資本制にたいするかんがへや仮名遣ひにかんすることなどは、ansuz以来すすめてゐる「詩注としての詩」に含めてしまってゐるが、そこに書ききれないことを、だまって溜めておかずに書くべきかとおもふ。 体験はどんな思想をもうまないし、「大きくなれば」わかるといったり「きみも子供ができれば」わかるといったたぐいの妄想は、わたしはおまへのまちがひならわかる、おまへは自分の思想の無を体験のほうへ挿入して逃げ、現在と理想とのへだたりも理解せず、単純さの神を柔軟につくりあげ、歴史に抗することもしない。理想をただただ捨ててゐるだけだ。「体験すればわかる」といった言ひまわしには、こういへばじゅうぶんだといふことになる。またもうひとつには、原則もない思想を批判するのに、あいてに骨折って深入りしてやる必要もないといふこともいへる。わたしはアジア戦争を体験したわけでもないし、まただれがなんと言ったかも深くしらべたわけ