童謡、民謡をヒップポップに 若者ブレーク 2008年04月05日 若いパワーを地域の活性化につなげる新しい祭り「舞祭(まいまつり)」が茨城県内で広がっている。童謡や各地ゆかりの曲を、ヒップホップなどにアレンジし、地元の小中高校生がダンスで競演する。現在県内7地域で祭りが生まれ、70チーム2千人が参加。親や祖父母など3世代にわたり、地域間の交流にもつながっている。(中村真理) アップテンポでノリノリ 「ひたち舞祭」 「シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ」 童謡の歌詞が米国で生まれた若者の音楽ヒップホップのリズムに乗り、幼稚園児から高校生までが軽快なステップを刻む。日立市の「ひたち舞祭」に参加する踊り手が、今週末の本番前に水戸市でダンスを披露した=写真。時折「それ、それ、それ、そいやー」と元気な声で合いの手が入った。 舞祭は、00年に東京で「大江戸舞祭」として始まり、その後、名古屋市や山形県山辺
川口義晴さんは数多くのアーティストをプロデュースしてきたが、今回と次回は忘れがたいフランスの名演奏家との録音を振り返っていただくことにした。今回は指揮者のエマニュエル・クリヴィヌとチェンバロ奏者のユゲット・ドレフュスである。いずれもフランスを代表する名演奏家で、川口さんとの録音活動によってその素晴らしさがようやく日本でも認められるようになった。 川口: そう、クリヴィヌにはまず伴奏指揮を頼んだんです。彼はフランスではすでに有名でしたが、僕はよく知りませんでした。僕は一時期、カントロフの家に居候していたんですが、部屋の中にあったカセットでたまたまクリヴィヌの演奏を初めて聴いたんです。『フィガロの結婚』序曲のライブでしたが、本当に圧倒されてしまった。フィガロ序曲なんて僕らは隅から隅まで知っているし、数え切れないぐらいいろんな演奏も聴いている。それを本当にびっくりするような演奏をしていた。それで
信教の自由を憲法で保障する一方で、イスラム教を国教とするマレーシアでは、さまざまなジャンルの音楽が、宗教的観点からふさわしくないとして、放送やコンサートに規制がかけられることがある。8月末にはカナダ出身の女性ロックシンガーで、日本でも人気のアブリル・ラビーンのコンサートが、中止の憂き目にあうところだった。【記事詳細】 どんな音楽もどこかしら政治を映しています。革命歌など政治そのものの中から生まれた音楽もあれば、その時代時代の政治に運命を翻弄された音楽もあります。国歌からクラシック、ロック、歌謡曲までを取り上げ、そこに秘められた政治の物語を紡いでいきます。 ■週末ならではの読み物満載! ウイークエンド「MSN産経ニュース」
伝説のヘビーメタルバンド・メガデスの元ギタリストがヒットの秘密に迫る。日経エンタテインメント!の人気連載がWEBにも進出! 著者 マーティ・フリードマン 90年代、ヘビーメタルバンド、メガデスのメンバーとなりアルバムセールスを1300万枚超えの世界的なスーパーバンドへと導いたギタリスト。その後、J-POPに興味を持ち、メガデスを脱退。活動の拠点を東京に移し、ミュージシャンやプロデューサーとして活動している。11年9月には好評のJ-POPカバーアルバム第2弾『TOKYO JUKEBOX2』を発売した。発売中のSMAPの最新アルバム『GIFT of SMAP』(ビクター)では、木村拓哉のソロ曲『La+LOVE&PEACE』の作・編曲とギター演奏を担当するなど、他のアーティストへの楽曲提供、アレンジ参加など多数。日本の音楽や日本語の魅力について、外国人やミュージシャンならではの視点で様々なメディ
小田和正氏作詞・作曲の 『この道を行く』 を初披露! 理工学部2年 引土(ひきつち) 慎也 早稲田大学グリークラブ創立100周年の記念愛唱歌として、校友でもあるアーティストの小田和正氏に合唱曲の作詞・作曲を依頼し、快く引き受けていただいた。さらに、初披露となる今回の第55回定期演奏会では、ステージ上で指揮を振っていただき、それどころか、普段の練習にも早稲田まで足を運んでくださったのである。 初めて小田氏を前にして、この曲を学生の指揮により披露したときには、ほとんどの団員は、緊張のあまり、戸惑いながら声を出し、その気持ちが、そのまま演奏に反映されてしまった。 そんな歌を聴いた小田氏は、練習をいったん中止して、僕らのために突然ピアノを弾き始め、代表曲『言葉にできない』を歌ってくださった。その感動こそまさに「言葉にできない」瞬間であった。人を感動させる歌い方とはどういうものかを実感でき、観客の皆
かつて、満州(現中国東北部)の日本人に親しまれた唱歌(満州唱歌)があった。その数は百曲以上。大正の終わりから昭和にかけて北原白秋、山田耕筰、野口雨情といった内地(日本)の巨匠や園山民平に代表される満州在住の音楽家が競って唱歌を作り、満州の学校現場へと送り出したのである。 ただ、戦後、間もなく六十年。もはや満州唱歌を知る人も少なくなった。また、自虐史観に支配された戦後教育の影響で、「満州」のことを封印せざるを得なかった、という人もいる。いずれにしても、満州唱歌は、やがて消えてゆく運命にあったに違いない。 だが今年初め、産経新聞に届いた満州出身者からの、たった一通の投書が、満州唱歌を見事に甦らせることになった。そこには満州で暮らした日々に重ねた唱歌の懐かしい思い出が綴ってあった。紙面に掲載すると、大反響になって返ってきた。一通の投書が、満州で生まれ育った人たちの記憶を呼び起こし、心を揺り動かし
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