例によって、自分なりの理解と、自分なりのメモです。 第2分科会(大学・短大・高専図書館) 学習・教育のハブを目指して ■個人的まとめ ・人と人の関係で、それぞれが成長するというのがいいな。 ・いろいろな取組の話が聞けてよかった。ただ、その分、何かを掘り下げるということにはならなかったか。 ■基調講演 竹内比呂也 高等教育に改革をもたらす新たな学習環境の試み:千葉大学アカデミック・リンクの試み ○Teaching から "ACTIVE" Learning へ ・知識の習得+知識活用能力の習得 *)溝上 ・2008年中教審答申「学士課程教育の構築へ向けて」 学士力、単位制度の実質化、教育方法の改善、初年次における教育配慮 「学士力」:体系的理解、汎用的技術、態度(リーダシップ等)、総合的知識・思考力 ○高等教育政策における大学図書館 ・高等教育サイド 1998年、施設や資料の整備への言及が中心
幕末から大正期の港町・横浜の貴重な資料を保有している横浜開港資料館(神奈川県横浜市中区日本大通三)で、収蔵スペースが限界にきている。市の担当課は新たな収蔵庫確保の検討を始めたが、財政難でままならない。資料館側は「寄贈資料の受け入れができなくなると、横浜の歴史が消えていく」と危機感を抱いている。 (中沢誠) 収蔵庫の棚の上にまで積み上げられた古文書は、天井に届きそうなほど。廊下には収蔵庫からあふれた段ボール箱が並ぶ。開港資料館三階と地下一階にある収蔵庫は満杯状態だ。やむなく空調設備のない敷地内の倉庫や、大黒ふ頭(横浜市鶴見区)の貸倉庫に暫定的に収蔵している。 開港資料館は、日米和親条約が結ばれた場所に一九八一年開館。市の委託で外郭団体が運営している。英国総領事館だった旧館と新館に、公文書や新聞雑誌、浮世絵など横浜にまつわる資料を収蔵・展示する。ペリー入港の絵巻といった幕末の貴重な資料も多い。
◇仏教書一筋、版木に歴史 東本願寺の真向かいにある法蔵館。社屋中庭にある蔵に足を踏み入れると、おびただしい数の版木が積み上げてある。古くは元禄時代のものもある。ほこりをかぶった版木を手にしながら、社長の西村明高(ひろたか)さん(47)は「全部で何枚あるのか、私にもよく分からないんですよ」と苦笑した。 昭和30年代まで、蔵の前で木版本を刷る職人の姿が見られたという。創業から400年、仏教書一筋に歩んだ出版社の歴史を感じさせるエピソードだ。 大坂落城の慶長年間(1596〜1615)に「丁子屋(ちょうじや)」初代西村九郎右衛門が京都に転居、仏書肆(しょし)(本屋)を開いたのがルーツ。江戸時代末期の1850(嘉永3)年には初代七兵衛が分家独立、明治を迎え二代目七平の1885年ごろから法蔵館の名が使われた。「衆のために法蔵(仏の教え)を開いて広く功徳の宝を施す」との願いが込められた。 進取の気性に富
第19回 1981年(昭和56年)「ジャンプ」の『Dr.スランプ アラレちゃん』と「サンデー」の『うる星やつら』 1981年は、鳥山明と高橋留美子という2大作家のアニメ時代が幕を開けた年である。 4月には、鳥山原作による『Dr.スランプ アラレちゃん』が放映開始。製作は東映動画で、プロデューサーの七條敬三、キャラデザの前田実、美術の浦田又治、シリーズディレクターの岡崎稔らは細心の注意を払い、アメコミ風の洗練された絵柄、とぼけたギャグなど、鳥山ワールドの映像再現に挑戦した。その結果、同作は流行語「んちゃ!」とともに、アラレちゃんブームを巻き起こすまでに大ヒット。掲載誌「週刊少年ジャンプ」も驚異的に売り上げを伸ばし、集英社がTVアニメと原作連載との相乗効果を戦略的に指向する出発点ともなった。 そして10月からは、高橋が小学館「週刊少年サンデー」に連載中の『うる星やつら』がスタート。実制作はスタ
礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。 ◎国会図書館所蔵「発禁図書」の来歴 一九八〇年(昭和五五)に国立国会図書館が発行した『国立国会図書館所蔵 発禁図書目録―1945年以前―』という冊子がある。「はしがき」で一ページ、「凡例」で一ページ、そのあと、アイウエオ順に書名を並べた本文が一二四ページ分、「著者名索引」が二七ページ分、奥付で一ページ。ただこれだけのシンプルな本であるが、見ていて飽きることがない。 この目録が作られた目的等については、「はしがき」で、収集整理部長の林修氏が次のように述べている。ここに全文を紹介させていただくことにする。 この目録は、昭和51年以来数次にわたって、米国議会図書館から返還されてきた接収発禁図書と、当館が受けついでいる帝国図書館旧蔵のものとを合せて、当館が現在所蔵している発禁図
日本の公害の原点とされる足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走した田中正造(1841~1913)の没後100年に向けた関係自治体の動きが鈍い。出身地の佐野市が精力的に記念事業を行っているものの、県や他のゆかりの自治体に目立った動きは見られない。佐野市の関係者は「正造は佐野市一市にとどまることのない郷土の先覚者。県や他市も足跡を見つめ直す好機にしてほしい」と、記念事業の広がりに期待している。(末吉光太郎) 佐野市中心部にある佐野市郷土博物館は、田中正造の日記などが展示されたコーナーの入り口に、マスコットキャラクター「しょうぞう(SHOZO)くん」の絵や記念シンポジウムを伝えるポスターを並べ、来年に迫った没後100年をPRしている。 正造の生家のある佐野市は昨年10月、「田中正造翁没後百年顕彰事業推進室」を設置。今年度は顕彰事業に約800万円の予算を計上し、遺墨展を開催したほか、専用ホームページも作った
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