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2023年10月29日のブックマーク (10件)

  • Gmailの容量がいっぱいになったのである方法で不要なメールを全削除した

    Kazuho Oku @kazuho lead developer of H2O HTTP server / works at @fastly / contributes to @IETF / HTTP, TLS, QUICといった通信プロトコルの開発者、実装メイン、標準化がサブタスク。ダジャレの合間にインターネットを速くするのが仕事です kazuhooku.com Kazuho Oku @kazuho gmail の容量が15GBいっぱいになった件、一年以上前の未読の広告扱いされたメールとか不要やろってことで is:unread category:promotions older_than:1y で検索して全消した。使用量9.38GBまで下がった! 2023-10-18 12:03:41

    Gmailの容量がいっぱいになったのである方法で不要なメールを全削除した
  • ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理

    既成の価値観なんてくそくらえ! これを《定理》に“指定”します。 自然姓。 これは意識の外、にあるものと見ての表現で、意識の対象とはならないとし、そのことを「非」という文字であらわそうとしています。 言い換えると生命そのものの事と云える。生命=自然姓、と捉えているので思考以前の事。 だから「非思考」となるようだ。 その自然姓は俗に言われるような「神や仏」の常駐所、とも見ているらしい。 自然姓は意識の対象になるものではないので、“無い神”も有ることになるのでしょう。 よく言うところの「仏性」を自身の言葉で表したいという意欲が現われています。古くから言われていることを、そのままコピーしたような、オウムのようなとらえ方に、疑問を持っているのです。 ところが内容は同じなので、例えればメビウスの輪の罠に引っかかっているような・・・そんな・・・感じ・・・が、するのです。

    ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理
  • なぜ神は多様か。

    タイトル通りの内容です。 現実として宗教=神(仏)は多様に存在していることに関して、信仰を持つ人間はその質としての絶対性といかにして折り合いをつけるかという問題を考えたく、質問致しました。 結局のところは、原理主義と多元主義のいずれかに落ち着くと思われますが、前者の場合、原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらすという、救済との矛盾がいかにして克服されるか、後者の場合、ではそもそも神の多元性の原因は何か、というような疑問があります。 No.4です。ご返答をありがとうございます。 次のように考えております。 ★ 「神」とは「絶対」の解釈(あるいは直覚)であるということでしょうか。(何となく、「神学」の核心をつく見方のような気がします。) ☆ はい。細かくは 《解釈》というよりは《単なる言いかえ》だと思います。《絶対・無限・超経験》という言葉は 概念として説明つきです。《神》は ほとんど

    なぜ神は多様か。
  • 現象的意識と反省的意識

    デイヴィッド・チャーマーズは、意識について「機能的意識」と「現象的意識」の2つの側面があると指摘したそうですが、私の読んだ、「心の哲学入門(金杉武司 著)」では、「反省的意識」と「現象的意識」の2つに分けて説明されています。 反省的意識とは、機能的意識に含むものと考えればよいのでしょうか? また、もしそうだとすると、心が反省的な意識状態にあるとき、一切の現象的な意識は付随しないのでしょうか?付随しないとすると、自分が反省的な意識状態にあるということ自体、気づかないのでは…? そもそも、現象的意識という言葉の説明にある「質感」の意味を把握しきれてないのですが、要するに「主観的体験」そのものですよね? 「質感を持たない主観的体験」というのはあるのでしょうか? もし、「現象的意識」の言葉が指す内容が一定していないのであるなら、そのあたりも少し教えて頂けないでしょうか? あともう一つ、現象的意識が

    現象的意識と反省的意識
  • 本質観取と仏教

    こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > 現象学を齧る人のなかにも“虚無主義”に陥る方がいるんですよ。何だかここが共通点みたい。 そうだったのですか。愚生も、竹田(当時はまだ一文芸評論家に過ぎませんでしたが)を読んだときには、確かに陥りかけたことがございます。仰られますような傾向が少なからずあるのかもしれません。 > 精神現象の〈典型〉を見出していこうという、やっぱり医学が健康体を見据えておくのと同じようなスタンスなんですが、客観主観を棚上げしてしまうところに気を取られると虚無主義に陥るんでしょうね。それだけ対象の現前に依存しているということですね。 なるほどそうでしたか。仰るとおりかと存じます。客観なるものは、おそらく人々の“拠り所”、“楔”のようなものなのかもしれません。その存在が不明瞭ともなりますと、虚無主義に陥ってしまうものと察せ

    本質観取と仏教
  • キリストが勝手に人間となり磔に遭って死んだ。それは自己主張ではなく、信じることを示した - OKWAVE

    ddt×3です。他の事に関わっていて、返答が遅れました。 自分は、あなたの質問の意図を現状では理解していませんので、今回はウェーバーの意図について述べます。もちろん自分が理解したと思っている範囲でです。その上で、これ以上ddt×3と関わる価値があるかどうかを、判断して下さい。もしくは、こういう話をしたいのだ、という方向に誘導して下さい。誘導結果に応答可能ならば、必ず応答します。例によって、あなたの補足を継ぎ接ぎします。 >勤勉とガリ勉との違いを言えばよいものを ガリ勉をわざわざひとつの行動形式として勤勉に並ぶカテゴリーに仕立て上げたものだから あとでこのガリ勉資主義に対して ぼろくそにけなす結果となる。 ウェーバーにはもともと、ガリ勉君をぼろくそにけなす意図がありました。ただしこのガリ勉君は、当時のヨーロッパの後進国の一つであった、彼の出自でもあるプロイセン帝国のガリ勉君です。プロイセン

    キリストが勝手に人間となり磔に遭って死んだ。それは自己主張ではなく、信じることを示した - OKWAVE
  • 資本主義・自由市場経済なる制度だと どうして利益が出て来るのですか?

    1. だって ウソも隠れもしない貨幣による評価を共通として等価交換をおこなっているのに どうして利益が出るのでしょうか? 2. 取引の双方の側で 損得があり一方の側に利益が出ても おかしくない。けれども 国としてあるいは世界全体としてどうして利益が出るのか? 3. もし貨幣の貸し借りという過程をつうじて 損益の計算が長期にわたるとしても・つまりは短期的には全体として利益が出たり損失をこうむったりするとしても やはりその一定の長い期間をとおしては プラスマイナス・ゼロのような損益の状態に均されてゆくのではないだろうか。 ☆ 素朴な疑問です。すいません。おしえてください。 №34 資ないし資家が どのようにして現われたか。 ▲ (コトバンク:原始的蓄積) ~~~ △ 百科事典マイペディア「原始的蓄積」の解説 英語 primitive accumulation などの訳で,源的蓄積とも。

    資本主義・自由市場経済なる制度だと どうして利益が出て来るのですか?
  • 資本主義の次は○○主義、って当分資本主義でしょ!?

    若手論客の方々の対談を聴く機会があって、頭の良い方々の議論を聴くのは刺激があってそれはそれですごく楽しいのですが、自分なりに色々疑問とか違和感も湧きました。 地域地域の共同体が崩れて、これから新しい共同体の形を模索できないだろうか、国家と個人の間に入る、理想的な中間共同体は無いだろうか…というような議論があって、1人の方は、ネット上で同じ趣味の人同士がつながって趣味共同体みたいなのができればそれでいいんじゃないか~みたいなことを言っていました。 またもう1人の方は、人間生活の元々の形態は農業だから、農業社会の再生を~みたいなことを言う人がいるが、難しいんじゃないか~とか、人間の歴史は○○年代まで農業社会で○○年代まで企業社会でそれもだんだん崩れてきて~みたいなことを言っていました。 やっぱり評論家みたいな人たちってこういう議論が好きなんだな~と思いながら聞いていたのですが、やっぱり違和感が

    資本主義の次は○○主義、って当分資本主義でしょ!?
  • なぜ神はイエスをこの世に送ったのか

    キリスト教に関する質問です。 神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った、それほど人類を愛していた、とのことですが、その意図がわかりません。 なぜ人々が罪深いからといって誰かが犠牲にならなければいけないのでしょうか? 人類を創ったのは神です。親が子供たちの過ちの責任を、長男もしくは一番かわいいと思っている子供に負わせているかのように思えます。(キリスト教によると、人類は神の子ですよね?イエスの兄弟ですか?) 俺たちが悪いことをしたのに、何もしてない兄さんが警察に名乗り出てくれたよ。罪悪感感じるけど俺たちは罰を受けなかったし兄さんに感謝感謝、って感じですか?しかもそれを親(=神)がやらせたんですよね? そもそも誰かを身代わりにしたら許される、その身代わりになってくれた人を敬う、という発想がよくわかりません。 なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗

    なぜ神はイエスをこの世に送ったのか
  • アレクサンドリア図書館の破壊と終焉

    『図書・図書館史』より 古代アレクサンドリア図書館 現在、ムセイオンにあったとされるアレクサンドリア図書館は、遺跡も発見されておらず、存在した痕跡さえわからない。それでも古代最大の図書館であったアレクサンドリア図書館が、破壊と終焉を迎えたことは確実である。その終焉は、ひとつの出来事であったのか、徐々に衰退したのかについてもさまざまな説がある。そのなかでも、アレクサンドリア図書館の破壊や終焉と深く結びついていると考えられているのが、紀元前48年のローマ内戦におけるカエサルの戦役における大火、391年のキリスト教徒によるセラベウム図書館の破壊、642年のアラブのアムル・イブン・アル=アース将軍によるエジプト征服に伴う、アレクサンドリア占領の3つの出来事である。 紀元前48年のカエサルの戦役における大火 ギリシアの著述家であったプルタルコス(Plutarchus)は、『英雄伝』で次のように述べる