『知覚の哲学』(ちくま学芸文庫、7月10日刊行)でメルロ=ポンティがマラルメに論及しながら、〈詩的認識〉について述べているところがある。該当する箇所を引用しよう。 言葉は自然の事物を表意するためにつくられたものです。すでにかなり以前に、マラルメは言語の詩的用法を日常談話から区別しました。おしゃべりな人が事物の名を口にするのは、ただ「何が話柄であるか」を言うために、手短に事物を指すためでしかありません。これとは反対に、詩人は――マラルメによれば――事物のふつうの名称を別の名称と取り換えます。ふつうの名称は事物を「周知のもの」として指示しますが、詩人はこの種の名称を、事物の本質的構造を記述し、私たちをこの構造にはいり込ませるような名称で代替するのです。世界について詩的に語るということは(……)、ほとんど発言せず、黙っていることです。実際、マラルメが沢山の詩篇を書かなかったのはよく知られています