ブックマーク / motidukisigeru.hatenablog.com (2)

  • 科学者とは自説を攻撃するものであるということ - motidukisigeru’s diary

    科学的な立証とは 定説が定説である所以は、先に書いたとおり、無数の批判・検証にさらされて、無数の論拠を持つことによる。 それらを、たった一個でチャラにするような銀の弾丸がある、とは、通常、考えにくい。 もしも、「この事実αさえ立証すれば、定説Aは崩れ去る」みたいなものがあれば、その事実αは既に何重にも検証、検討されているはずである。 トンデモと科学を分けるもの - 東浩紀の文章を批評する日記 先日のエントリーで、このように書いた。 科学というのは、自己批判によって成り立っている。科学において、説を立証したり強化したりする、ということは、それを様々な角度から批判することと同じである。 なので、科学者は新しい説を立証しようと思ったら、自分で自説を思い切り批判するところから始める。 想定されるあらゆる角度から「この説が正しかったら、ここはこうなるはずだけど、実際どうよ?」というのを自分で積み上げ

    科学者とは自説を攻撃するものであるということ - motidukisigeru’s diary
  • トンデモと科学を分けるもの - motidukisigeru’s diary

    定説と根拠 歴史学を含む科学においては、様々な定説が存在する。 通常、定説は、色々な角度から検証されている。 単純化していうなら、「定説A」を支える根拠は、「a1,a2,a3,a4」と一杯ある。 定説に対する反論 科学の基盤の一つは、自分自身を疑うことである。様々な基盤を相互批判し、それによって、より安定な基盤を作り上げる。 だから定説だから批判されないということはなく、むしろ、数々の批判に耐えて残ったのが定説である、と、言える。 なので定説を批判することは全くタブーではないが、そのためには手続きがある。 「定説Aだけど、根拠のa1の、このへんが怪しくない?」という問題提起と研究は大切であるし、常に行われている。 ただ、問題提起した時点では、a1が当に間違いかはわからない。 問題提起し、それが他の科学者によって様々に検証されることで、「あ、a1は確かに微妙かもね」となったり「a1のそのへ

    トンデモと科学を分けるもの - motidukisigeru’s diary
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