよう)の霊陵城(れいりょうじょう)へ迫る。 劉繇自身も城から出撃し、神亭山(しんていざん)の南に営を置く。孫策も先んじて神亭山の北側へ移っていたが、この山には光武帝(こうぶてい。劉秀〈りゅうしゅう〉)の御霊廟(みたまや)が残っていると聞き――。 第055話の展開とポイント (01)揚州(ようしゅう。楊州) 霊陵城? 孫策の南下を聞いた劉繇は評議を開く。さっそく牛渚の寨(とりで)へ何十万石(せき)という兵糧を送り、同時に張英(ちょうえい)に大軍を授けて防備にあたらせた。 その折、評議の末席にいた太史慈(たいしじ)が先鋒を希望するも、劉繇はひと言の下に退ける。太史慈は30歳になったばかりの若手で、仕えて日の浅い新参でもあった。 ★このとき(興平〈こうへい〉2〈195〉年?)太

    吉川『三国志』の考察 第055話「神亭廟(しんていびょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第054話「大江の魚(たいこうのうお)」

    董卓(とうたく)により焼け野原と化した洛陽(らくよう)の宮殿跡を見て回る、袁紹(えんしょう)ら反董卓連合軍の諸侯。 皆が帰った後、なお孫堅(そんけん)は数名の従者とともに建章殿(けんしょうでん)の辺りをぶらついていたが、とある井戸から思わぬ... 話を聞いた袁術は快諾し、兵3千人と馬500頭を貸し与え、武器や馬具なども調えてやる。さらに兵を指揮するための職権も必要だとし、孫策に校尉(こうい)の職を与え、殄寇将軍(てんこうしょうぐん)の称号を許した。 ★井波『三国志演義(1)』(第15回)では袁術が孫策に、「わしが上表して折衝校尉(せっしょうこうい)・殄寇将軍に任命してもらってやる」と言っていた。 孫策は勇躍し、即日軍勢をそろえて出立。付き従う面々には先の朱治と呂範をはじめ、父の代から仕えて流浪中もそばを離れずにいた、程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)などの頼もしい者たちもい

    吉川『三国志』の考察 第054話「大江の魚(たいこうのうお)」
  • 吉川『三国志』の考察 第053話「母と妻と友(ははとつまととも)」

    留守を任せた張飛(ちょうひ)の失態により、徐州(じょしゅう)を呂布(りょふ)に奪われてしまった遠征中の劉備(りゅうび)。 城を捨てて逃げてきた張飛とは合流できたものの、母や子が取り残され、その処遇が呂布の手に委ねられていることを知る。 第053話の展開とポイント (01)徐州 曹豹(そうひょう)の内応を得て、劉備不在の徐州城を占領した呂布。即日、城門の往来や街の辻(つじ)に高札を立て、軍民に平常の務めに復すよう通達した。 また自ら後閣へ出向き、捕虜とした婦女子を手荒に扱わないよう兵士を戒める。その際、劉備の老母や夫人、幼児(おさなご)たちが留まっていることが判明。呂布は100人の士卒を付けて護衛を命ずる。 ★ここで劉備の子らしき幼児たちが登場。この時点で跡継ぎの劉禅(りゅうぜん)は生まれていないはずなので、彼の兄か姉ということになるのか? そのあたりがよくわからなかった。 (02)淮陰(

    吉川『三国志』の考察 第053話「母と妻と友(ははとつまととも)」
  • 吉川『三国志』の考察 第052話「禁酒砕杯の約(きんしゅさいはいのやく)」

    劉備(りゅうび)に仕掛けた二虎競(両虎競)の計をかわされてしまった曹操(そうそう)。そこで荀彧(じゅんいく)は次なる一計を進言する。 今回は劉備もかわしきれず、徐州(じょしゅう)の留守を張飛(ちょうひ)に預けて袁術(えんじゅつ)討伐へ出陣したが――。 第052話の展開とポイント (01)徐州 翌日、劉備は勅使が泊まっている駅館へ答礼に出向く。呂布(りょふ)を殺せとの内命をすぐに果たすことはできない旨を書面にし、謝恩の表とともに託した。 (02)許都(きょと) 勅使から報告を受けた曹操は荀彧を呼び、劉備が二虎競の計にかからなかったことを話す。 ★ここでいう二虎競の計とは、正式に徐州の領有を許されていない劉備に詔(みことのり)を下し、併せて密旨を添えて呂布を殺すよう命ずるもの。前の第51話(02)を参照。 すると荀彧は、新たに駆虎吞狼(くこどんろう)の計を勧める。これはまず南陽(なんよ

    吉川『三国志』の考察 第052話「禁酒砕杯の約(きんしゅさいはいのやく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第051話「両虎競食の計(りょうこきょうしょくのけい)」

    曹操(そうそう)は許昌(きょしょう)への遷都を実現したことで大将軍(だいしょうぐん)に任ぜられ、武平侯(ぶへいこう)に封ぜられた。 その後、とある酒宴で劉備(りゅうび)の話題が出ると、曹操はこのあたりで彼を何とかしておきたいと考え、荀彧(じゅんいく)の献策を容れる。 第051話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう)の郊外 徐晃(じょこう)の軍営 楊奉(ようほう)は部下から、徐晃が敵方の者を引き入れ密談していると聞くと、すぐに数十騎を差し向けて幕舎を包みかけた。 そのとき曹操の伏兵が起こり、楊奉配下の数十騎を追い退ける。満寵(まんちょう)は徐晃を救出して戻り、徐晃は曹操に仕えることになった。 楊奉と韓暹(かんせん)は奇襲を試みたが、しょせん勝ち目はないとみたので南陽(なんよう)へ落ち延び、その地の袁術(えんじゅつ)を頼ることにした。 (02)許昌 やがて献帝(けんてい)の御車(みくるま)

    吉川『三国志』の考察 第051話「両虎競食の計(りょうこきょうしょくのけい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第050話「火星と金星(かせいときんせい)」

    献帝(けんてい)の詔(みことのり)を拝受し、先発部隊に続き自身も上洛した曹操(そうそう)。李傕(りかく)や郭汜(かくし)は相手ではなく、瞬く間に撃退する。 ある夜、曹操は荀彧(じゅんいく)を連れて楼に上り、王立(おうりゅう)から聴いた話を打ち明け意見を求める。 第050話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) 献帝の詔を受けて曹操が上洛すると、今は明らかに賊軍と呼ばれている李傕と郭汜は戦に焦っていた。 だが謀将の賈詡(かく)が、ふたりを諫めて承知しない。降伏を勧めた賈詡は幕中で謹慎を命ぜられるが、その夜、幕をかみ破り逃亡する。 翌朝、李傕と郭汜の軍勢は前進を開始し、曹操の軍勢にひた押しに当たっていった。 李傕の甥の李暹(りせん)と李別(りべつ)が駒を並べて曹操軍の前衛を蹴散らしにかかると、曹操の中軍から許褚(きょちょ)が飛び出し、李暹を一刀の下に斬り落とす。 続いて許褚は驚いて逃げ走っ

    吉川『三国志』の考察 第050話「火星と金星(かせいときんせい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第049話「改元(かいげん)」

    幾多の苦難を堪え忍び、ついに献帝(けんてい)は洛陽(らくよう)への還幸を果たす。ところが、すでにかの地は荒れ果てており、とても住めるような状態ではなかった。 さっそく形ばかりの復興に取りかかり、年号も「建安(けんあん)」と改元したものの、いかんせん今の朝廷には力がなさすぎた。そこで献帝は、ある男のもとへ勅使を遣わす――。 第049話の展開とポイント (01)洛陽 幾度も虎口から逃れ、百難を越えて洛陽への還幸を果たした献帝。だが今や洛陽は、見渡す限り草ぼうぼうの野原にすぎなかった。 ★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第14回)では、献帝が箕関(きかん)を通過したところ、河内太守(かだいたいしゅ)の張楊(ちょうよう)が粟(アワ)や絹を用意し、軹道(しどう)で車駕(みくるま。天子〈てんし〉の乗る車)を出迎えたとある。 そこで献帝が張楊を大司馬(だいしば)に任ずる

    吉川『三国志』の考察 第049話「改元(かいげん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第047話「巫女(みこ)」

    董卓(とうたく)誅殺後も李傕(りかく)や郭汜(かくし)の専横に苦しめられていた献帝(けんてい)は、太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)の計を用い、ふたりが対立するよう仕向ける。 楊彪のの活躍もあり、事は献帝の思い描いた通り運ぶかに見えたが―... その賈詡が幽室(奥まった暗い部屋)に入ってきたとき、皆を退けた献帝は彼の前で再拝し哀れみを乞う。驚いた賈詡は床にひざまずいて頓首(頭を地面に打ちつけて礼をすること)し、時を待つよう伝える。 李傕の周囲には数多くの巫女がおり、みな重く用いられ、絶えず帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)に出入りしていた。 巫女たちは事あるごとに祭壇に向かって祈りを捧げたり、調伏の火を焚いたり神降ろしなどをして怪しげなご宣託を授けていた。李傕は恐ろしく信用し、何をやるにもすぐ巫女を呼び、神さまのお告げを聴いた。 あるとき李傕と同郷の皇甫酈(こうほれき)が

    吉川『三国志』の考察 第047話「巫女(みこ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第046話「毒と毒(どくとどく)」

    董卓(とうたく)誅殺後も李傕(りかく)や郭汜(かくし)の専横に苦しめられていた献帝(けんてい)は、太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)の計を用い、ふたりが対立するよう仕向ける。 楊彪のの活躍もあり、事は献帝の思い描いた通り運ぶかに見えたが――。 第046話の展開とポイント (01)長安(ちょうあん) 兗州(えんしゅう)を呂布(りょふ)から奪還した曹操(そうそう)。それ以前、汝南(じょなん)や潁川(えいせん)で草賊相手に切り取り横行を行い苦境をしのいでいたことが、かえって評価される。 曹操は朝廷から乱賊を鎮定し地方の平穏に尽くした功により、建徳将軍(けんとくしょうぐん)に任ぜられ費亭侯(ひていこう)に封ぜられた。 董卓が殺された後に立った李傕は司馬(しば。ここでは大司馬〈だいしば〉の意)、そして郭汜も大将軍(だいしょうぐん)として権力を振るい、百官を圧伏させていた。 あるとき太尉の楊彪が朱雋

    吉川『三国志』の考察 第046話「毒と毒(どくとどく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第045話「愚兄と賢弟(ぐけいとけんてい)」

    陶謙(とうけん)亡き後、請われて徐州(じょしゅう)を統治することになった劉備(りゅうび)。 その徐州を頼り、曹操(そうそう)に敗れて各地をさまよった呂布(りょふ)がやってくる。受け入れに反対する声が上がる中、劉備の決断は――。 第045話の展開とポイント (01)兗州(えんしゅう。昌邑〈しょうゆう〉?) 遠征を続けていた曹操は、近ごろ古巣の兗州に呂布配下の薛蘭(せつらん)と李封(りほう)が立て籠もっていると聞く。 また、その軍紀はすこぶる乱れ、兵士は城下で略奪や悪事ばかり働き、城中の将も苛税を絞り、自己の享楽ばかりに驕(おご)りふけっているという。 曹操は「今なら討てる」と直感し、軍勢を一転させ兗州を目指す。曹操軍が押し寄せると、薛蘭と李封は驚きあわてながらも駒をそろえて打って出る。 これに許褚(きょちょ)が挑み、李封を一気に斬ってしまう。ひるんだ薛蘭が逃げ出すと、曹操の陣後から呂虔(りょ

    吉川『三国志』の考察 第045話「愚兄と賢弟(ぐけいとけんてい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第044話「牛と『いなご』(うしと『いなご』)」

    濮陽(ぼくよう)を巡る曹操(そうそう)と呂布(りょふ)の戦いは続いていたが、そこへ思わぬ脅威が迫ってくる。イナゴの大群だった。 その後、曹操は羊山(ようざん)に拠る黄巾賊(こうきんぞく)の残党を攻めた際、典韋(てんい)と互角に渡り合う壮士を目にする。 第044話の展開とポイント (01)濮陽 馬陵山(ばりょうざん)で曹操の偽葬儀の策に騙(だま)された後、呂布は濮陽城から出なくなる。曹操があらゆる策を巡らせて挑んでも、容易に出てこなかった。 そうしたある日、西の空からイナゴの大群が襲来する。悲痛な流民はう物を追い、東西へ移り去った。 山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の国々ではイナゴの災厄のため物価が暴騰。米1斛(こく)が銭100貫を出してもなかなか手に入らなかった。 ★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 

    吉川『三国志』の考察 第044話「牛と『いなご』(うしと『いなご』)」
  • 吉川『三国志』の考察 第043話「死活往来(しかつおうらい)」

    人選を誤ったことで曹操軍(そうそうぐん)の襲来を招いてしまった徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)。各地の諸侯がだんまりを決め込む中、援軍要請にただひとり応じた男がいた。 そうしているうちに曹操も、留守の兗州(えんしゅう)を呂布(りょふ)に奪われたため引き返さざるを得なくなり、濮陽(ぼくよう)で激闘を繰り広げる。 第043話の展開とポイント (01)徐州 思わぬ劉備(りゅうび)の来援に徐州の城兵の士気はよみがえる。 ★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第11回)では、北海(ほっかい)の孔融(こうゆう)や青州(せいしゅう)の田楷(でんかい)の援軍もそれなりの活躍をしているように見えた。 ところが吉川『三国志』では劉備らの活躍ばかり描かれており、さすがに持ち上げすぎの印象を受ける。ただ吉川『三国志』では田楷を使っていないため、こういう描き方になったものとも思う。

    吉川『三国志』の考察 第043話「死活往来(しかつおうらい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第042話「秋雨の頃(あきさめのころ)」

    反董卓(とうたく)連合軍の解散後、曹操(そうそう)は兗州(えんしゅう)に拠って地盤を固め、彼のもとには有能な人材が集まりつつあった。 ここで曹操は瑯琊(ろうや。琅邪)に隠居していた父の曹嵩(そうすう)のことを思い出し、泰山太守(たいざんたいしゅ)の応劭(おうしょう。応邵)に命じて迎えに行かせるが――。 第042話の展開とポイント (01)兗州(東武陽〈とうぶよう〉?) 諸州の浪人の間では、近ごろ兗州の曹操がしきりと賢を招いて士を募り、有能な者を厚遇しているとの評判が広がっていた。これを聞き、兗州へ志して行く勇士や学者が多かった。 ★『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(兗州は)ここでは兗州の東郡(とうぐん)東武陽県を指す。曹操は初平(しょへい)2(191)年の後半に東郡太守となり、東武陽県城を郡治(郡の役所が置かれた場所)として駐屯して

    吉川『三国志』の考察 第042話「秋雨の頃(あきさめのころ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第041話「大権転々(たいけんてんてん)」

    王允(おういん)の画策により董卓(とうたく)が誅殺された後、李傕(りかく)・張済(ちょうさい)・郭汜(かくし)・樊稠(はんちゅう)といった董卓の旧臣たちが、大軍をひきいて長安(ちょうあん)へ押し寄せる。 王允は献帝(けんてい)の身を案じ、彼らの要求に従う形で宣平門(せんぺいもん)の門楼から飛び下り、朝廷の実権は李傕らに握られた。 第041話の展開とポイント (01)西涼(せいりょう) 郿塢城(びうじょう)から敗走した大軍が西涼地方へ流れ込む。これらをひきいていたのは董卓の旧臣の李傕・張済・郭汜・樊稠だった。 彼らは連名で長安へ使者を遣わし恭順の意を示す。しかし王允は追い返し、即日討伐令を発した。 李傕らは賈詡(かく)の意見に従い、このまま団結を解かず、西涼一帯の地方民も糾合して長安を目指す。集まった雑軍を加え14万の大軍になったが、さらに道中、董卓の女婿で中郎将(ちゅうろうしょう)の牛輔(

    吉川『三国志』の考察 第041話「大権転々(たいけんてんてん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第039話「天颷(てんぴょう)」

    機が熟したと見た司徒(しと)の王允(おういん)は、自身の別荘である竹裏館(ちくりかん)に呂布(りょふ)を招き入れ、董卓(とうたく)の誅殺計画を打ち明ける。 李粛(りしゅく)が扮(ふん)する偽勅使にまんまと騙(だま)された董卓は、数千の護衛を引き連れて郿塢(びう)から長安(ちょうあん)へ向かう。 第039話の展開とポイント (01)長安の郊外 董卓が郿塢へ帰ると聞こえると、長安の大道は拝跪(はいき)する市民と朝野の貴人で埋まった。このとき呂布は自邸にいたが、巷(ちまた)のうわさを聞き、長安の外れまで馬を飛ばす。 丘のすそに駒を止め、大樹の陰から車列を眺めていた呂布は、その中の一車に貂蟬(ちょうせん)の姿を見つける。 呂布は呆然(ぼうぜん)と車列を見送りながら、董卓が貂蟬を手放すとの李儒(りじゅ)の言葉が偽りだと知った。というより、董卓が頑として手放さないのだと思った。 すると、司徒の王允が声

    吉川『三国志』の考察 第039話「天颷(てんぴょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第037話「痴蝶鏡(ちちょうきょう)」

    王允(おういん)の屋敷で会った貂蟬(ちょうせん)が董卓(とうたく)の丞相府(じょうしょうふ)へ連れていかれたと聞き、焦りを募らせる呂布(りょふ)。 思わず董卓の寝所にまで立ち入り叱声を浴びたものの、その後は一転して気遣いの言葉をかけられるなど、恩義と恋情との板挟みに苦悩する。 第037話の展開とポイント (01)長安(ちょうあん) 丞相府 呂布は貂蟬のことが頭から離れず、眠れぬまま翌朝を迎える。さっそく出仕して董卓の閣に出向いたが、後堂の寝殿は真午(まひる)になってようやく窓を開いた様子。 番将から董卓が目覚めたと聞くや、取り次ぎも待たずに後堂へ入っていく。そして昨夜のうちに董卓が貂蟬に手を付けたことを察し、心を煮えたぎらせる。用向きを聞かれた呂布は返答に窮し、その様子をいぶかしんだ董卓に叱られて立ち去った。 (02)長安 呂布邸 その後、呂布の様子が目立って変わってくる。丞相府への出仕を

    吉川『三国志』の考察 第037話「痴蝶鏡(ちちょうきょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第036話「傾国(けいこく)」

    傾国の美女たる貂蟬(ちょうせん)を用い、董卓(とうたく)と呂布(りょふ)との離間を図った王允(おういん)。 彼らを別々の日に招待して貂蟬を引き合わせると、案の定、ふたりともすっかり心を奪われた様子――。 第036話の展開とポイント (01)長安(ちょうあん) 王允邸 王允は一家を挙げて呂布をもてなすと、給仕の侍女に貂蟬を呼んでくるよう言う。まもなく姿を見せた貂蟬が挨拶すると、呂布は恍惚(こうこつ)と眺めるだけで、すっかり心を奪われてしまった。 ★ここで王允は貂蟬を(自分の)娘と紹介していた。 夜も更け呂布が帰ろうと立ちかけたところで、王允は貂蟬を差し上げてもよいとささやく。ただ、近いうちに吉日を選んで室へ送ることを約束するだけにしておき、この夜は呂布を帰らせた。 (02)長安 董卓の閣 翌日、王允は朝廷に出仕。呂布の見えない隙をうかがって董卓の閣へ行き、自邸での酒宴に誘う。董卓は非常な喜色

    吉川『三国志』の考察 第036話「傾国(けいこく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第035話「牡丹亭(ぼたんてい)」

    孫堅(そんけん)の急死を知って大喜びし、ついに権力の絶頂を極める董卓(とうたく)。 彼の存在に司徒(しと)の王允(おういん)は心を痛めていたが、ある晩、自宅の後園を歩いていると、幼いころから養育してきた楽女(がくじょ)の貂蟬(ちょうせん)に出会う。 第035話の展開とポイント (01)郿塢(びう) 孫堅の死が都の長安(ちょうあん)へも伝わると、董卓は手を打って喜ぶこと限りなかった。 このころ彼の驕(おご)りは絶頂に昇った観があり、位は人臣を極めてなお飽き足らず、太政太師(だいじょうたいし)と称していたが、最近は自ら尚父(しょうふ)とも号していた。天子(てんし。献帝〈けんてい〉)の儀仗(ぎじょう)さえ、尚父の出入りの輝かしさには見劣りした。 また弟の董旻(とうびん)に御林軍(ぎょりんぐん。近衛軍)の兵権を統べさせ、兄の子の董璜(とうこう)を侍中(じちゅう)として宮中の枢機に据えていた。 ★『

    吉川『三国志』の考察 第035話「牡丹亭(ぼたんてい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第034話「石(いし)」

    荊州(けいしゅう)の諸城を手際よく陥し、劉表(りゅうひょう)の拠である襄陽(じょうよう)を包囲する孫堅軍(そんけんぐん)。 ところが蒯良(かいりょう)の計にはまり、孫堅は思わぬ形で最期を遂げる……。 第034話の展開とポイント (01)襄陽 旋風(つむじかぜ)が吹いた翌日、蒯良が密かに劉表に進言。昼の狂風のほかにも、夜に入って常には見ない熒星(けいせい。火星)が西の野に落ちたことを伝える。 蒯良は、味方にとって憂うべきことではなく、むしろ壇を設け祭ってもいいくらいだと言い、この機を外さず袁紹(えんしょう)に使者を遣わし、援助を乞うよう勧めた。 劉表が、城外の孫堅軍の囲みを突破して使いをする者を募ったところ、呂公(りょこう)が進んで命を受けた。 蒯良は一策を授け、敵の囲みを破った後で峴山(けんざん)に登り、山の要所に準備しておいた岩石や大木、そして矢をもって追撃してくる敵を撃退し、そのうえ

    吉川『三国志』の考察 第034話「石(いし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第033話「溯江(そこう)」

    袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)が仲たがいすると、長沙(ちょうさ)にいた孫堅(そんけん)は袁術から密書を受け取る。 これを好機と捉えた孫堅は自ら船団をひきい、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を攻めるべく出撃した。 第033話の展開とポイント (01)長安(ちょうあん) 遷都以後、日を経るに従い長安の都は次第に王城街の繁華を呈し、秩序も大いに改まる。 だが、董卓(とうたく)の豪勢なることはここへ移ってからも相変わらずで、天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を擁し、その後見をもって任じ、位は諸大臣の上にあった。 自ら太政相国(だいじょうしょうこく)と称し、宮門の出入りには金花の車蓋に万珠の簾(れん)を垂れ込め、轣音(れきおん。車の響く音)揺々と行装の綺羅(きら)と勢威を内外に誇示した。 ある日、李儒(りじゅ)は、盤河(ばんが。磐河)を挟んで戦っている袁紹と公孫瓚(こうそんさん)のもと

    吉川『三国志』の考察 第033話「溯江(そこう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第032話「白馬将軍(はくばしょうぐん)」

    反董卓(とうたく)連合軍の解散後、ひとまず河内(かだい)へ移った袁紹(えんしょう)は兵糧の確保に頭を悩ませていた。 そこで冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんふく)から兵糧を借りようと考えるが、逢紀(ほうき)の進言に心を動かされる。 第032話の展開とポイント (01)河内 その後、焦土の洛陽(らくよう)に留まっていても仕方がないと、反董卓連合軍の諸侯は軍勢をひきいて続々と国へ帰った。 袁紹も兵馬をまとめて河内郡に移ったが、大軍を擁しているためたちどころに兵糧に窮する。そこで冀州太守(きしゅうたいしゅ)の韓馥に事情を告げ、兵糧を借りようと書状を書きかけた。 ★ここで韓馥を冀州太守としていたが、冀州刺史(きしゅうしし)もしくは冀州牧とするのが正しい。現にすぐ後の原文では「冀州の牧、韓馥は……」としている。なお『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第7回)では、冀州

    吉川『三国志』の考察 第032話「白馬将軍(はくばしょうぐん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第031話「珠(たま)」

    董卓(とうたく)により焼け野原と化した洛陽(らくよう)の宮殿跡を見て回る、袁紹(えんしょう)ら反董卓連合軍の諸侯。 皆が帰った後、なお孫堅(そんけん)は数名の従者とともに建章殿(けんしょうでん)の辺りをぶらついていたが、とある井戸から思わぬ宝物を見つける。 第031話の展開とポイント (01)洛陽 洛陽は董卓が放たせた火により7日間も焼け続ける。反董卓連合軍の総帥たる袁紹も営を建章殿のあった辺りに置き、日夜戦後の後始末に忙殺されていた。 やがて掘り散らされた宗廟(そうびょう)に仮宮ができ上がると、袁紹は祭りを営もうと諸侯の参列を求める。粗末で形ばかりの祭事を執り行った後、諸侯は連れ立って、面影もなくなり果てた禁門(宮門)のあちこちを見て回った。 そして、まだ半焼状態の内裏(天子〈てんし〉の宮殿)の鴛鴦殿(えんおうでん。鴛鴦はオシドリの意)で小盞(しょうさん)を酌み交わして別れた。 諸侯は

    吉川『三国志』の考察 第031話「珠(たま)」
  • 吉川『三国志』の考察 第029話「洛陽落日賦(らくようらくじつふ)」

    徐々に形勢を盛り返す反董卓(とうたく)連合軍に対し、董卓は敵方の孫堅(そんけん)を抱き込もうと密使を遣るが、あっさり断られてしまう。 そこで李儒(りじゅ)の進言を容れて長安(ちょうあん)への遷都を強行し、洛陽(らくよう)を引き払う際に火を放つよう命ずる。 第029話の展開とポイント (01)反董卓連合軍 袁紹(えんしょう)の営 虎牢関外(ころうかんがい)における味方の大勝に、曹操(そうそう)ら18か国の諸侯は営に雲集し、喜びをどよめかせていた。凱歌(がいか)とともに杯を上げ、みなひとまず自分の軍営へ戻っていく。 そこで袁術(えんじゅつ)を呼び止めた者がある。長沙太守(ちょうさたいしゅ)の孫堅だった。孫堅は剣の柄に手をかけ、先ごろの汜水関(しすいかん)攻めの際、なぜ故意に兵糧の輸送を止めたのかと詰問する。 ★孫堅が兵糧を止められて惨敗を喫したことについては、先の第26話(03)を参照。た

    吉川『三国志』の考察 第029話「洛陽落日賦(らくようらくじつふ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第028話「虎牢関(ころうかん)」

    天子(てんし)の廃立を巡る意見の対立から、丁原(ていげん)の急襲を受けて大敗した董卓(とうたく)。洛陽(らくよう)の城外に置いていた軍営も移さざるを得なくなる。 そこで董卓は、まず丁原の養子になっている呂布(りょふ)を取り込もうと考え、彼と... 即日20万の大軍が洛陽を発する。一手の5万余騎は李傕(りかく)と郭汜(かくし)にひきいられ、汜水関の救援へ向かった。もう一手の15万は董卓自身がひきい、虎牢関の固めに赴く。 董卓を守る旗の諸将には李儒(りじゅ)や呂布をはじめとして、張済(ちょうさい)や樊稠(はんちゅう)など錚々(そうそう)たる顔ぶれがそろっていた。 (03)虎牢関 虎牢関は洛陽から南に50余里にあり、ここの天険に10万の兵を鎮すれば、天下の諸侯は通路を失うと言われる要害だった。董卓は関に営を定めると、股肱(ここう)の呂布に3万の精兵を授けて関外に陣取らせた。 (04)反董卓連

    吉川『三国志』の考察 第028話「虎牢関(ころうかん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第026話「江東の虎(こうとうのとら)」

    袁紹(えんしょう)を総大将に仰ぎ、曹操(そうそう)を参謀として、各地の諸侯からなる反董卓(とうたく)連合軍が結成され、その先鋒を任された孫堅(そんけん)が汜水関(しすいかん)に攻めかける。 まずは程普(ていふ)が胡軫(こしん)を討ち取るも、孫堅は関を守る華雄(かゆう)の反撃に遭い、ひとまず引いて袁紹の営に兵糧を送るよう伝えた。ところが――。 第026話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) 丞相府(じょうしょうふ) 早朝、李儒(りじゅ)が董卓を起こし、陳留(ちんりゅう)を中心として大規模な反乱が勃発したことを伝える。 李儒は、反乱軍が袁紹を総大将に仰ぎ、曹操を参謀とし、その先鋒として孫堅が汜水関近くまで攻め上がってきたことも伝える。 ★ここで李儒が董卓に、孫堅が17歳の時に海賊の群れへ躍り入り、頭目を斬った話をしていた。この話は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)の冒頭に見える。 董

    吉川『三国志』の考察 第026話「江東の虎(こうとうのとら)」
  • 吉川『三国志』の考察 第025話「競う南風(きそうなんぷう)」

    曹操(そうそう)は陳留(ちんりゅう)にいた父の曹嵩(そうすう)の屋敷までたどり着くと、大富豪の衛弘(えいこう)を紹介してもらう。 さらに衛弘から援助の約束を取りつけるや、すぐさま義兵の旗揚げにかかる。曹操が密詔を受けたと吹聴したことも効き、彼の旗の下には続々と英俊精猛が集まってきた。 第025話の展開とポイント (01)陳留 曹嵩邸 曹操は陳宮(ちんきゅう)を伴って実家に帰り着き、父の曹嵩に義兵の旗揚げをする決心を伝える。 ★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第5回)では、陳宮は(昨夜の態度を見て)曹操を見限り、ひとり東郡(とうぐん)へ立ち去ったとあった。 ★また曹操は沛国(はいこく)譙県(しょうけん)出身だが、陳留に曹嵩の家があったのかはわからない。なお、井波『三国志演義(1)』(第4回)では呂伯奢(りょはくしゃ)が曹操に、(曹操を逮捕せよとのお触れが回っ

    吉川『三国志』の考察 第025話「競う南風(きそうなんぷう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第023話「白面郎『曹操』(はくめんろう『そうそう』)」

    竹裏館(ちくりかん)の密会で大言を吐き、董卓(とうたく)の刺殺を請け合った曹操(そうそう)。 王允(おういん)から借り受けた七宝剣(しっぽうけん)を手に、董卓の間近まで迫るも仕損じ、その場を取り繕って行方をくらます。 第023話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) 丞相府(じょうしょうふ) 竹裏館の密会で董卓の刺殺を請け合い、王允から家宝の七宝剣を借り受けた曹操。 ★冒頭で曹操の生い立ち、少年時代や青年時代のエピソードが語られていた。ただ、この第23話の展開とは直接関係がないので、ここで細かく書き出すのはやめておく。 それでも曹操が務めていたという「洛陽の北都尉(ほくとい)」は、正しくは「洛陽北部尉(らくようほくぶい)」だったり……。何顒(かぎょう)は生年がはっきりしないものの、橋玄(きょうげん)とも友達だったという記述など、いくつか引っかかるところがあった。 確かに橋玄は若き日の曹

    吉川『三国志』の考察 第023話「白面郎『曹操』(はくめんろう『そうそう』)」
  • 吉川『三国志』の考察 第021話「赤兎馬(せきとば)」

    天子(てんし)の廃立を巡る意見の対立から、丁原(ていげん)の急襲を受けて大敗した董卓(とうたく)。洛陽(らくよう)の城外に置いていた軍営も移さざるを得なくなる。 そこで董卓は、まず丁原の養子になっている呂布(りょふ)を取り込もうと考え、彼と同郷の李粛(りしゅく)に、愛馬の赤兎(せきと)とひと囊(ふくろ)の金銀珠玉を託す。 第021話の展開とポイント (01)洛陽の城外 董卓の軍営 董卓は丁原の急襲を受けて大敗し、軍営も遠くへ退くことになる。その夜、諸将を呼んで対策を協議していると、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の李粛が一策を献ずる。 李粛は、丁原の養子の呂布とは同郷だと言い、董卓の愛馬「赤兎」とひと囊の金銀珠玉を託してもらえれば、呂布を説得してみせると請け合う。 李粛は許しを得ると翌日の夜、ふたりの従者に赤兎を引かせ、金銀珠玉を携えて密かに呂布の軍営を訪ねた。 (02)洛陽の城外 呂

    吉川『三国志』の考察 第021話「赤兎馬(せきとば)」
  • 吉川『三国志』の考察 第020話「呂布(りょふ)」

    新帝(弁皇子〈べんおうじ〉。辯皇子)と陳留王(ちんりゅうおう。協皇子〈きょうおうじ〉)が無事に洛陽(らくよう)へ戻ってくると、これまで澠池(べんち)に兵馬を留めて動かなかった董卓(とうたく)が姿を見せる。 ほどなく実権を握った董卓は温明園(おんめいえん)で大宴会を催し、今の天子(てんし)を廃して弟の陳留王を即位させたいと言いだす。これに真っ向から反対した幷州刺史(へいしゅうしし)の丁原(ていげん)の後ろには、天下無双と評判の男が目を光らせていた。 第020話の展開とポイント (01)洛陽 宮門 新帝と陳留王が洛陽へ還幸。出迎えた何太后(かたいこう)は新帝の手に玉璽(ぎょくじ)を戻そうとしたが、(先の宮中の混乱の中で)いつの間にか紛失していた。 伝国の玉璽が見えなくなったことは漢室(かんしつ)の大問題であり、それだけに固く秘密にした。だが、密かに伝え聞いた者は漢室の亡兆に眉をひそめた。 (0

    吉川『三国志』の考察 第020話「呂布(りょふ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第017話「乱兆(らんちょう)」

    中平(ちゅうへい)6(189)年の夏、病が重くなった霊帝(れいてい)は跡継ぎをどうすべきか、ふたりの皇子のことで頭を悩ませる。彼の意は協皇子(きょうおうじ)に傾いていた。 そこで十常侍(じゅうじょうじ)の蹇碩(けんせき)らは策を巡らせ、弁皇子(べんおうじ。辯皇子)の伯父にあたる大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)を暗殺しようと考える。 第017話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) 内裏(天子〈てんし〉の宮殿) 中平6(189)年の夏、霊帝が重い病にかかる。 ★ここで初めて年号が挙げられた。 ★また、ここで『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第2回)の話の筋と合流している。 霊帝には何后(かこう。何皇后〈かこうごう〉)が生んだ弁皇子(辯皇子)と、寵姫の王美人(おうびじん。美人は貴人〈きじん〉に次ぐ妃の官名)が生んだ協皇子があった。 協皇子が生まれると

    吉川『三国志』の考察 第017話「乱兆(らんちょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第016話「故園(こえん)」

    代州(だいしゅう)の劉恢(りゅうかい)の屋敷を出た劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)の3人は、しばらく別れて身を隠すことにした。 劉備は楼桑村(ろうそうそん)に帰ったものの、気丈な母から意外な叱責を受ける。 第016話の展開とポイント (01)代州 劉恢邸 翌日、劉備らは劉恢邸を去る。 劉恢の厚意により、ここへ来たとき連れていた20人の兵や下僕(しもべ)は預かってもらえることになった。そのうえで劉備・関羽・張飛の3人は思い思いに別れ、一時、身を隠すことにした。 (02)州境の道標 劉備はひとまず郷里の涿県(たくけん)へ行くと言い、8月にこの五台山下(ごだいさんか)での再会を約束すると、関羽と張飛もそれぞれ三方の道へ別れていった。 (03)涿県 楼桑村 劉備の家 数年ぶりに帰ってきた劉備。母の姿を見て無沙汰を詫びるが、かえって心の弱さを叱責されてしまう。劉備は母の叱咤(しった

    吉川『三国志』の考察 第016話「故園(こえん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第015話「岳南の佳人(がくなんのかじん)」

    張飛(ちょうひ)が勅使の督郵(とくゆう)を打ち据えたことから、劉備(りゅうび)は官職を捨てる決意をし、20人ばかりを連れて安喜県(あんきけん)を離れる。 その後は張飛のつてを頼り、代州(だいしゅう)の劉恢(りゅうかい)の屋敷に身を寄せたが、その家の姪だという美女には劉備と面識があった。 第015話の展開とポイント (01)安喜県 劉備の私邸 劉備らは私邸に帰ると私信や文書の反故(ほご)を焼き捨て、安喜県を去る支度にかかる。そして家財を驢(ロ)や車に載せ、総勢20人ばかりで闇に紛れ落ちていく。 (02)安喜県 役館 張飛に打ち据えられたため、手当てを受けていた督郵だったが、少し落ち着いてくると周りの部下に劉備のことを尋ねる。 劉備らが夜逃げしたようだと聞くと、この地の定州(ていしゅう)の太守(たいしゅ)に使いを遣り、彼らを捕らえて都(洛陽〈らくよう〉)へ送るよう要請した。 ★後漢(ごかん)時

    吉川『三国志』の考察 第015話「岳南の佳人(がくなんのかじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第014話「打風乱柳(だふうらんりゅう)」

    劉備(りゅうび)が県尉(けんい)を務める安喜県(あんきけん)にやってきて、無茶な要求をほのめかす勅使の督郵(とくゆう)。 ついに張飛(ちょうひ)が横暴に耐えかね、督郵一行が滞在する県の役館の門を壊して乱入。そこで督郵の姿を見つけると――。 第014話の展開とポイント (01)安喜県 役館 泥酔した張飛が、督郵が泊まっている役館の門を壊して躍り込む。 奥にいた督郵を抱えて門外へ出ると、その体を大地に叩きつけて罵る。次いで門前の大きな柳の木に吊るすと、柳の枝を折って督郵を打ち始め、やがて200回以上にもなった。 私邸に閉じ籠もっていた劉備のもとに、張飛が督郵を打ち据えているとの知らせが届く。劉備は居合わせた関羽(かんう)とともに駆けつける。 劉備の姿を見つけた督郵は卑しい言葉を吐いて助けを求め、かえって彼の張飛を制止しようという気持ちを削いだ。 それでも劉備は、あくまで督郵が勅使であることに思

    吉川『三国志』の考察 第014話「打風乱柳(だふうらんりゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第013話「十常侍(じゅうじょうじ)」

    黄巾賊(こうきんぞく)の主力軍が壊滅したことで、官軍は続々と洛陽(らくよう)への帰還を果たす。 相変わらず劉備(りゅうび)と配下の義勇軍に恩賞の沙汰はなかったが、彼らの活躍を知る郎中(ろうちゅう)の張均(ちょうきん。張鈞)は、霊帝(れいてい)に拝謁した折、十常侍(じゅうじょうじ)の不公平な処遇を訴える。 第013話の展開とポイント (01)洛陽 劉備が朱雋(しゅしゅん。朱儁)の官邸を訪ねるため王城内の禁門(宮門)の辺りを歩いていると、郎中の張均(張鈞)に呼び止められる。 かつて張均は、盧植(ろしょく)を陥れた黄門(こうもん)の左豊(さほう)らとともに、監軍の勅使として征野へ巡察に来た。そのとき劉備とも知り合い、お互いに世事を談じたり、抱懐を話し合ったりしたこともある間柄だった。 張均は劉備がまだ官職に就いておらず、このたびの恩賞にも与(あず)かっていないと聞いて驚く。張均は劉備のことを奏聞

    吉川『三国志』の考察 第013話「十常侍(じゅうじょうじ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第012話「秋風陣(しゅうふうじん)」

    涿県(たくけん)の楼桑村(ろうそうそん)で母と暮らす劉備(りゅうび)、この数年は旅に出ていた。 彼は故郷へ帰るにあたり、洛陽船(らくようぶね)の商人から母の好物である茶を買い求め、その晩は村の宿に泊まる。しかしそこへ――。 第001話の展開... 涿県(たくけん)の母に体だけは無事であることを知らせておこうと思い、翰墨(かんぼく。筆と墨)を取り出して手紙を書き始める。 そして、義軍の兵士たちが紙片や木片に書いたものも一囊(いちのう。ひとつの袋)に入れると、ひとりの兵士に路費を与え、皆の郷里の家に配達する役目を言いつけた。 ★ここで紙片が出てきた。紙は後漢(ごかん)の宦官(かんがん)の蔡倫(さいりん)が、製紙法を改良したことを契機に普及が進んだ。この時点では100年ほど経っているはず。『三国志』を小説化、映像化する場合に扱いにくい問題だと思う。ここでは紙片を除き、「木片や布きれに書いたもの」

    吉川『三国志』の考察 第012話「秋風陣(しゅうふうじん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第011話「檻車(かんしゃ)」

    劉備(りゅうび)ひきいる義勇軍は、涿郡太守(たくぐんたいしゅ)の劉焉(りゅうえん)から歓迎された。 ところが、青州(せいしゅう)の大興山(たいこうざん)で劉焉配下の鄒靖(すうせい)の先陣に加わってみると、わずか500余騎で5万の黄巾賊(こう... この官軍は洛陽(らくよう)の勅使である左豊直属の部隊で、朝旗を掲げていた。また檻車に押し込められていたのは、広宗で官軍を指揮していた盧植だった。 隊将から事情を聴いた劉備は、関羽(かんう)からいくらかの銀を渡させ、盧植と話す許しを得る。 盧植は、軍監として戦況の検分に来た左豊に賄賂を渡さなかったため、身に覚えのない罪をかぶせられ、軍職を褫奪(ちだつ。奪うこと)されたことを語った。 劉備は、官兵を皆殺しにして盧植を助けるという張飛(ちょうひ)を大声で叱りつける。やがて檻車は遠くへ去った。 (02)広宗と涿県(たくけん)への分かれ道 劉備は、盧植が捕

    吉川『三国志』の考察 第011話「檻車(かんしゃ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第010話「転戦(てんせん)」

    劉備(りゅうび)ひきいる義勇軍は、涿郡太守(たくぐんたいしゅ)の劉焉(りゅうえん)から歓迎された。 ところが、青州(せいしゅう)の大興山(たいこうざん)で劉焉配下の鄒靖(すうせい)の先陣に加わってみると、わずか500余騎で5万の黄巾賊(こうきんぞく)に当たることになる。 第010話の展開とポイント (01)涿郡の府城 劉備は先に関羽(かんう)に書状を託し、幽州(ゆうしゅう)の涿郡太守である劉焉のもとに遣り、自分たち義勇軍の受け入れの可否を尋ねさせていた。 劉焉は劉備らを歓迎する態度を示した。また関羽が、義弟の張飛(ちょうひ)が捕吏や兵士を殺傷した件の免罪を乞うたため、それ以来、張飛を捕らえるための役人はやってこなかった。 ★張飛が捕吏や兵士を殺傷したことについては、先の第7話(03)を参照。ただ、そこでは捕吏自身は逃げ去っており、彼がひきいていた10人ほどの兵士の半数が殺害されたとあった。

    吉川『三国志』の考察 第010話「転戦(てんせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第009話「義盟(ぎめい)」

    劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)の3人は、楼桑村(ろうそうそん)の桃園で改めて義兄弟の契りを結んだ。 彼らが黄巾賊(こうきんぞく)討伐に加わることを決めると、その志に感じた近郷の若者が少しずつ集まり始める――。 第009話の展開とポイント (01)楼桑村 桃園 関羽と張飛が祭壇を整え終えると、劉備の母は近隣の村人たちの手を借り、大きな酒瓶(さかがめ)やごちそうを運んでもらう。 手伝いの人がみな母屋に退がると、劉備・関羽・張飛の3人は祭壇の前の蓆(むしろ)に座った。ここで関羽が、今日をもって劉備を主君として仰ぎたいと言いだし、張飛も同意。 しかし劉備は承知せず、君臣の誓いは自分たちが一国一城を持ったうえのこととして、ここでは3人で義兄弟の約束を結ぶことにしたいと話す。 関羽や張飛にも異論はなく、改めて3人は祭壇に牛血と酒を注ぎ、ぬかずいて天地の神祇(しんぎ。天の神と地の神)

    吉川『三国志』の考察 第009話「義盟(ぎめい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第008話「三花一瓶(さんかいっぺい)」

    張飛(ちょうひ)は楼桑村(ろうそうそん)の劉備(りゅうび)を訪ね、自分の義兄弟の関羽(かんう)にも会ってほしいと頼む。 承諾した劉備が家を出ると、彼方(かなた)から100人ほどの兵士が近づいてくるのが見えた。どうやら張飛が関わっているようだったが、そこへ関羽が武装して現れる。 第008話の展開とポイント (01)楼桑村 劉備の家 張飛は楼桑村の劉備を訪ね、その母に拝礼する。 ★ここで劉備が母に、張飛のことを「翼徳(よくとく)張飛という豪傑」と紹介していたが、この呼び方は気になった。「(名は呼ばず、)張翼徳どのと申される豪傑」などとしたほうがよかったと思う。 ただ、小説ではいちいち劉玄徳(りゅうげんとく。玄徳は劉備のあざな)や張翼徳と書かれるより、劉備や張飛と書かれているほうが読みやすいことも確か。あざなばかりで表記されたら読みにくいだろうし……。 張飛は関羽のことを話し、一緒に彼の住まいま

    吉川『三国志』の考察 第008話「三花一瓶(さんかいっぺい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第006話「橋畔風談(きょうはんふうだん)」

    涿県(たくけん)の城内にある問屋まで、先に納めた沓(くつ)や蓆(むしろ)の代金を受け取りに行く劉備(りゅうび)。 その帰り、黄巾賊(こうきんぞく)を討伐するための兵士を募る高札の近くで、以前に河べりで命を救ってくれた男と再会する。 第006話の展開とポイント (01)涿県の城内 納めておいた沓や蓆の代金をもらうため、城内の問屋を訪ねる劉備。その帰り、黄匪(こうひ。黄巾賊)討伐の兵を募る高札の近くで張飛(ちょうひ)と再会する。 ふたりは町外れまで行き、池のほとりにある虹橋(こうきょう)の石欄に腰掛けて話し込む。 張飛は高札に書かれていた募兵の件を持ち出し、劉備に心を語らせようとするが、母がいるから兵隊には出られないとの答え。しかし張飛はい下がり、かつて礼としてもらった剣を振り、剣の声を聞かせて彼の言葉を待つ。 その様子を見た劉備は、張飛の心事が偽物でないことを認める。ついに自分は漢(かん

    吉川『三国志』の考察 第006話「橋畔風談(きょうはんふうだん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第005話「桑の家(くわのいえ)」

    劉備(りゅうび)は楼桑村(ろうそうそん)に帰り着き、母との再会を果たした。 それから3、4年が経った春のある日、魯(ろ)の李定(りてい)と名乗る老人がやってきて劉備の家にある桑の大木を眺め、予言めいた話を聞かせる。 第005話の展開とポイント (01)楼桑村 ようやく楼桑村へ帰り着いた劉備。城門の番人から、このごろ顔を見せなくなったという彼の母が、患って寝ているらしいと聞かされ帰路を急ぐ。 (02)楼桑村 劉備の家 劉備は自宅に戻ったが、召し使いの老婆や下僕(しもべ)の姿が見えない。そして、母の部屋にだけあった箪笥(たんす)や寝台もなくなっていた。 劉備は薄暗い灯火の下、ひとりで蓆(むしろ)を織っていた母の姿を見つける。 話を聞くと、箪笥や寝台は黄匪(こうひ。黄巾賊〈こうきんぞく〉)討伐のための軍費として税吏に持っていかれたこと。召し使いの老婆(婆や)は息子が黄匪の仲間に入っているという疑

    吉川『三国志』の考察 第005話「桑の家(くわのいえ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第004話「張飛卒(ちょうひそつ)」

    鴻芙蓉(こうふよう)とともに河べりまで馬で駆けた劉備(りゅうび)だったが、老僧が話していた県軍の姿は見えない。 そのうち追いついた黄巾賊(こうきんぞく)の矢を受け乗馬が倒れ、やむなく劉備は7人の賊を相手に戦うも、そのときひとりの男が現れる。 第004話の展開とポイント (01)河のほとり 劉備は老僧から託された鴻芙蓉とともに白馬で駆け続け、河べりにいるという県軍の陣を目指す。 ところが河畔まで来ても県軍の姿はなく、追いついてきた黄巾賊の一矢を喉に受け、乗っていた白馬が倒れた。 大地に放り出された劉備は起ち上がり、賊たちを大喝すると、7人を相手にしばらく抵抗を見せる。しかし、ついに黄巾賊の小方(しょうほう)である李朱氾(りしゅはん)の剣が、劉備の胸板に突きつけられた。 だがそこへ、近ごろ(黄巾賊の)卒の中に入ったという下っ端の張飛(ちょうひ)が走って駆けつけ、李朱氾を投げ飛ばす。これを見た黄

    吉川『三国志』の考察 第004話「張飛卒(ちょうひそつ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第003話「白芙蓉(びゃくふよう)」

    劉備(りゅうび)は洛陽船(らくようぶね)の商人から買った茶に加え、父の遺物(かたみ)の剣まで黄巾賊(こうきんぞく)の李朱氾(りしゅはん)と馬元義(ばげんぎ)に取り上げられてしまう。 だが、寺の老僧の助けにより窮地を脱し、彼にかくまわれていた鴻芙蓉(こうふよう)という美女を連れ、馬で北の河べりを目指す。 第003話の展開とポイント (01)荒れ果てた寺 黄巾賊の李朱氾らが馬元義と合流。馬元義に昨夜からの(略奪の)収穫(みいり)を尋ねられた李朱氾は、「一村を焼き払っただけのものはあった」と答えつつ、洛陽船から茶を交易した男を取り逃がしたとも話す。 その男の風体を聞いた馬元義は、そばにいる劉備を指さし、「じゃあ、この男ではないのか?」と言った。李朱氾は手下の丁峰(ていほう)を呼んで顔を確認させ、茶を買った男が劉備だと確信する。 劉備は佩(は)いていた父の遺物の剣を馬元義に差し出したうえ、茶の入っ

    吉川『三国志』の考察 第003話「白芙蓉(びゃくふよう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第002話「流行る童歌(はやるどうか)」

    思わぬ成り行きから、黄巾賊(こうきんぞく)の荷を担ぐことになった劉備(りゅうび)。 立ち寄った寺で老僧の意味深な言葉を聞き、黄巾賊の大方(だいほう)の馬元義(ばげんぎ)は劉備を仲間に加えたいと考えるが――。 第002話の展開とポイント (01)荒れ果てた寺 黄巾賊の大方の馬元義らの荷物を担いでついていく劉備。4日間も歩き続けた末、とある寺にたどり着いた。 べ物や飲み物にありつけると期待した馬元義と手下の甘洪(かんこう)だったが、寺にいたのは骨と皮ばかりの老僧ひとり。諦めた馬元義らが立ち去ろうとしたとき、老僧は劉備の顔を見て言った。 「あなたこそ魔魅跳梁(まみちょうりょう。のさばる化け物)を退け暗黒の国に楽土を創(た)て、乱麻の世に道を示し、塗炭の底から大民を救ってくれるお方に違いない」 外で聞いていた馬元義は、堂から出てきた劉備に黄巾党の勃興などを語って聞かせ、仲間に加わるよう誘う。劉備

    吉川『三国志』の考察 第002話「流行る童歌(はやるどうか)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第95話「司馬氏、天下を統一す(しばし、てんかをとういつす)」

    251年、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)の陣没から遅れること17年。魏(ぎ)の司馬懿(しばい)も73年の生涯を閉じた。 263年、蜀の劉禅(りゅうぜん)が魏に降伏。その2年後、司馬懿の孫の司馬炎(しばえん)が魏から禅譲を受けて晋(しん)の帝位に即くと、280年には残る呉(ご)を降し、ついに三国統一が果たされた。 第95話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう) 司馬懿が司馬昭(しばしょう)らとともに、荒れ果てた何進(かしん)の祠堂(しどう)に立ち寄る。 ★ここで司馬昭が、祠堂の中にあった何進の石碑の碑文を読み上げていた。中平(ちゅうへい)元(184)年に何進が河南尹(かなんいん)から大将軍(だいしょうぐん)に起用されたこと。 そして中平6(189)年8月庚午(こうご)の日、張譲(ちょうじょう)が嘉徳殿(かとくでん)に置いた伏兵によって何進が殺害されたことなど。正史『三国志』では何

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第95話「司馬氏、天下を統一す(しばし、てんかをとういつす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第92話「木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)」

    諸葛亮(しょかつりょう)は北伐のたび問題になる蜀軍(しょくぐん)の兵糧輸送について、かつて臥竜岡(がりょうこう)で暮らしていたころ考案した木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)を実用化することで解決を図る。 この話を聞きつけた魏(ぎ)の司馬懿(しばい)は、司馬昭(しばしょう)と孫礼(そんれい)に命じて木牛流馬を奪い取らせ、同じ物を作って自軍の兵糧輸送に用いるが――。 第92話の展開とポイント (01)蜀漢(しょくかん) 成都(せいと) 諸葛亮がキ山(きざん。ネ+阝。祁山)の軍営へ向けて出発。劉禅(りゅうぜん)は百官とともに城門で軍列を見送る。 ★ここで劉禅が諸葛亮に、「相父(しょうほ)はこの10年のうちにごたびもキ山へ。もう体も無理が利かぬ。くれぐれも大事にせよ」と言っていた。 (02)魏延(ぎえん)の軍営 魏延のもとに、魏から投降した前軍の偏将軍(へんしょうぐん)の鄭文(ていぶん)が連れてこられ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第92話「木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第91話「諸葛亮、軍を返す(しょかつりょう、ぐんをかえす)」

    蜀軍(しょくぐん)の兵糧輸送にあたっていた苟安(こうあん)が、予定の期日から大幅に遅れて到着した。 諸葛亮(しょかつりょう)は怠慢を厳しくとがめたものの、死罪は免じて棒刑にとどめる。こうして苟安は帰途に就いたが、道中で魏軍(ぎぐん)に捕らえられてしまう。 第91話の展開とポイント (01)西暦231年 キ山(きざん。ネ+阝。祁山)の戦い 司馬懿(しばい)は、諸葛亮が布(し)いた陣を奇門八卦(きもんはっけ)の陣だと言い当てる。 すると諸葛亮は、もしこの陣を破ることができたら、自分は漢中(かんちゅう)へ引き揚げ、二度と出てこないと告げる。 司馬懿は戴陵(たいりょう)・張虎(ちょうこ)・楽綝(がくしん?)を呼び、諸葛亮が布いた陣の破り方を指示する。 ★ここで司馬懿は楽綝(がくりん。がくちん)を「ガクシン」と呼んでいたが、セリフの聴き取り違いかもしれないので断定はできず。楽綝は楽進(がくしん)の息

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第91話「諸葛亮、軍を返す(しょかつりょう、ぐんをかえす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第90話「曹真、敵を軽んじる(そうしん、てきをかろんじる)」

    第90話の展開とポイント (01)諸葛亮(しょかつりょう)の軍営 諸葛亮が病に倒れ、魏延(ぎえん)と王平(おうへい)に全軍の指揮を任せる。さらに諸葛亮は、3日後の明け方に全軍を漢中(かんちゅう)へ撤退させると告げる。 ★このシーンの冒頭で、魏延に「丞相(じょうしょう)はご病気か?」と尋ねられた兵士が、「はい。張苞(ちょうほう)どのがお亡くなりになったことをたいそう悲しまれ、重ねて昨日(さくじつ)雨に濡れたせいで伏せられているのです」と答えていた。前の第89話(09)で張郃から受けた傷がもとで、張苞が亡くなったらしい。 魏延は諸葛亮が、陳倉を含む攻め取ったすべての城を放棄するよう命じたことに不満を述べる。 しかし諸葛亮は考えを変えず、王平に2万の兵を預け、大軍の撤退後、陳倉道の入り口に伏兵を置くよう命ずる。曹真の追撃を防ぎ、3日したら撤退せよと。 (02)曹真の軍営 曹爽(そうそう)が曹真に

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第90話「曹真、敵を軽んじる(そうしん、てきをかろんじる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第89話「司馬仲達、計にあたる(しばちゅうたつ、けいにあたる)」

    曹真(そうしん)に代わり魏(ぎ)の大都督(だいととく)となった司馬懿(しばい)は、さっそく前線へ赴任して蜀軍(しょくぐん)と対峙(たいじ)する。 しかし、ここで諸葛亮(しょかつりょう)の計略にはまってしまい、宿将の張郃(ちょうこう)と2万の軍勢を失う。 第89話の展開とポイント (01)郭淮(かくわい)の軍営 司馬懿が曹真に代わる大都督として赴任。 司馬懿は郭淮に、ここに来るまでに9人の逃亡兵を捕らえたことを話し、曹真の代理を務めていた責任を問い、さらし首にすると言い渡す。諸将が助命を乞うたため、司馬懿は今後、逃亡兵ひとりにつき別のひとりを斬ると告げる。 兵卒が逃げれば伍長(ごちょう)を斬る。伍長が逃げれば什長(じゅうちょう)を斬る。什長が逃げれば校尉(こうい)を斬る。校尉が逃げれば将軍を斬る。そして将軍が逃げれば司馬懿自身の首を刎(は)ね、曹叡(そうえい)に謝罪するというもの。 こう告げ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第89話「司馬仲達、計にあたる(しばちゅうたつ、けいにあたる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第88話「曹真、兵権を譲る(そうしん、へいけんをゆずる)」

    魏(ぎ)の曹真(そうしん)は曹叡(そうえい)から雍涼(ようりょう)の大軍を託されたものの、蜀軍(しょくぐん)との戦いで目立った成果を上げられずにいた。 そのうち魏将の郝昭(かくしょう)の奮戦むなしく陳倉(ちんそう)が陥落すると、曹真は敗戦の責任を問われることを恐れて一計を案ずる。 第88話の展開とポイント (01)漢中(かんちゅう) 右将軍府(ゆうしょうぐんふ) 諸葛亮(しょかつりょう)が劉禅(りゅうぜん)への上奏文をしたためる。そこへ姜維(きょうい)がやってきて、趙雲(ちょううん)が亡くなったことを知らせる。 (02)成都宮(せいときゅう) 諸葛亮が劉禅に上奏文を奉呈し、再度の北伐の許しを得る。 ★諸葛亮と劉禅とのやり取りの中で、劉禅は今年17歳、諸葛亮は52歳とあった。正史『三国志』によると劉禅は207年生まれなので、この時点(228年)では22歳。諸葛亮は181年生まれなので48歳と

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第88話「曹真、兵権を譲る(そうしん、へいけんをゆずる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第87話「泣いて馬謖を斬る(ないてばしょくをきる)」

    街亭(がいてい)で蜀軍(しょくぐん)が大敗した後、諸葛亮(しょかつりょう)は苦心の末に漢中(かんちゅう)への帰還を果たす。 やがて街亭の敗戦を招いた馬謖(ばしょく)も戻ってくるが、諸葛亮は彼の才能を惜しみながらも、諸将の命乞いを聞き入れることなく処刑した。 第87話の展開とポイント (01)西城(せいじょう) 城門 司馬懿(しばい)は城楼の前で箏(そう。琴)を弾く諸葛亮を見て、城外の山中に伏兵がいると考える。 司馬昭(しばしょう)は突入を勧めるが司馬懿は許さず、撤退を命ずる。 司馬懿が退くと諸葛亮は姜維(きょうい)に、すぐに兵糧をまとめて西城を発つと告げる。 (02)司馬懿の軍営 司馬昭が司馬懿に、民を捕らえて問いただしたところ、西城には老兵が1千ほどいただけだったことがわかったと伝える。司馬懿は「かの神のごとき妙計。父は到底かなわぬ」と嘆く。 (03)漢中 丞相府(じょうしょうふ) 魏延

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第87話「泣いて馬謖を斬る(ないてばしょくをきる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第86話「空城の計(くうじょうのけい)」

    227年、馬謖(ばしょく)の失態により、街亭(がいてい)で魏軍(ぎぐん)に大破されてしまった蜀軍(しょくぐん)。 諸葛亮(しょかつりょう)はわずかな兵士とともに西城(せいじょう)に向かい、兵糧を運び出して全軍の撤退に備えようとしたが、ここへ司馬懿(しばい)ひきいる数万の魏軍が押し寄せてくる。 第86話の展開とポイント (01)宛城(えんじょう) 司馬懿の命を受け、コウジョウ将軍(?)のゴテイ(?)が歩兵3万5千、リグン将軍(?)のソウリツム(?)が兵馬2万を、それぞれひきいて駆けつける。 ★ここで出てきたふたりの将軍は、セリフを繰り返し聴いてもよくわからなかった。 続いて魏興太守(ぎこうたいしゅ)の申儀(しんぎ)も司馬懿を訪ね、新城(しんじょう)の孟達(もうたつ)が再び蜀に寝返ったことを知らせる。 そして、申儀の友人で孟達の腹心でもある李輔(りほ)から手に入れたという、孟達が諸葛亮に送った

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第86話「空城の計(くうじょうのけい)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第85話「罵って王朗を殺す(ののしっておうろうをころす)」

    キ山(きざん。ネ+阝。祁山)において堂々と対峙(たいじ)した魏蜀(ぎしょく)の両軍。 魏の王朗(おうろう)が陣頭に出て持論を述べると、蜀の諸葛亮(しょかつりょう)も痛烈な反論を展開。ほどなく王朗は血を吐いて落馬する。 第85話の展開とポイント (01)曹魏(そうぎ) 洛陽宮(らくようきゅう) 曹叡(そうえい)が皆に、諸葛亮が北伐を開始し、すでに先鋒の趙雲(ちょううん)が魏の領内へ侵入していることを告げ、対抗策を問う。 曹叡は王朗の進言を退け、名乗りを上げた夏侯楙(かこうぼう)を征西大都督(せいせいだいととく)に任じ、関西軍(かんせいぐん)20万を預けて蜀軍の撃退を命ずる。 (02)行軍中の諸葛亮 諸葛亮の道中に先回りする形で、孫権(そんけん)から100甕(かめ)の酒と100頭の駿馬(しゅんめ)が届けられる。 諸葛亮のもとに、先行している趙雲から進路の指示を求める使者が着く。 諸葛亮は趙雲に

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第85話「罵って王朗を殺す(ののしっておうろうをころす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第84話「出師の表(すいしのひょう)」

    223年、蜀(しょく)では劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぎ、226年、魏(ぎ)でも曹叡(そうえい)が帝位を継いだ。 諸葛亮(しょかつりょう)は劉禅に「出師(すいし)の表」を奉呈して許しを得ると、宿願の北伐に着手する。 第84話の展開とポイント(01)西暦223年 建業(けんぎょう)馬謖(ばしょく)が孫権(そんけん)の前で弁舌を振るい、蜀と呉(ご)との連盟の維持に成功する。 ★馬謖が孫権とのやり取りの中で、酈其(れきいき)や斉(せい)の桓公(かんこう)と名医の扁鵲(へんじゃく)の故事を引き合いに出していた。 ★また馬謖が孫権に、「大王はやはり盟約に背き、曹丕(そうひ)に江東(こうとう)の81郡を差し出すおつもりですな……」と言っていた。江東には81郡もないだろう。81県という意味なのか? この表現はこれまでにも何度か出てきたが……。 孫権は馬謖に決断を促され、魏の使者を呼ぶよう命ずる。 ★こ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第84話「出師の表(すいしのひょう)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第81話「夷陵の戦い(いりょうのたたかい)」

    ここまで勝利を重ねてきた蜀軍(しょくぐん)だったが、陸遜(りくそん)ひきいる呉軍(ごぐん)の激しい抵抗に遭う。 さらに猇亭(おうてい)の蜀陣で疫病が発生し、馬良(ばりょう)は劉備(りゅうび)にいったん秭帰城(しきじょう)まで引くよう進言するが――。 第81話の展開とポイント (01)猇亭 劉備の軍営 馬謖(ばしょく)が劉備に諸葛亮(しょかつりょう)の書状を届ける。 諸葛亮は書状の中で、これまでの劉備の連勝に敬服の意を示しながらも、陸遜に対して油断しないよう注意を促す。 ★ここで劉備が馬謖に、春秋(しゅんじゅう)時代のチョウカツ(趙括?)のエピソードを持ち出していた。「兵法の研究にかけては陸遜よりも遥かに上であった。されど結局、机上の空論に終わった……」と言っていたが、これだけではよくわからない。 劉備は馬謖に、ここで数日休んだあと成都(せいと)へ戻り、諸葛亮に伝えるよう言う。「こたびの戦は

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第81話「夷陵の戦い(いりょうのたたかい)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第80話「陸遜、大都督となる(りくそん、だいととくとなる)」

    富池口(ふちこう)での敗報に接するや、呉(ご)の孫権(そんけん)は幽閉していた陸遜(りくそん)を呼び出し、大都督(だいととく)に任じて蜀軍(しょくぐん)の迎撃を命ずる。 蜀の劉備(りゅうび)は馬良(ばりょう)から陸遜の経歴を聞き、その力量を試すべく攻撃命令を下す。 第80話の展開とポイント (01)富池口 韓当(かんとう)と周泰(しゅうたい)が黄忠軍(こうちゅうぐん)の反撃に遭い、進退窮まる。 しかし程普(ていふ)が兵をひきいて駆けつけたため、皆で包囲の突破にかかる。だが程普は矢を受けて落馬し、そのまま亡くなってしまう。 ★周泰は既出だが、字幕で紹介されたのは初めてかも? また、ここで程普の字幕が「程晋」となっていた。これは誤りだろう。 関興(かんこう)が劉備に戦況を報告。富池口に入った呉軍は8万ほど。韓当と周泰は残った兵1万をひきいて逃げたが、ほかは壊滅したようだと。 また、傅士仁(ふし

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第80話「陸遜、大都督となる(りくそん、だいととくとなる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第79話「黄忠、矢に当たる(こうちゅう、やにあたる)」

    秭帰(しき)の陥落に続き、夷陵(いりょう)が蜀軍(しょくぐん)に包囲されていると聞いた呉(ご)の孫権(そんけん)は、10万の軍勢を夷陵へ向かわせる。 この知らせがもたらされると、蜀将の黄忠(こうちゅう)は劉備(りゅうび)の許しを得て富池口(ふちこう)へ向かい、自ら呉軍をおびき寄せるための囮(おとり)になった。 第79話の展開とポイント (01)建業(けんぎょう) 諸葛瑾(しょかつきん)が孫権のもとに戻り、劉備が和睦を拒んだことを報告する。 孫権が次の策を尋ねると、諸葛瑾は曹丕(そうひ)への投降を進言。いったんは腹を立てた孫権だったが、しばらく考えさせてほしいと応ずる。 (02)魯粛墓(ろしゅくぼ) 孫権が張昭(ちょうしょう)に、諸葛瑾が曹丕への投降を進言したことを話す。 ★魯粛の墓の右にもうひとつ同じような墓があった。誰の墓だろうか? 張昭も諸葛瑾に賛同し、使者として趙咨(ちょうし)を薦め

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第79話「黄忠、矢に当たる(こうちゅう、やにあたる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第78話「劉備、呉を伐つ(りゅうび、ごをうつ)」

    劉備(りゅうび)は張飛(ちょうひ)の急死を受け、改めて呉(ご)の孫権(そんけん)を討伐する決意を語り、群臣の反対を押し切って自ら東征に赴く。 秭帰(しき)を攻略し勢いに乗る蜀軍(しょくぐん)は、恐るべき速さで荊州(けいしゅう)へ迫り、呉都の建業(けんぎょう)に動揺が広がる。 第78話の展開とポイント (01)蜀漢(しょくかん) 成都(せいと) 張飛の弔問の場で、劉備が秦宓(しんふく)に呉討伐の檄文(げきぶん)の起草を命ずる。しかし秦宓は、先に魏(ぎ)を討伐すべきだと諫言する。 怒った劉備は秦宓の処刑を命ずるが、諸葛亮(しょかつりょう)や趙雲(ちょううん)らが助命を乞うたため、ひとまず投獄にとどめた。そして皆に、自ら呉討伐の檄文をしたためると告げる。 ★秦宓は字幕による紹介がなかった。 (02)丞相府(じょうしょうふ) 魏延(ぎえん)が諸葛亮に、劉備が李厳(りげん)を尚書(しょうしょ)に、黄

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第78話「劉備、呉を伐つ(りゅうび、ごをうつ)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第76話「曹丕、漢を簒奪する(そうひ、かんをさんだつする)」

    第76話の展開とポイント (01)許宮(きょきゅう) 内宮(ないくう) 司馬懿(しばい)が献帝に、受禅台(じゅぜんだい)が完成したあと吉日を選んで文武百官を集め、曹丕に天子(てんし)の玉璽(ぎょくじ)を渡して禅譲するよう伝える。司馬懿は献帝の御前で詔(みことのり)の起草に取りかかる。 (02)許都 受禅台 献帝が詔を読み上げ、曹丕への禅譲を宣言する。 ★確信は持てないが、このシーンでは先の第59話(04)で出てきた銅雀台(どうじゃくだい)を使って(使い回して)いるように見えた。 (03)西暦220年 曹丕 曹魏を建国 曹丕が国号を「大魏(たいぎ)」と号し、「黄初(こうしょ)」と建元。洛陽(らくよう)を都と定め、亡き曹操(そうそう)に太祖(たいそ)武皇帝(ぶこうてい)の諡号(しごう)を追贈する。 また曹丕は、帝位を譲った劉協(献帝)を山陽公に封ずる。 (04)許都 船着き場 司馬懿が曹丕の命

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第76話「曹丕、漢を簒奪する(そうひ、かんをさんだつする)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第75話「退位を迫る(たいいをせまる)」

    曹丕(そうひ)は司馬懿(しばい)の進言を容れ、華歆(かきん)に上奏させる形で献帝(けんてい)に禅譲を迫る。 屈辱に震える献帝とは裏腹に、曹丕と配下は禅譲の実現に向けた地固めを進めていく。 第75話の展開とポイント (01)魏王府(ぎおうふ) 曹丕が司馬懿の進言を容れ、帝位に即くための準備を進めるよう告げる。 (02)司馬懿邸 司馬懿が司馬昭(しばしょう)に、曹丕に帝位に即くよう勧めたことを話す。司馬昭は、曹丕の建国後は丞相(じょうしょう)にさえなれるかもしれないと言うが、司馬懿は浅はかだとたしなめる。 ★ここで司馬懿が司馬昭に、「わが一族は100年も続く名門なのだ……」と言っていた。 (03)許宮(きょきゅう) 朝議の場で華歆が献帝に上奏し、曹丕への禅譲を求める。献帝は先祖にお伺いを立てると言い残し、宗廟(そうびょう)へ向かう。 (04)許都(きょと) 宗廟 献帝が先祖に謝罪しているところ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第75話「退位を迫る(たいいをせまる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第71話「骨を削り毒を除く(ほねをけずりどくをのぞく)」

    219年、関羽(かんう)は樊城(はんじょう)郊外で曹操(そうそう)配下の龐徳(ほうとく)と一騎討ちを行った際、左腕に毒矢をらってしまう。 ほどなく矢傷が悪化したため、関羽は華佗(かだ)という名医の治療を受ける。 第71話の展開とポイント (01)西暦219年 樊城の戦い 龐徳が柩(ひつぎ)を用意したうえ、皆の前で翌日に関羽と決戦することを宣言。 (02)揚州(ようしゅう) 柴桑(さいそう) 孫権(そんけん)が、曹操からの荊州(けいしゅう)への出兵要請について皆の意見を聴く。 呂蒙(りょもう)は、今回は曹操と手を結んで荊州を取るべきだと進言する。 しかし陸遜(りくそん)は、勢いづく劉備軍(りゅうびぐん)に敵対するのは不利だと言い、関羽の娘と孫権の息子との縁組みを提案する。 (03)荊州 関羽の軍営 関羽のもとに、曹操軍が樊城へ向かっているとの知らせが届く。曹操軍は進路を7手に分けており、総

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第71話「骨を削り毒を除く(ほねをけずりどくをのぞく)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第70話「楊修の死(ようしゅうのし)」

    219年、夏侯淵(かこうえん)の戦死を受けて自ら漢中(かんちゅう)攻略に向かった曹操(そうそう)。 ある夜、陣中の合い言葉を聞いた楊修(ようしゅう)が、皆に帰還の準備を始めるよう勧めたことに激怒し、彼の処刑を命ずる。 第70話の展開とポイント (01)西暦219年 定軍山(ていぐんざん)の戦い 黄忠(こうちゅう)の攻撃を受けた夏侯淵が、配下の兵士を遣わし曹操に援軍を求める。 (02)曹操の軍営 曹操のもとに夏侯淵から援軍の要請が届く。 曹操は使いの兵士に休息を命じ、準備ができ次第、3万の軍勢を付けて徐晃(じょこう)と許褚(きょちょ)を救援に向かわせると告げ、夏侯淵にあと1日死守するよう伝えさせる。 曹操が司馬懿(しばい)に指摘され、定軍山への援軍を約束したことは気休めにすぎないと認める。 ★ここで曹操が司馬懿に、「第一の関を攻め落とされて以来、これで何度目の負け戦となろう」と尋ね、司馬懿が

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第70話「楊修の死(ようしゅうのし)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第67話「劉備、益州を領す(りゅうび、えきしゅうをりょうす)」

    楊松が張魯に、馬超は劉備と通じていると讒言(ざんげん)する。張魯は讒言を信じ、曹操(そうそう)が来襲したとの名目で馬超に帰還を命ずる。 (03)馬超の軍営 馬超のもとに張魯から帰還命令が届く。 ★ここで馬岱(ばたい)が馬超に、「あり得ない。曹操は荊州(けいしゅう)で孫権(そんけん)と交戦中。漢中を攻めるはずがありません……」と言っていた。この時点では関羽(かんう)が荊州を取り仕切っていたはず。荊州のどこで曹操と孫権が交戦していたという設定なのか? よくわからないセリフだった。 続いて馬超のもとに、またも張飛が現れたとの知らせが届く。馬超は馬岱に張魯への返書を書かせ、葭萌関を攻め落としてから帰ると伝えさせる。 (04)漢中 張魯のもとに馬超の返書が届く。馬超は返書の中で即時の帰還を拒否したうえ、武器や兵糧の補給を求めていた。 張魯は楊松を馬超のもとに遣わし、「戻らずともよいが、ひと月の間にこ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第67話「劉備、益州を領す(りゅうび、えきしゅうをりょうす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第65話「江を遮り阿斗を奪う(こうをさえぎりあとをうばう)」

    劉備(りゅうび)が劉璋(りゅうしょう)の要請を受け入れ益州(えきしゅう)に留まっている間、荊州(けいしゅう)に残っていたの孫小妹(そんしょうめい)のもとに、母の呉国太(ごこくたい)が重病との知らせがもたらされる。 孫小妹は劉備の息子の阿斗(あと)を伴い、急いで帰国しようと馬車に乗る。だが、事態を察した諸葛亮(しょかつりょう)の指示により、張飛(ちょうひ)と趙雲(ちょううん)が阿斗の身を取り返して事なきを得た。 第65話の展開とポイント (01)涪城(ふうじょう)の近郊 劉備の軍営 法正(ほうせい)が劉備に張松(ちょうしょう)から届いた密書を見せ、劉璋が成都(せいと)を離れ、涪城で出迎えることを伝える。 ★ここで劉備が法正に、「(涪城は)成都からは360里。実に心のこもったもてなしだ」と言っていた。 法正と龐統(ほうとう)は劉備に、この機会を利用し、劉璋を盾として成都へ攻め入るよう勧める。

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第65話「江を遮り阿斗を奪う(こうをさえぎりあとをうばう)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第64話「張松、地図を献ず(ちょうしょう、ちずをけんず)」

    荊州(けいしゅう)の劉備(りゅうび)は、許都(きょと)から益州(えきしゅう)への帰途にあった張松(ちょうしょう)を引き留め、3日間にわたり手厚くもてなす。 張松は劉備の人柄に魅了され、もともと曹操(そうそう)に献ずるつもりで携えてきた蜀(しょく)12郡の地図を見せたうえ、入蜀するよう懇願した。 第64話の展開とポイント (01)荊州 襄陽(じょうよう) 劉備が張松を3日間にわたり手厚くもてなす。 酒宴の席で張松が劉備に蜀を取るよう勧める。しかし、劉備は同族の劉璋(りゅうしょう)から益州を奪うことはできないと拒む。 張松は劉備らを招き、持ってきた蜀12郡の地図を見せる。ところが劉備は見ようとせず、張松の入蜀の懇願を退けて立ち去る。 劉備と諸葛亮(しょかつりょう)が立ち去った後、龐統(ほうとう)は張松に良策があると持ちかける。 (02)益州 成都(せいと) 張松が劉璋のもとに戻り、曹操は益州を

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第64話「張松、地図を献ず(ちょうしょう、ちずをけんず)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第63話「張松、辱めを受ける(ちょうしょう、はずかしめをうける)」

    益州(えきしゅう)の劉璋(りゅうしょう)は、曹操(そうそう)が渭水(いすい)で馬超(ばちょう)の大軍を撃破したと聞くと張松(ちょうしょう)の進言に従い、許都(きょと)へ貢ぎ物を献ずる。 その使者を張松が務めたものの、曹操は意図的に礼を欠く応対に終始。張松は怒りを含んで許都から去った。 第63話の展開とポイント (01)曹操の軍営(氷の城)前 曹操が韓遂(かんすい)の助太刀と称し、馬超に向けて矢を放たせる。落馬した馬超は助け起こそうとした韓遂の左腕を斬り落とした後、別の馬に乗って逃走する。 (02)益州(西蜀〈せいしょく〉) 蜀郡 成都県(せいとけん) 法正(ほうせい)が劉璋に、曹操が渭水のほとりで馬超の20万の大軍を破り、西涼(せいりょう)を手に入れたことを報告する。 また、馬超は逃げ場を失い、5万の兵とともに漢寧太守(かんねいたいしゅ)の張魯(ちょうろ)のもとに身を寄せたとも伝える。 張

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第63話「張松、辱めを受ける(ちょうしょう、はずかしめをうける)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第62話「衣を脱ぎ馬超と戦う(ころもをぬぎばちょうとたたかう)」

    馬超が全軍に突撃を命ずると、ほどなく曹操は馬で逃走。途中で目立つ赤い羽織を捨て、長いひげを斬り落とし、口元を黒い布で覆い、何とか自陣までたどり着いた。 ★ここでは許褚が馬超の追撃をい止めていた。 (02)曹操の軍営 夏侯淵(かこうえん)が曹操に、西涼軍の騎馬兵の長槍(ちょうそう)に対抗するため、弓兵を使って攻めるよう進言する。 続いて曹洪(そうこう)が、西涼軍は騎馬兵ばかりであるため「コウレンソウ(?)」を使うよう進言する。 ★ここで出てきた「コウレンソウ」がよくわからなかった。兵器(特殊な槍〈やり〉)か? 続いて徐晃(じょこう)が、精鋭部隊を渭水の西に渡して馬超を挟撃するよう進言する。 曹操は徐晃の進言を容れ、彼に精鋭6千を預けて渭水の西側に渡らせ、2日後の正午に馬超を背後から攻撃するよう命ずる。 曹操のもとに、西涼軍の増援3万が長安(ちょうあん)から到着したとの報告が届く。 曹操は潼

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第62話「衣を脱ぎ馬超と戦う(ころもをぬぎばちょうとたたかう)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第60話「馬騰、都に入る(ばとう、みやこにはいる)」

    涼州(りょうしゅう)の馬騰(ばとう)は詔(みことのり)を拝受し、孫権(そんけん)討伐のため5千の騎兵をひきいて出発した。 そして道中で許都(きょと)に立ち寄り、曹操(そうそう)の丞相府(じょうしょうふ)で開かれた酒宴に参加する。 第60話の展開とポイント (01)丞相府 曹操が司馬懿(しばい)に、曹丕(そうひ)ではなく曹植(そうしょく)の師傅(しふ)として仕えるよう命ずる。しかし司馬懿は従わず、曹操から出ていくよう言われる。 (02)許都の郊外 曹丕が司馬懿を城外まで追いかける。 (03)丞相府 曹操が荀彧(じゅんいく)に、司馬懿は遠くへは行かないとの見立てを話す。 ★ここで荀彧が、曹操がたとえに持ち出した終南山(しゅうなんざん)について説明していた。 曹操が修繕の済んだ庭を見て回り、門に「活」の字を書き残す。 ★ここで出てきた「カツ」の字は古い字体でよくわからなかった。 楊修(ようしゅう

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第60話「馬騰、都に入る(ばとう、みやこにはいる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第59話「銅雀台に詩を戦わす(どうじゃくだいにしをたたかわす)」

    曹操(そうそう)は銅雀台(どうじゃくだい)で盛宴を催すが、荀彧(じゅんいく)と荀攸(じゅんゆう)は姿を見せなかった。 曹彰(そうしょう)が武官に交じって見事な騎射を披露する一方、曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)は文官とともに、「銅雀台」を題目に賦(ふ)の腕前を競い合う。 第59話の展開とポイント (01)耒陽県(らいようけん) 劉備(りゅうび)のもとに、息子の阿斗(あと)が意識を失ったとの知らせが届く。しかし劉備はリュウコウ(龐統〈ほうとう〉)への謝罪を優先し、襄陽(じょうよう)へ戻ろうとはしなかった。 それでもリュウコウは去ると言い、劉備は郊外まで見送ったうえ愛馬の的驢(てきろ)を贈る。リュウコウは劉備の態度に感じ入り、改めて仕える決意をした。 (02)襄陽 諸葛亮(しょかつりょう)が4郡の視察から戻り、龐統と再会。ここで劉備はリュウコウの当の姓名が龐統であり、鳳雛(ほうすう)その人

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第59話「銅雀台に詩を戦わす(どうじゃくだいにしをたたかわす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第58話「諸葛亮、喪に服す(しょかつりょう、もにふくす)」

    第58話の展開とポイント (01)西暦210年 南徐(なんじょ) 魯粛邸(ろしゅくてい) 孫権(そんけん)が魯粛に呂蒙(りょもう)の書簡を手渡し、呂蒙も魯粛の大都督(だいととく)就任に納得していると告げる。魯粛は大都督を引き受ける決意を固めた。 ★ここで孫権が魯粛に、先に魯粛を怒って罷免したこと(第53話〈04〉)が、周瑜のメンツを保つためと、周瑜に後ろめたさを持たせるための芝居だったと明かしていた。このことで、周瑜が後任の大都督に魯粛を推薦するよう仕向けたのだとも言っており、周瑜が魯粛から受けた恩を利用したということになっていた。 ★相変わらず、南徐と柴桑との使い分けがわかりにくい。 (02)柴桑 諸葛亮が周瑜の弔問に駆けつける。 ★諸葛亮の到着前に周瑜の位牌が出てきたが、諡号(しごう)などはよくわからず。位牌上部の右側には「偏将軍(へんしょうぐん)」、左側には「周氏(しゅうし)」とある

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第58話「諸葛亮、喪に服す(しょかつりょう、もにふくす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第56話「再び周瑜を怒らせる(ふたたびしゅうゆをおこらせる)」

    劉備らに追いついたのは徐盛(じょせい)と丁奉(ていほう)だったが、ふたりは孫小妹に叱られて引き下がる。こうして劉備らはこの場を通り抜けることができた。 (02)襄陽(じょうよう) 諸葛亮が馬謖(ばしょく)に兵符を預け、黄忠(こうちゅう)の部隊を動かすよう命ずる。その際、黄忠の出発は夜中にさせるように、とも付け加える。 (03)劉郎浦 周瑜が兵をひきいて劉備に追いつく。しかし、そこへ黄忠と魏延(ぎえん)も兵をひきいて現れる。 劉備らは用意されていた船に乗り込み、周瑜の追撃から逃れる。 周瑜は諸葛亮から別れの言葉を聞かされた後、血を吐いて気を失う。 (04)襄陽 関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)が諸葛亮に詰め寄り、呉(ご)の討伐命令を下すよう迫る。ふたりが諸葛亮を罵っているところへ馬謖が戻り、事情を説明する。 ★このとき馬謖が関羽と張飛に、「私の話を信じないとおっしゃるなら、外をご覧ください。

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第56話「再び周瑜を怒らせる(ふたたびしゅうゆをおこらせる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第55話「計りて虎穴を脱する(はかりてこけつをだっする)」

    周瑜(しゅうゆ)らの計により呉(ご)の地で贅沢(ぜいたく)な日々を送るうち、劉備(りゅうび)は荊州(けいしゅう)へ帰る気持ちを失いつつあった。 それでも趙雲(ちょううん)から渡された諸葛亮(しょかつりょう)の書状を見て志を取り戻し、密かに南徐(なんじょ)を抜け出す手はずを整える。 第55話の展開とポイント (01)南徐 東府(とうふ) 孫乾(そんけん)が劉備に、孫権(そんけん)から今月の手当として銅銭6万(先月より2万の増額)が届いたことを伝える。 ところが劉備は「6万では到底足りぬ」と言いだし、孫乾に命じて、孫権の使いの者に銅銭2万の増額を要求させる。孫乾は反論しようとするが、思い直して退出した。 趙雲は孫乾が年の瀬だと言ったことで、諸葛亮から渡されていた錦の袋のことを思い出す。そこで趙雲はふたつ目の錦の袋(白色)を開けてみる。 ★ここは残念。先の第52話(05)で諸葛亮は、錦の袋を赤→

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第55話「計りて虎穴を脱する(はかりてこけつをだっする)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第54話「甘露寺に婿を招く(かんろじにむこをまねく)」

    劉備(りゅうび)は甘露寺(かんろじ)で呉国太(ごこくたい)と対面し、大いに気に入られる。 そして孫小妹(そんしょうめい)も劉備を夫として認めたため、ふたりは晴れて夫婦となった。 第54話の展開とポイント (01)南徐(なんじょ) 呉国太が孫小妹に、甘露寺で劉備を見て気に入ったら吹くようにと言い、孫堅(そんけん)の形見の笛を手渡す。 (02)南徐 劉備の宿 甘露寺への出発直前、劉備の前に烏(カラス)の糞(ふん)が落ちてくる。孫乾(そんけん)は吉兆ではないと言い、甘露寺へ行くのをやめるよう勧める。 だが劉備は孫乾の心配を一笑し、趙雲(ちょううん)に身辺の衛兵だけを連れていくよう伝え、甘露寺へ向かう。 (03)甘露寺 劉備が孫権(そんけん)の出迎えを受けたあと呉国太と対面。その様子を孫小妹が帳(とばり)の陰からうかがう。 この席で趙雲が孫権に、伏兵がいる理由を尋ねる。 ★ここで趙雲が剣を抜き、ひ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第54話「甘露寺に婿を招く(かんろじにむこをまねく)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第52話「劉備、呉を訪ねる(りゅうび、ごをたずねる)」

    第52話の展開とポイント (01)襄陽(じょうよう) 諸葛亮が孫権の妹との縁組みに応ずるよう勧め、劉備も承諾する。 (02)南徐 劉備の使者として孫乾(そんけん)が着き、孫権に礼を述べる。この席で孫権は、今回の縁組みは劉備のほうの婿入りであることを告げる。 ★このシーンでは、先の第38話(01)の柴桑(さいそう)と同じカットを使い回していた。南徐と柴桑は地名の改称などによる同一の場所を指しているのではなく、そもそも別の場所。こうした手抜きにはがっかりさせられる。 (03)襄陽 孫乾が南徐から戻り、孫権の意向を皆に伝える。 関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)の反対に加え、婿入りだと聞いた諸葛亮も反対に転ずる。しかし劉備は孫権の申し出を受け入れ、南徐へ行くことを決意。 また劉備は皆に、自分が江東(こうとう)へ行った後は、荊州(けいしゅう)のすべてを諸葛亮に任せることを宣言する。 出発の前日、関羽

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第52話「劉備、呉を訪ねる(りゅうび、ごをたずねる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第51話「再び荊州を求める(ふたたびけいしゅうをもとめる)」

    劉琦(りゅうき)が亡くなったことで、劉備(りゅうび)は荊州(けいしゅう)に留まり続ける根拠を失ってしまう。 さっそく魯粛(ろしゅく)は弔問を名目に襄陽(じょうよう)へ赴き、荊州を返還するよう劉備に迫るが――。 第51話の展開とポイント (01)南徐(なんじょ)? 孫権(そんけん)が魯粛に、時期を待って荊州を取るため出兵する考えを話す。 ★ここでは冒頭から地名などの字幕がなく、どこなのかはっきりしなかった。 蔣欽(しょうきん)が巴陵(はりょう)から武器と兵糧を取りに戻ってくる。 蔣欽は孫権に偵察兵からの情報として、劉備がすべての兵を荊州一帯に集めており、敵の襲来に備えているかのようだと伝える。 (02)巴陵 魯粛が周瑜(しゅうゆ)を訪ね、すぐには荊州へ出兵しないようにとの孫権の意向を伝える。 しかし周瑜はすでに巴陵の両翼への進軍を命じており、歩兵3万と水軍5万に分かれて進み、3日後には荊州の

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第51話「再び荊州を求める(ふたたびけいしゅうをもとめる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第50話「長沙の戦い(ちょうさのたたかい)」

    劉備(りゅうび)から長沙(ちょうさ)攻めの許しを得た関羽(かんう)は、わずか500の手勢だけをひきいて出撃する。 ところが長沙には黄忠(こうちゅう)という高名な老将がおり、その弓術は神業と呼べるものだった。 第50話の展開とポイント (01)長沙 関羽が500の手勢をひきいて到着。韓玄(かんげん)配下のヨウ将軍(楊齢〈ようれい〉のことか?)が関羽に挑むも、あっさりと討ち取られる。 続いて関羽が黄忠と一騎討ちを行う。関羽は黄忠を森へ誘い出し、首に刀を突きつけるまで追い詰めたものの、その命を助ける。 韓玄は配下の文官から、黄忠が関羽に敗れたうえ情けまでかけられたと聞き、黄忠が裏切る可能性を指摘される。 ★ここで文官から、劉備が武陵(ぶりょう)を取った経緯を思い出すよう言われた韓玄が、「従事(じゅうじ)の鞏志(きょうし)が張飛(ちょうひ)に感化され、寝返り投降。太守(たいしゅ)の金旋(きんせん)

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第50話「長沙の戦い(ちょうさのたたかい)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第49話「趙雲、桂陽を取る(ちょううん、けいようをとる)」

    劉備(りゅうび)は荊州(けいしゅう)南部にある4郡の攻略に乗り出し、幸先よく零陵太守(れいりょうたいしゅ)の劉度(りゅうど)を降す。 さらに張飛(ちょうひ)が武陵(ぶりょう)の攻略に成功すると、桂陽(けいよう)攻めを任された趙雲(ちょううん)も難なく太守の趙範(ちょうはん)を降し、あとは長沙(ちょうさ)を残すのみとなった。 第49話の展開とポイント (01)零陵 邢道栄(けいどうえい)が手はず通りに劉備に内応すると見せかけ、劉備軍を城内へ引き入れたうえで攻撃する。 劉賢(りゅうけん)と邢道栄は逃げ出した劉備軍を追撃。劉備を捕らえたかに思えたが、これは劉備に扮(ふん)した別人だった。ほどなく張飛らが反撃に転じ、劉賢を生け捕る。 ★このあと邢道栄がどうなったのかよくわからなかった。 翌朝、劉度が城門の前で劉備を出迎える。 ★ここで劉備の軍列に「関」の旗が見えた。関羽(かんう)は荊州で留守を預か

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第49話「趙雲、桂陽を取る(ちょううん、けいようをとる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第47話「智略で南郡を取る(ちりゃくでなんぐんをとる)」

    曹仁(そうじん)の計にはまり、南郡(なんぐん)攻めで不意打ちをらった周瑜(しゅうゆ)は、自身も毒矢を受けて落馬する。 劉備(りゅうび)は諸葛亮(しょかつりょう)の計に従い、曹仁が城を出て周瑜の陣を攻めている隙を突き、趙雲(ちょううん)に南郡の奪取を命じた。 第47話の展開とポイント (01)南郡 曹仁らが南郡城を出ていった後、周瑜らが入城する。 しかし、城内には曹操軍(そうそうぐん)の兵士が潜んでおり、周瑜は不意打ちをらう。その際、周瑜は矢を受けて落馬する。 (02)周瑜の軍営 周瑜の受けた矢に猛毒が塗られていたことがわかる。 ★ここで程普(ていふ)が周瑜に尋ねられ、「(先の南郡の敗戦で失った兵は)5千ほどかと思われる」と答えていた。 (03)油江口(ゆこうこう) 劉備の砦 劉備のもとに、曹仁が負けを装って呉軍(ごぐん)を南郡の城内に誘い込み、撃破したとの報告が届く。また、周瑜が矢傷を

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第47話「智略で南郡を取る(ちりゃくでなんぐんをとる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第46話「荊州を争う(けいしゅうをあらそう)」

    赤壁(せきへき)の戦いでは後方支援に徹した劉備(りゅうび)だったが、油江口(ゆこうこう)に留まり南郡(なんぐん)奪取の機会をうかがっていた。 周瑜(しゅうゆ)は劉備や諸葛亮(しょかつりょう)の前で大言を吐き、自信満々に曹仁(そうじん)らが守る南郡へ攻めかける。 第46話の展開とポイント (01)巴丘(はきゅう) 周瑜の軍営 孫権(そんけん)と周瑜のもとに、劉備が油江口に進軍したとの報告が届く。 周瑜は皆に、南郡は劉備に取らせればよいと話したうえ、孫権から劉備に3千石(ごく)の兵糧を贈る許しまで得る。 周瑜は呂蒙(りょもう)に諸葛亮の思惑を解いて聞かせ、劉備が南郡を攻めようとしているのは見せかけだと語る。 孫権は魯粛(ろしゅく)に周瑜への期待を話すと、柴桑(さいそう)へ戻っていく。 (02)油江口 劉備の砦 呂蒙が劉備を訪ね、孫権からの贈り物として兵糧3千石を届ける。この際、諸葛亮は張飛(ち

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第46話「荊州を争う(けいしゅうをあらそう)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第42話「赤壁の戦い(せきへきのたたかい)」

    208年、黄蓋(こうがい)の苦肉の計をきっかけに、ついに長江(ちょうこう)南岸から孫権軍(そんけんぐん)が動きだし、北岸の曹操軍(そうそうぐん)に対して大規模な火攻めを仕掛ける。 思わぬ大敗を喫した曹操は何とか烏林(うりん)を離れるも、逃げる先々で劉備(りゅうび)配下の部将たちから追撃を受け続けた。 第42話の展開とポイント (01)夏口(かこう) 諸葛亮(しょかつりょう)が劉備のもとに戻り、すぐに諸将に命を下す。 趙雲(ちょううん)は3千の兵をひきいて長江を渡り、烏林の抜け道を通って葦(アシ)の茂みに待ち伏せるよう命ぜられる。 諸葛亮は、丑(うし)の刻を過ぎれば曹軍の敗北は濃厚だとし、敗残兵が来たら葦に火を付けるよう伝える。「半数は倒せよう」とも。 張飛(ちょうひ)は5千の兵をひきいて長江を渡り、夷陵(いりょう)の胡蘆谷(ころこく)へ行くよう命ぜられる。 諸葛亮は、趙雲の待ち伏せから逃れ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第42話「赤壁の戦い(せきへきのたたかい)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第41話「苦肉の策(くにくのさく)」

    周瑜(しゅうゆ)は黄蓋(こうがい)と示し合わせ、わざと軍議の場で激しく対立してみせたうえ、黄蓋を棒で100回叩くよう命ずる。 その後、長江(ちょうこう)北岸の烏林(うりん)に陣を構える曹操(そうそう)のもとへ、黄蓋から投降する旨の密書が届く。 第41話の展開とポイント (01)赤壁(せきへき) 周瑜の軍営 周瑜が投降してきた蔡兄弟(蔡中〈さいちゅう〉と蔡和〈さいか〉)を受け入れる。 軍議の場で、黄蓋が周瑜の方針を批判したうえ罵る。周瑜は諸将の懇願に免じて死罪は許すが、黄蓋を棒で100回叩くよう命ずる。 ★ここで程普(ていふ)が周瑜に、「黄将軍は齢60近い。100回も叩いては死に追いやるも同然。ここは何とぞ、恩情をかけてくださらぬか?」と言っていた。黄蓋の年齢設定がうかがえる。 ★また、黄蓋が棒で叩かれていたとき諸葛亮(しょかつりょう)の姿はあった。しかし、魯粛(ろしゅく)は柴桑(さいそう)

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第41話「苦肉の策(くにくのさく)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第40話「草船で矢を借りる(そうせんでやをかりる)」

    周瑜(しゅうゆ)は自陣に置いている諸葛亮(しょかつりょう)を警戒し、軍法を利用して処刑しようと考える。 諸葛亮は周瑜の軍令を受け、曹操軍(そうそうぐん)との決戦に備えて、3日のうちに10万の矢を用意することを請け合う。 第40話の展開とポイント (01)赤壁(せきへき) 周瑜の軍営 蒋幹(しょうかん)が、周瑜の机の上に置かれていた蔡瑁(さいぼう)らの名が記された書簡を盗む。 周瑜は、呂蒙(りょもう)を使って江北(こうほく)から密使が来たように装い、眠ったふりをしていた蒋幹を信じ込ませる。 翌朝、蒋幹は急いで江北へ戻ろうとし、呼び止めた小喬(しょうきょう)に周瑜への礼を述べて立ち去る。 ★このとき蒋幹が小喬に、「ただいま呉(ご)と曹軍は戦を始めようとしております……」と言っていた。ここに限ったことではないが、この時点で「呉」と呼んでいるのは引っかかる。 (02)烏林(うりん) 曹操の軍営

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第40話「草船で矢を借りる(そうせんでやをかりる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第39話「蒋幹、手紙を盗む(しょうかん、てがみをぬすむ)」

    長江(ちょうこう)を挟んで対峙(たいじ)する曹操軍(そうそうぐん)と孫権軍(そんけんぐん)。蒋幹(しょうかん)は曹操に周瑜(しゅうゆ)の説得を請け合い、赤壁(せきへき)の敵陣を訪ねる。 周瑜は蒋幹のために酒宴を催したうえ、寝所で枕を並べて眠ったが、ひとり眠れない蒋幹は、机の上にあった容易ならぬ手紙を盗み見てしまう。 第39話の展開とポイント (01)周瑜邸 周瑜がの小喬(しょうきょう)に夏口(かこう)への出陣を告げたところ、小喬が同行を願い出る。結局、周瑜は同行を許す。 ★この設定には違和感があった。これほど重要な戦いに自分だけを連れていくというのはどうなのだろうか。 (02)諸葛亮(しょかつりょう)の客殿 諸葛瑾(しょかつきん)が諸葛亮を訪ね、孫権に仕えるよう説得にあたるも果たせず。 ★このとき諸葛亮は伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)兄弟の伝説を持ち出し、諸葛瑾の説得をかわしていた

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第39話「蒋幹、手紙を盗む(しょうかん、てがみをぬすむ)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第38話「周瑜を怒らせる(しゅうゆをおこらせる)」

    柴桑(さいそう)に戻った周瑜(しゅうゆ)は、魯粛(ろしゅく)を介して諸葛亮(しょかつりょう)を自邸に招き、3人だけで話してみる。 この席で諸葛亮は、あえて周瑜を怒らせるような一計を語って聞かせ、彼が曹操(そうそう)との開戦を孫権(そんけん)に進言するよう仕向けた。 第38話の展開とポイント (01)柴桑 魯粛が諸葛亮の無礼な態度をなじる。しかし諸葛亮は、良策があるのに孫権から尋ねられなかったと応ずる。 ★ここで諸葛亮が魯粛に、「呉(ご)を見下しているのは私ではない。曹操です……」と言っていた。この時点で「呉」という呼び方は引っかかる。「江東(こうとう)を見下しているのは……」でよかったのでは? 孫権が諸葛亮のところに戻り、改めて話を聴く。諸葛亮は曹操軍の弱みを挙げ、その実力は10万程度だと語り、孫権も開戦に傾く。 その夜、張昭(ちょうしょう)が孫権を諫め、諸葛亮の奸計(かんけい)に乗っては

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第38話「周瑜を怒らせる(しゅうゆをおこらせる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第37話「儒者たちとの舌戦(じゅしゃたちとのぜっせん)」

    現状を打破すべく諸葛亮(しょかつりょう)は自ら江東(こうとう)へ乗り込み、劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)との同盟関係を築こうとする。 ところが孫権配下の重臣たちの間では、曹操(そうそう)との戦を避けるべきだという意見が大勢を占めていた。 第37話の展開とポイント (01)西暦208年 江夏(こうか) 孫権配下の魯粛(ろしゅく)が、劉表(りゅうひょう)の弔問と称して来訪する。 ★ここで魯粛に会う前、諸葛亮が劉備に、自ら江東へ赴き孫権を説得する考えを示していた。「この長江(ちょうこう)において、かつてない激しい戦を引き起こすのです」と。これはまぁいいとして。「孫権が勝てば、それに乗じ荊州(けいしゅう)を取り、曹操が勝てば江東を奪う。さすれば覇業を成せるでしょう」とも話していた。 孫権が勝った場合に劉備が荊州を取るのはともかく、曹操が勝った場合に劉備が江東を奪うのはかなり難しい。出廬(しゅつ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第37話「儒者たちとの舌戦(じゅしゃたちとのぜっせん)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第35話「諸葛亮の緒戦(しょかつりょうのしょせん)」

    曹操(そうそう)配下の夏侯惇(かこうとん)ひきいる軍勢が新野城(しんやじょう)に迫ってきた。 諸葛亮(しょかつりょう)は劉備(りゅうび)の佩剣(はいけん)と兵符を借りたうえ、諸将に的確な命令を下して曹操軍を撃退する。 第35話の展開とポイント (01)西暦208年 新野 関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)が昼間から飲んでいたところ、孫乾(そんけん)が夏侯惇の新野城への来襲を伝える。 しかし張飛は孫乾に、「孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)に迎え撃たせろと兄者(あにじゃ。劉備)に伝えてくれ」と言い、関羽ともども立ち上がろうとしない。 そこへ今度は劉備が現れ、ふたりに曹軍が樊城(はんじょう)に迫っていると伝え、迎え撃つ準備を命ずる。 すると張飛は、水(諸葛亮)を使って戦うよう皮肉を言う。劉備は張飛の耳を引っ張って叱り、関羽も謝罪する。 ★ここで、なぜ先に来た孫乾が新野城を挙げ、後から来た劉備が樊城

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第35話「諸葛亮の緒戦(しょかつりょうのしょせん)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第34話「孫策、孤を託す(そんさく、こをたくす)」

    第34話の展開とポイント (01)臥竜岡(がりょうこう) 劉備(りゅうび)と諸葛亮(しょかつりょう)の対話が続く。 ★ここで諸葛亮が劉備の前で床に地図を広げ、西蜀(せいしょく)へ行っていたことを話していた。 劉備は出廬(しゅつろ)を懇願し、ついに諸葛亮が応ずる。 ★この後、前の第33話(09)から続く劉備と諸葛亮とのやり取り、いわゆる「隆中対(りゅうちゅうたい)」をナレーションでまとめていた。 (02)西暦200年 江東 狩りに来ていた孫策が刺客に襲われ、重傷を負う。 ★ここでいきなり場面転換し、8年もさかのぼった。これはわかりにくいのでは? 孫権のもとに、孫策が重傷を負ったとの知らせが届く。 (03)呉郡府(ごぐんふ) 孫権が重体の孫策から江東の兵符を受け取る。 ★この後、孫権が膝を折っている群臣に「面を上げよ」と声をかけるシーンがあった。「面を上げよ」と言っただけなのに、皆が(面を上げ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第34話「孫策、孤を託す(そんさく、こをたくす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第32話「徐庶、諸葛亮を薦む(じょしょ、しょかつりょうをすすむ)」

    徐庶(じょしょ)は、投獄されたという母からの書状を物と信じ込み、劉備(りゅうび)のもとを離れて許都(きょと)へ向かう。 劉備らとの別れ際、徐庶は襄陽(じょうよう)郊外の隆中(りゅうちゅう)に住む、臥竜先生(がりょうせんせい)こと諸葛亮(しょかつりょう)の話をする。 第32話の展開とポイント (01)許都 曹操(そうそう)が曹仁(そうじん)を主将、李典(りてん)を副将とし、5万の精鋭をひきいて樊城(はんじょう)へ向かうよう命ずる。 曹操は、ふたりに荊州(けいしゅう)各郡を見張らせたうえ、後の命令を待たせて新野(しんや)を攻略するつもりだった。 (02)樊城 曹仁と李典が軍勢をひきいて到着。曹仁は李典の諫言を聞き入れず、曹操の命令を待つことなく即座に軍勢を動かし、新野へ攻め寄せる。やむなく李典も従う。 (03)新野 曹仁が軍勢をひきいて到着し、八門金鎖(はちもんきんさ)の陣を布(し)く。 徐

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第32話「徐庶、諸葛亮を薦む(じょしょ、しょかつりょうをすすむ)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第31話「的驢、壇渓を飛ぶ(てきろ、だんけいをとぶ)」

    荊州(けいしゅう)に居座る劉備(りゅうび)を目の敵(かたき)とする劉表(りゅうひょう)配下の蔡瑁(さいぼう)は、あくまで彼を除くべく部将たちを動かす。 劉備は劉琦(りゅうき)のおかげで襄陽(じょうよう)から逃げ延びたものの、その行く手を壇渓(だんけい)の激流が阻む。 第31話の展開とポイント (01)襄陽 蔡瑁が部将たちに命令を下し、客殿に泊まっている劉備を襲撃する手はずを整える。 ★ここで蔡瑁が「キョウ将軍」「ゴウ将軍」「ソウ将軍」という3人の姓を挙げて指示を与えていた。この3人についてはよくわからなかった。 (02)客殿 劉琦が劉備を訪ね、蔡瑁が兵を動かしていることを伝えたうえ、すぐに新野(しんや)へ帰るよう促す。 蔡瑁らが客殿に乗り込んだものの劉備の姿はなく、すでに馬で去った後だった。蔡瑁は部屋の壁に荊州の乗っ取りをほのめかす詩を書き、劉備が書き残したように装う。 やがて劉表が来てそ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第31話「的驢、壇渓を飛ぶ(てきろ、だんけいをとぶ)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第30話「曹操、河北を平らぐ(そうそう、かほくをたいらぐ)」

    206年、曹操(そうそう)は袁紹(えんしょう)の残兵を蹴散らし続け、冀州(きしゅう)・青州(せいしゅう)・幷州(へいしゅう)・幽州(ゆうしゅう)の4州の攻略を果たす。 袁紹は激しい憤りの中で血を吐いて急死し、ついに曹操が漢(かん)における最大勢力の軍閥の長となった。 第30話の展開とポイント (01)荊州(けいしゅう) 襄陽(じょうよう) 蔡瑁(さいぼう)が部将たちに、劉備(りゅうび)を受け入れて新野(しんや)に駐屯させるという劉表(りゅうひょう)の決定を伝える。蔡瑁は劉備への警戒を怠らないよう伝え、提供する兵糧や武器は2千人分に限るよう命ずる。 (02)新野へ向かう劉備 劉備は、同行した劉琦(りゅうき)にこれまでの礼を述べる。劉琦は、劉表の後である蔡氏らの一族に命を狙われていることを打ち明ける。 さらに劉琦は、劉表の前で自分を引き立ててほしいと頼む。劉備は、劉表から意見を求められた際に

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第30話「曹操、河北を平らぐ(そうそう、かほくをたいらぐ)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第27話「官渡の戦い(かんとのたたかい)」

    袁紹(えんしょう)は曹操(そうそう)と雌雄を決すべく、自ら水陸70万の大軍をひきいて進軍を開始した。 こうして官渡(かんと)の戦いの火蓋が切って落とされたが、曹操軍の奇襲を受け、いきなり袁紹軍は混乱に陥る。 第27話の展開とポイント (01)冀州(きしゅう) 袁紹が自らの血を捧げて天と地と祖(先祖)を祭り、勝利を祈願する。 獄中の田豊(でんぽう)が、書簡をもって袁紹に出兵を諫めたものの無視される。 袁尚(えんしょう)は袁紹に、生け贄(にえ)として田豊の首を捧げるよう進言するが、許攸(きょゆう)に反対される。袁紹は田豊の処罰を凱旋(がいせん)まで延期する。 そして袁紹は自ら大軍をひきい、曹操討伐のため出陣する。 (02)許都(きょと) 曹操のもとに、袁紹が水陸70万の大軍をひきいて進軍を開始したとの知らせが届く。その先鋒は今日にも官渡に達するとも。 曹操が皆の意見を聴いたうえ、準備しておいた

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第27話「官渡の戦い(かんとのたたかい)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第26話「古城に再会す(こじょうにさいかいす)」

    数々の困難を乗り越え、ようやく古城県(こじょうけん)で再会を果たした劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)。 ここで劉備は冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)のもとへは戻らず、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼りたいとの考えを話す。 第26話の展開とポイント (01)河北(かほく)へ向かう関羽 張角(ちょうかく)を名乗った男を斬り殺した男が「周倉(しゅうそう)」と名乗る。 この周倉が関羽に仕えたいと願い出る。関羽は劉備の二夫人の許しを得て、周倉ひとりという条件で随行を認める。 ★ここで周倉は一味を解散して砦も焼き払ったうえ、単身で関羽に随行したという設定になっていた。 (02)古城県 張飛のもとに、周倉が関羽を伴って現れ、城外で大声を張り上げているとの知らせが届く。張飛は城外へ飛び出し、関羽に襲いかかる。 関羽が張飛に曹操(そうそう)に帰順した経緯を説明していたところ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第26話「古城に再会す(こじょうにさいかいす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第25話「単騎、千里を走る(たんき、せんりをはしる)」

    劉備(りゅうび)の消息を知った関羽(かんう)は二夫人らを伴い、ついに許都(きょと)を去った。 しかし、この動きをつかんだ曹操(そうそう)配下の部将たちが、各地で関羽一行の通過を阻もうとする。 第25話の展開とポイント (01)丞相府(じょうしょうふ) 曹操が避客牌(ひかくはい)を使い、暇(いとま)乞いに来た関羽に会うことを避ける。 (02)張遼邸(ちょうりょうてい) 張遼も病と称し、関羽に会うことを避ける。 (03)関羽邸 やむなく関羽は、漢寿亭侯(かんじゅていこう)の印章を屋敷の梁(はり)に掛け、曹操から贈られた金銀や玉、使用人をすべて残したうえ、劉備の二夫人らとともに立ち去る。その際、曹操に宛てた書簡を残す。 (04)丞相府 曹操のもとに、関羽が馬車を伴い南門を突破したとの報告が届く。 (05)許都の郊外 曹操が関羽一行を追いかけて別れの挨拶を交わす。この際、曹操は関羽に綿入れを授ける

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第25話「単騎、千里を走る(たんき、せんりをはしる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第24話「白馬の戦い(はくばのたたかい)」

    199年、曹操(そうそう)は袁紹(えんしょう)と白馬(はくば)の地で激突するも、袁紹配下の顔良(がんりょう)や文醜(ぶんしゅう)の武勇に手を焼いた。 だが、そこへ急きょ許都(きょと)から呼ばれた関羽(かんう)が到着すると、このふたりの猛将をたった一合で討ち取ってみせる。 第24話の展開とポイント (01)許都の郊外 曹操が狩りを催し、関羽を招く。この場で曹操は関羽に赤兎馬(せきとば)を贈る。 (02)関羽邸 張遼(ちょうりょう)が関羽を訪ね、酒を酌み交わす。ここで張遼が関羽に、「劉備(りゅうび)どのが亡くなられていたら、そなた丞相(じょうしょう)にお仕えできるか?」と問う。 しかし、関羽は劉備が亡くなっていたときは後を追うと告げ、曹操に仕える意思がないことを話す。 (03)冀州(きしゅう) 許攸(きょゆう)が劉備を訪ね、こう着した戦況を打破するため、明日は一緒に、袁紹に曹操との決戦を勧める

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第24話「白馬の戦い(はくばのたたかい)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第23話「関羽、三事を約す(かんう、さんじをやくす)」

    下邳(かひ)を守っていた関羽(かんう)は曹操(そうそう)配下の程昱(ていいく)の策にかかり、劉備(りゅうび)らと合流するべく城を出て芒碭山(ぼうとうざん)へ向かう。 その後、山のふもとを曹操の大軍が取り巻く様子を見てすべてを悟るが、3つの約束を交わしたうえで漢帝(かんてい。献帝〈けんてい〉)に降伏する道を選ぶ。 第23話の展開とポイント (01)徐州(じょしゅう)の郊外 劉備が許攸(きょゆう)の勧めに従い、袁紹(えんしょう)のもとに身を寄せる。 (02)冀州(きしゅう) 袁紹が陣から10里先まで進んで劉備を出迎える。 (03)徐州 曹操が入城し、投降兵3万の収容と袁紹の援軍が徐州の30里手前で引き返したこと、さらに小沛(しょうはい)も手中に収めたとの報告を受ける。 残るは関羽の守る下邳だけとなるが、曹操は皆に、関羽を帰順させたいとの意向を伝える。 そこで程昱は曹操に、関羽を一度窮地に追い

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第23話「関羽、三事を約す(かんう、さんじをやくす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第22話「三兄弟離散す(さんきょうだいりさんす)」

    曹操(そうそう)の計にかかった劉備(りゅうび)は、徐州(じょしゅう)からおびき出されて大敗を喫する。 劉備は張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)をはじめ、下邳(かひ)を守っていた関羽(かんう)とも別れ別れになる。単騎で逃げ走る途中、ついに乗馬も倒れて自決を覚悟するが……。 第22話の展開とポイント (01)丞相府(じょうしょうふ) 吉平(きっぺい)が曹操を罵り続けた後、兵士の手を振り切り、自ら柱に頭をぶつけて死ぬ。 曹操は慶童(けいどう。董承〈とうしょう〉の奴僕〈どぼく〉)を連れてくるよう命じ、董承の前で吉平との密談の内容を話させる。 曹操は慶童にふたつの罪(主の妾〈めかけ〉と密通したことと、主の話を盗み聞きしたうえ密告までしたこと)を問い、処刑するよう命ずる。 曹操のもとに、董承の将軍府で見つかったという血判状が届けられる。 曹操は、車騎将軍(しゃきしょうぐん)董承、西涼刺史(せいりょう

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第22話「三兄弟離散す(さんきょうだいりさんす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第21話「吉平、毒を盛る(きっぺい、どくをもる)」

    董承(とうしょう)は太医(たいい)の吉平(きっぺい)と密談し、献帝(けんてい)をないがしろにする曹操(そうそう)の毒殺をもくろむ。 その後、曹操は頭痛を訴えて吉平を呼ぶ。吉平は毒入りの薬を煎じ、曹操に飲むよう勧めるが――。 第21話の展開とポイント (01)行軍中の劉備(りゅうび) 張遼(ちょうりょう)と許褚(きょちょ)が、徐州(じょしゅう)を目指して行軍中の劉備に追いつく。張遼は曹操の命令を伝えるが、劉備は許都(きょと)へ戻ろうとしない。 (02)許都 丞相府(じょうしょうふ) 曹操が張遼と許褚から、劉備が戻らないとの報告を受ける。 (03)袁術(えんじゅつ)を追う劉備 劉備が、とある廟(びょう)に袁術を追い詰める。 劉備は趙雲(ちょううん)に書簡を届けさせて袁術に自決を勧め、許都への連行を避けようとする。劉備の書簡を読んだ後、袁術は自害して果てる。 (04)許都 丞相府 朱霊(しゅれい

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第21話「吉平、毒を盛る(きっぺい、どくをもる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第19話「曹操・劉備の暗闘(そうそう・りゅうびのあんとう)」

    徐州(じょしゅう)の攻略と呂布(りょふ)らの処刑を済ませた曹操(そうそう)は、皆に許都(きょと)への帰還を告げる。 そして、いったんは劉備(りゅうび)を徐州牧(じょしゅうぼく)に任じて留め置こうと考えたものの、彼が民心を集めている様子を見て危惧を抱き、翻意して許都へ同行させることにした。

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  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第17話「劉備、兄弟と離れる(りゅうび、きょうだいとはなれる)」

    曹操(そうそう)が施した離間の計に乗せられた呂布(りょふ)は、自ら大軍をひきいて小沛(しょうはい)の劉備(りゅうび)を攻める。 劉備は城に立て籠もって抵抗するも、呂布配下の陳宮(ちんきゅう)が曹操の名をかたった偽の書状に引っかかり、城外へ出撃した末に敗れ、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)ともはぐれてしまう。 第17話の展開とポイント (01)西暦197年 寿春(じゅしゅん) 曹操が郭嘉(かくか)から徐州(じょしゅう)の状況を聞き、陳珪(ちんけい)と陳登(ちんとう)を使って呂布と陳宮、そして呂布と劉備との離間を謀らせる。 曹操が寿春を発ち、許都(きょと)への帰途に就く。 (02)徐州 陳宮が呂布に、陳珪と陳登を重用しないよう諫める。しかし、呂布はまったく聞く耳を持たなかった。 陳宮が狩りの途中で密偵を捕らえ、曹操が劉備に送った密書を入手する。陳宮から密書を見せられた呂布は、小沛の劉備を攻める

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第17話「劉備、兄弟と離れる(りゅうび、きょうだいとはなれる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第16話「呂布、徐州牧となる(りょふ、じょしゅうぼくとなる)」

    献帝(けんてい)の詔(みことのり)を受け、呂布(りょふ)は正式に徐州牧(じょしゅうぼく)として認められる。 一方で曹操(そうそう)も勅命を奉じ、自ら大軍をひきいて袁術(えんじゅつ)討伐に向かったが、加勢に駆けつけた劉備(りゅうび)と数千の軍勢を、熟慮の末に迎え入れる。 第16話の展開とポイント (01)許都(きょと) 曹操が荀彧(じゅんいく)に命じ、討賊の檄文(げきぶん)を天下に布告させる。 また、曹操は郭嘉(かくか)に命じて詔を作らせ、袁紹(えんしょう)・劉表(りゅうひょう)・呂布・馬騰(ばとう)・公孫瓚(こうそんさん)に対して、詔を受けたらただちに出兵し、討伐軍に加勢するよう伝えさせる。 そして曹操は曹洪(そうこう)と許褚(きょちょ)を正副の先鋒とし、2万の軍勢を預ける。さらに曹仁(そうじん)を中軍先陣、夏侯惇(かこうとん)を後陣とし、18万の軍勢を預ける。 その翌日、献帝は曹操をゴコ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第16話「呂布、徐州牧となる(りょふ、じょしゅうぼくとなる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第14話「呂布の裏切り(りょふのうらぎり)」

    劉備(りゅうび)は献帝(けんてい)の詔(みことのり)を奉じ、南陽(なんよう)の袁術(えんじゅつ)討伐に向かう。 徐州(じょしゅう)の留守は張飛(ちょうひ)に託されたものの、袁術の誘いに応じた呂布(りょふ)の裏切りにより、あっけなく城を奪われる。 第14話の展開とポイント (01)徐州 劉備が詔を奉じて南陽の袁術討伐に向かうにあたり、張飛を徐州に残す。 劉備は張飛に、「酒を飲まぬこと」「腹を立てぬこと」「兵士に乱暴せぬこと」の3つを軍令として守るよう約束させる。 (02)南陽 袁術のもとに曹操(そうそう)から密書が届く。劉備が、皇帝の地位を狙う者だとして袁術の討伐を願い出ていることを知らせるもの。 ★ここで袁術が「先生」と呼んでいた人物が誰なのかわからず。 (03)徐州 張飛が主簿(しゅぼ)に命じ、劉備と約束した3つの軍令を大きな文字で書いた掛け軸を作らせる。 (04)小沛(しょうはい) 呂

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第14話「呂布の裏切り(りょふのうらぎり)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第13話「曹操、皇帝を傀儡とす(そうそう、こうていをかいらいとす)」

    長安(ちょうあん)から脱出した献帝(けんてい)が、生き残った百官とともに荒れ果てた洛陽(らくよう)への還幸を果たす。 この窮状を救ってくれたのは、真っ先に駆けつけてきた曹操(そうそう)だった。 第13話の展開とポイント (01)兗州(えんしゅう) 荀彧(じゅんいく)が曹仁(そうじん)に詔書の内容を教える。 ★ここで荀彧に詔書の内容を語らせる形式で、曹操が呂布(りょふ)と戦っていた間の長安の動きを説明していた。 董卓(とうたく)の部将だった李傕(りかく)と郭汜(かくし)が天子(てんし。献帝)をさらい、その後で仲間割れを起こした。そして、天子と百官は人質として李傕と郭汜の双方に翻弄され、長安は廃虚と化し、水や糧も枯渇したと。 天子には安集将軍(あんしゅうしょうぐん)の董承(とうしょう)が護衛に付き、長安から逃れて東の洛陽を目指し、その道中で詔(みことのり)を書き、諸侯に急ぎ助けを求められたの

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第13話「曹操、皇帝を傀儡とす(そうそう、こうていをかいらいとす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第12話「呂布、小沛に留まる(りょふ、しょうはいにとどまる)」

    陶謙(とうけん)の遺託に応える形で、徐州(じょしゅう)を預かることになった劉備(りゅうび)。 その徐州を、兗州(えんしゅう)で曹操(そうそう)に敗れた呂布(りょふ)が頼ってきたため、劉備は州境の小沛(しょうはい)に迎え入れる。 第12話の展開とポイント (01)曹操の軍営 曹操のもとに劉備から書簡が届き、陶謙との講和を勧められる。 曹操が徐州城を陥した後、民を皆殺しにするよう命ずる。 続いて曹操のもとに、兗州が呂布の奇襲を受けたとの知らせが届く。この際、陳宮(ちんきゅう)が呂布の軍師になったこともわかる。 曹操は、劉備の顔を立てた形にして陶謙と講和を結び、全軍に撤退を命ずる。 (02)徐州 陶謙が劉備に深い謝意を表し、再び徐州を譲ろうとする。またも劉備は断るが、陶謙の勧めに従い、州境の小沛に留まることは承諾する。 陶謙が病床に劉備を呼び、曹操が半日で呂布を撃破したとの知らせが届いたことを伝

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第12話「呂布、小沛に留まる(りょふ、しょうはいにとどまる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第11話「劉備、徐州を救う(りゅうび、じょしゅうをすくう)」

    父の曹嵩(そうすう)が陶謙(とうけん)の部将に殺害されたため、徐州(じょしゅう)へ大軍を繰り出す曹操(そうそう)。 陶謙は各地の有力者に援軍の派遣を要請するが、これに応じて駆けつけたのは、公孫瓚(こうそんさん)から趙雲(ちょううん)を借り受けた、劉備(りゅうび)ひきいる2千の軍勢だけだった。 第11話の展開とポイント (01)徐州 陶謙が兵馬を集めて守りを固め、曹操軍の襲来に備えるよう命ずる。 その一方、陶謙は息子に手紙を託し、冀州(きしゅう)の袁紹(えんしょう)、南陽(なんよう)の袁術(えんじゅつ)、平原(へいげん)の公孫瓚をそれぞれ訪ね、援軍の派遣を頼むよう命ずる。 さらに陶謙はその見返りとして、曹操軍を退けてくれたら毎年20万石(ごく)の兵糧を贈るという条件を提示させた。 (02)兗州(えんしゅう) 荀彧(じゅんいく)が曹操に、父の曹嵩の死に弔意を表す一方、徐州を攻める口実ができたこ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第11話「劉備、徐州を救う(りゅうび、じょしゅうをすくう)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第10話「董卓の死(とうたくのし)」

    董卓(とうたく)は諸大臣を引き連れた王允(おういん)から禅譲の勅書を受け取り、得意の絶頂に登る。 だがこれは王允らの計略で、董卓は万楽宮(まんらくきゅう)において呂布(りょふ)の手で誅殺された。 第10話の展開とポイント (01)王允邸 陳宮(ちんきゅう)が王允を訪ねる。続いて呂布も王允を訪ねてくる。 王允は陳宮とともに、呂布に董卓を討つよう焚きつける。呂布は天子(てんし。献帝〈けんてい〉)の勅書を奉じて董卓を討つ決意を固める。 (02)郿塢(びう) 李儒(りじゅ)が董卓に、皇太后(こうたいごう)が帝位の禅譲を申し出ていると伝える。 そこへ王允が大臣たちを引き連れて現れ、董卓に禅譲の勅書を手渡す。続いて呂布も現れ、董卓に謝罪する。 その2日後、董卓は即位の儀式に臨むべく長安(ちょうあん)へ向かう。 (03)万楽宮 董卓が到着すると、王允が董卓誅殺の勅書を読み上げる。その場に呂布が赤兎馬(せ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第10話「董卓の死(とうたくのし)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第09話「鳳儀亭の貂蝉(ほうぎていのちょうせん)」

    王允(おういん)から、貂蝉(ちょうせん)が董卓(とうたく)に郿塢(びう)へ連れ去られたと聞いた呂布(りょふ)は、激しい憤りを覚える。 呂布は董卓の寝所に入り込んで貂蝉と再会したが、朝議を抜け出し鳳儀亭(ほうぎてい)で密会しているところを董卓に見つかってしまう。 第09話の展開とポイント (01)王允邸 貂蝉が宮中へ向かう。 (02)郿塢 宮中へ向かっていたはずの貂蝉が董卓の屋敷に連れてこられる。 (03)万楽宮(まんらくきゅう) 翌朝、呂布は王允から、董卓が貂蝉を郿塢に連れ去ったことを聞かされて激怒する。 (04)郿塢 呂布が董卓の寝所へ入り込み、貂蝉と再会する。 李儒(りじゅ)は董卓に、貂蝉を呂布に返すよう進言し董卓も納得する。ところが、董卓がこの件を話すと貂蝉に泣かれてしまい、彼女を手放すことを思い直す。 (05)万楽宮 朝議の席で王允が董卓に報告。冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんふ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第09話「鳳儀亭の貂蝉(ほうぎていのちょうせん)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第08話「王允の離間の計(おういんのりかんのけい)」

    王允(おういん)は専横を極める董卓(とうたく)を除くべく、まずは彼の腹心である呂布(りょふ)との仲を裂こうと考えた。 そこで王允は、自慢の養女の貂蝉(ちょうせん)に秘計を打ち明け、わざと彼女を董卓と呂布の両者に引き合わせる。 第08話の展開とポイント (01)長安(ちょうあん) 王允邸 貂蝉が呂布に生い立ちを打ち明ける。 ★ここでは貂蝉の実の親が皇帝の親戚という設定になっていて新味。王允が山中で祭祀を執り行ったときの話や、貂蝉が王允の養女になるまでの話にもなかなか味があった。 呂布が貂蝉に求婚し、王允もふたりの結婚を許す。 呂布が帰ると、王允は貂蝉に連環の計の詳細を話す。その後、王允は事を取らずに寝込み、7日目になって貂蝉が計略を承諾する。 (02)万楽宮(まんらくきゅう) 朝議が済むと、王允が董卓を自宅での酒宴に誘う。董卓は大いに喜び、この日のうちに行くと言いだす。 (03)王允邸 王

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第08話「王允の離間の計(おういんのりかんのけい)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第07話「孫堅の死(そんけんのし)」

    (03)長安(ちょうあん) 董卓(とうたく)のもとに、孫堅が劉表の伏兵によって殺されたとの知らせが届く。 李儒(りじゅ)が董卓に帝位に即くよう勧める。そこで董卓は即位の前段階として「相父(しょうほ)」を称し、朝廷の百官や諸侯の反応を見ることにする。 董卓は翌日に朝廷の百官を招いて宴を催し、皆の官位を引き上げると言い、李儒を司空(しくう)に任ずる。 (04)長安 郿塢(びう) 董卓の私邸に朝廷の百官が集まる。 ★ここで張温(ちょうおん)が登場し、字(あざな)が恵恕(けいじょ)と字幕が出た。これは同姓同名の人物を取り違えている。 『三国志』には張温がふたり登場し、恵恕のほうは呉(ご)の孫権に仕えた。蜀(しょく)への答礼使を務めたりもしており、活躍した時代が違う。ここで出てきた張温は、後漢末(ごかんまつ)に三公を歴任した人物のほうである。 張温が董卓に帝位に即くよう勧める。そこへ入ってきた呂布(

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第07話「孫堅の死(そんけんのし)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第06話「孫堅、玉璽を得る(そんけん、ぎょくじをえる)」

    董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)に火を放って引き揚げた後、反董卓連合軍の諸侯は続々と洛陽入りを果たす。 孫堅(そんけん)も皆に先んじて洛陽に到着したが、ここで偶然、皇帝の象徴である伝国璽(でんこくじ)を手に入れる。 第06話の展開とポイント (01)西暦190年 滎陽(けいよう)の戦い 曹操(そうそう)が董卓を追撃する。 ★曹操と曹仁(そうじん)の会話の中に、「おそらく朝廷は私を西涼刺史(せいりょうしし)か冀州太守(きしゅうたいしゅ)に封じるだろう」というセリフが出てきた。西涼は地域の通称なので西涼刺史はいない。涼州刺史(りょうしゅうしし)ならわかるが……。また、冀州は州名なので太守はいない。ここは冀州刺史とすべき。 長安(ちょうあん)へ向かう馬車の中で、董卓が献帝(けんてい)に語りかける。 ★ここでは天子(てんし。献帝)の冠に玉飾りが9旒(りゅう)しかなかったが、天子は12旒。こういう

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第06話「孫堅、玉璽を得る(そんけん、ぎょくじをえる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第05話「三英傑、呂布と戦う(さんえいけつ、りょふとたたかう)」

    ?(白ヒゲの年配の諸侯。誰なのかわからず)配下のリュウサントウ(この人もわからず)、?(黒ヒゲの若い諸侯。この人もわからず)配下のカンユウ(この人もわからず)、公孫瓚(こうそんさん)配下のオウチン(この人もわからず)。 この3人を呂布と戦わせようとしたところ、すでに出陣し、みな呂布に討ち取られたとの知らせが届く。これを聞いた諸侯は軍議の場で内輪もめを始める。 その後、張飛が呂布に挑む。そこへ関羽が加勢し、ふたりがかりで呂布と戦う。最後は劉備も加勢し、3人がかりで戦う。やがて呂布のほうが引き揚げる。 ★呂布が関羽や張飛と互角に戦うのはいいとして、劉備まで呂布と渡り合っていたが、この力関係はどうなのだろう? さすがに劉備を持ち上げすぎの感じが……。 連合軍が城外へ打って出る。 ★ここで曹操が曹仁(そうじん)に、「では虎牢関に向かい、洛陽(らくよう)を攻める」と言っていた。となると、やはりここが

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第05話「三英傑、呂布と戦う(さんえいけつ、りょふとたたかう)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第04話「関羽、華雄を斬る(かんう、かゆうをきる)」

    第04話の展開とポイント (01)西暦190年 汜水関の戦い 前の第3話のラストで、董卓配下の華雄が袁術(えんじゅつ)配下の兪渉(ゆしょう)を討ち取ったシーンからスタート。 ★ここで「汜水関の戦い」という字幕が出たが、どういうことなのかわからない。十八鎮諸侯は陳留城(ちんりゅうじょう)に集まっていたはず。城外に攻め寄せた華雄との戦いが、なぜ「汜水関の戦い」になるのだろうか? 兪渉に続き、韓馥(かんふく)配下の潘鳳(はんほう)が華雄に挑むが、またも討ち取られる。さらに続いて関羽が挑み、見事に討ち取る。 ★ここで曹操が、関羽が一騎討ちに向かう前に注がせた酒について。関羽が諸侯の前に華雄の首を転がした後、曹操は酒がまだ温かいこと(関羽がごく短時間で華雄を討ち取ったという意味)を手の芝居で表現していた。 袁紹(えんしょう)が第19鎮を増設し、劉備を将軍に任ずる。その後、劉備配下の兵士が袁紹が約束し

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第04話「関羽、華雄を斬る(かんう、かゆうをきる)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第03話「曹操、善人を誤殺す(そうそう、ぜんにんをごさつす)」

    曹操(そうそう)は陳宮(ちんきゅう)とともに董卓(とうたく)の追跡をかわし続け、成皐県(せいこうけん)までたどり着くと、父の曹嵩(そうすう)の義兄弟である呂伯奢(りょはくしゃ)の屋敷でひと息ついていた。 ところが曹操は勘違いから、呂伯奢をはじめとする呂家の者を皆殺しにしてしまう。この様子を目の当たりにした陳宮は、曹操のもとから去っていく。 第03話の展開とポイント (01)西暦189年 成皐県 曹操と陳宮が呂家から逃げる。 ほどなくふたりは酒を買って戻った呂伯奢と出くわすが、曹操は呂伯奢も刺し殺す。 陳宮は恩人である呂伯奢を殺したことを非難するが、曹操は「われ人に背くとも、人われに背かせじだ」と応ずる。 ふたりは呂家へ戻るが、その夜のうちに陳宮は曹操のもとから去っていく。 (02)譙県(しょうけん) 曹操が帰り着き、父の曹嵩に挙兵の意思を伝える。 (03)西暦190年 陳留県(ちんりゅうけ

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第03話「曹操、善人を誤殺す(そうそう、ぜんにんをごさつす)」
  • 『三国志 Three Kingdoms』の考察 第01話「曹操、刀を献ず(そうそう、かたなをけんず)」

    王允(おういん)から家宝の七星剣(しちせいけん)を借り受け、董卓(とうたく)を仕留めるべく相国府(しょうこくふ)へ乗り込む曹操(そうそう)。 一方、いち早く都を脱出した袁紹(えんしょう)は十八鎮諸侯を束ね、反董卓連合軍として決起する。 第01話の展開とポイント (01)冒頭のナレーション 後漢(ごかん)末期の黄巾(こうきん)の乱平定に始まり、189年の劉辯(りゅうべん。少帝〈しょうてい〉)の即位、董卓の都入り、劉協(りゅうきょう。献帝〈けんてい〉)の即位、董卓の専横に至るまでをナレーションで一気に解説。 ★三国志を映像作品や小説で扱う場合、いつからどのように始めるかが問題になる。このドラマでは189年を起点としていたが、これはアリだと思う。 (02)洛陽(らくよう) 長楽宮(ちょうらくきゅう) 董卓の専横ぶりを示す朝議のシーン。 ★宮殿の雰囲気がいい感じ。董卓役の役者さんもはまっていた。

    『三国志 Three Kingdoms』の考察 第01話「曹操、刀を献ず(そうそう、かたなをけんず)」