原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】 【毒ガス原材料の積出し(岡田さんの画集から)】 広島県三原市の元美術教諭、岡田黎子(れいこ)さん(86)は、高等女学校に通っていた1944年秋、瀬戸内海の大久野島(同県竹原市)へ動員学徒として派遣された。旧陸軍は29年からこの島で、国際法で禁じられた毒ガスを極秘裏に製造。日中戦争で生産量は急増し、最盛期には5000人以上が島で働いたとされる。 「ここで見聞きしたことは、家族にも言ってはいけない」。軍人からそう厳命され、何を作っているかは一切知らされなかった。 ある時、空襲時に使うようにと配られたガスマスクを試着した生徒が「顔がひりひりする」と騒ぎに。周辺