教育基本法改正と防衛省とが同時に決まったのになにをいわんや、って感じ。 この先どんな茶番を見せられるのか今から楽しみにしている。 特に教育基本法はもうなにがなんでも「やる、やる、やるのーっ」と狂信家のヒステリー見せつけられてるみたいで、 国家のやり方の見苦しさにはお寒いことしきり、それに同調して「ヤダ、ヤダ、ヤダーッ」なんて やらなかったぶんだけ国民の方が成熟しているのかもしれない。下らない「みんしゅしゅぎ」のやり方に もうつきあっていられない、と選挙に行く人が少なくなったのもそういうながれかもしれないなあ、 どのみち「民意」なんてものが反映されないと一般庶民は達観してしまった。 「好きにすればー」と、まあ政治家がどのように笛を吹いてみたところで踊る一般人はそれほど多くはいない。 「戦争がおこればチャンスがある」なんて思い込むトンデモぐらいしかついて来るやつはいないかもね、 この意見に戸惑
長らくつきあってきた朝日新聞だが、販売店に電話をし、今月いっぱいで購読をやめることを伝えた。次の新聞はどこにするかまだ決めてはいないが、東京新聞か毎日新聞かになるだろう。折り込み広告が減って困ることもあるだろうがしょうがない。 今回の教育基本法改訂での朝日新聞の取り組みはまったくもって不満を募らせるものだった。記事内容もさることながら、いい記事でも出すタイミングが遅く、意味をなさなかった。抗議の様子も審議の実態も報道しないなど、ガッカリすることばかりだった。はっきり言って、朝日新聞には教育基本法が改定されてもよいのではないか、とさえ感じられた。 今後、少なくともしばらくは朝日新聞を再び購読することはないだろう。
教育基本法改正案が残念ながら通ってしまいましたが、安倍首相などが良く使うので、嫌でも新聞とかネットで目に入る「教育再生」の言葉が、今更ながら気になってきました。「教育改革」という言葉はあまり気にならないんですけど。 「再生」というからには、前に「生きていた」状態があるという事ですよね。「教育再生」という事は、以前には、望ましい教育がされていた、教育が「生きていた」という事なんでしょうが、それって一体何時のことよ? 日本教育再生機構のホームページを見たら、八木理事長の「今、私は明治の初年に明治天皇が示された「五箇条の御誓文」の精神に立ち返ることを提唱したい。」の挨拶とともに、御誓文が書かれた画像が載っているけど、もしやその時代? どんなに古くても教育勅語ぐらいまでかと思ってたけど、そこまで戻るの? 日本教育再生機構のホームページを続けて読んでいると、「教育再生から日本の再生へ」という言葉が使
すなわち、STAND ALONE COMPLEX。 虹の彼方に見えるもの〜辺見庸講演会に参加して 繰り返し書いているように、民主主義システムの強みたる「集団知」が機能するには、その「多様な」構成員おのおのが「個別に」価値や物事を判断することが必要条件となっています。 これはおそらく経済学における「合理的経済人」でも同様で、市場がうまく機能するためにも必要な条件といえるでしょう。 にもかかわらず、「多様で」「個別な」だけでは社会的な力になり得ない。 結束力の武器 集団知が機能するには、「集約性」というもう一つの条件が必要なのです。 今の日本に多様性や個別性がないとは思いません。 むしろ、それらをうまく集約するシステムがない。 私がよく付き合う技術者や研究者、芸術家には「多様で」「個別な」人たちが沢山いると感じます。 しかし、社会的な力にならない。 そうしているうちに、「多様性」や「個別性」を
参議院特委本会議での教育基本法改正案の強行採決という愚行は、これからも決して忘れることはない。 アメリカ占領下であった現行教育基本法の質疑と今回の衆参の質疑とを比較してもらいたい。ぜひ、帝国議会の議事録を読んでいただきたいのだが、当時の方が今よりも突っ込んだ議論が行われているし、教育のことをよくよく考えて議論をしている。占領下の議会よりも議論が低調で、低俗であるというのはどういうことか。 これから、議事録などを基にして今回の改正論議がどのようなものだったのか検証が進められていくことを強く期待する。そして、今回の愚行は長く語り継いでいかなければならない。 牛刀を以て鶏を割くような今回の行為が、他の場合にも行われるかもしれない。自分たちに都合の悪い法律を、些細な理由をこじつけてみたり、スケープゴートを使って改正する。そういうことを繰り返させてはいけない。 改正反対と言うことをこれからも止めるこ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く