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ブックマーク / indai.blog.ocn.ne.jp (22)

  • 恐山あれこれ日記: 「無為」の作為

    「無為」の作為 お盆中に檀家さんの一人と四方山話をしていたら、彼がこんなことを言いました。 「方丈さんね、何か新しいことを始めるか、あるいは今までしてきたことをさらに続けるか、というようなことが議論になったとき、必ず『今それをする意味があるのか』と言い出す人がいるでしょ」 「いるねえ」 「でね、この『意味あるのか』で話が始まるとダメなんだよね。みんなが色々なことを言うようになって、なかなかまとまらない。でね、私はそういうとき、『それをしなかったら、どうなる?』という方に話を持っていくの。しなくても別にかまわないなら、それでいいんだし。不都合が生じるなら、それが行う意味だし。この方がまとまりやすい」 「なるほどねえ」 私は感心しました。確かに「意味あり」の前提で議論を始めると、要はそれぞれの考えようですから、意味のインフレーションになりやすいでしょう。 しかし、「しなくても構わない」を前提に

    恐山あれこれ日記: 「無為」の作為
    takets
    takets 2014/08/20
  • 恐山あれこれ日記: 女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独

    女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独 何分にも流行に疎いので、「ありのままで~~」とか「アナ雪」とかいう声があちこちから頻繁に聞こえていた頃は雑音同然だったものが、記録的興行成績をあげ、今もそれを更新し続けているアニメーション映画の主題歌とタイトルであると、最近ようやく知りました。 さらについ先日、主題歌の全体を聞く機会があり、興味を持ってストーリーの粗筋を読んでみたら、これがまた、時々「自己啓発」系や「人生訓」系の書物に出てくる、「ありのままでよい」という類の安直な主張を考え直す上で、格好の材料だと思いました。 まず第一に重要なのは、「ありのままである」ことは欲望であって価値ではない、ということです。それは基的に、「ありのまま」であろうとする人ではない他者に承認されたり共有されたりすることではありません。つまり「ありのままであるべき」とは、原理的に言えないのです。 なぜなら、もし他者

    恐山あれこれ日記: 女王の、「ありのまま」の、絶望的孤独
  • 恐山あれこれ日記: 言葉と体験

    言葉と体験 「仏教とは根的に言葉の問題だ」という言い方を時々していると、必ず「体験主義者」的人物から、同じような反論を繰り返し聞かされます。いわく、 「あなたは空の青さを言葉で言い尽くせますか? 無理でしょ。仏教の真理や悟りもそれと同じです。体験しない限り決してわからないのです」 たとえ上を向いて空の青さを見ていても、彼がそれきり何も言わなければ、「空の青」を見ていたかどうかさえわかりません。彼が「ああ青いねえ」と言い、別人が「そうだねえ」と言わない限り、「空が青い」かどうか、誰にも(人にも)わかりません。 何をどう体験しようと、体験それ自体は、徹頭徹尾、無意味なのです。「意味」を作り出すの言語であって経験ではありません。 他方、言語はそれが語ろうとする当の対象に原理的に届きません。「私」という言葉が、自分以外のすべての人物にも使われていることを考えれば、一目瞭然でしょう。「今」「ここ

    恐山あれこれ日記: 言葉と体験
  • 恐山あれこれ日記: 「自分大好き」何が好き?

    「自分大好き」何が好き? 概して宗教の持つ意味の一つは、超越的な存在との関係において人間を考えることです。この場合、「超越的な存在」とは、人間が経験可能なもの、理解可能なもの、換言すれば、言葉で定義できるもの、言葉で説明できるもの、では原理的にないものです。 ということは、そういうものとしての宗教は、超越的な存在と関係ない人間の在り方、すなわちただ単に「人間であること」を肯定しないわけで、決して「ヒューマニズム」ではあり得ません。旧約聖書で「原罪」を言い、仏典で「無明」を提示するのは、そういう意味です。 そうすると、宗教はまず、いわゆる「自分大好き」人間を肯定しないことになります。また同時に、「自分大好き」人間が当に存在するなら、それは宗教をまったく必要としない人間であり、それはそれで結構なことでしょう。 しかし、ここで根的な問題があります。それは、人間は何であるかわからないものを好き

  • 恐山あれこれ日記: 方法主義「真理」論

    方法主義「真理」論 「真理」そのもの、「事実」それ自体などというものは、存在しません。存在するのは、「真理だと思ったこと」「事実として認めたこと」です(何であれ人間の頭で理解できる言葉で表示するしかない以上、そうなるでしょう)。 ならば、「真理」や「事実」を語るということは、どうしてそう思ったのか、いかにしてそう認識したのかを語ることでなければなりません。すなわち、いかなる方法を使用して「真理」や「事実」を構成したのかを明らかにすることが核心的な意味であるはずなのです。 この事情は、「宗教的真理」だろうが「科学的真理」だろうが同じです。そこに至る方法が語られてはじめて、「真理性」と「事実性」が方法限定的に担保されるわけです。 方法を語ることとは、「科学的真理」なら理論構成や実験過程などの検証、「宗教的真理」ならば超越的存在の証明や修行方法との整合性の確認などを意味するでしょうが、これは所詮

    takets
    takets 2013/05/30
    「真理」を語るという方法がどういう条件下で正当化されるのかをあれこれ議論しなければならないなら、その時点で「真理」は「仮説」に過ぎなくなってしまうからです。
  • 恐山あれこれ日記: 頭を涼しく

    頭を涼しく 最近、巷では、あちこちで「成長」の大合唱が聞こえてきます。どこぞの洋服店の社長などは「成長か死か」などと、脅迫めいたことを言い出しているらしく、ずいぶん物騒な世の中になったものです。 ところで、この「成長」とは、要するに「経済成長」のことであって、「社会の成長」にも、むろん「人間の成長」にも関係ありません。 今のところ見えている「経済成長」路線は、世に大量の金を溢れさせ、一種の麻薬的興奮状態を「元気」と錯覚させて時間を稼ぎ、女性を過労死する男並みに働かせることで、市場の取引規模を膨らませることのようです。 むろん、女性を働かせる程度の市場拡大は取るに足りません。命は、少子高齢化で縮小する市場規模を一気に拡大するため、国内市場を海外市場に直結させ、物と金と人の流れに制限をなくすことでしょう(すなわち「グローバル化」の推進)。 そうすると、経済は無国籍化しつつ拡大していくのに、い

    takets
    takets 2013/05/23
  • 恐山あれこれ日記: 運動する『正法眼蔵』

    運動する『正法眼蔵』 春秋社という出版社が企画した『現代語訳道元禅師全集』の完結・刊行にちなみ、この社の雑誌(『春秋』2013年2・3月合併号)に依頼されて、小文を載せました。 私が『眼蔵』をテーマに書くのは久しぶりで、一部で関心を呼んだこともあり、以下に転載してみます。実は、この雑誌には作家の高村薫氏も文章を出していて、ある読者から、「二人で平仄合い過ぎ」と言われてしまいました。 ◆  ◆  ◆ いわゆる「悟り」とか「見性」とかいうものが、まったく言語化できない特殊な経験なら(だったら、禅問答など無かったろう)、他人に伝達することが不可能だろうから、それ自体無意味である。人たった一人にしかわからないことは、妄想と区別できない。 反対に、もし「悟り」が十分言語化できるなら(だったら、禅問答は無駄だろう)、それは説明されたことを「理解」なり「解釈」なりすればよいわけで、「悟り」などという、

    takets
    takets 2013/04/20
  • 恐山あれこれ日記: 私の「被害者意識」

    私の「被害者意識」 4月6日。この日から数日は、いわゆる「爆弾低気圧」が日を席巻しました。被害や影響にあった方々には、お見舞いを申し上げます。 私は、福井の住職寺にいて、午後から大阪のある団体に依頼されて、講話をする予定になっていました。 前日の5日は、もう朝からテレビが6日以降の荒天を予報していて、交通機関の乱れも警告していたので、私は、主催者にお詫びと共にお願いの電話をして、講話とディスカッションで1時から4時半までであった日程を、1時間ほど短縮していただきました。 それというのも、翌7日は日曜日で、午前に法事が2件、午後に檀家のあつまる花まつり(お釈迦様の誕生日)の法要があり、その上、もう一件、どうしても外せない用事が重なって、是が非でもその日の内に福井まで帰らなければならなかったからです。 ところが、駅まで行ってみると、改札口に大きな掲示板が出ていて、大阪から福井方面の特急は、午

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    takets 2013/04/11
  • 恐山あれこれ日記: 「無明」のモデル

    「無明」のモデル 右手と左手の違いは、区別として一目瞭然で、誰も疑わないでしょう。しかし、もし誰かが「右手は左手より偉い」と言ったら、大概の人は「アレ?」と思うでしょう。なぜなら、「偉い」という価値判断の根拠が不明であるか、あったとしても正当とは考えられないからです。 さらにこのアイデアから、右利きによる左利きへの攻撃、抑圧、排除という行動に移れば、これはまさに差別です。つまり、簡単に言えば、差別とは、根拠不明か根拠に欠けた価値判断によって、人を攻撃し・抑圧し・排除する行為なのです。 ここで問題の核心は、差別行為の手前、「右手は左手より偉い」というような、根拠不明の差別的思想の段階にあります。あらゆる差別は、価値判断を伴い、そのような判断を正当化する思想を持つのです。 しかも注意を要するのは、差別的思想は、往々にして非常に見えにくいことです。たとえば、右左にしても、我々は「彼は社長の右腕だ

  • 「派遣」は職業ではない - 恐山あれこれ日記

    「派遣」は職業ではない 彼は若い頃から多彩な才能に恵まれていました。それを見込んで、多くの人から様々な仕事を依頼され、それに対して人並み以上の出来栄えで応え、相当の尊敬と収入も得ていました。 私は彼の才能を讃え、その働きぶりを称賛しました。そうしたら、彼はポツリと言いました。 「でもね、そろそろ業を決めなければと思うんですよ」 私は聊か驚きました。彼にしてなお、そう思うのか。 彼の言葉は、近代以後の社会において、「自分が何者であるか」ということが、特定の「職業」によって決定されていることを、端無くも物語っているのです。逆に言えば、今の社会では、「業」が曖昧な者は胡散臭い人間で、「無職」であることは「一人前の社会人」として認められないことを意味しているのです。 彼の話を聞いたとき、私にはふと思ったことがあります。 たとえば、話の流れで、誰かに「ご職業は?」とか「お仕事は何をなさっているの

  • 恐山あれこれ日記: 和尚のトラウマ

    和尚のトラウマ 昨今の青少年の様子を見て、またぞろ学校で「道徳教育」を強化したり、はたまた「徳育」なるものを始めようと考える人たちがいるようですが、彼らの気持ちは察しますが、おそらく無駄でしょう。 なぜなら、道徳は、理解するのではなく、感じるものだからです。学校の授業による「教育」では、所詮は理解までしか及びません。 「命の尊さ」や「親のありがたさ」や「友達の大切さ」を、いくら生徒に「教育」しても、彼らは感想文に「・・・のお話で、命の大切さがよくわかった。これからは一瞬一瞬を無駄にせず生きていこうと思う」などと、おざなりに「わかったこと」を書くだけで、解いた問題の答えを忘れるように、忘れるでしょう。 学校で「命の尊さ」を教えたければ、教えられる彼らが「尊ばれている」と感じることが先なのです。 さらに言うと、「道徳教育」を叫んだり、実際に行ったりする人たちが、人並み以上に道徳的であることは、

  • 恐山あれこれ日記: 「夢も希望も」無くて大丈夫

    「夢も希望も」無くて大丈夫 「あなたは、『夢や希望それに個性なんて要らない』と、あちこちで言っているそうですね」 「その言い方には語弊があります。私は『夢や希望や個性などは、無くてもかまわない』と言っているだけです」 「どうしてそう天邪鬼なことを言うんですか。性格悪いですね」 「もともと性格がよいとは思いませんし、天邪鬼と言われればなかなか反論もできませんが、私の場合、世間で疑いもなく正しくよいことのように大声で宣揚されるアイデアは、どうも信用できないのです」 「どうして?」 「圧倒的多数が是として主張するアイデアは、むしろ主張させられているというか、主張するように仕向けられているように思うのです」 「誰がそうさせているというのです?」 「特定の人間ではありません。いわば社会システムです。『夢や希望』、『個性』などの場合なら、市場経済のシステムです。私には、『夢や希望』、『個性』の主張が、

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    takets 2013/02/01
    交易だろうが投資だろうが、すべての取り引きは、今ここに無いものに向かって我々を駆り立て続けます。したがって、我々の現在は萎え、阻喪し、市場化された人間は慢性的に『疲労』という実存の仕方をするでしょう
  • 恐山あれこれ日記: 「無常」の思考法

    「無常」の思考法 遅ればせにて恐縮ながら、明けましておめでとうございます。 大晦日からお正月にかけて、深夜テレビをつけると、毎年どこかで映画をやっています。私の場合、傑作と言われたり評判の高かった作品は、こういう時に偶然見て、あらためて感心することが多いのです。 今年も、除夜の鐘をつき終って、何気なくテレビを見たら、実に古色蒼然たる映画をやっていました。それが高倉健主演の「唐獅子牡丹」(1966年公開)だったのです。 例よって非常に有名な作品でしょうが、見るのは初めて。これはすごい。勧善懲悪のステレオタイプ・ストーリーが驚くべき様式美で表現されていました。 実際にはありえないような登場人物の振る舞いや態度を、極度に様式化して美的濃度を高め、見ている側に非常に強烈な印象を与えるもので、能や歌舞伎に直結する表現方法だと思いました。高倉健と池部良が雪の舞う中殴りこみに向かうシーンなど、まるで歌舞

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    takets 2013/01/10
  • 恐山あれこれ日記: 根拠としての「否定」

    根拠としての「否定」 たいていの動物は黙って生まれてきます。少なくとも悲鳴はあげないでしょう。 ところが人間は生まれ出た直後から、泣き叫んでいます。これを人間の「悲しみ」の原初的な発現形態だとすると、「悲しみ」は喪失や欠如、不足から生じる感情でしょうから、人間という存在の根源には、喪失なり欠如があるはずです。 とすると、「私である」ということ、あるいは自意識という現象は、それ自体が喪失・欠如の「残余」としての意識態ということになります。言い換えれば、「私」とは「残余」の存在なのです。 問題なのは、この「残余」が、何の「残余」なのかわからない、ということです。何を喪失し欠如した結果の「残余」なのか、「残余」自体には原理的にわかりません。最初から「残余」でしかないものは、そもそも「残余」を自覚できません。 にもかかわらず、「残余」であるということは、まさに喪失した何かに対して存在することなので

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    takets 2012/11/20
  • 恐山あれこれ日記: 「終わり」は始まったのか?

    「終わり」は始まったのか? 少子・高齢化がこのまま進行する場合、日仏教における「檀家制度」が遠からず崩壊するか、少なくともいちじるしく脆弱になるのは確実で、したがって、これを基盤とするいわゆる「伝統教団」が消滅同然となるか、大きく組織構造を組み替えない限り存在意義を失うであろうことは、最早明らかです(ひと言おことわりしますが、私は「檀家制度が無くなった方がよい」と考えているわけではありません)。 この事実は、「伝統教団」にとっては一大事ですが、仏教にとっては特に問題ではありません。その存亡などは、仏教2500年の歴史からみれば、些細なエピソードです。 しかし、以下の報告は、仏教はおろか宗教も超え、「人間」の存在そのものを根源から問い直し、見方によっては決定的な「危機」に陥れると思います。 昨年、南カルフォルニア大学のセオドア・バーガー教授が、脳における記憶を司る部位である海馬を模倣したI

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    takets 2012/10/30
  • 恐山あれこれ日記: 人間/非人間

    人間/非人間 ある出版社の企画で、今年引退を表明された陸上のハードル競技選手、為末大氏と対談しました。以下は、そのときの私の発言の一部です(要旨)。 昨今のスポーツ界には、いわゆるドーピング問題というのがありますが、これは結局のところ、何が問題なのでしょうか。どうして禁止されなければならないのでしょう。 一つは、健康上有害だ、という懸念だと思います。ですが、これは有害でない薬物が発明されれば解決する問題で、いずれ可能になるでしょう。 二つ目は、ズルい、フェアではない、ということです。しかし、これまた、フェアにすればすむ話です。つまり、薬物使用や人体改造何でもありの、たとえば、「水泳・男子100メートル・薬物使用自由形」とか、「柔道・女子・機械化率30パーセント級」など、条件をそろえた「フェア」な種目をつくればよいのです。 そもそも、スポーツ競技は、「速い」とか「強い」とかいうことそれ自体に

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    takets 2012/10/22
     もし、この「速さ」「強さ」自体に対する純粋な欲望を突き詰めようとするなら、薬物や人体改造を拒否する理由はありません(この局面において、薬物使用と人体改造には、本質的な違いがありません)。
  • 恐山あれこれ日記: 笑えない時代

    笑えない時代 先日、ある大学の教授と話す機会がありました。その教授いわく、 「いや、住職、私も大学に勤めて長いけれど、今年ほど学生が笑わない年はないね」 私、 「そうなんですか」 「そう。当に笑わない。今までだと、講義前や、それこそ講義中でさえ、男の学生の馬鹿笑いや、女子学生のキャッキャッという、にぎやかな声が聞こえましたよ。今年はそれがない。それどころか、私がこれまで講義中で言えば必ず学生が笑った冗談にさえ、今年は反応しない。」 「学生には厳しい時代になりましたからねえ」 「まあ、そうですね。レポートを出させても、みな真面目すぎるほど真面目に書いてくるんですよ」 「必死なんでしょう」 「そうなんでしょうが、私はもう一つ、理由があるような気がするんです。それはね、今年の学生なんかは、世の中にあまりにひどい嘘が多いことを、身にしみて味わってきた連中なんじゃないでしょうか」 私は、なるほど、

    takets
    takets 2011/11/22
    笑いというのは、そもそも筋の通った「真っ当さ」がちゃんとあって、はじめて成り立つものです。その「真っ当さ」を理解した上で、皮肉り、からかい、「真面目」の構造を脱臼させる。つまり、笑いには必ず批評の精神
  • 恐山あれこれ日記: その、深き欲望

    その、深き欲望 現に違う、別のものが二つ以上ない限り、「同じ」とは言えません。つまり、違うことは事実ですが、同じであることは観念です。 観念ならば、要は考え方であり、考え方であれば、人それぞれで、「最初から絶対に正しいアイデア」なぞ、望むべくもありません。どの考え方を採用するかは、各人の好みと必要です。 アイデンティティー、すなわち「自己同一性」というのも結局はそうです。昨日の「私」と今日の「私」が「同じ」であることの根拠は、「私」自身の中をいくら探っても出てきません。 人間は「私」であることを課せられ強制されて「私になる」のですから、これを維持するのも大変です。事実として無根拠なら、観念で代償しなければ、まずやっていられません。 家族と地域社会が安定している間は、「家族の一員」や「地域社会のメンバー」として、いわば「共同体の一器官」としての「役割」がそれを果たすでしょうが、これが「人の

    takets
    takets 2011/10/12
    人間は「私」であることを課せられ強制されて「私になる」のですから、これを維持するのも大変です。事実として無根拠なら、観念で代償しなければ、まずやっていられません。
  • 恐山あれこれ日記: 無常、無記、空

    無常、無記、空 仏教で「無常」あるいは「無我」というとき、私が考えることは、 「この世ははかないなあ」などという詠嘆でも、 「一切のものは一瞬もとどまることなく、移り変わっていく」という諦念でも、 「あらゆるものには実体はなく、様々な要素の寄せ集めである」という見解でもありません。  私が考えていることは、そのような物言い、判断や考え方には、その正しさを無条件的に保証する根拠が欠けている、ということです。 つまり、私がいう無常とは、「すべては無常である」という判断も含めて、一切の判断それ自体に確実な根拠はなく、その反対の考え方、たとえば、 「無常と見える現象の背後には、それを成立させている普遍的で絶対的な何か、理念や法則が存在する」 という考え方を、頭から否定する理由はない、ということです。 ということは、事実上、私は、「無常」「無我」を、形而上学的な命題に対して判断を停止する「無記」のア

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    takets 2011/08/10
  • 恐山あれこれ日記: 「他者」を問う方法

    「他者」を問う方法 およそ宗教には、その信者や修行者が遵守すべきルールがあり、「戒」とか「戒律」とか呼ばれています。 仏教では、出家修行者や信者が個人的に自らを律する規範を「戒」と呼び、僧侶集団の運営規則を「律」と呼びます。 ユダヤ・キリスト教には、有名な「モーセの十戒」があり、これは神からの命令としてモーセが受け取った規範であり、これを遵守することで、神との契約が成り立つ、ということになります。 このうち、条文の表現や適用条件はともかくとして、戒の内容として共通する部分を抽出すると、実質的な内容として「殺してはならない」「盗んではならない」「嘘をついてはならない」「邪な性行為(姦淫)をしてはならない(仏教の出家者の戒としては性行為をしてはならない)」、ということになるでしょう。 これらの四つの「戒」は、およそ古今東西のどの人間社会でも、掟や法律によって禁止されているでしょう。 このうち、

    takets
    takets 2011/05/20
    たとえば、「自分は、殺すことをこのような行為と考え、かくのごとき理由で、これらのものを、殺さないと決めた」と自覚することです。その戒を神や集団から課されたものではなく、自ら引き受けたものとして、覚悟し