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  • 苫小牧港開発 - Wikipedia

    苫小牧港開発株式会社(とまこまいこうかいはつ、英文社名:Tomakomai Port Development Co.,ltd.)は、苫小牧港の港湾物流事業や、周辺の臨海工業地帯の工業用地造成などを行う第三セクター企業である。 1968年から1998年まで、新苫小牧駅と石油埠頭駅との間で鉄道輸送事業(苫小牧港開発株式会社線)も行っていた(路線廃止は2001年)。 沿革[編集] 1958年(昭和33年) 8月26日 - 会社設立。 12月12日 - 苫小牧市有地約197万平方メートル買取。不動産事業開始。 1962年(昭和37年)12月25日 - 臨海部国有地約351万平方メートルを買取。 1963年(昭和38年) 2月28日 - 苫小牧港石炭埠頭へ至る苫小牧市営公共臨港線(専用線・苫小牧貨物駅を参照)が竣工。同線の運行管理を受託。 4月1日 - 苫小牧操車場経由で三菱鉱業大夕張、三井鉱山芦別

  • 仁科盛信 - Wikipedia

    仁科 盛信(にしな もりのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。家紋は、割り菱紋と丸に割り菱紋。 末期に織田信長の甲州征伐に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続く中、高遠城(高遠城の戦い)において最後まで抵抗し、討死した。 諱は盛信のほか、近世の系図類・編纂物では「晴近」とする資料もあるが、父・晴信が将軍・足利義晴から授与された「晴」の偏諱を授与することは社会通念上ありえないことから、疑問視されている[2]。また、天正9年(1581年)5月7日付霊松寺宛禁制や『甲乱記』では「信盛」とする用例があり、天正9年2月から同年5月の間に、高遠入城を契機に改名した可能性が考えられている[2]。長野県歌『信濃の国』でも「仁科の五郎信盛」と歌われている。 生涯[編集] 信玄時代[編集] 甲斐国の戦国大名・武田信玄の五男[1]として生まれる。母は油川信守の娘で側室の油川夫人。異母兄に武田義信・勝頼

  • 御館の乱 - Wikipedia

    御館の乱(おたてのらん)は、天正6年(1578年)3月13日の上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって、ともに謙信の養子である上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となった。景虎と、景虎に加担した山内上杉家元当主・上杉憲政らは敗死した。 御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を越後に迎えた時に、その居館として春日山城下に建設された関東管領館のことで、後に謙信も政庁として使用した。現在の直江津駅近くに当時の御館の跡が御館公園として残っている。 上杉家の当主上杉謙信 相模国を拠点に関東支配を目指す後北条氏(以下、単に北条氏)は、甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏と三国同盟を結んだ。北条氏康は、信濃侵攻を行う北信地域において上杉方と抗争(川中島の戦い)を行っていた武田信玄と連携して北

  • 甲州征伐 - Wikipedia

    甲州征伐(こうしゅうせいばつ)は、1582年(天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領国である甲斐・信濃・駿河・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。 元亀3年(1572年)9月、甲斐の武田信玄は「西上作戦」を実行し[1]、武田軍は徳川領の遠江・三河へ軍事侵攻した。その結果、甲斐武田氏はそれまで同盟関係にあった織田氏との同盟関係が解消し、武田信玄は織田信長とその同盟者であった徳川家康と、敵対関係に入った。 元亀4年(1573年)4月、この武田軍の「西上作戦」は武田信玄の急死により終了し、その後、武田家の家督は武田勝頼が後を継いだ。この武田勝頼の時期に、東海方面の武田領に徳川家康の徳川軍が反撃・軍事侵攻し、武田軍と徳川軍で戦いが始まった。 天正3年(1575年)5月には三河の長篠城を巡って武田勝

    甲州征伐 - Wikipedia
  • 木曾義昌 - Wikipedia

    木曾 義昌(きそ よしまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭、伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)などがいる。 生涯[編集] 木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称しているが、そのような内容の系図が南北朝時代に作成されたのではないかと指摘されている[1](ただし直系の先祖は藤原北家秀郷流を称している)。 出自[編集] 天文9年(1540年)、 木曾義康の嫡子として誕生した。 当初は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗したが、弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田家に降伏した。 木曾氏が隣接する美濃・飛騨との国境地帯を押さえていたため、信玄は、義昌に三女[注 2]の真理姫を娶らせ[2]、武田家の

    木曾義昌 - Wikipedia
  • 紙火薬 - Wikipedia

    紙火薬(かみかやく)は、花火の一種。紙の上に少量の火薬を盛り付けた物で、打撃を加えて起爆させ、小さな爆発現象(火花、破裂音、発煙、等)を楽しむものである。シート状の平玉火薬と、ロール状の巻玉火薬の2種類がその代表格である[1]。 ピストルの形をした玩具(遊戯銃)やダーツ型の投擲玩具に装填し、起爆させて使用する(詳しくは後述)。 種類[編集] 平玉火薬[編集] 平玉火薬(ひらだまかやく)は、ミシン目の入った赤い紙に 5×10列の小粒の火薬を等間隔で配置してある紙火薬である。火薬類取締法施行規則において、一粒の直径が4.5ミリメートル以下、高さが1ミリメートル以下、火薬量が0.01グラム以下と規定されている。後述する「ジャンプ弾」やモデルガンなどに使用される。 モデルガン用としては輸入禁止となったコブラキャップの代用品として使用されていたが、1980年代以降に普及した国産のキャップ火薬にその地

  • 事業仕分け (行政刷新会議) - Wikipedia

    行政刷新会議が行う事業仕分け(じぎょうしわけ)は、国家予算の見直しにおいて、国民への透明性を確保しながら、予算執行の現場の実態を踏まえて、そもそも事業が必要か否かを判断し、財源の捻出を図るとともに、政策、制度、組織等について今後の課題を摘出するものである[1]。経済的視点のみに重点が置かれ判断されたため、批判が続出した[2]。 2010年度予算編成のために民主党政権が導入した手法である[3]。2002年、シンクタンク構想日によって地方自治体を対象として、その予算の無駄を明らかにするために行われたことが最初である。それを日国の予算編成にも取り入れようと、2009年11月に実施された。 事前に「仕分け人」によって対象事業が調べられ、一般に公開された場において、事業担当者とその事業の必要性その他に関する議論が行なわれ、「廃止」、「縮減」などの判定が下される。 行政刷新会議による事業仕分けは、

  • 伊勢鉄道伊勢線 - Wikipedia

    伊勢鉄道伊勢線を行く特急「南紀」号。 (鈴鹿駅、2007年8月8日) 伊勢線(いせせん)は、三重県四日市市の河原田駅から三重県津市の津駅に至る伊勢鉄道の鉄道路線である。 概要[編集] 関西線の名古屋方面と紀勢線の津以南を短絡する目的で[3]、日鉄道建設公団(鉄道公団)が「主要幹線」(C線)[注 1]として[4]、1965年(昭和40年)11月から建設を開始し[2]、1973年(昭和48年)9月1日に日国有鉄道(国鉄)の伊勢線として開業した[5]。それまで名古屋方面と津方面は亀山駅(関西線)経由で連絡されていたが、伊勢線の開業により、四日市 - 津間の距離(伊勢線経由で29.2 km)は従来より約9 km短縮、亀山駅での列車の方向転換(スイッチバック)も不要になったことから所要時間も急行列車は15分、普通列車は29分それぞれ短縮できた[6]。 しかし、開業後は後述の事情から線内の利

    伊勢鉄道伊勢線 - Wikipedia
  • 特定地方交通線 - Wikipedia

    特定地方交通線(とくていちほうこうつうせん)は、「日国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)に規定する地方交通線のうち、バス転換が適当とされた旅客輸送密度4,000人未満で、なおかつ貨物輸送密度が4,000トン未満の日国有鉄道(国鉄)の鉄道路線のことである。 「赤字ローカル線」と呼ばれたこともあるが、この中から、輸送密度等の条件を勘案して第1次・第2次・第3次廃止対象路線が選定され、廃止申請が取り下げられた2線を除く全ての対象路線が、最終的に廃止代替バスや第三セクター鉄道などに転換された。 なお、赤字線の廃線は国鉄分割民営化によって行われたと認識されることも多いが、国鉄にとって赤字線の問題はかねてからの懸案であり、国鉄分割民営化は1981年(昭和56年)に発足した第二次臨時行政調査会の翌1982年7月末の答申によって行われたもので、同時期に行われた国鉄再建策であるため混同されるが

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  • 藤川晋之助 - Wikipedia

    藤川 晋之助(ふじかわ しんのすけ、1953年 - )は、日の選挙プランナー、元政治家。大阪市会議員(2期)、減税日選挙対策事務局長・東京部事務局長・政策顧問、東京維新の会事務局長などを歴任。参謀役を務めた選挙は141戦11敗であるとされ、「選挙の神様」とも呼ばれる[1]。 来歴[編集] 大阪市出身。1969年に発生した東大安田講堂事件をきっかけに政治に目覚め、大学卒業後23歳で自民党田中派の代議士秘書となる[2]。 1991年37歳で自民党から大阪市会議員に初当選する(当時は藤川基之名義)。その後自民党を離党し小沢一郎率いる新生党に参加[2]。2期目途中の1996年に第41回衆議院議員総選挙大阪6区から旧民主党公認で立候補するが落選。1998年4月には三重県名張市の市長選挙に立候補したが、現職の富永英輔に敗れ落選[3]し、政治家の道を断念する[2]。 その後インドネシアで事業を手掛

  • 京急東神奈川駅 - Wikipedia

    京急東神奈川駅(けいきゅうひがしかながわえき)は、神奈川県横浜市神奈川区東神奈川一丁目にある、京浜急行電鉄(京急)線の駅である。駅番号はKK35。 歴史[編集] 1905年(明治38年)12月24日 - 中木戸駅(なかきどえき)として開業。当時は地上駅だった[2]。 1910年(明治43年)8月 - 横浜鉄道(現JR横浜線)の貨物線(現在廃線)を敷く際に高架駅となった[2]。 1915年(大正4年) 仲木戸に改称(改称された日は不明)[2]。 1936年(昭和11年)12月 - 待避設備が新設され、急行の待避を開始。だがそれは戦時中に撤去される[2]。 1945年5月29日 - 横浜大空襲で駅舎とともに焼失。 1957年(昭和32年)7月 - 駅舎を地上部に復旧。 1971年(昭和46年)2月 - ホーム有効長を6両編成対応に延長。 2004年(平成16年) - ペデストリアンデッキに直

    京急東神奈川駅 - Wikipedia
  • 花月総持寺駅 - Wikipedia

    改札口横に競輪開催日のみ開設される特別券売所があった(2008年9月) ホーム(2010年8月9日) 花月総持寺駅(かげつそうじじえき)は、神奈川県横浜市鶴見区生麦五丁目にある、京浜急行電鉄(京急)線の駅である。駅番号はKK30。 歴史[編集] かつて、花月園競輪開催日に限り夕方の急行が臨時停車を行っており、逗子海岸駅(後に新逗子に改称、現逗子・葉山駅)始発神奈川新町駅止まりの急行を京急川崎駅まで延長運転し、神奈川新町駅始発の上り臨時急行を運行していた[1]。1999年(平成11年)7月31日に実施された“京急ダイヤ全面改正”により、京急蒲田駅 - 新逗子駅間の急行が廃止されたため、当駅への臨時停車もなくなった。その後京急蒲田駅 - 新逗子駅における急行の運転は復活したが、運行開始時点で競輪場は閉場していたこともあり、当駅は全列車が通過している。 年表[編集] 1914年(大正3年)4月

    花月総持寺駅 - Wikipedia
    tsutsumi154
    tsutsumi154 2024/06/18
    副駅名に旧駅名があるのは面白い 仲木戸はどうなんだ
  • 総持寺踏切 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "総持寺踏切" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年11月) 総持寺側より見る 総持寺踏切(そうじじふみきり)とは、かつて横浜市鶴見区にあった踏切。 JR東日東海道線(京浜東北線)鶴見駅と新子安駅の間(キロ程:東京起点22K049M)に設置されており、種別は第1種甲踏切である。 かねてから時間を区切った通行規制(通行止め)がなされていたが、2012年4月1日6時をもって完全に廃止された[1]。 概要[編集] 朝夕のラッシュを除く日中でも5分近く閉まり続けることが多く、開かずの踏切として有名であった。 線路11を跨ぐ

    総持寺踏切 - Wikipedia
  • 龍円愛梨 - Wikipedia

    大学卒業後の1999年テレビ朝日にアナウンサーとして入社。アナウンサー在職中は「朝いち!!やじうま」等の情報番組に出演する一方、バラエティ番組「『ぷっ』すま」で『○○が水着に着替えたら…』や『物件拝見トレジャーバトル』などの進行役を務めた。 2006年(平成18年)4月より、テレビ朝日報道局社会部に勤務するようになり、同年6月末をもって完全に同局社会部に異動となった[1]。この事実は翌月までにテレビ朝日のウェブサイトでも公表され[1]、出演していたテレビ番組「週刊おかずのクッキング」も同年8月いっぱいで降板した。 2011年(平成23年)まで報道記者として活動した後、同年12月29日付で12年間勤務したテレビ朝日を退社した。

  • ファーストの会 - Wikipedia

    ファーストの会(ファーストのかい)は、日政治団体[注 1]である。東京都の地域政党「都民ファーストの会」を母体に、国政進出を目指し結成された中道保守政党である。 党史[編集] 2021年衆院選[編集] 2021年10月3日、記者会見で党名「ファーストの会」を発表し、都民ファーストの会代表・荒木千陽が新党の代表を兼任すると表明。同年中に行われる衆議院議員総選挙に東京都を中心とする小選挙区及び比例区の候補者公募をすることを発表した[4]。政治団体としては9月27日付で設立していた[1]。 同月11日、公式サイトで基政策を公表し、憲法への自衛隊明記や原発依存脱却、新型コロナウイルス対策のロックダウン(都市封鎖)を可能とする法制の整備や、海外からの入国者を対象とした水際対策の強化を提起。この他、若年層を対象とした所得税減税や、飲店を「原則屋内禁煙」とする都基準の厳格な受動喫煙対策を全国に展

  • 織田信次 - Wikipedia

    織田 信次(おだ のぶつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏一族で、織田信長の叔父にあたる。通称は孫十郎。官位は右衛門尉を名乗った。 生涯[編集] 尾張国の織田弾正忠家の当主・織田信定の子として誕生した。 兄の織田信秀に仕え、初め深田城主となる。天文21年8月15日(1552年9月3日)、信秀の死後に攻勢に出た清洲織田家・織田信友の重臣・坂井大膳らが、織田伊賀守の松葉城と、その並びにあった深田城を占拠し、伊賀守と信次は人質となった。翌16日、甥・織田信長と兄・信光が駆けつけ、萱津の戦いが起こり、大膳側を敗走させ、伊賀守と信次も解放された[1]。 天文24年4月20日(1555年5月10日)、信友が信長によって滅ぼされ、兄・信光が守山城から那古野城へ移ると、後任の守山城主となった。ところが弘治元年6月26日(1555年7月14日)、信次が家臣を連れて龍泉寺の下の松川渡し(現

  • 織田信包 - Wikipedia

    永禄11年(1568年)2月、兄・信長の命で北伊勢を支配する長野工藤氏(長野氏)に養子入りして伊勢国上野城を居城としたが[1]、後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復した。永禄12年(1569年)10月、伊勢大河内城が落城して北畠家が信長に臣従すると、信包は信長より伊勢安濃津城主に任命された[1]。 その後は信長に従って各地を転戦する。北近江小谷城で信長が義弟の浅井長政を滅亡させたとき、その正室であった妹の市とその娘たちである茶々・初・江を信包が保護したとされてきた[3]。しかし近年の研究によると、当初お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市たちの叔父である織田信次であることが明らかとなっている(『溪心院文』)[4]。天正3年(1575年)の越前一向一揆鎮圧、天正5年(1577年)の雑賀党攻め(紀州征伐)にも参加し、織田一族の重鎮として厚遇された。後に信

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  • 谷村城 - Wikipedia

    谷村城(やむらじょう)は、山梨県都留市上谷一丁目にあった日の城(城郭)。甲斐国東部の郡内地方を領した国衆である小山田氏の居館または近世の大名居館。谷村館。 立地と歴史的景観[編集] 谷村は県東部、郡内地方の中央部に位置する狭隘な平野部に位置し、谷村城は蟻山と桂川に挟まれた平坦地に立地する。標高は490メートル付近。谷村には、近世に確立する甲州街道から分岐し吉田地方(富士吉田市)へ至る富士道が南北に通る交通の要所にあたる。 谷村城の位置は近世の城下絵図類(「諸国当城之図」広島市立中央図書館蔵浅野文庫、「甲州谷村之城図」蓬左文庫、「谷村城下絵図」都留市個人蔵など)から都留市役所から都留市立谷村第一小学校付近に比定されているが、具体的な遺構は検出されていない。 谷村城の築城と領主[編集] 小山田氏時代の谷村館[編集] 都留郡では戦国時代には有力国衆・小山田氏が台頭する。「向嶽寺文書」によれば、

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  • 顕如 - Wikipedia

    顕如(けんにょ、正字体:顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗願寺派第11世宗主・真宗大谷派第11代門主。大坂願寺住職[1]。 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「願寺」を冠して願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、正字体:信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣・九条稙通の猶子。室は左大臣・三条公頼三女の如春尼。長男は真宗大谷派第12代門首の教如、次男は真宗興正派第17世門主の顕尊、三男は浄土真宗願寺派第12世宗主の准如。 織田信長と敵対した後は全国の願寺門徒に信長打倒を呼びかけ信長包囲網の一角となって、10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。 来歴[編集] 誕生から継承[編集] 天文12年(1543年)1月6日[1]または1月7日、願寺第10世・証如の長子として

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  • 玄蕃尾城 - Wikipedia

    玄蕃尾城(げんばおじょう)は、福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にあった山城。内中尾山の山頂にあり内中尾山城ともいう[1]。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家の陣が置かれた[1]。平成11年(1999年)7月13日に「玄藩尾城(内中尾山城)跡」として国の史跡に指定されている[2]。また2017年(平成29年)4月6日、「続日100名城」(140番)に選定された。 概要[編集] 湖北から北庄への北国街道(現在の国道365号)と、そこから分岐する刀根越の道の双方を抑える要所に位置している[1]。すぐ南に位置する刀根越(倉坂、久々坂ともいう)は織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台である。さらに南側には行市山がある。 築城時期は諸説あり、能寺の変後に柴田勝家が豊臣秀吉との戦いに備えて築城したとされるが、天正6年(1578年)頃に越前衆を動員して築城され

    玄蕃尾城 - Wikipedia
    tsutsumi154
    tsutsumi154 2024/06/15
    勝家じゃなく玄蕃の名前が付いてるのは皮肉 築城も玄蕃となれば致し方ないのか