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上野英信 - Wikipedia
山口県吉敷郡井関村(阿知須町)で、父彦一、母ミチの7人兄弟の長男として生まれる[3]。小学校に上がる... 山口県吉敷郡井関村(阿知須町)で、父彦一、母ミチの7人兄弟の長男として生まれる[3]。小学校に上がる年に、父の転職により北九州の黒崎に移る[3]。1940年、旧制八幡中学を卒業して満州国建国大学へ進学する[4]。 1943年12月1日、学徒出陣により関東軍山砲兵第二十八連隊第五中隊へ入営。1945年8月6日、見習士官として船舶砲兵教導隊第一中隊付の時、広島市宇品において原爆投下に遭遇、被爆する[5]。復員後は建国大学の閉鎖に伴い、京都大学文学部支那文学科へ編入。青木正児に師事するも、1947年に中退[6]。 1948年1月上旬、奥海老津炭鉱で坑夫として働き始めたが、「学歴詐称」のかどで即時解雇される[注 1]。以後、筑豊炭田北端の日炭高松炭鉱第1坑で2年間、佐世保港外の三菱崎戸炭鉱で2年間、その後再び高松炭鉱第3坑で働く[7]。1953年、共産党員であった作家真鍋呉夫を坑内見学させたという