セミについてググってみたら意外な事がわかった。 アメリカ人はセミとイナゴを区別しないのですか カリフォルニアから来たアメリカ人の友人は、セミという生物を知らないようなのです。曰く、あのnoiseは鳥の鳴き声か?と。昔、図鑑でアメリカには17年ゼミというのがいるやのように読んだ記憶があるのですが・・・希少な種なんでしょうか? どうも上記2つの質問回答を見ていると英米人は蝉を知らない、もしくは全く意識していないようだ。 てことは邦画の夏のシーンでミンミン鳴いてる音を入れてもアイツらにはピンと来ないわけか! 松尾芭蕉涙目wwwwwww 芭蕉に「静けさや岩にしみいる蝉の声」という有名な句がある。山形県の山寺で作られた句である。山形県出身の医者であり歌人であった斎藤茂吉はこの蝉をアブラゼミと解釈し、ニイニイゼミだと主張した小宮豊隆との間で二年越しの論争をしたが敗北した。 ↑この二人はもっと涙目www
「嘘をつくのはいけないこと」 これを心の底から信じているから、生きにくい。 ぶっちゃけ、非コミュもひきこもりもこれだと考える。 小さいころから、「嘘はだめ」と教えこまれ、嘘をついては怒られてきた。 けど、大きくなるにつれて、嘘をつかざるをえない環境になった。 誰かを騙したくて嘘ついてるわけじゃない、正直でいたい。 でも、正直でいると、傷つける。傷つく。 そんな時、嘘をつく。嘘をついちゃいけないと思ってるのに、嘘をつく。 自分に対して、非難の声が内側からわきあがる。 「なんで嘘つくの?嘘はだめだって!」 あー、おれは嘘つきだ。悪い人間だ。 そんな悪い人間は存在しちゃだめなんじゃないの? でも、存在したい。生きていたい。どうしよう? 嘘をつかなくてもいい様に生きてくしかないわ。 他人と関わるのはよそう。 コミュニケーションを取ると、嘘をつかざるをえないから、一人でいよう。 だけどな、一人では生
id:tksmashさんが「「ホームページを作る人のネタ帳」についてみなさんどう思いますか?」という記事を上げています。 簡単にいうと、はてブで人気の超大手サイト「ホームページを作る人のネタ帳」(以下「ネタ帳」)は、自分で自分のサイトをブクマしてアクセスを稼いだんじゃないの、という内容です。 id:tksmashさんは、もしこの指摘が間違いなら、自分のはてなを閉じる覚悟だとか。 この記事に対し、ぼくはブクマでこのようにコメントしました。 あるブログが嫌いだということはかってですが、自分がきらいなものが人気を集めるのはおかしい!とか言い出しても不毛かと。ちょっとセルフブクマしたくらいで簡単に万単位のアクセスが集まるものじゃないでしょう。 すると、その後の記事でこのような返答がありました。 「自分がきらいなものが人気を集めるのはおかしい!」などと言っておりません。 そうですか。でも、こう書いて
タイトルは誇張ではありません。僕も読み始めたときは何のことなのか分かりませんでしたが、途中で出てくるコードを読んで、やっと分かりました。「本当に、これは今のWebデザインやCSSを変えるかもしれない」と。元記事は、A List Apart: Articles: CSS @ Ten: The Next Big Thingより。著者はCSSそのものの草案者であり、今はOperaのCTOを務めるHåkon Wium Lie氏です。 追記 id:iwaimさんのはてブコメントに対する返答を文末に書きました。(2007年9月11日19時ごろ) CSS @ Ten: The Next Big Thing CSS は去年10年の節目を迎えた。このような節目は、過去に立ち返り、未来の計画を立てるための機会である。CSSは構造から見た目を分離することによって、根本的にWebデザインを変えた。CSSはデザイナ
それはどう生きてもいいと言っていながら裏でしっかり縛り付けているから。犬にリードつけてお前の好きなように歩きなと言いながら他家の敷地に入らせないようにするようなもの。犬にはそんな境界は見えない。どう生きてもいいと言ったって人を殺してはいけないとか、物を盗んではいけないとか当然のように含まれるものは省略されているのです。それを言うと話が長くなるし私も姑みたいに細かい事言いたくないの。だから「どう生きてもいい」って言ってあげたのよ。で、言外に言わない事に何が含まれているか推論するのが今を生きる人の試される試練である。どう生きてもいいけど実はこれはダメあれはダメ。選択の余地はどれだけ残されているか。もちろん禁止されているわけではない。責任を取らされるという事である。だからばっくれてもいいのだが最後は自分にばっくれなければならないのでそこを超えられるかが勝負の分かれ目というか幸か不幸かという事にな
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070419/1176994119で大内裕和「教育は誰のものなのか 教育基本法「改正」問題のアリーナ」というのを紹介した。 この問題をもう一度取り上げたい。教育改革が必要であると多くの人は言う。しかし,それはどこまでも教育行政内部のポリティックスの問題でしかなく,そこに「私たち」は登場しない。「私たち」は教育行政内部のポリティックス,勢力争いを外から眺めて,いろいろなことを言っているに過ぎない。 教育改革は教育行政内部のポリティックスの問題である。だから,この国において「教育」は教育行政のものである。「私たち」はその「教育」をただ「消費する人」であり,そこで問題になるのは,メニューの中からいかにして自分のためのメニューを選び取るかということでしかない。 「私たち」は「教育」を所有していない。所有しようともしていない。「教育」
言及エントリを個別に批判するつもりはないが、同様の主張を何度か見たので言及しておく。 無断リンク禁止がネットの常識になるって? そんなことはありえないんですよ 要約すれば、「無断リンク禁止が常識になることはないんだから、気にせずリンクすればよい。嫌だと云ってきた相手はリンクを削除すればよい」という主張。 頭から相手の主張を聞く気がない上、要求だけは聞き入れることで反論機会すら奪う。差別の典型パターンである。 言及エントリをして即差別だと批判する気はないが、それが差別のパターンであることだけは指摘しておきたい。 また、相手の主張には全く取り合わずに「相手の嫌がることをするのはやめよう」と云うのは、大いなる欺瞞でもある。 差別はこういう形でも「道徳の皮を被る」のだ。
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