2008年4月8日のブックマーク (65件)

  • 吉行淳之介 - Wikipedia

    『驟雨』(1954年) 『砂の上の植物群』(1963年) 『不意の出来事』(1965年) 『星と月は天の穴』(1966年) 『暗室』(1969年) 『鞄の中身』(1974年) 『夕暮まで』(1978年) 吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年(大正13年)4月13日 - 1994年(平成6年)7月26日)は、日小説家。父は吉行エイスケ、母は美容師吉行あぐり、女優吉行和子と作家吉行理恵は妹。 岡山県生まれ。東京大学英文科中退。『驟雨』で芥川賞受賞。「第三の新人」の一人で、『砂の上の植物群』『暗室』など、性を媒介として人間を探求した作品で高い評価を受けた。また、自身の少年期に材をとった小説でも知られる。エッセイや対談も多い。他方で、文壇的活動も活発で、多くの文学賞の選考委員を務めた。日芸術院会員。 来歴[編集] 1956年 第三の新人の面々。左から吉行淳之介、遠藤周作、近藤啓太

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  • 吉村順三 - Wikipedia

    吉村 順三(よしむら じゅんぞう、1908年9月7日 - 1997年4月11日)は、日の建築家。東京藝術大学名誉教授。 経歴[編集] 東京市所区緑町の呉服商の家に生まれる。東京府立三中卒業。東京美術学校(現東京藝術大学)で建築を学び、実測と観察を通して日の古建築に触れた。1931年に卒業[1]後、アントニン・レーモンドに師事。モダニズム建築を体得するとともに、レーモンドに日建築を伝える。1941年、吉村順三設計事務所を開設。1945年、東京美術学校助教授就任。1962年、東京藝術大学教授に就任。1970年、東京藝術大学名誉教授。1990年、日芸術院会員。 皇居新宮殿の建設に関わった。日の伝統とモダニズムの融合を図った。 吉村の設計物件を特命で手掛けた建設会社としては、1933年から2014年まで営業しており、皇居新宮殿を担当した老舗・岩組が知られている[2]。 作品[編集]

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  • 吉野源三郎 - Wikipedia

    吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)4月9日 - 1981年(昭和56年)5月23日)は、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任した。 経歴[編集] 初代編集長を務めた『世界』 1899年(明治32年)、東京府(現・東京都)出身。父は株式取引所仲買人であった。 1912年(明治45年)、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)卒業。1917年(大正6年)、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。 1918年(大正7年)、旧制第一高等学校に入学。1922年(

  • 湯川秀樹 - Wikipedia

    湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年(明治40年)1月23日 - 1981年(昭和56年)9月8日[1])は、日の物理学者(理論物理学)。学位は、理学博士(大阪帝国大学・1938年)。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。1943年(昭和18年)文化勲章。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身[2]。 原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日人として初めてノーベル賞を受賞した。 1907年(明治40年)1月23日、東京府東京市麻布区市兵衛町(現:東京都港区六木)に地質学者・小川琢治(旧姓 浅井)と小雪の三男として生まれる。のち

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  • 柳宗悦 - Wikipedia

    1889年(明治22年)3月21日[3]、東京府麻布区市兵衛町二丁目に元海軍少将・柳楢悦とその勝子の三男として生まれる[4][5][注 2]。1891年、宗悦が2歳の時に父はインフルエンザで死去、その後は母に育てられた[6]。 父・柳楢悦は爵位こそなかったが、没時は発足間もない貴族院議員に在任していた[7]。1895年に宗悦は、当時は入学の際に身分の条件があった学習院の初等学科に入学[7]し、西田幾多郎にドイツ語を、神田乃武や鈴木大拙に英語を学んだ[6]。また中等科時代には、英語の教師で植物学者でもあった服部他之助に度々赤城山に連れて行かれ、自然に親しみ観察眼を養った[8]。 中等科に進む頃に武者小路実篤、志賀直哉らと知り合い交流し、同人文芸誌『白樺』創刊を準備[4]し、学習院在学中の1909年9月には、来日し東京・上野でエッチング教室を行っていたバーナード・リーチを、創刊準備中の『白樺

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  • 丸山眞男 - Wikipedia

    丸山 眞男(まるやま まさお、1914年〈大正3年〉3月22日 - 1996年〈平成8年〉8月15日)は、日政治学者、思想史家。東京大学名誉教授、日学士院会員。専攻は日政治思想史。新字体で、丸山 真男とも表記される。 専門学問は、「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ[1][2]、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。 ジャーナリスト丸山幹治の次男として生まれた。東大法学部を卒業し、長く教鞭を執り、のちに東大法学部長も務めた。師は南原繁。 初期の代表作は『日政治思想史研究』(1952年)。西欧思想と東洋古典の素養を兼ね備えた学識を持ち、戦後民主主義思想の展開に指導的役割を果たした。〈丸山学派〉と称される後進の研究者も輩出し、日政治学界の量的な飛躍への貢献も大きい。 1914年(大正3年)3月22日、ジャーナリスト・丸山幹治の次男として、大阪府東成郡天王寺村(現・大阪

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  • 宮本常一 - Wikipedia

    常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日の民俗学者・農村指導者・社会教育家。 経歴[編集] 山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現大阪教育大学)専攻科卒業。 学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて客となり、格的に民俗学の研究を行うようになった。 1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。 宮の民俗学は、非常に幅が広く後年は観光学研究のさきがけとしても活躍した。民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築いた。 宮が所属したアチックミューゼアムは、後に日常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収され網野善彦らの活動の場となった。 学風[編集] 宮の学問はもと

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  • 向田邦子 - Wikipedia

    向田 邦子(むこうだ くにこ 1929年(昭和4年)11月28日 - 1981年(昭和56年)8月22日)は、日テレビドラマ脚家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞を受賞。 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。 父親の転勤で全国を転々とするが、人は鹿児島時代が文学の原点と語った。実践女専国語科を卒業後、映画雑誌の記者を経て、ラジオ・テレビの台・脚を書く。『七人の孫』『寺内貫太郎一家』等、自分の実感をもとに庶民の生活を温かくかつその暗部をも描いて「ホームドラマの旗手」といわれた。 1980年短編連作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』(後に作品集『思い出トランプ』に所収)で直木賞受賞。 略歴[編集] 1929年(昭和4年)、東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)に生まれる[1]。父親は石川県七尾市能登島出身[

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  • 福田恆存 - Wikipedia

    保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が進歩派にも影響を与えるなど、戦後日を代表する思想家[6]。 また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ[7]。 文藝春秋社「文藝春秋」、「諸君」、自由社「自由」などの保守派総合雑誌への寄稿でも知られる。産経新聞社の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎、小林秀雄等の提唱によって1973年(昭和48年)に創刊された。 「レトリシャン」や「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった[8]。著書に『人間・この劇的なるもの』(1956年)、『私の英国史』(1980年)、戯曲『キティ颱風』(1970年)など。

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  • 松田道雄 - Wikipedia

    松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は、日の医師・育児評論家・歴史家。著述家・マジック研究家の松田道弘は息子。 来歴・人物[編集] 茨城県水海道町(現・常総市)に代々医師の家に[1]生まれ、生後すぐ京都に移る。松田家の初代は千姫の侍医と伝わり、祖父は江戸で修行した蘭学医だった[2]。父は京都で小児科医を開業していた[3]。 京都市立明倫小学校[4]、京都一中[5]、旧制第三高等学校、京都帝国大学医学部卒業[6]。大学時代は「社会科学研究会」に所属してマルクス主義の研究・運動を行うが[7]、共産党に入党する決心はできなかった[8]。1929年には太田武夫が京都の被差別部落でひらいていた診療所に手伝いに行っていた[9]。 1932年に京都帝大医学部副手となり、父親も師事していた平井毓太郎らの影響で小児結核を研究対象とする。1937年から中京区西ノ京の健

  • 長谷川四郎 (作家) - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "長谷川四郎" 作家 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年1月) 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1987年〈昭和62年〉4月19日)日小説家。[注釈 1] 来歴・人物[編集] 北海道出身。函館中学卒業。立教大学を経て法政大学文学部独文科卒業。1936年、南満州鉄道株式会社に入社[1]。退社後招集。5年に及ぶシベリア抑留を送る[2]。 復員後、シベリア抑留経験をもとに「近代文学」に作品を発表した。その後、新日文学会で活躍し、1960年代の同会を花田清輝と共にささえた。この間、1

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  • 橋川文三 - Wikipedia

    橋川文三のサイン(1960年) 長崎県上県郡峰村(現・対馬市)の生まれ。父祖の地は広島県。橋川家は、代々対馬の海産物や木炭などを広島まで運ぶ商いをしていた。文三3歳の時、父親の故郷・広島県安芸郡仁保村(現・広島市南区仁保)に一家で帰郷。安芸郡海田町などで育つ。青崎尋常小学校(現・広島市立青崎小学校)、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高等学校)を経て上京、第一高等学校文科乙類に入学。文芸部に所属。1942年卒業[2]。 同年、東京帝国大学法学部入学。在学中勤労動員で1945年6月から、郷里の広島糧事務所に長期出張。原爆投下の3日前に農林省の採用試験のため上京、被爆を逃れた。同年9月、東京帝国大学卒業。 後に丸山真男のゼミで近代日政治思想史の方法を学んだが、その分析の角度も思想もまったく異なる。丸山の正攻法とは異なった「野戦攻城」を信条としていた。 潮流社の雑誌『潮流』編集者の

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  • 野口晴哉 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年3月) 東京府東京市下谷区上野に職人の、9人兄弟の子供の次男として生まれる[1]。12歳のときに関東大震災に被災し、このとき能的に手をかざして治療をしたことを契機に、治療家を目指したという[1]。後に霊術家の松道別に学ぶ。17歳で「自然健康保持会」を設立、入谷に道場を開き門人を育てた[1]。1943年(昭和18年)には手技療術の法制化を目的とした組織「整体操法制定委員会」の設立に携わり[1]、議長を務める。多種多様な手技療術の中から有用な技術を抽出し、その標準型として整体操法をまとめあげた。1947年には指導者養成のため「整体操法協会」を設立[1]。療術界で中心的役割を果たした[1]。一説には「整

  • 鶴見良行 - Wikipedia

    1926年、外交官・鶴見憲の息子としてアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれた。外交官の父の仕事の影響で、ワシントンD.C.、ポートランド、ハルビンなど一家は在外生活を重ねた。第一高等学校の受験に失敗して、東京外国語学校に入学[1]。同校を1年で退学し[2]、水戸高等学校を経て、東京大学法学部に入学した。1952年に東京大学法学部を卒業[3]。 1946年にいとこの鶴見俊輔、鶴見和子が関係した雑誌『思想の科学』が発刊されると、思想の科学研究会の常任活動に参加し、自身はコミュニケーション論を研究した[4]。一時結核で倒れたため療養生活を送ったが[4]、1955年から1986年まで国際文化会館に勤務した(1973年から1986年の間は、嘱託勤務[5])。1965年にはベトナムに平和を!市民連合発足に参加。これに前後する時期には、頻繁にアジア諸国へ渡航し、研究を深めた。1973年、ア

  • 永井荷風 - Wikipedia

    永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。父・久一郎はプリンストン大学やボストン大学に留学経験もあるエリート官吏で、内務省衛生局に勤務していた(のち日郵船に天下った)[1]。母・恒は、父久一郎の師でもあった儒者鷲津毅堂の次女。 東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)、小石川区小日向台町(現:文京区小日向二丁目)に存在した黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現:東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、1891年に神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)2年に編入学した。また芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみ、漢学者・岩渓裳川から漢学を、画家・岡不崩からは日画を、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学ぶ。 1894年に病気になり一時休学するが、その療

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  • 殿山泰司 - Wikipedia

    殿山 泰司(とのやま たいじ、1915年(大正4年)10月17日 - 1989年(平成元年)4月30日)は、日の俳優、エッセイスト。 兵庫県神戸市出身。中央区立泰明小学校、東京府立第三商業学校中退。終戦後の日映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した。ジャズとミステリーをこよなく愛し[1]、趣味を綴った著書も多数残している。また、波乱万丈なその人生は、映画化もされている。 神戸の生糸商の長男として生まれる。幼名は殿山泰爾(たいじ)である。父親は広島県生口島出身[2][3]。6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。父とその愛人(泰司の義母となる)について上京し、東京都中央区銀座で少年時代を過ごす。このとき父と義母が出したおでん屋が、銀座五丁目から移転し今も日橋で営業をつづける「お多幸店」である。屋号は義母の名前からとられている。 繁盛店の跡取り息子として育つが、殿山は“義母が、

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  • 遠山啓 - Wikipedia

    遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 1979年9月11日)は、日数学者。東京工業大学名誉教授。 数学教育の分野でよく知られる。 熊県下益城郡(現・宇城市)出身。 銀林浩と共に「水道方式」という初等教育で計算規則を教える方法を考案し、当時の文部省の学習指導要領準拠の算数教科書授業よりも、はるかに効果の高いことを実験的に証明した。 略歴・人物[編集] 1909年(明治42年)、大韓帝国の仁川に生まれるが、すぐに郷里の熊県に帰る。小学校4年で東京に移り、母親と二人で手狭な家に同居していたように暮らし向きは決して裕福ではなかった。渋谷の千駄ヶ谷小学校から東京府立一中に入学。同級生に牛場信彦[注 1]、佐久洋(元中小企業庁長官)らがいた[1]。その後、旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に入学するも退学。小学校時代から社会や人間に関わるのが嫌いで、不運な国に生ま

  • 西山夘三 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "西山夘三" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年3月) 西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 1994年4月2日)は日の建築学者、建築家。都市計画家。住宅問題を科学的に研究する基礎を築いた。 来歴[編集] 大阪市此花区に西九条安治川沿いの鉄工所の三男として生まれた。 西山一家の暮らした西九条は、重工業中心の工場地帯として発展した工場と長屋の密集地。1930年に第三高等学校理科乙類を卒業[1]。京都帝国大学建築学科に進学[2]し、クラスをDEZAMとし、同級生らとともにマルクシズムに共感を寄せた。またク

  • 松本清張 - Wikipedia

    清張(まつもと せいちょう、名: まつもと きよはる、1909年〈明治42年〉12月21日 [注釈 1]- 1992年〈平成4年〉8月4日)は、日小説家。 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす[2]。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、第二次世界大戦後の日を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。 緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される[注釈 4]。また、『日の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近現代

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  • 富士正晴 - Wikipedia

    富士 正晴(ふじ まさはる、名:冨士正明、1913年10月30日 - 1987年7月15日[1])は、日小説家、詩人、版画家。多くの有名作家を輩出した『VIKING (同人誌)』の創刊同人であり、3度の芥川賞候補、直木賞候補となり、晩年は竹やぶに囲まれた自宅に引きこもって活動し、「竹林の隠者」と呼ばれた[2]。毎日出版文化賞、大阪芸術賞、関西大賞大詩仙賞受賞。 徳島県三好郡山城谷村(現三好市)出身[3]。両親はともに小学校の訓導をしていた[2]。家族と神戸に転居し、神戸第三中学校卒業[2]。 1931年旧制第三高等学校理科甲類に進学[4]。志賀直哉を訪問したところ、竹内勝太郎を紹介されて師事する[1][4]。1932年、野間宏(のちに富士の妹と結婚して義弟となる)や桑原静雄とともに、詩の同人誌『三人』を創刊[4]。理科甲類を中退し、文科丙類に再入学するが、1935年に退学する[4]。

  • 廣松渉 - Wikipedia

    福岡県柳川市蒲池出身。出生地は山口県厚狭郡(現在の山陽小野田市)。1946年、中学1年生の時に日青年共産同盟に加盟。 1949年4月、高校進学と同時に日共産党に入党する。1950年の50年分裂では国際派に所属し、 1951年に国際派の「全国統一会議」が解散した後は、党に戻らず全日学生自治会総連合(全学連)などで活動。 福岡県立伝習館高等学校から放校後に、大検に合格して大学進学資格を得て、東京学芸大学に入学するも、中退して東京大学文学部哲学科に再入学をする。当初はエルンスト・マッハに対する関心が強かったが、指導教官の勧めもあってカント研究に専念することになる。その後、東京大学大学院に進学。1965年に博士後期課程を単位取得退学している。 1955年7月、日共第六回全国協議会(六全協)を受けて復党するも、翌年に出版した共著書『日の学生運動』が問題視されて離党した。1958年12月、共産

  • 花田清輝 - Wikipedia

    花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月23日)は、作家・文芸評論家。巧みなレトリックを駆使した文体を特徴とし、映画や演劇の評論も多く手がけ、日のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であった。 生涯[編集] 生い立ち[編集] 福岡県福岡市東公園に生まれ、一人っ子として育つ。先祖は毛利輝元であり、清輝の曽祖父は黒田藩の右筆で、名前には代々「輝」の字を付ける習いだった[1]。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)時代は柔道に熱中し、また父ともに短歌を新聞等に投稿していた。 鹿児島の第七高等学校に入学し、西田哲学に没入、また寮誌『白光』を創刊し長編詩「樹下石上」などを発表。しかし読書に熱中して出席日数不足で2度続けて落第し退学、福岡に戻って九州帝国大学哲学科の聴講生を経て、1929年に京都帝国大学文学部に選科生として入学。この時期、『白

    花田清輝 - Wikipedia
    shog0162
    shog0162 2008/04/08
    吉本隆明と戦争責任論をめぐって論争を繰り広げた。
  • 花森安治 - Wikipedia

    読売新聞社『家庭よみうり』402号(1954年)より 花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は、日の編集者・グラフィックデザイナー・ジャーナリスト・コピーライター。生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者。 1911年、兵庫県神戸市に生まれる。神戸市立雲中小学校の同級に田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校から旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。 1933年、松江高等学校卒業[1]後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学[2]し、当時6万部を発行していた「帝国大学新聞」(東京大学の学生新聞「東京大学新聞」の前身)の編集に携わる。当時の編集部員に扇谷正造や岡倉古志郎、杉浦明平、田所太郎などがいた。 大学在学中の1935年、伊東胡蝶園(の

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  • ナンシー関 - Wikipedia

    ナンシー関(ナンシーせき、名:関 直美(せき なおみ)、女性、1962年7月7日 - 2002年6月12日)は、日の版画家、コラムニストである。青森県青森市生まれ。法政大学文学部第二部(夜間部)中退。 独特の観察眼による「テレビ批評」とその挿絵に入れた著名人の似顔絵「消しゴム版画」で社会そのものを批評していた[1]。世界初の消しゴム版画家である[2]。 経歴[編集] 生い立ち[編集] 1962年、青森県青森市に三人きょうだいの長女として生まれた。2歳下の妹と7歳下の弟がおり、父親は同郷のプロボクサーのレパード玉熊の後援会会長を務めていた。言葉は早く、2-3歳のころには一人で絵を読んでいた[3]。1969年、青森市立堤小学校に入学。同級生によれば性格は他の生徒より大人びて冷静だったという。手先は器用で、パラパラマンガを描いたり、いたずらとしてクラスメイトの消しゴムに文字を彫るなどしてい

  • 長谷川町子 - Wikipedia

    佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)で父・勇吉と母・貞子との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。当時、多久で操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業[2]に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市中央区)に転居春吉尋常小学校に小学1年生から通った。 小学生時代は成績が良く男子生徒と交代で学級長を務めていたが「悪ガキ」だったと妹の洋子に語っている[3]。小学校時代は卒業までクラス替えがなく、担任の教員も替わらず、家族のような組だった[4][5]。授業中にはよく教員の似顔絵を描いており、それを見つけた教員の松善一にチョークを投げつけられ、罰として廊下に立たされた。そうした松の癖などを漫画にして、級友に授業中回して遊んでいた[4]。掃除時間になると掃除を怠けて男子とチャンバラごっこをして遊んだ。女子が男子

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  • 知里真志保 - Wikipedia

    1909年2月24日、北海道幌別郡登別村(現在の登別市登別町)に生まれる[1]。 1929年3月、北海道庁立室蘭中学校(現在の北海道室蘭栄高等学校)を卒業し、地元の幌別役場に勤務する[2]。その後、喜田貞吉と金田一京助が両親に大学進学を勧め、進学を決意する[3]。 1930年、東京・杉並の金田一家に招かれ、第一高等学校に150人中12位の成績で合格し入学する[3]。1933年3月に卒業する[4]。 同年4月から東京帝国大学文学部英文学科に進学し、1937年4月に言語学科に転科する[3]。 1937年3月に言語学科を卒業[5]し、同年4月から同大学院に入学する[3]。 1938年7月から三省堂編集部員となり、1939年3月に大学院を退学する[3]。 1940年6月に三省堂を退職し、樺太庁豊原高等女学校教諭(嘱託)となり、樺太庁博物館技術員を嘱託される[6]。 1941年4月に正教諭となるが

    知里真志保 - Wikipedia
  • 寺山修司 - Wikipedia

    寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年〈昭和10年〉12月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日の歌人・劇作家。演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰。 「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名[3][4]をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。 1935年(昭和10年)12月10日、父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける[1]。八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務の特高警察刑事。父の転勤のため、県内各所を転々とする。人は出生について「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記していたが、ハツと元の九條今日子によれば、青森県弘前市紺屋町生まれとされる。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている[1]。これ

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  • 手塚治虫 - Wikipedia

  • 長新太 - Wikipedia

    長 新太(ちょう しんた、名: 鈴木(すずき) 揫治(しゅうじ)[注 1][1][2][3]、1927年9月24日[1] - 2005年6月25日[1][2])は、日漫画家、絵作家。 漫画作品のほか、「ユーモラスな展開と不条理な筋立て[1]」による「絵」と称される数多くの絵や児童文学の挿絵を描き、「ナンセンスの神様」の異名をとった[4]。エッセイなどの分野でも活動した。 東京府荏原郡羽田町(のちの東京都大田区)に生まれる。蒲田育ち[3]。戦時中は陸軍少年飛行兵学校を受験したが体重が足りなかったために不合格となる。東京市立蒲田工業学校(現在の東京都立一橋高等学校)卒[1]。蒲田が空襲の被害を受けたため横浜市に移り、ここで敗戦を迎える。映画が好きだったため映画館の看板屋[3]で3年ほど働いた。 1948年12月[3]、東京日日新聞(東日)の漫画コンクール「初笑い東京日日新聞漫画祭り

  • 檀一雄 - Wikipedia

    檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月3日 - 1976年〈昭和51年〉1月2日)は、日小説家、作詞家、料理家。 私小説歴史小説料理などで知られる。「最後の無頼派」作家・文士ともいわれた。また、西遊記の日語抄訳もある(東京創元社ほか)。 代表作は、律子夫人の没後に描いた『リツ子 その愛』『リツ子 その死』、時代娯楽作品も人気があり『真説石川五右衛門』(1950年、第24回直木賞受賞)、『夕日と拳銃』など、また20年以上に亘り、書き継がれライフワークとなった遺作『火宅の人』(1986年、東映で異父弟のプロデューサーの高岩淡の企画、深作欣二監督、緒形拳主演により映画化)など。 長女は女優の檀ふみ。長男はエッセイストの檀太郎[1]。妹は左翼活動家でイラストレーターの檀寿美。作家の嵐山光三郎とは嵐山が編集者時代から親交が厚かった。 山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市下谷

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  • 團伊玖磨 - Wikipedia

    團 伊玖磨(だん いくま、1924年〈大正13年〉4月7日[1] - 2001年〈平成13年〉5月17日)は、日の作曲家、エッセイスト[2]。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルの作曲を手がけた。「團伊玖摩」などは誤表記。東京出身[1]。 主要な音楽作品については「團伊玖磨の楽曲一覧」を参照。 人物・来歴[編集] 生い立ち[編集] 1924年(大正13年)、実業家、学者、政治家であった男爵・團伊能の子として、東京市四谷の慶應義塾大学病院で生まれ、原宿(現:東京都渋谷区神宮前)で育つ。 7歳となった1931年(昭和6年)、青山師範学校附属小学校に入学し、ピアノを学び始めた。翌年3月、祖父・團琢磨が暗殺された(血盟団事件)ことで、幼心に物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機の一つとなった。当時、團とい

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  • 谷崎潤一郎 - Wikipedia

    谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年〈明治19年〉7月24日 - 1965年〈昭和40年〉7月30日)は、日小説家。明治末期から昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。日芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎」[注 1] と称された。その一方、今日のミステリー・サスペ

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  • 竹山道雄 - Wikipedia

    竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 1984年6月15日)は、日の評論家、ドイツ文学者、小説家。日芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。 来歴[編集] 銀行員の息子として大阪市に生まれる。父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現在のソウル)で過ごす。 東京府立第四中学校から第一高等学校を経て、1926年に東京帝国大学文学部独文科卒業。ドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省に派遣されてベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となる。 戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されて間もない1951年に教授を退官、上智大学など諸大学での講師を歴任しつつ、ヨーロッパ各地やソ連を度々訪問した。〈生成会〉同人として、機関誌『心』(月刊誌、1948-81年)に大きく参与した。月刊

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  • 武満徹 - Wikipedia

    武満 徹(たけみつ とおる、1930年〈昭和5年〉10月8日[1] - 1996年〈平成8年〉2月20日)は、日の作曲家、音楽プロデューサー。 濱田徳昭に対位法・和声を学び、作曲を清瀬保二に師事したが[2][注釈 1]、東京音楽学校の入学試験を放棄。その後、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画テレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた「ノヴェンバー・ステップス」によって、日を代表する現代音楽家となった。 1930年10月8日に東京市郷区[1]駒込曙町(現:文京区駒込一丁目)で生まれる。父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めた[5]。両親ともに当時の風潮からするとかなり変わっていた。山口県出身の母麗子は

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  • 武田百合子 - Wikipedia

    武田 百合子(たけだ ゆりこ、1925年9月25日 - 1993年5月27日)は、日の随筆家。 小説家武田泰淳ので、泰淳の死後に、泰淳と過ごした富士山荘での日記『富士日記』を出版し、処女作にして高い評価を受ける。その後、寡作ながら、結晶度の高い随筆を発表して多くの熱狂的なファンを得る。娘は写真家の武田花。 各界に親交が多く、埴谷雄高、深沢七郎、村松友視、大岡昇平、色川武大、吉行淳之介、辻邦生、いいだもも、女優加藤治子などと親しかった。 1925年(大正14年)9月25日、神奈川県横浜市で代々の富豪、鈴木家の三女として生まれる。1932年に母、あさのが死去する。以後、大叔母みつが母代わりになる。小さい頃から琴や三味線を習っていた。 1943年(昭和18年)、横浜第二高等女学校(現・神奈川県立横浜立野高等学校)を卒業する。在学中に同級生たちと同人誌『かひがら』に参加し、詩や文章を投稿する。

  • 武田泰淳 - Wikipedia

    第一次戦後派を代表する作家で、戦前期は左翼運動から離脱後、泰淳と改名。得度した。その後大陸(中華民国)に出征。除隊後、評伝『司馬遷』を経て小説に転じ、『蝮のすゑ』で認められた。その後も思想的重量感を持った作品を発表し、幾屈折もする人間生存の諸相を描き出した。 は随筆家の武田百合子、娘は写真家の武田花。兄は水産生物学者・東大教授の大島泰雄。伯父に僧侶・仏教学者・社会事業家の渡辺海旭がいる。 東京市郷区(現在の東京都文京区郷)にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。長い間二男とされていたが、上田女子短期大学教授の長田真紀の研究[1]によって、夭折した次兄・信也がいたことが明らかになった。出生名は覚(さとる)。 父の師にあたる武田芳淳に養子に入り、武田泰淳と姓名を変更する。 京北中学校、浦和高等学校[2]を経て東京帝国大学文学部支那文学科に入学[3]、竹内好と知り合う。左翼活動を繰

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  • 清家清 - Wikipedia

    清家 清(せいけ きよし、1918年12月13日 - 2005年4月8日)は、日の建築家。 日における代表的な現代建築家。戦後すぐに「森邸(1951年)」を発表し、同じ50年代に発表された、池辺陽の「立体最小限住宅(1950年)」、増沢洵の「最小限住宅」、広瀬鎌二の「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案し、住宅をはじめとする明瞭で軽快な作品で日の伝統的モダン美を独自の解釈ではじめて形にした。 勲二等瑞宝章及び紫綬褒章受章。工学博士(東京工業大学)。主な称号に東京芸術大学名誉教授、東京工業大学名誉教授、日建築学会名誉会員、東京建築士会名誉会員。父は機械工学者の清家正、息子は経済学者で慶應義塾長の清家篤。 1918年京都府京都市に生まれる。少年時代を神戸市で過ごし、旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を経て1941年東京美術学校(現・東京芸術大学)、19

  • 洲之内徹 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "洲之内徹" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2023年2月) 松山生まれ[1]。松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1930年に東京美術学校建築科に入学[1]。在学中にプロレタリア運動に参加、1932年に検挙され、学校は退校処分となって帰郷した[1]。そして松山でも運動をつづけ[1]、1933年、徴兵検査後に検挙・収監されたが、後に「転向」して釈放された。その後1938年に軍の宣撫班員となって中国大陸へ渡り[1]、対共工作と情報収集に携わった。そして終戦を迎え、1946年春に帰国した。 戦後、郷里松山に引き揚げて古

  • 須賀敦子 - Wikipedia

    須賀 敦子(すが あつこ、1929年1月19日(戸籍上は2月1日)[1] - 1998年3月20日)は、日の随筆家・イタリア文学者・翻訳家。 20代後半から30代が終わるまでイタリアで過ごした。日に帰国し40代はいわゆる専業非常勤講師として過ごす。50代以降、イタリア文学の翻訳者として注目され、50代後半からは随筆家としても脚光を浴びた。代表的な著作に『ミラノ霧の風景』[2](1990年)、『コルシア書店の仲間たち』(1992年)など。 死去後の2014年に、イタリア語から日語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設されている。 人物・生涯[編集] 大手の空調・衛生設備業者、須賀工業(旧須賀商会)経営者の家に生まれる。カトリック系の学校に通い、後にカトリックに入信(洗礼名はマリア・アンナ)。教会での活動に打ち込みながら聖心女子大学で学んだ後、自身の進路を決めかねていたが、1年後慶

  • 島尾敏雄 - Wikipedia

    島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日)は、日小説家。日芸術院会員。 大学卒業後に海軍予備学生に志願し第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎えた経験を持つ。「ヤポネシア」という概念を考案したことでも知られる。 作品は超現実主義的な『夢の中での日常』などの、戦争中の体験を描いた作品群、『出発は遂に訪れず』などの作品群、さらに家庭生活を描いた『死の棘』などの作品群に大別される。また、小説作品との決定的な差異はないとされる日記や、紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども多く書き続けた。 はのちに小説家となった島尾ミホ。長男は写真家の島尾伸三で、漫画家のしまおまほは孫にあたる。島尾の浮気に起因する心因性

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  • 澁澤龍彦 - Wikipedia

    東京市芝区車町(現:東京都港区高輪)に澁澤武・節子の子として生まれ、埼玉県川越市、東京市滝野川区中里(現:東京都北区中里)に育つ。父の武(1895年 - 1954年)は銀行員。母の節子(1906年 - 没年不詳)は実業家で政治家の磯部保次長女。澁澤栄一は龍彥の高祖父・三代目宗助(徳厚)の甥にあたる[注 3]。龍彥の幼少時、澁澤栄一はまだ存命で、同じ滝野川の飛鳥山に住んでおり、赤子の龍彥は栄一翁に抱かれて小便を洩らしたことがあると伝えられている。なお澁澤家は、指揮者尾高尚忠や競馬評論家大川慶次郎とも親類に当たる。 旧制の東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)から、1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語クラス)に進む。理系に進んだのは、当時の軍国主義的風潮の中で飛行機の設計者に憧れたためだが、徴兵逃れの意図もあった。中学から高校時代には勤労学徒として動員され、板橋

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  • 坂西志保 - Wikipedia

    坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6日 - 1976年(昭和51年)1月14日[2])は、日の学者、評論家。 外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、日ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師、警察育英会理事長、国家公安委員会委員などを務め、立法・行政・教育と多岐にわたり活躍した。 なお、名についてしおとする資料もある。志保自身の英文署名や自身が米国で出版した書物には「Shio」が使用されており、日語署名には「志保」を用いており「しほ」はその読みである。 戸籍には「シホ」とある。「志保」は聖書の「地の塩」による[注釈 1]。 神奈川県横浜から北海道後志国忍路郡塩谷村伍助沢(現:小樽市塩谷)に開拓民として1893年(明治26)に入植した坂西傳明夫の娘として1896年(明治29)に生まれる[4]。(東京・

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  • 阪田寛夫 - Wikipedia

    阪田 寛夫(さかた ひろお、1925年10月18日 - 2005年3月22日)は、日の詩人、小説家、児童文学作家である。大阪大阪市生まれ。小説・詩・作詞など幅広く執筆。 来歴・人物[編集] 阪田家は、代々紺屋の屋号で安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた[1]。寛夫の祖父・阪田恒四郎が38歳の時、広島から大阪に出て興したのが阪田インキ製造所(後のサカタインクス)[1][2][3]。寛夫の父・素夫は同社の二代目社長であった[4]。600坪の屋敷で3人兄弟の末弟として育つ。 熱心なキリスト教徒の家庭に育つ。母・京は同志社女子専門学校英文科の卒業生で、アメリカから来た教師に西洋料理をたくさん学んだハイカラな女性だった。小学生時代、親族・周囲に宝塚ファンが多かったため自身も幼いころより晩年まで宝塚歌劇に親しむ。 帝塚山学院小学校・大阪府立住吉中学校から旧制高知高等学校を経て東

  • 今和次郎 - Wikipedia

    早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日建築士会会長他、団体の要職も多く務める。民家、服装研究などで業績があり「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。後に日生活学会を発足させ会長に就任。 関東大震災後、菜っ葉服(ジャンパー)を着るようになり、結婚式や宮邸への訪問、大使館でのパーティーなどにも背広でなくジャンパーで通した。 「白茅会」参加より端を発する柳田國男門下としての民家研究、日全国と大陸に渡る農村生活調査活動、関東大震災後のバラック装飾活動による独自の視点から都市と生活復興への関与と風俗観察、生活文化の流れからの服装研究など、研究者としての調査研究活動範囲は多岐にわたる。 1910年代から石黒忠篤か

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  • 小林秀雄 - Wikipedia

    小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月11日[注釈 1] - 1983年〈昭和58年〉3月1日)は、日の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。日芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 人物[編集] 日の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。[要出典]アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。居宣長の著作など近代以前の日文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。[要出典] 妹の高見沢潤子[注釈 2]は、作家・随筆家。夫は『のらくろ』で知られる漫画家の田河水泡。 長女・明子の夫は、白洲次郎・正子の次男・兼正。従弟は英文学者の西村孝次、西洋史学者の西村貞二。文藝評論家の平野謙は又従弟[注釈 3]。 経歴[編

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  • 古波蔵保好 - Wikipedia

    1961年撮影 古波蔵 保好(こはぐら ほこう[1]・やすよし[2]、1910年3月23日 - 2001年8月30日[3])は、日のエッセイスト、評論家。は服飾評論家の鯨岡阿美子[1][3]。妹は琉球料理研究家の古波蔵登美、登美の孫で姪孫にあたるのが[4]与那原恵。 来歴・人物[編集] 沖縄県首里市(現・那覇市)金城出身[1]。沖縄県立一中卒業[要出典]、東京外国語学校印語学科中退(1930年[5])[1]。 1931年[3][5]、当時県域新聞社として発行していた沖縄日日新聞(後の沖縄日報)に記者として入社。1941年[1][5]、大阪毎日新聞社に移籍し社会部記者、論説委員。 1964年[1][3][5]に退社後はエッセイスト、評論家として、日エッセイストクラブ賞を獲得した[1]『沖縄物語』をはじめ、沖縄県の歴史文化・世相風俗、などに関する著書を多数発表した。また、那覇市久茂地

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  • 後藤明生 - Wikipedia

    後藤 明生(ごとう めいせい、1932年4月4日[1] - 1999年8月2日[1][2])は、日小説家。名は明正(あきまさ)[1]。 出版社勤務の傍ら作品を発表し、『人間の病気』で文壇に登場。「内向の世代」の一人に数えられ、実験的手法を用いた前衛小説を多く書いた。 来歴[編集] 朝鮮咸鏡南道永興郡生まれ[1][3]。生家は植民地朝鮮の元山市で商店を営んでいたが、彼が中学に入学した年に敗戦となり、日に帰国した[3]。その引き揚げの途中で父と祖母を失った。このことは作品の幾つかに散見される。旧制福岡県立朝倉中学校に転入し、早稲田大学第二文学部露文学科を卒業[1]。大学在学中の1955年に「赤と黒の記録」で『文藝』の全国学生小説コンクールに入選[1]。 大学卒業後、福岡に戻るが不況のため就職できず、翌年に再上京し、博報堂を経て平凡出版(現・マガジンハウス)に勤務。 1959年から196

  • 幸田文 - Wikipedia

    幸田 文(こうだ あや、1904年〈明治37年〉9月1日 - 1990年〈平成2年〉10月31日)は、日の随筆家・小説家。位階は従四位。日芸術院会員。 東京都生まれ。幸田露伴次女。女子学院卒。父露伴の死後、『雑記』『終焉』『葬送の記』などの回想文で文壇に登場。のち小説も書き、『黒い裾』『流れる』などで高い評価を得た。繊細な感性と観察眼、江戸前の歯切れの良い文体が特徴。折々の身辺雑記や動植物への親しみなどを綴った随筆の評価も高く、『こんなこと』『みそっかす』や、没後刊行された『崩れ』『木』などの多数の作品集があり、永い人気を保っている。他に映像化の多い『おとうと』も知られている。 作家の幸田露伴、母幾美(きみ)の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現:東京都墨田区東向島)に生まれる[2][3]。1910年、5歳のときに母を、1912年、8歳のときに姉の歌を失う。1912年に父の露伴が児玉八代

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  • 串田孫一 - Wikipedia

    串田 孫一(くしだ まごいち、1915年11月12日 - 2005年7月8日)は、日の詩人、哲学者、随筆家。 経歴[編集] 1915年、東京市芝区生まれ。駿河台や永田町や一番町に育つ。暁星中学校で学び、中学時代から登山を始めた。1932年、旧制東京高等学校文科丙類に入学し、1935年に卒業[1]。東京帝国大学文学部哲学科で学び、1938年に卒業した。同1938年には、処女短編集『白椿』を刊行した。 卒業後は、上智大学で教鞭をとる。戦後、1946年に『永遠の沈黙 パスカル小論』を上梓し、『歴程』同人となる。旧制東京高等学校で教鞭をとり、1955年、最初の山の『若き日の山』を上梓、1958年、尾崎喜八らと山の文芸誌『アルプ』を創刊、1983年に終刊するまで責任編集者を務めた。また矢内原伊作や宇佐見英治らが創刊した文芸誌『同時代』にも同人として参加。東京外国語大学教授を務めたが、1965年に

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  • 金鶴泳 - Wikipedia

    金 鶴泳(きん かくえい、キム・ハギョン、김학영、Kim Hak Young、1938年9月14日 - 1985年1月4日[1])は、日小説家。名は金 廣正(キム・クァンジョン)。吃音者・在日朝鮮人二世という苦悩の中、独自の世界を描いた。 経歴[編集] 1938年、群馬県多野郡新町(現:高崎市新町)に生まれる。群馬県立高崎高等学校、東京大学工学部工業化学科卒業[2]。東京大学大学院化学系研究科博士課程中退[2]。 1966年、「凍える口」で文藝賞受賞。以後作家活動に入る。「冬の光」「鑿」「夏の亀裂」「石の道」の四作が芥川龍之介賞候補作となる。 1985年、群馬県多野郡新町の自宅にてガス自殺。享年46。 著作[編集] 『凍える口』河出書房新社、1970年 『金鶴泳集』河出書房新社、1972年 『あるこ-るらんぷ』河出書房新社、1973年 『石の道』河出書房新社、1974年 『鑿』文藝春

  • 木山捷平 - Wikipedia

    木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日[1] - 1968年(昭和43年)8月23日[1])は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身[1]の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ。[独自研究?] 経歴[編集] 矢掛中学校(現岡山県立矢掛高等学校)在籍時より詩・短歌・俳句を作り始める[1]。1923年(大正12年)に姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業[1]。小学校教諭となる[1]。1925年(大正14年)に東洋大学専門学部文化学科に入学するも[1]、後に中退する[1]。 1929年(昭和4年)に処女詩集『

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  • 神谷美恵子 - Wikipedia

    神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12日 - 1979年(昭和54年)10月22日)は、日の精神科医。哲学書・文学書の翻訳やエッセイの著者としても知られる。 「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話でも知られる。 神谷美恵子(結婚前は前田美恵子)は1914年(大正3年)1月12日に内務省職員である父前田多門とその房子の長女として岡山市に生まれた[1]。兄弟には兄の陽一の他、後に一男二女が生まれている[1]。父の多門はその年の4月に長崎県の理事官へと転任し、一家は長崎へと転居、翌年には内務省省勤務となり東京へ転居している[1]。多門は内務省におけるエリート官僚として、外国との折衝を始めとした役職を歴任したため、一家は頻繁に転居している。両親が外国へ出張している際に

  • 開高健 - Wikipedia

    開高 健(かいこう たけし/かいこう けん[2]、1930年〈昭和5年〉12月30日 - 1989年〈平成元年〉12月9日)は、日小説家。組織と人間の問題を扱った『パニック』『裸の王様』や、ベトナム戦争取材の体験をもとにした『輝ける闇』などがある。また趣味の釣りについて世界各地での体験を綴ったエッセイ『フィッシュ・オン』『オーパ!』などでも知られる。 大阪市天王寺区で父・正義、母・文子との間に長男として生まれる。7歳の時に住吉区北田辺(現・東住吉区)へ転居。子供時代は、紙芝居とが好きで、江戸川乱歩、山中峯太郎、海野十三などを読んでいた[3]。1943年4月に旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)へ入学、勤労動員の合間に内外の文学作品を乱読した。5月に国民学校教頭であった父が死去する。 第二次世界大戦後に旧制大阪高等学校文科甲類(英語)に入学するが、学制改革により1年で旧制高校

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  • 小野二郎 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "小野二郎" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年5月) 小野 二郎(おの じろう、1929年8月18日 - 1982年4月26日)は、日の英文学者・思想家。放送作家・評論家の高平哲郎は義弟(の弟)。 経歴[編集] 東京府高円寺生まれ。1947年東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)卒業。1955年、東京大学教養学部教養学科イギリス科卒業。1958年、同大学院比較文学比較文化修士課程修了。出版社の弘文堂に勤務し、谷川雁の評論集「原点が存在する」や「現代芸術論叢書」シリーズを企画、刊行。また同社から、師である島田

  • 大森荘蔵 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "大森荘蔵" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2018年4月) 大森 荘蔵(おおもり しょうぞう、1921年8月1日 - 1997年2月17日)は、日の哲学者。東京大学名誉教授。 物理学から哲学に転向し、科学における哲学的問題の検証を目指した。物心二元論を否定し、独特の一元論による哲学体系を確立。著書に『言語・知覚・世界』(1971年)、『時間と存在』(1994年)などがある。 岡山県生まれ。東京府立一中から第一高等学校理科乙類[1]を経て、1944年 東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1945年、海軍技術研究所三鷹実

  • 上野英信 - Wikipedia

    上野 英信(うえの えいしん、名:上野鋭之進、1923年(大正12年)8月7日 - 1987年(昭和62年)11月21日)記録文学作家。「時間を惜しむな、金を惜しむな、命を惜しむな」と言う姿勢を貫き[2]、炭鉱労働者の生きざまを描き続けた。 経歴[編集] 山口県吉敷郡井関村(阿知須町)で、父彦一、母ミチの7人兄弟の長男として生まれる[3]。小学校に上がる年に、父の転職により北九州の黒崎に移る[3]。1940年、旧制八幡中学を卒業して満州国建国大学へ進学する[4]。 1943年12月1日、学徒出陣により関東軍山砲兵第二十八連隊第五中隊へ入営。1945年8月6日、見習士官として船舶砲兵教導隊第一中隊付の時、広島市宇品において原爆投下に遭遇、被爆する[5]。復員後は建国大学の閉鎖に伴い、京都大学文学部支那文学科へ編入。青木正児に師事するも、1947年に中退[6]。 1948年1月上旬、奥海老津

  • 色川武大(阿佐田哲也) - Wikipedia

    色川 武大(いろかわ たけひろ、1929年〈昭和4年〉3月28日 - 1989年〈平成元年〉4月10日)は、日小説家、エッセイスト、雀士。筆名として阿佐田 哲也(あさだ てつや)ほか、井上 志摩夫(いのうえ しまお)、色川 武大(いろかわ ぶだい)、雀風子などを名乗った。阿佐田哲也名義では麻雀小説作家として知られる。 東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)矢来町生まれ。祖父の色川圀士は島津家庭尋常高等小学校校長を務めた文部官僚。分家筋に衆院議員の色川三郎兵衛がいる[2]。 父親の色川武夫は色川三中の弟・色川御蔭の長男・誠一の子で[3]、40代の若さで退役した海軍大佐であった。武大は父が44歳のときに初めて生まれた長男であった。父は何も仕事をせず、常に自宅におり、家族は軍人恩給で生活していた。また、父は子どもをしかる時は鞭をつかい、98歳の長命を保った。この父親との関係は、色川文学の大き

  • 今西錦司 - Wikipedia

    1933年3月 - 京都帝国大学理学部講師嘱託 1936年5月 - 京都帝国大学理学部講師 1938年 8月 - 京都帝国大学内蒙古学術調査隊 12月 - 京都探検地理学会 1939年6月 - 興亜民族生活科学研究所研究員 1941年(夏) - ポナペ島探検 1941-1942年頃 - 国防科学研究所 1942年 5月-7月 - 北部大興安嶺探検 京都高等蚕糸学校非常勤講師 1943年 - 民族学研究所嘱託 1944年 - (蒙古善隣協会)西北研究所所長 1948年4月 - 京都大学理学部講師(有給) 1950年4月 - 京都大学人文科学研究所講師 1952年8月 - マナスル踏査隊長 1955年5月 - 京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊隊長 1956年1月 - 日モンキーセンター設立 1958年2月 - 日モンキーセンターアフリカ類人猿学術調査隊隊長 1959年6月 - 京

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    shog0162
    shog0162 2008/04/08
    フラジャイル
  • 稲垣足穂 - Wikipedia

    稲垣 足穂(いながき たるほ[1]、1900年12月26日 - 1977年10月25日)は、日小説家。 1920年代(大正末)から1970年代(昭和後期)にかけて、抽象志向と飛行願望、メカニズム愛好、エロティシズム、天体とオブジェ[2]などをモチーフにした数々の作品を発表した。代表作は『一千一秒物語』、『少年愛の美学』など。 生涯[編集] 稲垣は1900年、大阪市船場に歯科医の次男として生まれた。7歳の頃から謡曲、仕舞を習う。小学生の時、祖父母のいる明石に移住し、神戸で育つ。1914年、関西学院普通部に入学。関西学院では今東光などと同級になった。小さいころから映画や飛行機などに魅了され、その経験をその後の作品に昇華させる。在学時に同人誌『飛行画報』を創刊。 1916年、夢だった飛行家を目指し上京。当時羽田で発足したばかりの「日飛行学校」の第一期生を志望するが、強度の近視のため飛行練習

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    shog0162 2008/04/08
    pとvとa 少年期のココア色の物語
  • 伊藤整 - Wikipedia

    伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。名:伊藤整(いとう ひとし)。 抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日人の発想の諸形式」「近代日における『愛』の虚偽」『日文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。 社団法人日文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日ペンクラブ副会長、財団法人日近代文学館理事長などを歴任した。日芸術院会員。位階は正五位。勲等は勲三等

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  • 井筒俊彦 - Wikipedia

    文学部志望だったが父の反対を受け、1931年4月慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級に加藤守雄や池田彌三郎がいた。しかし経済学の講義に興味なく、西脇順三郎教授を慕って、1934年4月、文学部英文科に転じる。 在学中、旧約聖書に関心を持ち、神田の夜学で小辻節三からヘブライ語を習う。さらに、夜学の先輩関根正雄と意気投合し、アラビア語の教科書をドイツから取り寄せて、関根と共にアラビア語を学ぶ。同時にロシア語や古典ギリシア語・ラテン語も学習。1度に10の言語を学んだ。 1937年に卒業後、直ちに慶應義塾大学文学部の助手となる。 彼は「新しい外国語を一つ習得する時は、その国の大使館のスタッフを自宅に下宿させた」という有名な伝説は「生きた人間とはやらない」と自ら否定している[3]が、アラビア語に関してはイスラーム専門家2名に長期間師事している。 アラビア語については自著『アラビア語入門』で完全に理解し

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    shog0162 2008/04/08
    河合先生が ふくみコーラン
  • イサム・ノグチ - Wikipedia

    イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス出身の彫刻家、造園家、作庭家、インテリアデザイナー、舞台芸術家。日系アメリカ人。日名は野口 勇(のぐち いさむ)。 略歴[編集] 1904年、日人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれる。1907年、ノグチが3歳の時に母レオニーと来日し、米次郎と同居する。そして米次郎は武田まつ子と結婚し、ノグチは野口勇として森村学園付属幼稚園に通園する。1年後に神奈川県茅ヶ崎市に転居して地元の小学校へ転入し、その年に母レオニーがノグチにとっては異父妹となるアイリスを出産する。1913年からは母の姓であるイサム・ギルモアを名乗り、横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ転入し、茅ヶ崎の自宅の新築設計を手伝うなど数々の建築作品に携わった。

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  • 池田三四郎 - Wikipedia

    池田 三四郎(いけだ さんしろう、1909年(明治42年)5月30日[1] - 1999年(平成11年)12月15日)は、日の木工家。 経歴[編集] 1909年、長野県松市に生まれる。旧制松中学校(現・長野県松深志高等学校)を経て、1932年、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)写真科卒業。 1938年、東京で建築写真業「三六工房」を始める。1944年、中央構材工業会社(後の松民芸家具)設立に参加[2]。 1948年、柳宗悦に師事し、民藝運動に参加。柳の「用の美」の思想を実践。飛騨山脈に自生するミズメ桜、欅などを用いて、松で指物師に受け継がれていた技術を生かす。その丈夫さは、「スクラップアンドビルド」の風潮に抵抗するもので、和家具にヨーロッパや李朝の家具の技術を取り入れた作品で知られる。 著書[編集] 「松民芸家具」 東峰書房 (昭和41年) 「信州の石仏」 東峰書房 (昭

  • 生田耕作 - Wikipedia

    『るさんちまん』(人文書院) 1975 『ダンディズム:栄光と悲惨』(中央公論社) 1980、中公文庫 1999 『黒い文学館』(中央公論社) 1981、中公文庫 2002 『紙魚巷談』(倒語社) 1984 『鴨川風雅集』(京都書院) 1990 『生田耕作評論集成 第一巻 超現実の方向へ』(奢霸都館) 1991 『無削除改訂版 バイロス画集』第Ⅰ・Ⅱ集(編集、奢霸都館) 1992 『生田耕作評論集成 第二巻 文人を偲ぶ』(奢霸都館) 1992 『生田耕作評論集成 第三巻 異端の群像』(奢霸都館) 1993 『卑怯者の天国 - 生田耕作発言集成』(人文書院) 1993 『フランスの愛書家たち』(編著、奢霸都館) 1993 『洛中洛外漢詩紀行』(坂井輝久と共著、人文書院) 1994 『クノップフの世紀:絵画と魔術』(奢霸都館) 1995 『生田耕作評論集成 第四巻 滅びの文学』(奢霸都館) 1

  • 猪谷六合雄 - Wikipedia

    千春とともに(1950年8月27日撮影) 猪谷 六合雄(いがや くにお、1890年5月5日 - 1986年1月10日)は、日の近代スキーの草分け的存在。旧制群馬県立館林中学校中退。三人目のの定子は日初の女性ジャンパーでもあった。 1890年5月5日 群馬県赤城山の赤城の猪谷旅館の長男として誕生 1904年 与謝野鉄幹、高村光太郎らが猪谷旅館に滞在。 1914年 スキーと出会う 1915年、志賀直哉が猪谷旅館に滞在、その依頼で山小屋を建てる。 1918年、ジャワ島に渡る 1920年、ジャワ島から帰る。猪谷旅館(のちにホテル赤城)の土地と建物を姉の大熊ちよに売却[1]。 1924年 樺太をスキーで走破 1925年 ジャンプを開始 1926年 結婚 1929年 国後島に移住 1931年 三人目の・サダとの間に長男猪谷千春誕生。三回の結婚で計9人の子をもうけた[1] 1933年 次男猪谷千

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