2009年6月12日のブックマーク (16件)

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    聖蹟桜ヶ丘へ 今年度の授業が全て終了した。最後の授業はテスト返却とその確認作業の後は特に何をしろとも言われていなかったので、『耳をすませば』の後半、お姉さんと雫が言い争いをする場面を生徒と皆で見た。 この場面。あの場面、お姉さんは雫に「今しなきゃいけないことから逃…

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    toriatori
    toriatori 2009/06/12
    自分の言葉を予言と言い切るとは不遜な/このエントリのような態度を自分もついとってしまうけど、傍から見ると痛いことがよくわかった。反省した。これから気をつける
  • 元スイーツ妊婦、「自然なお産」を考える。(その2 歴史や世代からの考察) - kobeniの日記

    前回、「自然なお産」が昨今、どのようにメディア(主に女性誌)に登場しているかをまとめました。また、いわゆる「自然なお産」の定義(正式なもの等があるわけではないので、あくまで考え方の一例ですが)もまとめました。あれほどブックマークがあると思わなかったので、正直驚きましたが、内容うんぬんではなく、「出産」について公の場で何かが語られることが、「性」の問題同様にまだまだ少ないからなのかな。実は、男女問わず気になっている人は多いのかな。と感じました。 いまだ「自然なお産」について、何をどう結論付けようか迷っているところなのですが、色々調べている中で、ひとつ気がついたことがあります。それは、この「自然なお産」ブームの中で子供を産んでいる人というのは、ちょうどロストジェネレーション・就職氷河期世代にあたるということです。(※ロスジェネ=だいたい今の25〜40歳)もちろん、私も含めてです。歴史や世代など

    元スイーツ妊婦、「自然なお産」を考える。(その2 歴史や世代からの考察) - kobeniの日記
    toriatori
    toriatori 2009/06/12
  • 「レイプレイ」と言論の自由が何だって? - 長弘大樹研究室

    だから、陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、「表現の自由」を正しく行使せよ。それはつまり、「陵辱ゲーム」のような表現が、今もなお存在する圧倒的な性差別構造を解体するためにいかに有用であるか、ということを説明せよ、ということだ。 それをしない、できない、ということは、陵辱ゲームは一目で了解する限りの意味以上のものを含まないと、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。それは性差別そのものの表現であり、それ以上のなんらの意味を含まないということを、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし。上記引用部分を、ちょっと分解してみよう。 1.陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、「表現の自由」を正しく行使するべきである。2.圧倒的な性差別構造というシロモノが今もなお存在する。3.件において、陵辱ゲームの愛好家・擁護者が「表現の自由」を正しく行

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    織田信長 ぼちぼち、元気にやっています。少し薬にも慣れた...んかなぁ。相変わらずべられないけど。朝、指がこわばって文字なんて入力できなかったけど、それはほぼなくなった。関節もどこも痛くない。薬効いてきたんやろな。 で、ブログを書こうと言う気がまた起きてきた。 …

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  • 同性愛嫌悪や同性愛者へのヘイトクライムの実例が否認・反発されてしまうのは、「正常化の偏見」「認知的不協和」のせいなんじゃないだろうか - みやきち日記

    1. 同性愛嫌悪やヘイトクライムへの否認・反発 この日記に「LGBTニュース」というカテゴリを作って以来実感しているのが、どれだけ「このようなホモフォビックな事件がありました」「こんなヘイトクライムがありました」という実例を挙げても、 「たいしたことない」 「日は大丈夫」 「大げさに騒ぎすぎ」 「そんなのは特殊な例、一般化するな」 という反応が(時には怒りさえともなって)返ってくる、ということです。何故なんだろう、と常々考えていたのですが、これは、防災研究家の片田敏孝群馬大学教授の言われる「正常化の偏見」「認知的不協和」という概念で説明がつくような気がします。 2. 「正常化の偏見」とは 以下、片田敏孝教授の講演内容がまとめられている「自分だけは大丈夫」,セキュリティ対策を妨げる「正常化の偏見」:ITproより引用。 「自分にとって都合の悪い情報を無視したり,過小評価してしまう人の特性」

    同性愛嫌悪や同性愛者へのヘイトクライムの実例が否認・反発されてしまうのは、「正常化の偏見」「認知的不協和」のせいなんじゃないだろうか - みやきち日記
  • いわゆる「凌辱ゲーム」規制問題についてに備忘録

    いわゆる「凌辱ゲーム」規制問題についてに備忘録★公理の設定・男女とも人権は等しく尊重されるべきである。(性差による差別・虐待はあってはならない。)・「表現の自由」は守られねばならない。(有害危険でない限り「表現の自由」は規制されるべきではない。)・現実において犯罪・性犯罪はしてはならない。(これは規制派・擁護派双方がともに深く同意している筈である。) ■発端(?)日製「性暴力ゲーム」欧米で販売中止、人権団体が抗議活動 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)「少女を含む女性3人をレイプして妊娠や中絶をさせるという内容の日製のパソコンゲームソフトに海外で批判が高まっている。日での販売中止を求める抗議活動を国際人権団体が始めた。このゲームは2月に英国の国会で問題になり、ビデオ・書籍のネット販売大手「アマゾン」が扱いを中止した。しかし、児童ポルノなどの規制が緩い日では今でも

  • 女性差別や性被害に抵抗するために、陵辱ゲームの法規制にも反対する - わたしはパパの嫁になりたい。

    人権侵害と差別の定義については 法の文脈における「人権侵害」について - 雑記帳 ↑のエントリを参考にします。 「陵辱ゲームはそれを恐れる女性に対する人権侵害だと思うか」 A.それが性犯罪によって 作られた作品であるならば、 被害にあった方に対する 権利侵害であるとして 被害者人の訴えにより 認められると考えます。 それ以外の作品が 陵辱を題材にしている という理由で 個人への権利侵害として 認められる事は支持しないと 考えます。 「陵辱ゲームは女性全体への性差別風潮を助長する」という説を支持するか A.助長するかもしれないし しないかもしれません。 両方の可能性、 どちらかというと 助長する可能性はある と考えています。 ですが助長する可能性自体は 陵辱ゲームに限らず、 純愛を題材にした非ポルノや 女性向のポルノにも 充分あり得ると思います。 「陵辱ゲームは女性全体への性差別風潮を助長

    女性差別や性被害に抵抗するために、陵辱ゲームの法規制にも反対する - わたしはパパの嫁になりたい。
  • フランス憲法院、スリーストライクは基本的人権を侵害するので無効と判断 | P2Pとかその辺のお話

    P2Pとかその辺のお話 WinMXとかWinnyとか、日ではろくな扱いを受けていないP2Pですが、海外ではけっこう真面目に議論されてるんですよというブログ。 以下の文章は、TorrentFreakの「Legal Authority Kills French Three-Strikes Law」という記事を翻訳したものである。 原典:TorrentFreak 原題:Legal Authority Kills French Three-Strikes Law 著者:Ernesto 日付:June 10, 2009 ライセンス:CC by-sa 先月可決されたフランスのHadopi法は、継続的な著作権侵害ユーザに対する「スリーストライク」レジームを含む、海賊行為に対処するための厳罰的な手段を導入するものであった。しかし、フランス憲法の最高権威は今日、インターネットアクセスは基的人権であり、ス

  • 「俺の邪悪なメモ」跡地

  • プリントアウトして病院に行っても

    http://anond.hatelabo.jp/20090610225436 宗教とまでは言わないが、 最近増田界隈ではすぐに「診療内科に行けばいい」「精神科に行ってきなよ」という書き込みがされるのに違和感。 別に行ったからってそれだけで良くなるわけではないよ。 医者に行きさえすれば、というような、医者が万能だと思ってるかのような人が多いように感じられる。 「最近はメジャーになった」などと書かれているが、逆説的に、まだまだそういう医者に行ったことがある人は少ないのだと思った。 行って、通って、落胆した経験のある人は。 話を聞いてくれて、否定しないでくれて、症状を緩和させる薬をくれるけど、結局直すのは自分。 薬をもらって休むことはできる。運が良ければ考えを変えるきっかけになるかもしれないが、たいていはうまくいかない。一時的によくなっても、根的なところを変えねば難しい。

    プリントアウトして病院に行っても
    toriatori
    toriatori 2009/06/12
    「医者に行け」と書き込むことで安心できる人もいるのだから放っておけばと思う
  • 実名ブログの矜持 - 雑種路線でいこう

    このブログを開いてから実名と筆名と何度か揺れ動いたが、昨年のある段階から実名を使うようにした。契機は昨年の青少年インターネット利用環境整備法の動きに関連し、会社の手助けを借りて活動するようになった折、そこで知り得た情報をブログで取り上げる際に、人とブログとが紐づいていないと相手に対してアンフェアだと感じたからだ。悩ましい決断ではあったが、結果としては良かったと思っている。 昨年の今ごろ参議院に呼ばれたときも、渡した名刺に書かれた会社のアドレスではなくブログに載せているアドレス宛に連絡があったから、ああ読まれているのだなと気付いた。考えていることを折に触れてブログに書くことは頭の整理になるし、僕が何をどういう風に考えているか、興味を持ってくれている人々と共有できることはコミュニケーションとして非常に効率的だ。分からないことを分からないと書けば、関係者からメールで教えてもらえることもある。

    実名ブログの矜持 - 雑種路線でいこう
    toriatori
    toriatori 2009/06/12
    ブログ市長は“リスクを便益が上回”り“自分の考えを積極的に情報発信することの成功例”になるのかな
  • エロゲーと性差別 そのあと - シートン俗物記

    このエントリーは エロゲーと性差別 http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20090609/1244556324 の続きです。 色々とコメント頂きました。 特にまいさん。ブログ主より論点の明確なコメントありがとうございます。まさに仰るとおり、 逆にそれらの作品内で女性が性対象としての記号として扱われているからこそ、私は実際の性犯罪を想起するのです。 そのような状況では、実際の被害者の女性の存在をないがしろにするような発言は、まさに現実の女性をも意思をもつ尊重すべき人間として扱う気持ちがないかのように受け取られます。 この事が重要なのです。ゲーム自体が問題、というより、女性を「記号」として扱うゲームが受け入れられる社会が実際に女性を「記号」として扱っている事に対する懸念。この事をどう考えているのだ?というのが、再三あちこちで述べられている事なのです。 なのに、まだゲー

    エロゲーと性差別 そのあと - シートン俗物記
  • 「レイプレイ」と言論の自由、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    二つほど。 問題は「性暴力を助長する」ではなく「性暴力そのもの」 問題は、性表現一般ではないし、性暴力一般でさえなく、とりあえずは、性暴力を肯定する表現です。性暴力とそうでないものの境界が曖昧だとしても、問題になっているのは曖昧な事例ではなく、規制派も反対派も「性暴力の肯定的表現」と認識しているものです。そのような表現を、性暴力被害者に対して今なおセカンドレイプ的言説が繰り返される社会において流通させることの問題です。 で、表現は、表現であると同時に、直接の脅迫でありえます。わからないようだからハッキリ言いますが、「性暴力を助長するかもしれない」じゃなくて、それ自体が性暴力なんですよ。レイプが、身体の自由に対する直接の侵害であることは説明の必要はありません。では、脅迫はどうか。脅迫は、身体の自由に対する侵害の予告であって、侵害自体ではありません。しかし、侵害の予告をもって実際の行動の自由を

    「レイプレイ」と言論の自由、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。 『悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があのに冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ

    「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ - hokusyu’s blog

    まず事実として、陵辱ゲームの根底には、社会になお存在する性暴力の非対称性と差別的な意識があるということについて疑うことはできないでしょう。そのことをふまえて想像すれば、たとえば「黒人だけを撃ち殺すゲーム」は当然規制の対象になるでしょうが、「ゲームの黒人は現実の黒人と違うからいいんだ」とか、「オレはリアルでの差別はひかえるけど自然と湧き上がるこの差別感情は否定できないからせめてゲームで差別させてくれ」という理屈が通用するかといえばしないと思います。個人あるいはきわめてクローズドなサークルでやる分にはともかく(規制のしようがない)、少なくとも市場の流通には乗せられない。「黒人差別ゲームがなくなったからといって黒人差別がなくなるわけではない」という意見はある意味ではそのとおりでしょう。しかしやはりゲームは規制されると思います。 難しいのはもちろん、陵辱ゲームにおける性差別的な価値意識は、黒人殺し

    「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ - hokusyu’s blog
  • 「レイプレイ」と言論の自由、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    昨日の記事に付け加えることはあまりないのだけど、「読み解く」のは難しいのでしょう。同じ事を別様に言うというのは嫌いじゃないので、書いておく。 僕は「愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし」の述べているのだが、重要なのは前半の条件節の方。脚注でも述べているように、ここまでラディカル・フェミニズムをなぞって論を立てても、規制に100%賛成するわけではないのだ。僕は、どちらかと言えば、原則論的な「言論の自由」信奉者だ。規制には「最大限」反対。100%ではないけどね。 性も、性暴力も、暴力も、差別も、殺人も、その他どんなものであれ、表現の対象にしうる。表現したらいい。表現の内容は問題にしうる。問題にしたらいい。表現も、表現を問題にする言説も、原則としては、言論の自由という土俵の上で互いにぶつかり合うことができ、それを通じて、私たちの認識は磨かれる。それでこそ「言論の自由市場

    「レイプレイ」と言論の自由、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。