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ブックマーク / kasasora.hatenablog.com (44)

  • 薄暗い親たちの薄暗い心配 - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。小学生の娘も一時期、分散登校になった。今はフルで通学可能である。それでも子どもたちの活動は制限されているし、週末も遠出がしにくい。よほど仲の良い子でないとたがいの家の行き来にも遠慮してしまう。来た子にも「晩御飯たべていく?」というわけにはいかない。 それでわたしは、とくになにもない時間を娘と一緒に過ごすことが増えた。そうするとつくづく、娘は自分と似ていないと思うのである。 娘は小学五年生、社交的でスポーツが好きだ。興が乗るとアイドルの真似をしてダンスしてみせるのだけれど、これが驚くほどうまい。お友だちと踊っている姿はかわいい。子どもながらにファッションの好みが出てきて、あれこれコーディネートを工夫している。担任の先生によればクラスでもよくリーダーシップをとり、いろんな子と仲良しだということで、学校での集団生活によく適応し

    薄暗い親たちの薄暗い心配 - 傘をひらいて、空を
    solailo
    solailo 2021/12/15
  • かつてこの世界にあったバーという場所について - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。レストランは「よぶん」と「よぶんでない」の中間くらいの扱いで、なんとなく「まあちょっとはいいんじゃないか」という雰囲気になっている。この雰囲気というのがくせもので、根拠はないが従わないと我が身があやうい。そのこと自体がしんどい。疲れる。 疲れるが、それはそれとして、レストランに行けることは喜ばしい。僕は生活における飲の重要性がきわめて高いタイプの人間なのだ。稼ぎが上がってもエンゲル係数が下がらない。「やったー給料が上がったー、何くって何のもう」とか思ってしまうのだ。 そんなだから飲店が閉じた時期はつらかった。今でもけっこうつらい。というのも、休業を続ける店もあったし、そのまま閉店する店もあったからだ。幸い行きつけはみな生き残ってくれたが、まだ行っていない店はいわば僕の将来の希望なのだ。希望の目減りは人生の損失である。

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    solailo
    solailo 2020/10/27
  • お正月を許す - 傘をひらいて、空を

    元旦の昼、「東京の伯父さん」という役割を果たすために新幹線の切符を買う。 平均寿命の半分近くまで好き勝手に生きてきた。堅実な教育を受け、こつこつ勉強し、十八になって、好きな数学をやろうと思ったけれども、あれは完全に才能の世界で、僕にはそんなに才能がないこともすぐにわかったので、どうしようかなと思って、そのころコンピュータがインターネットにつながって、いわゆるITバブルというのが来て、それでプログラミングをやるようになった。時代の子というやつだなと思う。 みんながやっていることをやらなきゃいけないと思わないこともなかった。僕は男のからだをしていて、自分を男だと思って、それを疑ったこともないから、当時の感覚では女の子とつきあわなくてはいけないのだった。たまたま同級生に言い寄ってもらって、いやじゃないかなと思って、みんながするようなことをひととおりやってみたけれど、控えめに言ってぜんぜん楽しくな

    お正月を許す - 傘をひらいて、空を
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    solailo 2020/01/03
  • 学歴ロンダリング成功したんですね - 傘をひらいて、空を

    あ、じゃあ学歴ロンダリング成功したんすね。 誰かが私の背後でそう言った。その発言の直後、聞き覚えのある声がこたえた。は? ロンダリング? それって不正なカネの洗浄を指すことばですよね? わたしが不正な学歴を洗浄したとでも? 振り返ると聞き覚えのある声の主は私の顔見知りの他部署の後輩なのだった。私の勤務先では昼休みの時間は比較的フレキシブルで、「だいたい十二時から二時くらいの間に一時間とってね」という感じなのだけれど、そのどまんなかの十三時に社員堂に行くと、たいてい知っている人がいる。 すげえ、と私は思った。「学歴ロンダリング」という物言いもなんだかすごいが、言い返した後輩のせりふはもっとすごい。よくもまあ咄嗟にそこまで言えるものである。口調もいい。「おまえはばかか」とゴシック体で書かれているみたいな完璧な軽蔑のトーンで、ほとんど平坦ながら声はきれいに通り、役者がせりふを読んだようだった。

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    solailo
    solailo 2019/12/13
    “ 本ブログに掲載している短編はすべてフィクションであり、実在の人物とは関係ありません。商業メディアから依頼されて書きおろした短編についても同様です。実話ではなく、実話を名乗ったこともありません。”
  • 愛の永続性のなさに関する学習 - 傘をひらいて、空を

    甥っ子が駆けよってくる。生まれたときから毎週のように面倒をみていた可愛い甥である。現在三歳半だ。わたしは両手をひろげてかがむ。いつものように。すると甥はフルスイングでわたしの頬を平手打ちした。それからわたしに抱きついて泣いた。 なんだ、これは。 甥はわたしにしがみついている。甥の母親であるわたしの姉が叱りつけてもろくに聞いていない。びっくりしていると、甥は突然、夢からさめたように泣き止み、ふいとわたしのそばを離れた。姉が急いで甥を追いかけてつかまえた。 姉はとても正しい人間だ。わたしのような要領の良い人間から見るとときどき可哀想になるくらい、正しい人である。だから悪いことをした息子にあいまいな措置を講じることはない。子どもがわかろうがわかるまいが、低いフラットな声でひたすら理詰めにする。「何が悪かったか」「自分が悪かったと理解したか」「それに基づく謝罪をする気はあるか」という順番で詰める。

    愛の永続性のなさに関する学習 - 傘をひらいて、空を
    solailo
    solailo 2019/11/18
  • 劇場から出ない - 傘をひらいて、空を

    だって仲良くなって何度かおたがいの部屋に泊まった相手なら、部屋の中を下着でうろうろするものでしょ。 私がそう言うと彼女は完全に沈黙し、それから、ほう、とつぶやいた。そのつるりとしたひたいに「保留」と書いてあるかのようだ。インテリジェントな人間によくあることだけれど、相手の意見を言下に否定することを下品だと考えているのだろう。 それはちがうと思うの?私はそのように訊く。彼女は慎重に首をかたむけ、そう、うん、えっと、そう思う、とこたえる。私は考えて、言う。お行儀がよい人なら、恋人の部屋にいても、ちゃんと部屋着を着るんだろうね、あるいは子どもができて、教育上の理由で部屋着を着てすごすのでしょう。彼女はますます慎重なようすで、そうかもしれない、と言う。 部屋着じゃないのだ。私はそう判断して確認する。つまり眠るまでは街着を着ているわけだ、お化粧も落とさない、おたがいにきちんとしている、それがどちらか

    劇場から出ない - 傘をひらいて、空を
    solailo
    solailo 2019/09/03
  • このタイトルちょっと高尚なんで変えてもらっていいですかね - 傘をひらいて、空を

    出版市場は実は縮小していない。出版されるの数は増えている。大ヒットが出にくい、書き手と出版点数の増加でパイが小さくなって専業作家が成立しにくい、作家以外の職も担い手が分散している、そういう状態である。 わたしの職能は雑誌編集、単行企画、ライティング。特技は特急テープ起こしと他人の原稿の校閲。さる老舗出版社の専業校閲さんから「校閲部門希望で入社試験を受けてもいい」と褒めてもらったことがある(誇らしい)。一緒に育った妹に言わせれば、「お姉ちゃんはちっちゃいときから、字が書いてある紙の束があればだいたいOKなんだよね」とのことである。たぶん死ぬまでそうなんだと思う。 勤務先に大きな不満があったのではない。それでもわたしは十数年つとめた出版社をやめた。会社員生活よりフリーランスのほうが(たとえ収入が激減しても)総合的に幸福な人生を送れると判断したからだ。わたしは元勤務先やつきあいのあった出版社

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    solailo 2019/09/03
  • 大丈夫って言いたくなかった - 傘をひらいて、空を

    ゆうべも揺れたねと彼女は言った。ねー、怖かったあ、と私はこたえた。眠ってても揺れた気がして起きちゃうし、ほんと、つらい。 彼女は一瞬の、ずいぶんと重量のある沈黙ののち、表情のない声を出した。サヤカあなたなんでそんな簡単につらいって言えるの。私はいささか仰天してとりあえず謝った。彼女はひゅっと音をたてて息を吸い、無表情のままそれを少しずつ吐き、ううん、謝ることないの、と言った。 大丈夫ってみんな訊くでしょう。彼女は言う。地震直後は、それがうれしかった。会社から歩いて家に着いて、家族もけがしてなくて、とてもほっとして、よろこんで返事した。でも地震が続いて、電気が止まって、仕事にも少しずつ支障が出てきて、買いにくいものがあって、みんな、また訊いてくれるの。心配して声かけて、メールをくれる。大丈夫って私、言う、メールを書く、大丈夫平気大丈夫です大丈夫です大丈夫です、 私はおろおろしてカフェの椅子を

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    solailo 2019/05/15
  • 今じゃなければ、さよならだ - 傘をひらいて、空を

    子どもが泣いている。大人たちは笑っている。子どもは三歳半である。身も世もない、それはそれは悲しそうな泣きぶりである。 女友だちが寄り集まって小さい子たちを連れてピクニックに出かけた帰り、電車に乗って順次解散しているところである。いちばん小さな三歳半の子は、そのほかの誰と別れるときにもバイバイと言って平気で手を振っていたのに、ひとりだけとても好きな女の子がいて、ぜったいにバイバイしたくないと泣いているのだった。 いくら泣いても大人たちは笑っててきとうにごまかして彼の手を引いて歩く。バイバイと言わなければ別れは来ないと彼は思っていたのかもしれないけれど、もちろんそんなことはない。いなくなる。さっと手を振って泣いている彼を放ってあっというまにいなくなる。 彼はまだ泣いている。彼は彼女とどうしても別れたくなかったのだ。子どもに未来の感覚は薄い。今でなければないのと同じである。だからどれほど「またね

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    solailo 2019/05/15
  • 知らないなんて許せない - 傘をひらいて、空を

    ソーシャルメディアをぜんぶ閉じた。ものを書いたときの通知に使用するSNSアカウントを一つ残したが、そこでも一切の相互性を排除した。誰もフォローしない。リプライはしないし、見ない。シェアや「いいね」はもとよりほとんどしないが、徹底してゼロにする。 インターネットで文章を書いて十数年になる。書いているのはフィクション、それから人が書いたフィクションに対する感想文である。ふだんはコメント欄のないブログで延々と書いている。たまに注文原稿の依頼が来る。注文に沿うように努力をするが、いつも注文どおりに書けるのではないし(あきらかに書けない内容の依頼だと辞退する)、しょっちゅう依頼があるのでもない。だから私はプロではない。基的には自分のために無料の文章を大量に書いている愉快なアマチュアである。 私は社交をしないのではない。インターネットでもいい文章を見たら賞賛の感想文を書いてアップロードして人にUR

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    solailo 2019/05/15
  • 一級の奴隷 - 傘をひらいて、空を

    なんでずうっと体育会系だったの、と私は訊いてみた。命令とかされてつらい思いするじゃない、なんか、怒鳴られたりして。 彼はしばらく考え、練習すればうまくなるのって気持ちいいから、とこたえた。 ほかにすることないし、きつくても別にいいやって。いや、それは二番目以下の原因か、一番目はさ、うん、俺には命令する誰かが必要だったからだな。 私は感心した。彼はつまらなそうに続ける。 子どもには、親はなんだかすごく見える。住む家もう物もみんな手に入れててすげえと思う。でも中学生くらいになれば、親はそんなにたいしたことないってわかる。じゃあなにがたいしたことあるかって考えたら、なんか誰かの命令きいてんだよ、親も。まず母親は父親の命令を聞いてる。父親は会社の命令を聞いてる。で、金もらってくる。 私はうなずく。自覚的な中学生だ。彼は眉間に皺を立てて踵で何度か床を打ち、それから言う。 金くれる連中が何をほしいか

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    solailo 2019/03/07
  • 彼の優等生 - 傘をひらいて、空を

    はどうですかと彼が訊くので、私は心底から絶賛した。あんなに有能な人はそういません、彼女はうちの部署のエースです、準備は周到で進行は計画的、アウトプットにムラがない、もう完璧です。 彼ははずかしそうに、いやあ家ではぜんぜんそんなことないんですけどね、家事は手抜きですしね、子どもだってよくおばあちゃんに預けてますよ、と言う。フルタイムの仕事で優秀な成果をあげてなおかつ家のこともきっちりこなしている段階でものすごい、と私は思う。 私など子どもも育てていないし、休日に有意義なことをしているわけでもない。どうかすると家から出ない。掃除が面倒なあまり、部屋に物がない(なければ散らからないから)。料理は嫌いではないけれども、面倒になるとしない。大鍋にいっぱいのカレーやおでんをつくって三日三晩べ続けたりもする。彼女は絶対にそんなことしないと思う。 私は初対面の男性が気を悪くしないことばを選んでその思い

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    solailo 2019/03/07
  • 影を買う - 傘をひらいて、空を

    今年のクリスマスの準備は手間取った。 わたしの家のクリスマスは二十四日の前の週末だ。わたしが小さいときからそう決まっている。土日のどちらでもいいんだけれど、母が買い出しや料理をする時間を確保するためか、日曜日が多かった。父はだいたいいなかった。父は仕事が忙しいのだということだった。小さいときからそうだったから、いなくてかまわない。 母は三十四歳で死んだ。わたしが八つ、妹が六つ、弟が二つのときだった。それから三年間、お手伝いの人がおおまかな家事と弟のベビーシッターをして、それから、毎月のように叔母が来て、家のことをした。叔母は母の妹で、そんなに似た姉妹ではなかったけれど、それでも血がつながっていて、年の頃が近いから、雰囲気はそれなりに、ちゃんとしたおうちみたいになった。 母が死んで四年目に叔母は結婚した。父はわたしに言った。もうおばさんにいろいろお願いするわけにはいかない。よその家の人になる

    影を買う - 傘をひらいて、空を
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    solailo 2019/03/07
  • 敗北を売る - 傘をひらいて、空を

    この二、三年、Youtubeで将棋の解説をしている。わりとまじめな解説なんだけど、ノリは軽くて、最終的には「でも僕、負けた人間なんで」「プロになれなかった人間の予測だ、あてにすんな」みたいな感じで笑ってもらう。いい小遣い稼ぎになっている。インターネットに顔を出してべらべらしゃべるのは旧世代の気にくわないらしく、親が家族のグループLINEで文句を言う。でも僕はもうとうに自分をわせているし、二十代も後半だ。好きにやる。好きにしかやったこと、ないけど、小さいころからしてたことは、あまりに好きすぎて、もはや好きじゃなかった。僕の人生はとうにピークを過ぎた。だからせいぜい賑やかにしたい。おもしろおかしく笑って過ごしたい。僕の余生はものすごく長いのだろうから。 井の中の蛙という言葉があるけれど、自分がどのくらいの井戸の、あるいは海の中にいるかは、泳いでみないとわからない。僕は保育園に置いてあった「こ

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    solailo 2019/03/07
  • 教養がないとはどのようなことか - 傘をひらいて、空を

    私の勤務先では人事部だけが採用活動をするのではなくて、現場の人間が面接を担当する。面接官は通常二人組で、このたび私を指名したのが篠塚さんである。篠塚さんは言う。僕、教養がないんで、面接でその手の話になったときにはよろしくです。 篠塚さんは私よりいくらか年長の男性で、職務上の能力がとても高い。専門知識を常時アップデートしている。ものの言い方が率直すぎて誤解を招くことがあるが、内容はおおむね正論である。基的に誰にでも親切で骨惜しみをしない。イギリスで修士号を取ってから就職したと聞いている。 教養とはこの場合、何のことでしょうか。私が訊くと、篠塚さんは明快に(だいたい明快な人物である)答えた。文学とか芸術とかです。マキノさんそういうの好きでしょ。 私はたしかに小説を読み美術館に行くが、それを教養と呼ぶのか。好きなものを好きなように摂取しているだけではないのか。篠塚さんは言う。僕、仕事関係以外の

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    solailo 2019/02/18
  • わたしの仕事 - 傘をひらいて、空を

    夫の転勤にともなって会社員を辞めたあと、大学で専攻していた分野に関連するライターを始めた。独身のころに何度か書いたことがあって、運良く継続的な原稿の依頼をもらえたのだ。ありがたいことにその後、別の媒体からも同様のお話があったけれども、子どもが小さいうちは受注量を抑えていた。家のこともしなければならないし。 わたしが書いている分野では、昼間に会える取材対象者が多く、文献調査の比率も高く、いつも外に出ていなければいけないのではなかった。そうして書くときは家にいたから、パートよりは自由度が高い。わたしは夫にそのように説明し、夫も了承していた。そういう内職ならやってもいいと。主婦にも道楽のひとつくらいあっていいし、それが小銭になるならきみの気も晴れるだろうからと。 わたしも夫も子どもがほしかった。結婚してすぐ、たてつづけにふたりできて、とても運が良かった。よかったけれども、ひとりで年子を育てるのは

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    solailo 2018/12/20
  • 蛮勇と退屈 - 傘をひらいて、空を

    職場には男しかいないから、居心地はいいよ、えっと、要するに、ホモソーシャルなんだけどね。 僕がそう言うと目の前の女が黒いマニキュアを塗った爪をひらひらさせてでかい声で笑った。そして宣言した。なんだ、自覚してるんじゃん、よっ、このホモソ野郎。 すごいせりふである。完全に罵倒だ。そりゃ、僕が自分で言ったことの引き写しなんだけど、自覚がある人間ならののしってもいいというものではない。というか、自覚があることを示すのは非難を未然に防ぐためなのに、そういう自衛の作法がぜんぜん通用しないのだ。社会性に問題がある。 いい年をして奇抜な髪型、垂れ目のちょっと変な顔、ひじきみたいなマスカラ、いつも踵のついた。とてもよく笑う。誰であっても女性に対しては少し格好つけてしまうところが僕にはあるんだけど、この人はそういう意味で楽な相手だ。女だけど、恋愛対象が女だけなのだ。色恋沙汰に陥る可能性がゼロだとわかっている

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    solailo 2018/05/22
  • 嘘つきの子ども - 傘をひらいて、空を

    母の前で僕は嘘つきになる。母が年をとって弱ってだめになって問題を起こすから、ではない。昔から僕は、親の前で嘘をついていた。 僕の自己認識はとうの昔に「自分の両親の息子」であるより「自分の娘の父親」である。しかし子は成長する。じきに成人する娘に、親というものは、そりゃあいたほうがいいだろうけれども、いなくたってまあどうにかなる程度のものでしかない(そうでなければこちらが困る)。だからそろそろ年老いた両親の保護者としての役割のほうが重要になって、僕はふたたび「人の親」より「人の子」としての認識を強めなくてはならないのだろう。そう思って、僕はため息をつく。親。このやっかいなもの。 僕は当時としては遅くにできた子で、両親はいま八十代。平均的には定年後に直面する親の介護問題が十年早くやってきたような具合だ。両親は地方に、僕は自分の家族と東京に住んでいる。父親は足腰がやられてろくに外出もできなくなった

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    solailo 2018/03/14
  • 弱者の様式 - 傘をひらいて、空を

    槙野さんは相変わらずサムライだなあと言って彼は笑った。私は最低限の愛想をいやいやながらに添加した顔を傾けた。私はこの人を好きではなかった。ふだんはたいした接点がなく、親しくもないのだから、崩れたことばを発すべきではない。そう思って、口を利くたび不快を感じた。ふだん一緒に仕事をして信頼している年かさの上長が敬語を遣わないのとはわけがちがう。 彼は私を査定し、取り替えの利くものとして取り扱う。そんなのはかまわない。だってここは会社だ。私は私の能力と労働を売り、彼はそれを審査する。そうした間柄には表面上の礼儀正しさが必要で、でも彼は私に対してそんなコストの必要性を認めるつもりはないらしかった。所有物に対するようなある種のなれなれしさを彼は示していた。猿を見る猿回しの目。 サムライだよ、だって、と彼は背筋を曲げたまま続ける。昔からときどきさ、三年に一度くらいかな、抗議っぽいことするでしょ。これは適

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    solailo 2018/01/17
  • 悪意の不在と引けない椅子 - 傘をひらいて、空を

    擦過音に振りかえると私のデスクの後ろの棚が取り除かれていた。取り除いているのは総務の伊元さんだった。伊元さんは長身でしっかりとした骨格を持ち、ひと一倍の腕力があるように見えるけれども、棚にはまだものが入っているし、動かしているのがひとりなので少しあぶなっかしい。 私は立ち上がり、声かけてくださったらいいのにと言いながら棚の反対側を持つ。伊元さんはたいそう恐縮し、お礼を言い、棚を台車の上に載せた。ここ広くなりましたねと私が言うと、代わりのが来ますよと伊元さんは言う。 ほどなく「代わりの」が到着し、私は少しのあいだ口を利けない。だってそれはどう見ても大きすぎるからだ。伊元さんが位置を指示し、若い男性社員が二人でそれを据えた。片方の端は部屋の端とぴったり合い、もう片方の端は私の椅子の後ろにある。 椅子に座ってみてくださいと伊元さんが言う。私は彼に笑いかける。彼のことはよく知らない。私にジョークを

    悪意の不在と引けない椅子 - 傘をひらいて、空を
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    solailo 2018/01/17