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2010年5月27日のブックマーク (5件)

  • 『政治概念の歴史的展開〈第1巻〉』古賀 敬太【編著】(晃洋書房 ) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「重要な政治的な概念の歴史的考察」 政治的な概念の歴史的な展開を考察するシリーズで、第三巻まで刊行されている。ドイツには『歴史的な基概念』という9000ページに及ぶ大シリーズがあるが、それには及ばないものの、ひとつの概念に20ページほどを使って考察している。古代から中世を経て近代までの流れを展望し、現代の論争的な状況を解説し、最後にお勧めの参考文献をあげるという標準的な作りだが、枚数がかなりあるので、参考になるだろう。ぼく好みのではある。 この第一巻では、自由、平等、友愛、人権、寛容、正義、公共性、権力、国家、官僚制、市民社会、連邦主義という一二の概念が考察されている。筆者はみな異なるが、それほどの凹凸はなく、標準的な出来栄えになっている。 たとえば「自由」の項目では、ルソーの一般意志の概念を批判したヘーゲルが、特殊と普遍の実質的な媒介を目指して、「個人の個別性と

    『政治概念の歴史的展開〈第1巻〉』古賀 敬太【編著】(晃洋書房 ) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 貧しき「文化の思想」 - 仮想算術の世界

    このあいだから『リトバス』について何度か触れている。だが、僕としては、どれだけ言葉を弄しても何かどうしようもない苛立ちを感じて仕方がなかった(まぁパソコンともども暑気にやられていたから……というのも否定しない)。実際、『リトバス』という作品は、麻枝准年来の「反転」の小細工だけで成り立っているところがある。確かにそこにはある種の状況介入的なものもあって面白いのだが、他方で、それをどうしようもなく安易ではないか、と思ってしまう自分もいる。だからこそ、しつこく書かざるをえなかったというのが正確だ。 その理由はあるていどはっきりしている。以前からこのブログでは、ゲームと構造主義の類縁性について触れている。簡単に言えば、ゲームというのは(もっとも抽象的に定義するならば)「変換のシステム」であり、構造もまた同じなのだ。しかし、この点については前々からひとつの問題があった。それはゲームの無意味な「変換

  • ナルシシズムの変質? - 仮想算術の世界(福嶋亮大)

    宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』の書評などいろいろ書いてました。書評は来月掲載される予定です。 宇野さんのは、連載で読んでいたときとはだいぶ印象が違って、いろんな意味で面白かったし刺激になりました。「雑誌で読んだし、買おうかどうしよう」と思っている方は、一度書店で手に取られることをおすすめしておきます。決して社交ではなく(笑)これは読まれるべき力作です。 ただ、書評を書くのはかなり大変でした。発売前からこんなにネットで「書評」が出てるは他にないし、一応最初はネット上の言論をチェックしようと思っていたのですが、とても把握しきれないので諦めたというのが実情です。というか、そういう新しい言論空間こそが宇野現象の質だと思うので(ちなみにニコ動と初音ミクとらき☆すたと宇野常寛は同じ何かを共有しているというのがぼくの考えなんですが)、書評もそのあたりに触れつつ書いています。 * それで

    tukinoha
    tukinoha 2010/05/27
    なるほど、そういう考えなのか。
  • 『貧困と共和国―社会的連帯の誕生』田中拓道(人文書院) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「「社会」の発明」 かつてアレントは『人間の条件』において、ギリシアの公的な空間と私的な空間の分離について説いた後、近代、とくにフランス革命になってからこの二つの空間とはことなる社会的な空間」が登場し、それが公的な空間を覆ってしまったと語ったことがある。アレントは『革命について』ではそれをフランス革命の「失敗」と関連づけるのだが、そのプロセスが実際にどうであったかは、詳しくは考察されていなかった。 著者はアレントのこの私的に関心をもって、「社会的なものの内実に関心を向けるようになった」(p.263)という。この〈社会的なもの〉の登場は、フーコーに近い人々、とくにドンズロの『社会の発明』やエヴァルトの『福祉国家』などの著者でも詳しく考察されているものであり、ぼくも関心をもっていた。この著書は、フランスの福祉国家が登場するまでのこうした〈社会的なもの〉の思想的な変遷をたど

    『貧困と共和国―社会的連帯の誕生』田中拓道(人文書院) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 傷つける性として生まれた罪を知れ - どうでもいいことかもしれない

    「性的客体してだけ扱われる(いわゆるモノとして扱われる)」という事の恐怖感というか、嫌悪感のような話は、かなり前から繰り返されて来た事で、いまさらそう珍しい話でもないのだけれど、最近また盛り上がりを見せている。 「何度目だよ」と言いたくなるような話ではあるが、「何度も言わないと解らないバカがいるからだ*1」という事なのだろう。 私も女なので、そういう恐怖も嫌悪感も解らない訳ではない。セックスのリスクが女の方が高いというのは「事実」であるし、セクハラだって不快である。 私の場合は*2不快な言動をした人に対して「不快だ」と言ってしまうし、犯罪レベルの問題であれば犯罪として処理してしまうタイプの人間なのであまり深く考えないが*3、こうした事を大変重く受け取ってしまう女性もたくさんいるのである。 中には「女になんて生まれたくなかった」と思う人もいるだろう。 こうした女性達の「意見」は全く持って「正

    傷つける性として生まれた罪を知れ - どうでもいいことかもしれない
    tukinoha
    tukinoha 2010/05/27
    議論の出発点として。自覚すれば問題が解決されるわけではない。ここに何を接木していくのか。フーコーの権力論とか?