99.08.07 カゲロウ、その後 このひとりごとの初回で、「徒然草」にみえる並立の言い方について書きました。 「かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬ」という句は、カゲロウが夕方を待っているのではなく、「夕べを待ち」はその後の「……ぬ」にかかって、「カゲロウは夕べを待たずに(夕べが来る前に)生を終える」ということだという考えを記しておきました。 じつはこの解釈は、主だった注釈書では明示されていないのです。どうやら注釈者の先生方はこの係り方に気付いておられないらしい、と内心にんまりしていた。 ところが、小西甚一氏『国文法ちかみち』を見ると、ちゃんと書いてありました。何のことはない、40年も前に言われていたことであったわけです。 「カゲロウが夕方を待つし、夏の蝉が春と秋を知らないようなのもあるのだ」と訳したら、もちろん大減点。原文の意味するところは、カゲロウが夕方を待たないというのである
99.07.30 昔の東大の入試問題 国文学の権威・小西甚一氏は、過去にいくつか受験参考書を著わしています。その一つが『国文法ちかみち』(洛陽社)。初版は1959年といいますから60年安保より前に出版された「参考書の古典」ですが、その後も部分的に改訂されて今日に至っています。 日本古典・日本語文法に関する深い造詣に支えられた書物で、大学の日本文学科で演習に使ってもよい内容だと思います。 執筆姿勢は参考書としては革新的です。文法は学説が動くものだ、「ぐらぐらするからGrammarなのだと御承知ねがいたい」(「まえがき」)とあるように、ある説を丸暗記させようとはしないところに特色があります。「文法を勉強するほんとうの目的は、ものごとの「すじみち」を通す考え方の訓練だ」(p.77)ともあります。 現在の学校での文法教育は、マルバツで採点をしなければなりませんから、こういう参考書はおそらく評判が悪
ネット時代に生まれる、新種の「田舎の秀才」について 情報過多な時代では、情報が多すぎるために視野狭窄を起こしてしまう、という問題については以前にも軽く触れたことがある。これに「田舎の秀才」という言葉で具体的なイメージを作れそうなので、ちょっと整理&考察してみたい。 似た意味の言葉で「井の中の蛙 大海を知らず」というのもあるけど、この言葉から喚起されるイメージはリアルでない(何しろ井戸でカエルだし)。より具体的な人間像が見える言葉として「田舎の秀才」を使いたい。 なお、「井の中の蛙〜」は主に狭いコミュニティ内での権力者、という意味で、自意識や能力の問題が主になる「田舎の秀才」とは問題が違う、という解釈もできると思うが、以下ではこのあたりの権力、能力(知)、自意識の問題をゴッチャにして扱う。 「田舎」とは、「田舎の秀才」とは何か? 「田舎」にもいろいろな意味があるが、ここでは、都会(中央)から
普通の牛乳がイチゴやバナナ、チョコレート風味になってしまう、不思議なストロー、知っていますか? 「ドラえもんの道具みたい」というと大げさだけど、そんな楽しいストローが、6月22日より、モスバーガー各店舗で発売されるというニュースが先日、報じられた。 牛乳と合わせて飲む粒入りのストロー「sipahh(シッパー)」だ。 これ、2005年にオーストラリアで発売され、現在では世界25カ国以上で発売されているそうで、海外暮らしの経験のある人などは、 「日本でも買えることになるなんて!」と喜んでいた。 でも、実際、どんなもの? どう味が変わるの? 初日には、この魔法のストローを求めて人が押し寄せたりしないだろうか。 期待に胸はずませ、モスの店舗に足を運んでみると、店内は特に変わったふうもなく、個包装のストローが、レジ前にちんまり置かれていた。1本50円。 「6つください!」 とりあえず3種の味を2回ず
474 水先案名無い人 sage 2007/06/21(木) 03:39:01 ID:gGU3P5gL0 ある大学でこんな授業があったという。 「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。 その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。 「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。 「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。 そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。 そしてもう一度聞いた。 「この壺は満杯か?」学生は答えられない。 一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。 教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。 それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。 「この壺はこれでいっぱいになったか?
大変申し訳ありませんが、該当ページがございません。 トップページへご案内いたします。 このページをブックマーク登録されていた方は、お手数ですがブックマークの変更をお願いいたします。 戻る
「脳とクオリア:なぜ脳に心が生まれるか」(茂木健一郎、日経サイエンス社)。魅力的なタイトルだ。人になぜ意識があり、心があり知能があるのかは、未だ謎である。人工知能的なアプローチは先が長そうだし、脳自体の研究の成果もまだ断片的で、認識や記憶の仕組みすらよくわからない。核心に迫るには当分かかりそうだ。そこへいきなり本丸の「心」についての理論! 「なぜ脳に心が生まれるか」! それが \3,200! 徳間じゃなくて日経サイエンス社から出てるんなら、そこそこまともな本だろうし…… が、まるっきり期待はずれなんだ、これが。「なぜ心が生まれるのか」は結局説明されないばかりか、その見通し仮説すらろくに出しやがんねぇ。JARO に言いつけるぞ! 「クオリア」というのは、人間がいつも感じている、ことばじゃ表現しきれない生々しいアナログな感覚のこと。それを「『神経細胞の活動から説明することが、心と脳の問題の核心
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く