自分で自分のスイッチを切る「役に立たない機械」 役に立たない機械(やくにたたないきかい、useless machine)とは、何らかの機能だけがあって直接の用途がない装置のことである。エンジニア的な「ハック」(そぎ落とすこと)の面白さや知的なユーモアの極致として、哲学的な主張がこめられているともいえる。何の機能もなかったり、そもそも正常に動作しない場合は、本項の意味での「役に立たない機械」とはみなされない。 「役に立たない機械」として最も有名なのはマーヴィン・ミンスキーのアイディアに影響を受けた装置だろう。ミンスキーの機械は、スイッチを入れると機械自身がそのスイッチをオフにするという、ただ一つの機能しか持たない。もっと凝った仕掛けがあったり、単なるノベルティ的なおもちゃのようなものであっても、根底にあるのはこのシンプルな「役に立たない機械」の思想である場合がある。 コロンビア大学教授のリデ
女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独 何分にも流行に疎いので、「ありのままで~~」とか「アナ雪」とかいう声があちこちから頻繁に聞こえていた頃は雑音同然だったものが、記録的興行成績をあげ、今もそれを更新し続けているアニメーション映画の主題歌とタイトルであると、最近ようやく知りました。 さらについ先日、主題歌の全体を聞く機会があり、興味を持ってストーリーの粗筋を読んでみたら、これがまた、時々「自己啓発」系や「人生訓」系の書物に出てくる、「ありのままでよい」という類の安直な主張を考え直す上で、格好の材料だと思いました。 まず第一に重要なのは、「ありのままである」ことは欲望であって価値ではない、ということです。それは基本的に、「ありのまま」であろうとする本人ではない他者に承認されたり共有されたりすることではありません。つまり「ありのままであるべき」とは、原理的に言えないのです。 なぜなら、もし他者
@schizoophrenie さんから頂いたコメントをきっかけに、*1 今の自分の理解のしかたについて、少し考えてみました。長くなったのでブログへ。 いつもながら的確なご指摘、ありがとうございます。あらかじめ決意があって 対象a による方針を拒絶したとかではなくて、「うまくいかなかった」というのが正直なところです。 20年ぐらい前にジジェクやマリーニ『ラカン―思想・生涯・作品』(原書)を通じてラカンに夢中になったあと、そのまま引きこもることしか出来ませんでした。 「そのつもりがなくとも生きてしまっている」、そうやって事後的に見つけ出されてしまうのが超越論システムではないでしょうか。私は、その事後的な気づきが形をとるときの強度を、重要なヒントにしたいのです。 この分節化は、能動的というよりは受動的に、取りつかれたように湧いてきます*2。 それを適切に社会に位置づけ、こうした分節が起きやすい
前の記事 無料配信で書籍の売り上げが増加:41冊の調査結果 「コンピューターと自分は一体」:実験で検証 2010年3月11日 サイエンス・テクノロジー コメント: トラックバック (0) フィードサイエンス・テクノロジー Brandon Keim (左)マルティン・ハイデッガー、(右)身体が道具を用いている際の全体的な相互作用の様子を図にしたもの。(A)は正常に機能する道具、(B)は機能しない道具を用いている場合。 Image credit: (左)WikiMedia Commons、(右)PLoS ONE。サイトトップの画像はwikimedia 一見単純な実験によって、偉大な哲学者の概念が検証された。その実験は、コンピューターのマウスを用いて、マウスが一時的に正しく機能しなくなるようにすることで、それを操作する人がどのような反応を示すかを調べるというものだ。 実験の結果、被験者の注意力に
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く