ブックマーク / www.tapthepop.net (20)

  • 悲しい色やね〜大阪弁、女言葉で綴られた名曲はこうして生まれた

    1980年代前半…日では“一億総中流”という言葉が生まれた。 そんな中、関西弁で歌われた一曲のバラードがヒットチャートを駆け上がった。 実力派歌手、上田正樹の歌唱によって1982年にリリースされた名曲「悲しい色やね」。 その歌が発売された年は歌謡界にとっても“豊作の年”と言われ、あみんの「待つわ」、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」、中島みゆきの「悪女」、忌野清志郎+坂龍一の「い・け・な・いルージュマジック」、一風堂の「すみれSeptember Love」、薬師丸ひろ子 の「セーラー服と機関銃」などなど、数々のヒット曲がチャートを賑わせていた。 上田正樹。 1974年に伝説のR&Bバンド“上田正樹とサウス・トゥ・サウス”を結成し、華々しくデビューするも…わずか2年でバンドを解散させてしまった彼は1977年からソロ歌手としてキャリアをスタートさせ

    悲しい色やね〜大阪弁、女言葉で綴られた名曲はこうして生まれた
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    toronei 2021/08/17
  • 日吉ミミが”ヨノナカバカナノヨ”と歌った回文による歌謡曲~「世迷い言」

    日吉ミミの「世迷い言」は、昔から伝わってきた「タケヤブヤケタ(竹藪焼けた)」「タイヤキヤイタ(たい焼き焼いた)」などの回文を使った歌謡曲で、テレビドラマの挿入歌として作られた。 1978年に作られた連続ドラマの『ムー一族』(TBS系)は、全編を通してナンセンスな笑いとシュールなギャグが出て来る作品だった。 たとえばトップ・アイドルだった郷ひろみ扮する主人公の”拓郎”が、「たまには気のきいた寝言でも言ってみるか」と、こんなことを呟いたりする。 「シンブンシ、タケヤブヤケタ」 『ムー一族』の放送が始まると、「私も考えました」と視聴者からテレビ局にはがきが届くようになった。 番組のプロデューサーで演出家でもあった久世光彦は、上から読んでも下から読んでも同じという回文について、こう語っている。 「宇津井健氏は神経痛」とか、いろいろ回文をやりましたよ。そういう馬鹿馬鹿しいことを一生懸命考えるのが大好

    日吉ミミが”ヨノナカバカナノヨ”と歌った回文による歌謡曲~「世迷い言」
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    toronei 2020/06/05
  • 忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”

    「ぼくの好きな〜」がヒットする前後、オレたちは初めて全国ツアーみたいなものを経験したよ。楽しかった。~忌野清志郎 1971年に「月光仮面」をヒットさせたモップスが、井上陽水とRCサクセションを前座に連れて全国をコンサートで回ったのは、その年の秋から翌年にかけてのことだった。 一緒にまわった忌野清志郎がその時の経験について、以下の発言を残しているのだが、自分たちのことを「ホリプロ三羽ガラス」と自称していたことには驚かされる。 テレビのオーディション番組『スター誕生!』出身の森昌子がデビューしたのは1972年の7月で、その翌年になって石川さゆり、山口百恵からなる「ホリプロ3人娘」が出揃うのは、”全国ツアーみたいなもの”が終わってから1年以上も後のことなのだ。 モップス…、そう、あの鈴木ヒロミツが在籍していたバンド。それと今、アレンジャーやってる星勝もいた。モップスは「月光仮面」がヒットしてさ、

    忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”
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    toronei 2019/05/02
    モップスも日本の音楽史の重要さほど語られないよなあ。
  • 「愛のさざなみ」は、なぜロス・レコーディングされたか?~名ドラマー、ハル・ブレイン起用で島倉千代子をよみがえらせた浜口庫之助

    オールマイティの才能 ステージに立ち、曲を作り、そして歌詞を書いた。 遊び心にとんだ明るい人柄からハマクラさんの愛称で親しまれ、ヒット・メイカーとして数々の伝説を残した浜口庫之助(1917~1990)。 生まれは神戸。父親は貿易商だった。 著書によれば、洋館の家にはガス燈がともり、裏庭にはテニスコートがあった。両親はクリスチャンで、日曜日には教会に行き、姉のピアノで讃美歌を唄った。音楽好きでハイカラな一家に育ち、5歳にして譜面が読めた。 小学校2年の時に一家で上京。旧制一高を目指すが、受験に失敗、親に内緒で音楽の道に走る。 1936年、初めて就いた仕事は、新宿のダンスホールのバンド・ボーイ。煙草の使い走りもいとわなかった。 流行り始めていたラテンに影響を受け、ラテン・バンド「浜口庫之助とアフロクバーナ」を結成。マラカスを振りながら自らステージに立つ。 初舞台は「NHK紅白歌合戦」。それも1

    「愛のさざなみ」は、なぜロス・レコーディングされたか?~名ドラマー、ハル・ブレイン起用で島倉千代子をよみがえらせた浜口庫之助
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    toronei 2019/03/13
    しかし後世の評価があまり高くないと言うか、あまり語り継がれてないのがなあ。いまの60代ぐらいの人たちがいなくなったら、忘れられそうで怖い。
  • ボ・ガンボスの「トンネルぬけて」と山口冨士夫の「トンネル天国」をつないだ村八分

    ボ・ガンボスを結成することになる前のどんとは、京都が生んだ伝説的なロックバンド、村八分に歌い方も詩も全部が染まったという時期があったという。村八分との出会いについて、こんな文章を残している。(注1) おれは京都でバンドを始めたばかりで、来る日も来る日もボロボロの練習場でガンガン演奏してたのだが、ある日真っ黒い服を着た髪のボサボサ不気味な兄ちゃんが、フラフラと現れ、おれたちの演奏に合わせてマラカスをシャカシャカ振り始めた。 何も言わずにヨロヨロして兄ちゃんは、おれたちのライブにもやってきてずっとマラカスを振って、終わると「ありがとう。楽しかったワ」と言って去っていった。「誰や?あの人は」と聞くと先輩の男が「あれは村八分というスゴイバンドのボーカルやったチャー坊という強力な奴だ。」と教えてくれた。 それからしばらく経ってローザ・ルクセンブルグを結成したどんとは、1985年にヨーロッパを3ヶ月間

    ボ・ガンボスの「トンネルぬけて」と山口冨士夫の「トンネル天国」をつないだ村八分
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    toronei 2018/07/09
  • 吉田拓郎の歌と音楽から受けた衝撃で始まったあいみょんのソング・ライティング

    良質のフォークソングや歌謡曲の歌詞には、聴く者に風景や物語を想起させる力がある。 それはまるで歌詞とメロディによって、別世界へと誘われるような体験となって、一映画を見た後のような心地よさを聴く者に与える。 そんな60年代、70年代の歌にも通じる歌詞で注目されているのが、女性シンガーソングライターのあいみょんだ。 彼女のルーツは、幼少期に出会ったシンガーたちにある。 兵庫県の西宮市に生まれたあいみょんは父親が音響の仕事をしていたこともあって、幼い頃から音楽に慣れ親しんでいた。 そして歌と音楽に衝撃を受けたのは、まだ小学生の時だった。 昭和30年代から40年代の日を描いたアニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!大人帝国の逆襲』で、吉田拓郎の「今日までそして明日から」が流れてきた時に、心を掴まれたのだという。 そこから程なくして、父親の部屋に入ってCDをこっそり聴くようになる。

    吉田拓郎の歌と音楽から受けた衝撃で始まったあいみょんのソング・ライティング
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    toronei 2018/05/25
  • 「スペイン革のブーツ」と「木綿のハンカチーフ」

    ボブ・ディランと太田裕美。 ローリング・ストーン誌が選ぶ“歴史上最も偉大な100人のソングライター”において第1位となった男と、1976年に日で(山口百恵をおさえて!)最も活躍した女性アイドルとの間に“ちょっと面白い話”があるという。 1964年、ボブ・ディランが23歳の時にリリースした3作目のスタジオアルバム『The Times They Are A-Changin’(時代は変る)』に収録された楽曲の中に「Boots Of Spanish Leather(スペイン革のブーツ)」という歌がある。 その歌詞では、恋人同士の手紙のやり取りが交互に展開ゆく。 当時、ディランにとっての最愛の女性といえばスーズ・ロトロ。 2ndアルバム『Freewheeling’』のジャケット写真でディランと寄り添って歩いている女性だ。 彼女がヨーロッパ旅行に旅立った時の実体験をもとにディランはこの歌を作ったのだ

    「スペイン革のブーツ」と「木綿のハンカチーフ」
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    toronei 2018/02/14
  • 初来日したカーペンターズが「第1回世界歌謡祭」で味わった屈辱

    1970年11月20日から日武道館で開催された第1回東京国際歌謡音楽祭(翌年に世界歌謡祭に改称)は、日で初めて行なわれた国際的なポピュラー音楽祭である。 世界の38か国から選ばれた44アーティストが参加して、その日のために作られたオリジナル曲を披露するという試みだった。 司会は坂九と作家の藤義一、監修役の音楽プロデューサーとして名を連ねたのは石丸寛、いずみたく、中村八大、服部克久の4人。 この音楽祭の意義について、服部は事前の取材で「日のポピュラー曲を世界という鏡にうつして、その位置を知る貴重な機会」だと語っていた。 大きな円形舞台の中央には原信夫とシャープス・アンド・フラッツ、宮間利之とニューハードが揃っている。 日を代表するビッグバンドとオーケストラを作曲者が指揮し、歌手が歌って2日間の予選を行なった。 その合格者によって最終日に選が行われて、最優秀作にグランプリが与えら

    初来日したカーペンターズが「第1回世界歌謡祭」で味わった屈辱
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    toronei 2018/02/04
    なんか色々と納得できない記事だよな。カーペンターズは出場者じゃなくて、この時点ですでにゲストだったわけだし、素人による審査というのに新聞記者が皮肉ってるだけにも引用されてる記事も読めんことないし。
  • 細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道|TAP the STORY|TAP the POP

    隆がプロのミュージシャンとして音楽活動を始めたのは1969年の2月、細野晴臣に誘われてグループサウンズの「ザ・フローラル」にドラマーとして加入した時からである。 アマチュア・バンド「バーンズ」のドラマーだった松はベースがやめた際に、立教大学にベースのうまい人がいると聞いてメンバー補充のために、直に電話をかけて細野に面会を申し込んだ。 細野が20歳の大学生、松は慶應に通う18歳の高校生、その面会が初対面となった。 <参照>・細野晴臣はジミヘンの「ファイアー」と「紫の煙」を完コピして松隆のオーデションに臨んだ 慶応大学に進んだ松が、バーンズのドラマー兼マネージャーとしてディスコのハコバンなどの仕事をしていた時、複数のバンドを掛け持ちしていた細野からフローラルに参加しないかと声がかかった。松はオーディションを受けて、正式に加入することになった。 そこからフローラルはメンバー・チェン

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    toronei 2017/07/22
  • キャンディーズに提供した「やさしい悪魔」を直ちにセルフ・カヴァーした吉田拓郎

    1977年4月21日に発売になったLP『キャンディーズ 1 1/2〜やさしい悪魔〜』の帯には、「拓郎、ビートルズからラン・スー・ミキまで 話題の特別企画」というコピーがついていた。 3月1日にシングル発売されてヒットした吉田拓郎の作曲による「やさしい悪魔」のほか、ビートルズなど洋楽のカヴァー曲、メンバーが作詞・作曲に挑戦した楽曲が入った内容だったからである。 キャンディーズの格的なブレイクで湧いていたファンの間に、予想外の衝撃が走ったのは、その年の7月17日だった。 日比谷野外音楽堂のコンサートの最後に、彼女たちは涙を流しながら突然の解散宣言を行ったのである。 そんなキャンディーズにとって「やさしい悪魔」は、解散宣言を発表する以前に最も売り上げがあったヒット曲だった。 これは所属していた渡辺プロダクションの渡辺晋社長が、「3人を大人にしてくれ」と作詞家の喜多條忠に頼んだことで誕生したと言

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    toronei 2016/04/29
  • ジョン・レノンが亡くなる数時間前に最後の写真を撮っていたアニー・リーボヴィッツ

    1980年12月8日午前、ダコタ・ハウス。写真家が見た愛のカタチ アニー・リーボヴィッツ──彼女の名前を聞いて一体何を思い浮かべるだろう? あらゆるミュージシャンの表情をとらえたロックなカメラマン。 映画スターや経済人たちセレブリティ御用達のカメラマン。 最先端のファッションメディアで斬新なイメージを撮り続けるカメラマン。 政治戦争の代償を切り取るジャーナリストとしてのカメラマン。 世界中を年中飛び回るスターカメラマン。 そして家族や風景といった素朴な写真を愛するカメラマン。 そのどれもが彼女の当の姿であり、世界で最も有名な肖像写真家であることには間違いない。 アニーは1949年10月、大家族の三女としてアメリカのコネチカット州で生まれた。軍人だった父の影響で引越しが多く、そのたびに車に乗って移動した。幼い女の子は車窓というフレームを通して常に人々や風景を観察していたのだろう。ベトナム

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    toronei 2016/02/25
  • 「銀河一のアイドルのデビュー曲を作ってください」と菅野よう子からオファーされた松本隆

    隆トリビュートアルバム『風待ちであひませう』を手にして、制作に携わった人たちの思いが伝わってくるブックレットのなかで、詩人の最果タヒさんが書いた素敵な文章に出会った。 松隆の言葉は、歌われること、そしてそれを聴く人がいることを、知っていて、そうして生まれてきたものだった。だから、聴いていると、歌っていると、言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っている。 書かれてあるそれらの言葉、活字のリズムにハッとして嬉しくなった。確かに『風待ちであひませう』は最初から最後まで、どの曲も言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っているアルバムだった。 なかでも3曲目に入っていた「星間飛行」は、クラムボンの創りだしたサウンドと原田郁子のみずみずしいヴォーカルによって、オリジナルとは異なる風が感じられた。 アニメ『マクロスF(フロンティア)』の劇中で、瞬く間にシンデレラ・ストーリーを駆け上が

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    toronei 2015/06/28
  • 大阪で生まれた女〜30分を超える歌物語をヒット曲に導いたのはロック界の大物だった!

    1979年、当時25歳だったBOROはシングル「大阪で生まれた女」で歌手デビューを果たす。 きっと50代から60代の大阪人にとっては、今でも思い入れの強い楽曲の一つだろう。 オリジナルの歌詞が18番まである曲で、まともに歌うと30分を超える大作としても知られている。 1番から16番までに男女の恋物語が綴られ、最後の17番と18番ではBOROの人生観が語られている。 当時シングル盤にされたバージョンは、その中でも情景描写が秀逸な4番と6番の歌詞を中心に構成されていた。 ♪「大阪で生まれた女」/BORO BORO(ボロ)という名前の由来は、幼少の頃にオンボロ自転車を乗っていて付けられたニックネームだった。 それは70年代の中頃のことだった。 当時まだ20代前半だった彼は、北新地の夜の盛り場でギター1で弾き語りをしながら歌手デビューを夢ていた。 「大阪の若い人が歌える今風の歌がない」 客席から

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    toronei 2015/06/14
  • B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ

    Home Extra便 B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ - TAP the POP B.B.キング(B.B.King)のブルース 少年時代のB.B.はある日、お金を貯めようと思いついて、舗道に座ってギターを抱えてゴスペルを歌うことにした。すると、通り掛かった男が立ち止まって聞き入りながらハミングをし始めた。いい兆しだ。気分が良くなったので次々と歌い続けた。 「神のご加護がありますように」 男は上機嫌でそう言った。B.B.も同じ台詞を返してチップを待った。 「なかなかうまいぞ、坊主」 「ありがとうございます」 「その調子で歌い続けるこった」 男は肩をポンと叩いて行ってしまった。他の人々のポケットからも1セントたりとも出てこない。そこでB.B.少年は方針を変更。別の日に世俗の歌を弾いて歌ってみた。歌詞など覚えていないので、自分で適当に作った。ゴ

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    toronei 2015/05/24
  • 「帰ってきたヨッパライ」という”変な歌”で登場したザ・フォーク・クルセダーズ

    1960年代の後半から70年代にかけて、ラジオは若者たちにサブカルチャーを発見して紹介する役割を果たした。テレビは一家に一台くらいまで普及していたが、音楽に興味がある少年少女や若者たちはみんなトランジスタ・ラジオを聴いていた。 忌野清志郎が「トランジスタ・ラジオ」の歌詞に書いた通り、心のアンテナさえ感度が良ければ、小さなラジオは世界中からのメッセージをキャッチできたのだ。 アメリカ西海岸のベイエリアの南で歴史的なモントルー・ポップ・フェスティバルが開催され、オーティス・レディングとジャニス・ジョプリンがスターダムを駆け上がったのは1967年の6月だった。 それから半年後、モンキーズの「デイ・ドリーム」が全米チャートの1位を快走していた12月10日、飛行機が墜落する事故にあって、オーティスが26歳の若さで亡くなったという衝撃的なニュースが飛び込んできた。 ちょうどその時期に関西のラジオ局を経

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    toronei 2014/12/07
    この前例があるから「勝手にシンドバット」で世に出たサザンというのもあったんだよなあ。
  • 吉田拓郎が”音楽の師匠”と呼ぶ加藤和彦との出会いから生まれたヒット曲「結婚しようよ」

    吉田拓郎が、ただ一人「音楽の師匠」と呼ぶ加藤和彦と出会ったのは、予想していなかった意外な訪問からだった。 1971年に”フォークのプリンス”として若者たちに人気が出ていた拓郎は、自分がDJを務めていたラジオ番組でイギリスのフォーク・シンガーのドノヴァンに触れて、「ドノヴァンの弾いてるギターの音って、当にいい音してるよね」と発言した。 すると1週間ほどして加藤が訪ねてきて、ドノヴァンの弾いてるのとまったく同じ、1967年製のGibsonのJ-45を拓郎に譲ってくれたのである。 二人はそれまでもコンサートでは同じ舞台に立つこともあったが、特に親しい関係にあったわけではない。それなのに大事にしていたであろうギターを持って現れたことに対して、拓郎は「その時になんて気持ちの優しい男なんだろうと思った」と語っている。 ちなみにザ・フォーク・クルセダーズでデビューした加藤は、キャリア的には拓郎の先輩に

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    toronei 2014/12/07
  • 「イムジン河」のかわりに加藤和彦が作った「悲しくてやりきれない」の奥深さ

    ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」はシングル盤が発売される前日、東芝レコードの判断によって発売中止が決まった。 レコードは店頭に並ぶことなく回収されて、すべて廃棄処分になった。 それに代わって急いで作られた新曲が「悲しくてやりきれない」だったという話は広く知られている。 ただし、「イムジン河」のテープを逆回転させて作ったとか、譜面の音符を逆からたどったメロディだとか、作曲した加藤和彥の才人ぶりを伝えるエピソードは、少し面白おかしく誇張されたところがある。 〈参考コラム〉ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日人の歌になった フォークルのメンバーだった加藤は、ニッポン放送の重役・石田達郎から会議だと急に呼び出されて、重役室で「イムジン河」が発売できなくなったことを告げられた。 そして「加藤、次出さなきゃなんないから曲作れ」とその場で言われたのだ。 「ギ

    「イムジン河」のかわりに加藤和彦が作った「悲しくてやりきれない」の奥深さ
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    toronei 2014/12/07
    逆回転はさすがに物語臭いと思ってたけど、いきなりサトウハチローがなんで出てくるのかという謎は、ようやく出会えたなあ。
  • 大瀧詠一の「夢で逢えたら」が日本有数のスタンダード・ナンバーに至るまでの道のり

    数多くのヒット曲を残した大瀧詠一の作品の中でも、広くカバーされてスタンダードになったという意味では、「夢で逢えたら」が代表曲に挙げられる。 この歌が誕生したのは1974年の秋に、CMソングを担当した「花王ドレッサー」がきっかけとなった。女性シンガーのアン・ルイスがひとこと、「ドレッサーね」と語るCFが好評で続編が作られることが決まった。 そしてアン・ルイスが「♪ 髪にエーヨー」とCMで歌うことになり、彼女が所属する渡辺プロダクションからレコード用にも何か一曲、書いてほしいと依頼されたので、大瀧詠一はまもなく「夢で逢えたら」を書き下ろしたのだ。ところが事情があって、その曲は採用されずに宙に浮いてしまう。 アン・ルイス用に作られたデモ・テープを偶然に聞いたのが、吉田美奈子の担当ディレクターだった。彼がそれをいたく気に入って、「どうしてもアルバムに入れたい」と申し入れてきた。 1973年のはっぴ

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    toronei 2014/11/03
  • 細野晴臣はジミヘンの「ファイアー」と「紫の煙」を完コピして松本隆のオーデションに臨んだ

    1968年の春、細野晴臣は原宿駅前にあるビルの喫茶店に座っていた。 どこで細野の噂を聞いたのだろうか、突然の電話で呼び出されたのは前日のことだ。 「慶応の松という者ですが、ちょっとお話したいことがあるので、明日原宿まで出てきてもらえませんか?」 「あ、なんですか?」 「いや、ちょっとバンドの件で」 細野は立教大学の2年生で20歳、同窓の友達がやっていたビートルズのコピー・バンド、ドクターズから頼まれて助っ人として参加し、それまで担当したことのないベースを弾き始めて間もない頃である。 同じ時期に細野は学生たちが企画していたコンサート、「PEEP」という演奏会を通じて鈴木茂や林立夫、小原礼、浜口茂外也といったスゴ腕の高校生や大学生のミュージシャンとも知り合いになっていた。 その辺りから細野のことを知ったのだろうかとも思ったが、松という名前に心あたりはなかった。 約束の時間に店に入ってきたの

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    toronei 2014/11/03
  • 大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉とは?

    細野晴臣と大瀧詠一がはじめて出会うのは1967年の春先のことだが、きっかけはもう一人の友人との出会いだった。 その前年の秋、立教大学のキャンパスにある待ち合わせ場所で、細野は指定されたベンチに座っていた。立教高校時代からの友人から、「経済学部におまえみたいに音楽にうるさいやつがいるんだ、紹介するよ」と言われていたからだ。 やがて友人に連れられてやってきた男は、ポツリと「中田です」と名乗った。それからお見合いのような形でボソボソと、探りあうような会話が始まった。 「いまどんなの気に入ってるの?」「うーん、ポール・サイモンなんか、けっこう」――おっ、こいつはできるな。 「ちいさい秋みつけた」や「めだかの学校」「夏の思い出」などの作曲家、中田喜直の甥にあたる血筋に生まれた中田佳彦はギターが上手で、アソシエーションなどのソフト・ロック系にも詳しかった。 お互いの音楽への関心がわかって意気投合した二

    大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉とは?
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    toronei 2014/11/03
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