「ソ連が満洲に侵攻した夏」P241-243より引用。 評すれば、作戦上の予定がどうであったにせよ、総司令部の過早の通化移動は有害無益であった、というほかはない。新京付近の居留民が、われわれを置き去りにして総司令部が”逃げた”と怨むのは当然である。そして戦後、満洲各地にあって生命からがら逃げのびて、帰国することのできた人びとがこの事実を知り、唇を震わせて怒ったのも無理はない。全満各地に届住していた日本人は、だれもが関東軍が守ってくれるものと信じ、関東軍の庇護を唯一の頼りにしていたからである。それがさっさと「退却」したなどとは、考えてみもしなかった。 ヒトラー自決後の、敗亡のドイツの総指揮をまかされた海軍元帥デーニッツの回想録『10年と20日間』を想起せざるをえない。すでにドイツの敗北を予見していたかれは、海軍総司令官の権限で、降伏の四カ月も前から水上艦艇の全部を、東部ドイツからの難民や将兵を