2016年5月29日のブックマーク (2件)

  • 蕭何の後継ぎ - てぃーえすのメモ帳

    孝惠二年、(蕭)薨、諡曰文終侯。子祿嗣、薨、無子。高后乃封何夫人同為酇侯、小子延為筑陽侯。 (『漢書』巻三十九、蕭何伝) かの漢の蕭何が死ぬと、彼の領土は子が継いだが、二代目は子供がなく死んでしまった。 その時、当時の最高権力者呂后は蕭何のにその領土を引き継がせ、同時に蕭何の末子を侯とした。 どうやら、もともとの蕭何の領土を蕭何のと末子とで分割させたらしい。 来前漢の列侯の相続では兄弟相続を認めておらず、相続した嫡子に嫡子がいないとその場で取りつぶしというのが通例だったようだ。 蕭何の子の場合、蕭何ゆえに特別扱いして彼の領土、地位を守ろう、でも兄弟相続は認めないという原則にも抵触しないようにしよう、ということで折衷案が取られたのだろう。 末子の方は分家の初代であり侯名も変わっており、あくまでも家は兄弟には継がせない、ということなのではないだろうか*1。 この当時、女性自身が列侯にな

    蕭何の後継ぎ - てぃーえすのメモ帳
    t-hirosaka
    t-hirosaka 2016/05/29
    「女性自身が列侯になる、という事例」
  • 劉邦の兄嫁 - てぃーえすのメモ帳

    羣臣從至、上議曰「丞相臣平・太尉臣勃・大將軍臣武・御史大夫臣蒼・宗正臣郢・朱虚侯臣章・東牟侯臣興居・典客臣揭再拜言大王足下。子弘等皆非孝惠皇帝子、不當奉宗廟。臣謹請陰安侯・頃王后・琅邪王・列侯・吏二千石議、大王高皇帝子、宜為嗣。願大王即天子位。」 【注】 蘇林曰「高帝兄伯、羹頡侯母、丘嫂也。」 (『漢書』巻四、文帝紀) 昨日の記事のシチュー事件首謀者であるところの劉信の母(劉邦の兄嫁)であるが、文帝が即位する際に存命であったという説がある。 上記の「陰安侯」というのが劉信の母だというのである。 諸説あるため確定できないが、もしそうであったとすると、劉信は列侯の地位を失っていたが母の方は列侯の地位にあったことになる。 興味深い話だ。

    劉邦の兄嫁 - てぃーえすのメモ帳