http://www.j-cast.com/2013/12/18192103.html 石原慎太郎が、自分の原稿の掲載を拒否した『すばる』編集長の池田千春を「勇気ある女性」だと言っているが、とんでもない話である。私は2009年に小説「天皇の煙草」を同誌に持ち込んだが、街宣車が怖いからといって「天皇」を「あの方」などに改稿するよう要求されて拒否している。勇気あるどころかヘタレ編集長である。石原は怖くないが右翼は怖いらしい。
アマゾンの提訴、敗訴した。 2012年11月、アマゾン・ジャパンに対する訴状を東京地裁に提出した。これは私の小説『遊君姫君』に、「大河ドラマと渡辺淳一『天上紅蓮』の便乗作で、これがなければ書かれることもなかっただろう」という「大河好き」と称する者のレビューが載ったためである。「大河好き」はかねてから私にアマゾンレビューで盛んにからんでいたので、このレビュアーについての情報開示を求めたのである。『遊君姫君』は、あとがきで、七年ほど前から書いていたもので、大河ドラマに便乗して出す気にはなったが、合わせて書いたものではないと書いてある。 私はアマゾンに、削除するよう要請したのだが、がんとして削除しないのである。以前は割と普通にこれくらいなら削除したのだが、なぜかしない。だいたい対応するのは「木島」というやつである。「感想の域を出るものではない」とか言うのだ。 しかるにアマゾン側は、アマゾン・ジャ
麻生太郎の発言について、 http://www.youtube.com/watch?v=yaCC3GlP9nw ここで全文が読み上げられており、 http://www.youtube.com/watch?v=SrnQREcDNJM こちらで途中からの音声がある。 前者では、麻生はナチスを反面教師としろと言ったのだと解説されているが、後者だと聴衆がどっと笑っているので、そう思えなくなっている。 つらつら考えたのだが、麻生は「狂騒の中で憲法を変えるな。冷静に議論をして変えろ」と言っているわけだが、ナチスは政権をとったどさくさでこっそり憲法を変えた。ので、実はどっちでもないのである。例として持ち出したのはいいが、麻生は頭が悪いので、途中でナチスがどっちの例なのか分からなくなった。だが政治家のカンで、ここでこれを言えば受けるというとっさの判断で「あの手口に学んだらどうかね」と言い、みごとに受けた。
『大学ランキング2013』が届いたので、私が怨念をこめて書いた部分を見たら、すぐ後ろに佐伯順子先生が女性大学教員について書いていた。最近、五十前後で女性学者が亡くなることが多い、とあるのは菅聡子先生のことか。佐伯さんはそれを過重労働が原因という風に書くのだが、菅さんの死因は過労ではなかったと思う。過労と言えるのは古いが千野香織、あと男で大澤吉博さん、これは歴然たる過労死だった。北川東子さんにしても、過労が原因といえるかどうか。 それはいいとして、実は論旨に奇妙なよじれがあって、ただこれは分量的にやむをえないのだが、男は妻がいて家事育児をしてくれるが女はそうではない、というのだが、ここで本当は佐伯さんは、子育てを同居している母親に任せている働く女に怒りを覚えているのだ。それは大変よく分かる。また夫婦共稼ぎでも家事育児は女がやるという状況が残っていることもあり、それに怒りを覚えるのはいくらか分
最近雑誌でよく安冨歩という人が出てくる。「東大話法」とかいうので話題の人らしい。本人は経済学専攻で、東大東文研の教授である。まあこれはしかし、キャッチフレーズの問題で、普通は「官僚的な回答」とかいうのを「東大話法」と言い換えているだけだ。 ところが『一冊の本』4月号が届いて、この安冨氏が書いている。伊藤計劃の『虐殺器官』について、失敗していると言い、それはチョムスキーの言語学を用いたからだと言って、チョムスキー系言語学を否定するのである。私は別に、どこかの誰かみたいに、チョムスキーを否定するなんてけしからんと騒ぎはしないが、この人は筆致からするに、チョムスキー系の言語学についてちゃんと勉強したことがないのではないかと思う。 それはともかく、『ハーモニー』が良かったので読んでみたが『虐殺器官』は良くなかった。いかにも軍事的なディテールを描きこんでいるという文章もまずい。問題はあの「虐殺の言語
なぜ、あの匿名野郎どもは、「中村周一」とか、適当な、本名だと思われそうな名前を名乗らないのだろう。なぜ「荻上チキ」とかneueheue とか、変名だと分かる名前を名乗るのだろう。歴史上、政治活動をする者が変名を名乗るのは珍しいことではない。しかし坂本竜馬が「ひょうたん駒之助」などと名乗ったりはしないのである。 たとえば小林拓矢君は本名だというが、私は戸籍を見たわけじゃないから、それが本当かどうかは知らない。松沢呉一は筆名だというが、それは言われなければそうは思わない。ならなんでわざわざ、本名ではないことがはっきりしている名前を名乗るのかといえば、後ろめたいからであろう。人を騙したくないのであろう。しかし、政治活動なんてものは、騙してナンボである。本気で政治を変えようと思うなら、neueheueなんて名乗らず「村上裕介」とかそれらしい偽名を使い、私なぞから「匿名は卑怯だ」などと余計なことを言
アリエスの『<子供>の誕生』は、近代になって、純真無垢な子供という幻想ができた(これを「A」とする)という説なら良かったのに、近代以前に「子供」という概念はなかった(「B」)という極論に走ってしまった本だ。丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』も、「仮名手本忠臣蔵」という浄瑠璃ができる過程で御霊信仰が働いた(A)とだけ言っておけばいいのに、赤穂浪士討ち入り事件そのものが御霊信仰で、しかも徳川綱吉という「悪王」の「王殺し」だ(B)とか言い出すからトンデモになってしまうのである。 サイードの『オリエンタリズム』にしても、西洋人が東洋について書いたものには、幻想や偏見があるものが多い(A)という程度でとめておけばいいのに、西洋人が東洋について書いたものは全部いかん(B)と言うから変な本になったのである。しかしこれらは、極論Bを打ち出したから売れたのやもしれない。こうなると厄介である。柄谷行人の『日本近代文
原武史の『滝山コミューン』は、刊行当時評判がよく、講談社ノンフィクション賞も受賞し、原としては三つ目の賞になった。呉智英さんも褒めていた。ただ書評などを見ても、私には興味が湧かなかった。このたび古本を購入して目を通し、やっぱり自分とは無縁だなと思いつつ、その「世界」のあまりの違いに愕然とした。 愕然としたのは、原が私と同い年で、その小学校時代のことを描いているのに、全然共感したり同時代性を感じたりすることがないからである。 「滝山コミューン」とは、原が住んでいた東久留米市の団地と、そこの第七小学校の呼び名で、政治の季節が終わった後も、なお日教組のような左翼組織に属するような教師たちの、学校運営と、それへの原の違和感が中心となっているが、妙に細かな事項も書いてあり、しかしそれもまた私の感じていたものとは違う。 原は東久留米を「郊外」と位置付けているが、私が卒業したのは越谷市立出羽小学校で、都
『現代文学論争』の最後のほうで、私は笙野頼子をめぐる論争をまとめたのだが、刊行されて半月ほどして、笙野が筑摩書房の担当編集者宛に電話で文句を言ってきた、と聞いた。そのうち、事実誤認が百カ所あるとか、佐藤亜紀や小谷真理も文句を言ってきていると聞いた。佐藤もそんなことをツイッターで書いて私を病人扱いしていた(12月1日)。しかるになかなかその後の連絡がなく、年末の忙しい時になって、百カ所のリストというのを担当編集者宛に送りつけ、しかし担当編集者が、とてもこれは見せられないと言って削った結果21カ所となった。私が見たのはこれ。そのうち、間違えたのは既にここに書いたのと、読売新聞が文藝季評になっていたというあたり。あとは、「在学中から作家を目指し」というのが間違いで、公務員試験に落ちて司法試験の準備をしていた、とかいうもの。そんなこと、講談社文芸文庫の年譜にも『文藝』の特集の年譜にも書いてないんだ
東京裁判の時、石原莞爾が、東条英機と思想上の対立があったようだがと問われて、東条に思想などというものはないから、対立などありえないと答えたのは有名な話である。 『週刊金曜日』が天皇制特集をしていて、私の『天皇制批判の常識』を他の書籍とともにあげて「小誌とは何かと意見の異なる著者だが」として紹介している。 しかし、『週刊金曜日』に「意見」などというものがあるのだろうか。あるなら聞かせてもらいたいものである。誰が「小誌」を代表するのか知らないが、ぜひ議論して、どういう風に「意見」が違うのか知りたいものである。 まあたとえば「九条」というバカ左翼の天皇陛下であるが、彼らはこれについて意見など言ったためしがない。自分では言っているつもりだろうが、では自衛隊を廃止するのか、それで軍事をどうするのだ、という質問にはいっさい答えないのである。中島岳志もそうだが、質問や批判に答えないやつは「意見」だの「思
鈴木貞美の新刊書をめぐって、『新潮』1月号の書評で中島一夫が批判し、3月号で鈴木が反論している。文藝雑誌誌上で論争めいたことが起きるのは久しぶりである。 鈴木はかねて、前田愛の『近代読者の成立』の、黙読は近代になって始まったという説を批判している。中島はそこのところで、すが秀実の論に対する論及がないと言う。鈴木は、そんなもの関係ない、と言う。ただこの前田批判においては、実際には前田は、前近代においてはみなが音読していた証拠など出していないので、よしとする。 しかし鈴木という人は、同じような内容の本を繰り返し出す。私は『日本の「文学」を考える』(角川選書、1994)は、あちこち付箋をつけて読んだものだし、森鴎外の初期短編が、ドイツの三文小説のまねだとか、勉強になった。ところが、『日本の「文学」概念』(作品社、1998)も買ったのだが、何やら前著をさらにふくらませたようなものだったから、放置し
私はどうも、というか全然、押井守というアニメ監督のどこがすごいのか分からない。「アニメでハードボイルドやってます」という感じしかしなくて、筋立てがちっとも面白くないのである。もうこの押井守との相性の悪さは、『うる星やつら』の原作からして面白くないという(映画2も面白くない)というところから来ていて、なんか根強いものがある。 私がちょうど大学一年の頃、大友克洋の『童夢』が出て話題になり、もちろん私も読んですごいと思った。つまり漫画の絵を独自にリアルにしたわけで、まあその他動きとかいろいろあるが省略して言うと、それ自体はすぐに飽きてしまった。亜流も出るし、結局は筋の魅力が乏しい。浦沢直樹の『プルートー』がつまらないのもそれである。 それをアニメで引き継いだ観があるのが押井で、漫画絵なのにリアルということ自体はもう飽きているから、ただ意味ありげな会話やら何やらが続くだけでえらく退屈なのである。
新聞の文藝時評というのは明治期からあって、近松秋江、正宗白鳥、また大正から昭和の川端康成、小林秀雄などが有名だが、一人の人が一新聞の時評を続けて担当するようになったのは戦後のことで、それにつき小史を掲げておく。当初は、文藝雑誌の新年号が12月に出るから、12月から交代するのが一般的だった。後ろにそれをまとめた単行本を掲げておく。●は実作者である。 なお読売新聞は84年から91年まで、新聞記者が「文芸」と題して文藝月評をやり、批評家には季評をさせていた。98年にその方式を復活させ、これが笙野頼子論争の発端となった。 毎日新聞 1955−68 平野謙 『文芸時評』河出書房 1968.12−69●安岡章太郎 『小説家の小説論』河出書房 1969.12−78 江藤淳 『全文芸時評』新潮社 1978.12−86 篠田一士 『創造の現場から』小澤書店 1987−93 秋山駿 1993−2010 川村湊
私には気違い誘因力というのがあるらしい。 http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091113/p2#c 私はそもそも「ヘーゲル君」と仮に呼んでいる、ヘーゲルを称揚する人物がいたから、ヘーゲルなどインチキだと言ったら、「浜田寿美男が」と呟いたから、浜田寿美男を読んでみた。まあ冤罪(かもしれない)事件について、事実を追求するのは結構だが、なぜ虚偽の自白をしてしまうのか、などと冒頭に書いてあったから、それは警察の脅しやらすかしやら苛酷な取り調べやらによるのだろう、と思っただけである。別にそれは「心理学」などではない、と言っただけだ。 しかし猿猿君はそれが気に入らないらしい。いったい君にとって大切なのは、冤罪事件の被害者を救うことなのか、浜田寿美男を英雄として祭り上げることなのか、まったく方向性を誤った動きをしているのだが、全然気づいていないようだ。 もう周
水上勉『飢餓海峡』(1963)を読んでいたら、「役不足」の誤用を見つけた。新潮文庫版下巻126pで「力不足」の意味で使われている。 (活字化のため削除) - 『ガラスの仮面』の月影千草は、山本安英がモデルだと言われる。つまり「紅天女」は「夕鶴」である。しかし、「紅天女」の作者尾崎一蓮は千種よりずっと年上で、自殺している。対して木下順二は、まあ確かに山本の「愛人」ではあったが、山本より年下で、山本より長く生きている。となると、これは『女の一生』の作者で、早世した森本薫と、その愛人でこれを演じ続けた杉村春子、とも言える。あるいは自殺したという点からは加藤道夫、とも言える。そうなると『なよたけ』になるわけで、まあそんな風にいろいろ綯い交ぜにしているということだろう。ただ残念ながら『なよたけ』は、一女優によるロングラン、にはならなかった。 杉村は『女の一生』を平淑恵に譲ったが続かなかった。森繁久弥
『週刊朝日』と『文學界』の連載のおかげで、東浩紀ってのはアニメとゲーム以外に碌な教養がないということが分かってきた。今月の『文學界』なんて、まるで修士課程の院生のレポートだ。「アウシュヴィッツのあとで詩を語るのは野蛮である」なんて、性格の悪いアドルノの思いつきでしかないだろう。『啓蒙の弁証法』なんてのもインチキで、いくら教育したってバカはバカってことでしかない。 だいたいヘーゲルからして出鱈目なんだからね。東の文章を見ていると、ああ留学したことがない奴だなというのがよく分かる。「スタンフォード日本センター」って別にスタンフォードにあるわけじゃなくて京都にある。 - これも東が言いだしたのじゃないかと思うが、「顕名」ってまあもとは法律用語を「匿名」とは違うものとして言うのだが、そりゃ十分に匿名の一種である。 筆名というのもあるが、じゃあ「狐」が筆名だと主張したら? 「東川端三丁目」なんてすで
『週刊朝日』で永江が、副島と植草の本を評して「陰謀論はおもしろい」と書いていて、ああそうかと目からウロコが落ちた。なんでみんなあんなパッチもんに本気になるのかと思っていたのである。もちろん、CIAやらユダヤの陰謀やらというのは、私には、松本清張の『高校殺人事件』みたいに、明らかに最初から怪しいやつが犯人であったように、ちっとも面白くないのである。 もっとも、往年の二時間ドラマ(今も?)のように、俳優によって犯人が最初から分かっている、というようなものが続いたのだから、庶民はそういう「お決まりのお話」が好きなのだろう。 80年代演劇というのが、ある劇作家=演出家の作品を観て、面白いと思い、別の作品を観ると「何だ、同じだ」と思う、そういうものであったことは周知の事実だ。野田秀樹にせよ鴻上尚史にせよ、要するに代表作ひとつ観ればそれでいいのだ。野田なら「小指の思い出」、鴻上なら「朝日のような夕日を
各新聞、村上春樹擁護派の連中が大活躍で書評しているが、小野正嗣の能天気なまでの礼賛ぶりには驚いた。それなら君ももう少し読まれる小説を書いたらどうかねと言いたくなるが、まあどうでもいい。 「週刊朝日」でいつの間にか連載が始まっていた東浩紀が、新作はおなじみの世界と言いつつ、内田ジュのごとくに村上春樹は正当に評価されていない、と言い、しかし売れるものだから無視するしかなかったと、またいい加減なことを書いている。村上春樹を批判しようとしても、マスコミが載せてくれない。とはいえ私は徹底批判しているのであって、そういう虚偽を垂れ流すのはやめてもらいたいものである。まあ、ポストモダンというのは、嘘をついてもいい思想らしいがね。 http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090617/1245167190 なんか東が答えている。もっとも私の名前は出さないという河野多恵子的姑息さを伴っ
仙台文学館から『井上ひさしの世界』のパンフレットを送ってきた。石原千秋、大江健三郎、樋口陽一、小森陽一らが寄稿している。見れば見るほどムカムカする。誰も「天皇」の「天」の字にも触れない。 私は『紙屋町さくらホテル』を褒めた(このパンフレットでは「神屋町」と誤植されているところがある)。しかし、純粋な観劇というのはないのであって、作者が天皇の茶会に行った時に、この劇は愚劇になったのである。 一時の気の迷いで行ってしまったなら、懺悔すればよろしい。しかるに、今度は藝術院賞恩賜賞を貰ったのである。恩賜賞である。いったい誰からの恩賜だと思っているのか。「恩賜上野動物公園」という不思議な正式名称のあの恩賜である。なくなってしまった恩賜の煙草の恩賜である。「あおげば尊しわが師の恩」の恩師ではない。 藝術院会員を辞退した大岡昇平を礼賛したのは誰か。小森や大江はどの口でこんな文学者を礼賛できるのか。いや、
巻頭には常連執筆者らによる寄稿が並んでいるが、平川先生だけほかの人の分量をはるかに超えてけっこう長いものを書いている。先日いただいたお手紙と重なる箇所もあるが、富士山を見て感動するのは神道的精神で、だから天皇は尊いとかいうものである。 しかし相変わらずな、すぐ見破れるトリッキーな文章も、やはりある。すぐばれるところがまた憎めないところでもある。というのは、1975年、美濃部−石原の都知事選の頃、天皇がなくなったら美濃部大統領とか石原大統領になるんだぞ、と誰かが言ったら、「それなら昭和天皇のほうがいいな」と新左翼の学生が言ったという。その当時「昭和天皇」とは言わないはずだし、事実の確認はできないが、まあそれはいい。続けて、日本を共和制にして小沢大統領でもいいという者はいないだろう、とある。いえ先生、ここにいます。 小沢でなくてもいいのだが、佐藤優もそうだが、こういう議論をする人は、意図的に、
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