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ブックマーク / www.tapthepop.net (49)

  • 無双のバンド〜The Doorsの真実、彼らが開いた扉とは?

    長いロックンロールの歴史において、まさに“無双”の存在として多くのアーティストに影響を与え続けてきたThe Doors(ドアーズ)が、1993年にロックの殿堂入り(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)を果たした。 彼らは60年代の後半にサンフランシスコを中心に台頭したピッピームーブメント(ジェファーソン・エアプレーン、グレイトフル・デッドなどの一派にも加担しなかったし、ブリティッシュ・インヴェイジョン(ビートルズやストーンズやザ・フーが起こしたイギリス発の音楽旋風)にも影響されていなかった。 彼らにとって拠地だったロサンゼルスにおいてさえ、当時“主流”だったママス&パパスやバーズなどのフォークロックとは“別世界の住人”と考えられていた。 そう、ドアーズはいかなるムーブメントからも超絶していたのだ。 若者達が音楽を通じて“高い理想”を掲げてい

    無双のバンド〜The Doorsの真実、彼らが開いた扉とは?
  • JAMAICA 1982──変化の最中にあったレゲエ・シーンの熱気と、ゲットーの暮らしぶりを記録した写真集

    Home TAP the BOOK JAMAICA 1982──変化の最中にあったレゲエ・シーンの熱気と、ゲットーの暮らしぶりを記録した写真集 - TAP the POP 真昼のキングストンは、かんかん照りで、うだるような暑い日が続いていた。行き交う黒人たちの影は、足下で饅頭のように丸まり、伸びたり縮んだりしながら、ゆらゆらと通り過ぎていった。 世界各地の音楽家たちを数多く撮影してきた写真家であり、また音楽評論家としても健筆を奮う、石田昌隆。彼はプロとしてデビューする以前、24歳の時にジャマイカへと旅立った。53日間の滞在で撮影した写真と、当時を振り返る文章で構成された写真集が『JAMAICA 1982』だ。 写真家・吉田ルイ子がニューヨークのハーレム地区で1962年から暮らした日々を綴った『ハーレムの熱い日々』、ニューヨークのスパニッシュ・ハーレム地区の住人たちを撮影したブルース・デビッ

    JAMAICA 1982──変化の最中にあったレゲエ・シーンの熱気と、ゲットーの暮らしぶりを記録した写真集
  • ソウル・オブ・マン〜ヴィム・ヴェンダース監督が捉えた3人の伝説のブルーズマン

    『ソウル・オブ・マン』(The Soul Of A Man/2003/ヴィム・ヴェンダース監督) 2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ソウル・オブ・マン』(The Soul Of A Man/ヴィム・ヴェンダース監督)。ヴェンダースお気に入りの3人のブルーズマンの姿を通じて、その真髄に迫っていく物語だ。 1977年。NASAが打ち上げる宇宙探査船ボイジャーは、太陽系外で遭遇するかもしれない“生物”のために、地球の挨拶言葉や音が録音されたレコードも一緒に連れて行くことにした。この時、バッハやベートーヴェ

    ソウル・オブ・マン〜ヴィム・ヴェンダース監督が捉えた3人の伝説のブルーズマン
  • フィル・ライノット〜英雄になった褐色のアイルランド人ロッカー

    シン・リジィとフィル・ライノットのアイルランド いわゆるブリティッシュ・ハード・ロックの代表格とされながらも、アイルランド・スピリットを内に秘めた印象的な楽曲の数々で、1970年代にひときわ強い個性を放ったバンド──シン・リジィ。 その中心人物フィル・ライノットは、1949年にアイルランド人の母とブラジル人の父の間に生まれた。フィルは幼少期から思春期まで、自らの褐色の肌に対する差別意識と向き合いながら、次第にアイルランド人としてのアイデンティティを確立したという。ロックが若い世代に対して重要な意味を持ち始めた1960年代。彼もそんな時代の空気を吸い込んでいたに違いない。 1970年にシン・リジィはデビューするが、初ヒットは1973年にUKチャートの6位まで上昇した「Whiskey In The Jar」。フィルはダブリン周辺のフォーク・ミュージシャンたちと交友していたというから、この有名な

    フィル・ライノット〜英雄になった褐色のアイルランド人ロッカー
  • リオデジャネイロを舞台にした神話絵巻 「黒いオルフェ」

    実は「古事記」の中にもあったのである。「古事記」は、日で最初に完成した文学作品といわれ、その時代を生きた人々が使っていた日語で書かれていて、原典は解読することができない。それが池澤夏樹さんの個人編集、「日文学全集」の第一巻として編まれることによって、誰にでも読めるようになった。 どこか読みすごしていた物語をたどるうち、ふと手がとまったのは、イザナキとイザナミのエピソード。 「古事記」の前半、イザナキは、に会おうと死者の国である黄泉国(よみの国)まで追いかけてゆくのだが、「私を見ないで」というとの約束を破ってしまう。 このプロットにはどこか覚えがある。 それがなにゆえあって、はるか遠い東洋の島国である日に・・と思ううち、記憶はたちまちワープして、昔に観た一映画へ。 見るな、ふりむくな。そう禁じられても破ってしまう普遍のタブー。 これはそっくり、映画「黒いオルフェ」(1959年

    リオデジャネイロを舞台にした神話絵巻 「黒いオルフェ」
  • メンバーたっての希望で実現したレッド・ツェッペリンの広島公演

    「1971年、広島を最初に訪れた時のことは、心に強く訴えかける体験だった。 そして44年ぶりに広島に戻ることは、同じ様に心に響くものになると私は強く思っている」 2015年7月、ジミー・ペイジは自身のアルバムをプロモーションするために来日した際、広島へと足を運んだ。 そのときの会見で語ったのが上の言葉だ。 彼がはじめて広島を訪れたのは、レッド・ツェッペリンにとっての初来日公演が実現した1971年のことだ。 ツアーの行程は東京で2回、大阪で2回、そしてメンバーの希望によって選ばれた広島だった。 9月の23日と24日に武道館でのコンサートを大成功させたメンバーたちは広島へと移動すると、27日の朝に原爆ドームと原爆資料館を訪れた。 同行していた音楽評論家の湯川れい子氏によれば、彼らは目を腫らしながら「人間はここまで残酷なことをするのか。そこまで最低の生き物だとは認めたくない。こんな無惨なことをす

    メンバーたっての希望で実現したレッド・ツェッペリンの広島公演
  • ミステリー・トレイン〜ジョー・ストラマーや工藤夕貴らが出演したジャームッシュ映画

    『ミステリー・トレイン』(MYSTERY TRAIN/1989) 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の後、一通の奇妙な手紙がジム・ジャームッシュの手元に届いた。そこには「あなたの映画が好きだ。一緒にビールを飲もう。私は東京に住んでいる」と書いてあった。もしNYに来られるならOKだよと返事すると、10日後、当に人がやって来た。 JVCの平田国二郎はジャームッシュの新作のためのプロデューサーになった。監督に映画創作のための自由を保証し、製作費もバックアップしたこの作品は、『ミステリー・トレイン』(MYSTERY TRAIN/1989)と名付けられて1989年のカンヌ映画祭で初披露された。 いつも一緒に仕事をしたいと思ってる俳優やミュージシャンたちのことを考え、脚作りをするというジャームッシュは、今回も様々な顔ぶれを思い浮かべた。ジョー・ストラマー、スクリーミン・ジェイ・ホーキンス、ニコ

    ミステリー・トレイン〜ジョー・ストラマーや工藤夕貴らが出演したジャームッシュ映画
  • キッズ・アー・オールライト〜 ロック史上最高の大騒音ライヴバンドThe Whoの軌跡

    『キッズ・アー・オールライト』(The Kids Are Alright/1979) 風車のように腕を回しながらギターを弾くピート・タウンゼント。 まるで津波のように汗を飛ばしながらドラムセットを叩きまくるキース・ムーン。 その横で驚異的なテクニックで黙々とプレイするジョン・エントウィッスル。 ソウルマンと聖歌隊の少年が同時に歌っているかのようなロジャー・ダルトリー。 愛に支配された偽善者、とんでもない狂人、ロマンティスト、踊れないタフ・ガイの4人──英国が生んだ偉大なるバンドThe Who。 1964年のデビューから数年間続いた「My Generation」を代表とするモッズバンド時代。 あるいは知的な文学性に貫かれた『Tommy』や『Quadrophenia』といったロック・オペラと映画作品。 モンタレー、ウッドストック、ワイト島、リーズなどで魅せてくれた史上最高の大音量ライヴバンドと

    キッズ・アー・オールライト〜 ロック史上最高の大騒音ライヴバンドThe Whoの軌跡
  • ロンドンのリハーサル・ルームでトシ矢嶋が聴いたクラッシュの「ロンドン・コーリング」

    カメラマンで音楽ライターでもあるトシ矢嶋は、サディスティック・ミカ・バンドを率いてイギリス・ツアーを行った加藤和彦と出会ったことから、彼の後押しで1975年にイギリスに渡った。 そして台頭してきたパンクとニューウェイブをはじめ、UKミュージック・シーンに起こっていたリアルタイムの動きを、現地からの最新のロンドン情報として雑誌やラジオを通じて日に発信していった。 その当時の写真とコラムをまとめた作品集『LONDON RHAPSODY』のなかには、初めてクラッシュに会ったときのエピソードが紹介されている。 <LONDON RHAPSODY公式ページ>https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3118311001/ 1979年6月25日の夕方、ロンドンのビクトリア駅に近いピムリコと呼ばれる地区にあったリハーサル・ルームで、トシ矢嶋はザ・クラッシ

    ロンドンのリハーサル・ルームでトシ矢嶋が聴いたクラッシュの「ロンドン・コーリング」
  • パティ・スミスとロバート・メイプルソープ〜ニューヨークでの下積み生活、 “歌うこと”を意識した運命の一曲

    ──1967年の夏、パティ・スミス(当時20歳)は幼い頃から育ったニュージャージーの片田舎を後にして単身ニューヨークへと旅立った。 わずかな現金(16ドル)を握りしめて、何のあてもないまま…逃げるように、祈るように、そして新しい未来を求めて。 当時のアメリカと云えば、ヒッピー文化が花開き、フラワーチルドレンが闊歩した「サマー・オブ・ラヴ」の時代である。そして「スチューデントパワー」や「ブラックパワー」が吹き荒れた政治の季節でもあった。 「それは、コルトレーンが亡くなった夏だった。フラワーチルドレンたちが手のひらを広げた夏だった。そして、私がロバート・メイプルソープに出会った夏だった。」 彼女はニューヨークに着いて間もない頃、ウェイトレスや書店員などの職を転々とし、ある時はホームレス同様の極貧生活をしていたという。 そんな中、ある日彼女は一先ず泊めてもらうために知人のアパートを訪ねた。 とこ

    パティ・スミスとロバート・メイプルソープ〜ニューヨークでの下積み生活、 “歌うこと”を意識した運命の一曲
  • ロッカーズ〜『ハーダー・ゼイ・カム』に続くジャマイカとレゲエを描いた名作

    『ロッカーズ』(Rockers/1978) ジャマイカの心臓の鼓動をとらえたレベル・ミュージック=レゲエが、世界に放たれたのは1972年のこと。初の自国製作映画『ハーダー・ゼイ・カム』と、翌年にリリースされることになるザ・ウェイラーズの『Catch a Fire』が録音されたのだ。 ローリング・ストーンズもエリック・クラプトンもスティーヴィー・ワンダーも、この新しい音楽に魅了された。そして映画に主演してサウンドトラックも歌ったジミー・クリフや、ラスタファリアニズムやドレッドロックスを広めたボブ・マーリィらが有名になった。また、イギリスのロンドンやバーミンガムではジャマイカ移民たちをルーツとしたブリティッシュ・レゲエ・シーンが活発化。同時期のパンクやニュー・ウェイヴ(例えばザ・クラッシュやブロンデイやポリスなど)にもその影響は浸透していった。 かつてアメリカのR&Bやソウルに影響を受けながら

    ロッカーズ〜『ハーダー・ゼイ・カム』に続くジャマイカとレゲエを描いた名作
  • オジー・オズボーン生い立ち〜労働者階級の貧しい暮らし、盗みに手を染める日々、人生を変えたビートルズ

    Home TAP the NEWS オジー・オズボーン生い立ち〜労働者階級の貧しい暮らし、盗みに手を染める日々、人生を変えたビートルズ - TAP the POP メタル界のレジェント的存在として絶大な人気を誇る歌手オジー・オズボーン。 幾度もの変遷を経ながら…約50年に渡って活動した英国を代表するハードロックバンド、ブラック・サバスの創設メンバー(在籍期1968年-1977年、1978年-1979年、1985年、1997年-2017年)としても知られる男である。 今回は彼の生い立ちをご紹介します。 「俺は30年もの間、酒と麻薬という致命的な組み合わせを摂取し続けてきた。自殺しようとして大量に薬を飲んだこともある。性感染症にかかったことも、四輪バイクの事故で命を落としかけたこともある。悪事を働いたこともある。いつも“闇”に引き寄せられていく…それが俺だった。だけど俺は悪魔ではない。俺はただ

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  • ジーン・シモンズ少年時代①〜ナチスに迫害された母、イスラエルでの極貧生活、カウボーイへの憧れ

    ジーン・シモンズ。 70年代に一世を風靡したハードロックバンドKISSのベーシスト兼ヴォーカリストとして活躍してきた“ロック界の怪人”だ。 1974年にデビューして以来、KISSの楽曲の作詞・作曲を多く担当し、コンサートにおいては火吹きや血を吐くパフォーマンスなど、演出面でも大きく貢献してきた才人としても知られている。 その他、プロデューサーや俳優としても活動の場を広げながら、実業家としての顔も持っている。 KISSのライセンス商品、権利管理、分配などを担当しており、他にも富裕層顧客を対象にした保険会社など数々の事業を手がけているという。 ちなみに(現在までに)KISSのライセンス商品は約3000点あり、コンドームから棺桶まで揃っているというから驚きだ。 今回は、そんな彼が少年時代にどんな日々を送っていたのか?その生い立ちからロックに目覚めるまでを「前編」「後編」に渡ってご紹介します。 1

    ジーン・シモンズ少年時代①〜ナチスに迫害された母、イスラエルでの極貧生活、カウボーイへの憧れ
    stonedlove
    stonedlove 2019/02/17
    ジーン・シモンズ(キッス)「母はハンガリーで育った。14歳の時に強制収容所に送られ、家族、親戚のほとんどがガス室に放り込まれてゆく様を目の当たりにしたらしい」
  • フレディ・マーキュリーの生い立ち〜親元を離れて通った寄宿学校、12歳で結成したロックンロールバンド

    Home TAP the NEWS フレディ・マーキュリーの生い立ち〜親元を離れて通った寄宿学校、12歳で結成したロックンロールバンド - TAP the POP 1946年9月5日木曜日、彼は当時イギリスの保護国だったタンザニアにあるザンジバル島の国立病院で生まれた。 名ファルーク・バルサラとしてこの世に降り立った。 彼の名字のバルサラは、インド南部のグジャラート州バルサードという町に由来するもの。 インド生まれの両親は、ペルシャ系インド人でゾロアスター教徒(パールシー)だった。 植民地政府のオフィスで会計係として働いていた彼の父親が、仕事を続けるためにとザンジバル島に移ったのだ。 アフリカの東海岸沿いの赤道直下に浮かぶその島は、現在は欧州からのハネムーン客に人気のスポットとして知られる。 何世紀にも渡ってイギリス人、オランダ人、ポルトガル人、中国人、マレー人、アラブ人、ペルシャ人、

    フレディ・マーキュリーの生い立ち〜親元を離れて通った寄宿学校、12歳で結成したロックンロールバンド
  • ゴッドファーザー&サン〜BLUESがルーツ(根)でそれ以外はすべてフルーツ(果実)だ

    『ゴッドファーザー&サン』(Godfathers And Sons/2003/マーク・レヴィン監督) 2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でも音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ゴッドファーザー&サン』(Godfathers And Sons/マーク・レヴィン監督)。マディ・ウォーターズを親玉とするシカゴ・ブルーズの全盛期とその舞台となったポーランド移民が設立したチェス・レコードの一族ドラマを通じて、ブルーズとヒップホップの画期的なコラボレーションが実現するドキュメントだ。 不可能と思えた試みが一気に現実的になった瞬間だった。それはヒップホ

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  • 暴動でフェスが中止となる中、白人たちの心を掴んだマディ・ウォーターズの『アット・ニューポート1960』

    若者たちが暴動を起こしたのは、マディ・ウォーターズが出演する前日のことだった。 アメリカ北東部に位置し、もっとも小さい州として知られるロードアイランド州。その湾岸部にはいくつもの島々が点在しており、そのうちのひとつであるロード島の南部に位置する都市、ニューポートは19世紀から別荘地として親しまれてきた。 しかしこの街が世界的に有名になったのは、1954年から始まったニューポート・ジャズ・フェスティバルによるところが大きいだろう。 中でも1958年に開催された第5回は『真夏の夜のジャズ』として映画化され、ジャズ・ドキュメンタリーの最高傑作として高く評価されている。 (詳しくはこちらのコラムをどうぞ) そんなニューポート・ジャズ・フェスティバルに「シカゴ・ブルースの父」ことマディ・ウォーターズが出演したのは1960年のことだ。 この年は4日目にブルース・プログラムが予定されており、マディの他に

    暴動でフェスが中止となる中、白人たちの心を掴んだマディ・ウォーターズの『アット・ニューポート1960』
  • ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」から題材を得て誕生した中森明菜の「少女A」

    中森明菜のセカンド・シングルとして「少女A」が世に出て注目を集めたのは、1982年7月28日のことだった。 広告業界でコピーライターとして働きながら作詞の仕事を始めた売野雅勇は、まだ駆け出しの身であったが、アンテナ感度の鋭い大瀧詠一などから注目を集めていた。 同じ年の2月に発売された『機動戦士ガンダムⅢ』 の主題歌「めぐりあい」は、売野の才能にいち早く気づいた作曲家の井上忠夫が自分で歌って、初のヒットをもたらしてくれた。 売野はその頃に作詞家として契約していた事務所で、スタッフから1枚のチラシを渡されてこう言われた。 ともかく目立つものを書いて下さい。前に書いた、シャネルズだって、河合夕子だって、普通じゃないですから。自分が面白がって書いたら、いい作品になると思います。 ワーナー・パイオニアが力を入れて売り出していた新人の中森明菜は16歳、売野はひとまずコンペ用に作品を書いてみることにした

    ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」から題材を得て誕生した中森明菜の「少女A」
  • マルコムX〜刑務所暮らしの中で“真の知識”に開眼した黒人解放運動家

    『マルコムX』(Malcolm X/1992) スパイク・リー監督による『マルコムX』(Malcolm X/1992)は、1960年代の黒人解放運動の指導者/革命家として余りにも有名な男の生涯を描いた3時間21分のドラマ。マルコムを演じるのはデンゼル・ワシントン。 初めてマルコムXの自伝を読んだ中学生の時から、いつかきっと映画化したいと考え続けていた。 原作となったのは、暗殺される2年前から執筆され始めたという『マルコムX自伝』(『ルーツ』で知られるアレックス・ヘイリーとマルコムXの共著)。ヘイリーは映画の完成を楽しみにしていたそうだが、残念ながら公開前に他界した。 この『マルコムX自伝』は出版されて以降、様々な映画人が企画に挑戦するものの一向に実現には至らず。そのうちハリウッドでは「映画化されない最も重要な作品」とまで言われるようになった。 そんな中、カナダの監督が決定寸前まで事が運んで

    マルコムX〜刑務所暮らしの中で“真の知識”に開眼した黒人解放運動家
  • 1980年1月27日にシェフィールドで行われたクラッシュのライブで起きた「白い暴動」をめぐる事件

    1980年1月に行われたクラッシュの「16トンズ・ツアー」は、彼らの名前を音楽史に刻むことになったアナログ盤2枚組のアルバム『ロンドンコーリング』の発売した直後に行われた。 日からそれを見に行ったレコード会社の担当ディレクターだった野中規雄が、そのときのことを後にブログに書いた記事を紹介したい。 このツアーで野中が見たクラッシュのライブは6ヶ所、1月23日のランカスター、25日のブラックバーン、26日のディーサイド、27日のシェフィールド、29日のブラッドフォード、31日のリーズだった。 日から同行したのは音楽評論家の大貫憲章、現地でコーディネートしてくれたのがロンドン在住のKaz(カズ宇都宮)である。 951年に東京に生まれたkazことカズ宇都宮はロンドン大学インぺリアル校に在学中に、クイーンを結成する前のブライアン・メイとジョン・ディーコンと知り合いになり、そこから音楽関係の仕事

    1980年1月27日にシェフィールドで行われたクラッシュのライブで起きた「白い暴動」をめぐる事件
  • シド・バレットとロジャー・ウォーターズ〜“月の裏側の住人”となった男に囚われて

    シドを失い、ロジャーが牽引したピンク・フロイドの狂気 2005年7月2日、午後10時57分。ロンドンのハイド・パークに集まった20万人近い観衆を、聞き覚えのある不気味なサウンドが覆い始めた。一定に保たれた心臓の脈拍音が次第に大きくなっていく。そしてあの馴染みのある声が聞こえてきた。 もうずっと何年も、俺は気が狂いっぱなしなんだ…… ロジャー・ウォーターズ、デヴィッド・ギルモア、ニック・メイソン、リチャード・ライトが、24年ぶりに同じステージに立って演奏しようとしている。チャリティ・コンサート『ライヴ8』の最大の話題は、このピンク・フロイドの4人としての復活だった。 「生命の息吹」「マネー」といった『狂気』からの演奏が終わると、ウォーターズとギルモアはアコースティック・ギターに持ち変えた。「Wish You Were Here」(あなたがここにいてほしい)は、既にここにはいない友達へのラブ・

    シド・バレットとロジャー・ウォーターズ〜“月の裏側の住人”となった男に囚われて