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歴史に関するshueiwakaのブックマーク (7)

  • 韓国でキビの料理跡?世界初検出 遺跡から出土の土器分析で - 共同通信

    shueiwaka
    shueiwaka 2017/09/05
    「韓国・麻田里遺跡(紀元前8~同6世紀ごろ)で出土した土器から、キビが加熱調理されたことを示す化合物」
  • ローマ時代の戦車レース、非常に珍しいモザイク画

    キプロスの考古学者たちが数年がかりで発掘したのは、およそ2000年前、ローマ時代の貴重な床モザイク画だ。(参考記事:「謎の古代モザイク画、秘められたユダヤ人への伝言」) 幅25メートルを超えるモザイク画に描かれているのは、ローマ時代の戦車レースの様子。「ヒッポドローム」と呼ばれる屋外の専用競技場で行われていて、馬や騎手の名前を表す古代ギリシャ語も添えられている。 このモザイク画は、紀元4世紀ごろの邸宅のギャラリーの一部だと考えられている。考古学者らは、ほんのわずかしか残されていないローマ時代のモザイク画の一つだと見ている。(参考記事:「古代シナゴーグで発見された“場違いな”もの」) モザイク画が見つかったのは、キプロスの首都ニコシアから22キロほど離れた場所にあるアカキという村だ。AP通信によると、1938年に村の農家が偶然、この邸宅の別の部分からモザイク画の一部を見つけた。それまでは長い

    ローマ時代の戦車レース、非常に珍しいモザイク画
    shueiwaka
    shueiwaka 2017/08/10
    「モザイク画が見つかったのは、キプロスの首都ニコシアから22キロほど離れた場所にあるアカキという村だ。AP通信によると、1938年に村の農家が偶然、この邸宅の別の部分からモザイク画の一部を見つけた。」
  • 3500年前のミイラ、1千体の人形など発掘 エジプト:朝日新聞デジタル

    エジプト南部ルクソールで、3500~3300年くらい前の古代エジプト新王国時代第18王朝期の墓が発掘されたと、エジプト考古省が18日発表した。ウセルハトという名の裁判官の墓とみられる。8体のミイラ、10の棺おけ、千を超す人形、木製のマスク、かめなどが見つかった。 発掘場所は、少年王ツタンカーメンの墓などで知られる「王家の谷」の近く。見つかった人形はミイラの形をした小さな像で、「ウシャブティ」と呼ばれる。死後の世界で死者に代わって働くために埋葬されるとされる。千体も見つかるのは珍しく、アナニ考古相は「非常に重要な発見だ」と語った。2部屋ある墓の一室を発掘したが、さらにミイラが見つかる可能性が高いという。 観光業が落ち込んでいるエジプトは、古代の遺物の発掘に力を入れている。新発見をアピールして観光客を呼び戻したい考えだ。(カイロ=翁長忠雄)

    3500年前のミイラ、1千体の人形など発掘 エジプト:朝日新聞デジタル
  • 勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル

    モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたってい止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、

    勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル
  • 個人まとめ.地図上からの旧道の見つけかた

    桜楽 @Our4k 僕が廃道を見つけるパターンは、大きく分けて4つ. 1.トンネル 2.ダム 3.橋 4.線形改良 それぞれに場合分けして、図も交えて書いていってみます #桜楽散歩 2016-10-02 18:32:24

    個人まとめ.地図上からの旧道の見つけかた
  • <Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が忘れてはいけない人」~若光(前編) | wowKorea(ワウコリア)

    666年のことである。朝鮮半島の高句麗(コグリョ)から外交使節が来日して、日の朝廷に依頼書を差し出した。彼らは、何のために日に来たのか。救援の軍勢を送ってほしいと頼みに来たのである。 ■高句麗の滅亡 7世紀の朝鮮半島。長く三国(新羅〔シルラ〕、百済〔ペクチェ〕、高句麗)が覇権を争っていたが、新羅は中国大陸の唐と連合して、660年に百済を滅ぼした。 矛先は次に高句麗に向けられ、新羅と唐は高句麗を挟み打ちにしようとしていた。 危機を感じた高句麗は、かねてより交流がある日に援軍を依頼にきた。 しかし、朝廷は応じなかった。 それも仕方がないことである。 日の水軍が、663年に白村江(はくそんこう)の戦いで新羅・唐の連合軍に大敗していたからだ。 高句麗を助けるどころか、新羅・唐の連合軍が日に攻めて来るのではないかとビクビクしていたのだ。高句麗の外交使節につれない返事をしたのも無理はなかった

    <Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が忘れてはいけない人」~若光(前編) | wowKorea(ワウコリア)
  • アイヌ民族から土地取り上げた→与えた 教科書記述変更:朝日新聞デジタル

    明治政府はアイヌ民族から土地を「取り上げ」たのか、それとも「与え」たのか。中学校で使う日文教出版(日文)の歴史教科書で、アイヌ民族政策を取り上げた記述の一部が4月から正反対に書き換わる。なぜなのか。 2010年度の教科書検定に合格し、現在使われている日文の歴史教科書は、こう記述している。 「政府は、1899年に北海道旧土人保護法を制定し、狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようにすすめました」 ところが、14年度の検定では… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。

    アイヌ民族から土地取り上げた→与えた 教科書記述変更:朝日新聞デジタル
    shueiwaka
    shueiwaka 2016/03/10
    「中学校で使う日本文教出版(日文)の歴史教科書で、アイヌ民族政策を取り上げた記述の一部が4月から正反対に書き換わる。なぜなのか」典型的な歴史修正。
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