2006年11月26日のブックマーク (6件)

  • やらせミーティングとオーマイニュースに見る事前調整への執着 - アンカテ

    こころ世代のテンノーゲーム - オーマイニュースがいつのまにか精神の根底から死んでいた件について 「オーマイニュース」が自殺! -- しっぽのさきっちょ 2006年11月 -- Spiegel's Trunk CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:平野日出木さん、当にそれでいいんですか?(上) CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:平野日出木さん、当にそれでいいんですか?(下) 市民ジャーナリズムは、混乱と炎上を越えて立ち上がるか -- OPENDOORS:雑誌:論座 この問題は、タウンミーティングのやらせ問題に通じていると思う。 「民意」というのは、多種多様でまとまりがないものだ。それをそのまま衆目に晒すことが美しくない、事前に調整してまとまりをつけなくてはいけないという感覚を、左右ともに持っている。それがどちらの問題で

    やらせミーティングとオーマイニュースに見る事前調整への執着 - アンカテ
    summercontrail
    summercontrail 2006/11/26
    同じようなことを思った/すりあわせ,"会議"の前に事前の相談がないと不機嫌になる構成員たち,それどこの部族の儀式?という感じだ
  • いざとなったら、ひとりになればよい

    若者にとって、「友人ができるか、どうか」ということは、重大な悩みのひとつでしょう。 一見明るく、社交的に見えても、腹を割って話し合える友人がおらず、表面的な人付き合いに虚しさを感じている人も多いものです。 それほど、親友というものはなかなか得がたいものであるということです。 「学校の友人や職場の同僚たちとのくだらない話に付き合うのは疲れる。しかし、仲間はずれにされるのは怖いので、仕方なく付き合っている。楽しそうに振る舞ってはいるが、心の中は冷めている」という人もいるのではないでしょうか。 もちろん、友人はいないよりはいたほうがよいに決まっています。 ただ、友人というものは、心からの共感、尊敬、信頼などがあってはじめてできるものです。 友人は「つくるもの」ではなく、自然に「なる」ものだと言ってもよいでしょう。 無理をして「友人をつくらなければならない」などと考えることはないのです

    summercontrail
    summercontrail 2006/11/26
    "他人に感謝はすべきですが、執着をしてはいけない""「いざとなったら、ひとりになればよい」という覚悟を決めることによって、逆におおらかな気分で、豊かな人間関係を築くことができる"
  • http://kengo.preston-net.com/archives/002930.shtml

  • 朝まで生テレにおける「いじめ」もどき - 激高老人のぶろぐ

    高級(?)エンターテインメントである「朝まで生テレビ!」の11月25日の番組は、「いじめ」がテーマであった。最初の発言者の役割をふられた(進んでこの役割を買って出たのかどうか分からない)民間団体の老婦人(どうしてこの人が呼ばれたのかは分からない)は、いじめの責任は日教組にある、とのたもうた。同席した日教組委員長の先生は、この頃は日教組はいじめられ役である、という趣旨の自己紹介を行った。よく分かったうえで、この番組に出てきたのだ。はたしてこの実直そうな先生は、番組中いろいろの人からいじめられた。目立ったのは司会者によるいじめであった。司会者は「教師は聖職者ですか、それとも労働者ですか」などと、2、30年前にはやった言葉を責め道具に使った。相当の高齢者である拙者でさえも時代錯誤に聞こえた。カトリックの坊さんでもあるまいし、聖職者が労働者であってもいっこうに構わないではあるまいか。またこの司会者

    朝まで生テレにおける「いじめ」もどき - 激高老人のぶろぐ
    summercontrail
    summercontrail 2006/11/26
    "日教組の先生は大体において生徒の教育や指導に関しては普通以上に熱心な先生であった。彼らにいじめの責任を負わすのはどう考えても無理"ほか
  • CNN.co.jp : 「臨床道化師」の学位を新設 イスラエルの大学 » - こぼれ話

  • ぶくまより 太宰治とキリスト教 - finalventの日記

    はてなブックマーク - 太宰治とキリスト教 学部の卒論らしいので突っ込みはなし、と。 指導教官が私くらいの年代か、それより上か。 この問題は、別段、太宰に限らず、日浪漫派とかでも見られるし、小林秀雄などにも。それこそ、「西方の人」とかも。 これらはある意味で内村鑑三とか新渡戸稲造とかまあ、そのあたりからの時代風景でもある。というか、マルクス主義とキリスト教というのは、戦前の文学にとって大きな、まあ擬似的な、課題だった。 その突っ込みはしないといいつつ、まあ指導教官の思いを少し察するのだが、卒論とはいえこういう、論立てでよかったのかちと気になる。と考えるに、そのあたりの指摘がふくまれてないのは、私より上の世代の教官かべたな日的なキリスト教徒か、のわりに遠藤と世界化みたいなのもあり。 それはそれとして、人間失格とキリスト教からそれるが。 物語の最後、「あとがき」において全くの第三者である

    ぶくまより 太宰治とキリスト教 - finalventの日記
    summercontrail
    summercontrail 2006/11/26
    だめんず問題関連/太宰治,そうなんですよね