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societyとthoughtに関するtukinohaのブックマーク (17)

  • 好きなものを仕事にする事について | スパ帝国

    Q.趣味仕事にしたら人生楽しいか? A.ふつう 元々ゲームが好きで、趣味でボードゲームを作り始めて、売ってみたら存外好評でそれがそのまま仕事になって…という噛み砕いた身の上話をする機会が増えた。会社を作って士業の人とか取引相手と話さねばならなくなったからだ。大抵は「すごい」とか「羨ましい」とか「いい人生ですね」という感想を寄越すのだが、それは果たして実態を捉えているか? 現実はもう少し灰色である。まず生活の良し悪しと生業にしている活動を楽しんでいるかどうかは殆ど関係がない。仕事中に好きなものに触れていられるメリットは、好きなものに触れている間も仕事について考えねばならんデメリットで概ね相殺される。第一仕事としてやる以上、成果や生産性が全てであり何もかもその為に最適化せねばならん。遊びを作る仕事とて遊びでやってはおれん。 生活水準に直結するのはむしろ仕事が「どれぐらい苦痛でないか」である。

    tukinoha
    tukinoha 2019/11/04
    スパ帝の職業観。
  • 函館のロングフルバース/ライフ訴訟について - Fetal skeletal dysplasia forum

  • 慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)

    moshimo sekai ga minna kochiku shugisha dattara : kochiku shugi shakai ni okeru kochiku shugi shakaigaku

    慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)
  • Enemy of the Sun - FC2 BLOG パスワード認証

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  • メタ・ユートピアの構図:稲葉振一郎「ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』再読」『情況』1996年8・9月号

    メタ・ユートピアの構図 ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』再読 稲葉 振一郎 『情況』1996年8・9月号 1 ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』*1を今日読み返してみると、ともすればやや古くさいという印象を受ける。著者であるノージック自身、書で提示されたリバタリアニズムの政治思想を今日では放棄しているというが *2 、その理由自体は私のあずかり知らぬところである。ここではもちろん、私自身におけるそうした感想の根拠を提示せねばならない。 書で展開された社会モデルは一見してわかるとおり、新古典派経済学のそれに大いにインスパイアされている。出発点としてのロック的自然状態は、道徳規範の確立された無政府状態であり、そこにおける道徳の根幹は個人の権利の不可侵性にある。ここで権利は実現されるべき状態として、あるいは行為の積極的領導原理として導入されるのではない

  • 正しいのはオレだ - on the ground

    例えば音楽で世界を変えようとすることは、愚かなことだろうか。「愛と平和」と叫んで暴力を止めようとすることは、馬鹿げているだろうか。気で世界を変えようとしている人は馬鹿と呼ばれても別に何も思わないだろうが、実際のところ馬鹿でもなんでもない。確かに、争いの無い世界を皆で想像すれば争いを無くすことができると考えるのは、社会科学的観点からして認められない見解である。けれども、そう考えることは間違いでも、それを実行しようとすることは社会科学と相容れないわけではない。 もちろん、音楽では世界を変えることはできない。そんなことは、いい大人なら誰でも薄々解っていることだ。でも、世の中には歌う人がいる。音楽に限らず、人に世界を変えることは不可能である。それでも、人はそれをしようとする。そして、それは決して愚かな行為ではない。 なぜか。世界を変えることはできないと解っていて、それでもなお変えようとすることが

    正しいのはオレだ - on the ground
    tukinoha
    tukinoha 2009/05/04
    マックス・ウェーバーが言うように「どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ」(職業としての政治)ということか。
  • 合法性が正当性を虐殺するとき

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 文芸空間 - 現代思想にとって「東浩紀」とはなにか

    ・とある方とお話をした。その方は、左翼運動や宗教に興味をお持ちのようであった。批評空間派をリスペクトしていたそうである。神の存在と自由の可否などについて私は言及した。左翼運動「NAM」なきあと、ポスト批評空間派の現状はどうなっているのか? 話題は、東浩紀に及んだ ・後日、その人は私のした東の話について、日記に書き記していた。それを読み、反省させられるところがあった。自分は、東の仕事について、うまく伝えられなかったのだなと ・東浩紀以前、批評空間派以前の思想等について、親炙したことがある、ちょっと古い世代の方たち。それらの人々に、東をどう紹介すれば良いのか? 意外に難しい ・日における批評の歴史は以下のようなものである。 小林秀雄→近代文学派→吉隆明→江藤淳→批評空間派→ →東浩紀派→ポスト東派 ↑ 今、ここ ・東は、日における批評史から、マルクス主義を完膚なきまで切断した。戦後最大の

  • あんパンなんていらない。(Ver.Unteazated) - 浩瀚堂粋記集

    別館の方で宮台真司氏が赤木論文に寄せた コメントをあまりに凡庸過ぎると評した所、 このようなトラックバックを頂いた。 http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20071113/p1 ここで展開されている論争や立場への不信感が、 『Something Orange』というブログの 「アイデンティティなんていらない。」 http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071116/p1 というエントリの内容に通じるものがあるように思えたので、 後者のエントリを軸に論理や倫理、 個人や集団の問題について論じたい。 ●実存主義と社会的承認 コメント欄にも指摘があったが、 海燕氏の「アイデンティティ」は 定義が少々曖昧過ぎる。 社会科学や人文科学において キーとなる概念の定義付けは重要である。 何故なら論理の前提や根を成すからだ。 定義が曖昧だとどうして

    あんパンなんていらない。(Ver.Unteazated) - 浩瀚堂粋記集
  • 2007-11-03 - 砂上のバラック

    シリーズ最終戦の落合采配が話題になっているようだが一言言いたい。とりあえず、落合擁護する奴らはまず全員、大沢に「つまらないからバントばかりするな」と非難された森西武を擁護してもらおうか。いや、それは冗談だけど。以下、野球についてやたらと長い思い出話を取りとめもなく書き散らす。 俺は小さい頃から西武ファンだった。親父が元々パリーグ好きだったこともあって(小さい頃は駒沢によく観に行っていたらしい)、よく西武球場まで親子で観戦に行っていたのがきっかけだった。当時人気だったいしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』の影響もあったと思うが、田渕だけ好きだったわけじゃなく、大田、山崎、行沢、蓬莱、スティーブ、テリーといった他の選手のことも好きだった。ちなみに当時を知る野球ファンからすると蓬莱だけがどう見ても浮いていると思うが、蓬莱は名前が変わっていたことと、「しゅんそく」*1だったことが幼心に

    2007-11-03 - 砂上のバラック
  • 相対化遊びなのか、相対化から何かを目指すのか - アケガタ

    前回までのあらすじ読んでください。http://d.hatena.ne.jp/Tez/20071025/p1まず最初に/日はお日柄もよく御愁傷様でございます。業務連絡、業務連絡。id:I11さまー、id:I11さまー、照準に不具合が生じている可能性がございます。照準に不具合が生じている可能性がございます。中の人は至急最寄の技術士官に御連絡ください。中の人は至急最寄の技術士官に御連絡ください。批判が温い場合という場合はもう一回効力射をお願いいたします。持ち帰って調整のうえ善処いたしたく思います。ところでI11さまに罵られると妙にうれしかったのですが、これはどうしたことでしょうか。id:buyobuyoさんが誤爆されてるのを見て「気の毒に」と思ったというのに、今の私は私なのでしょうか。日々新しい自分が見つかって自分探しをする暇もございません。さて、日は私のおうちはじめじめとした雨が降り注ぐ

    tukinoha
    tukinoha 2007/10/27
    すばらしい。
  • ボヘミアン的実践とは - 外付脳内そっ閉じメモ

    とりあえず再開 わけあって名前を踏足からあしぶみに変えました。 ヤッパ、はてなのカスタマイズの仕方はこれ以上は誰も教えてくれないのか。ウェブの世界はそんな甘いものではない…。 とりあえず理屈モード再開。 *          *          * 自分がやんなきゃいけないことは、大きく分けると次の3つになるだろう。 (1)ボヘミアン的実践そのものの類型学というか系譜学 (2)ボヘミアン「崩れ」たちの生、実存の解明 (3)ボヘミアン「崩れ」たちの生き方の肯定と、その前向きな再構築 まず、それぞれの作業に込めたいモチーフの確認から。 (1)ボヘミアン的実践の類型学 ここには、異世代間交流と、社会学視点と社会思想史的(ユートピア的)視点との間の往還、という二つのものを込めたい。この二つは相互に関連している。前者を実現するための仕掛けが後者だと言ってもよい。 現在の論壇を見ていると、時間軸のパ

    ボヘミアン的実践とは - 外付脳内そっ閉じメモ
  • 女性が哲学に惹かれない(らしい)のはなぜ? - G★RDIAS

    これは古典的な問いである。大学進学率が男女半々くらいになってきて、文系諸学科では女性の比率がむしろ高くなってきているが、心理学、社会福祉学、言語学などに比べて、哲学は女性から人気がない。その理由としては、以下が考えられる。 (1)概して女性は哲学的思考というものに興味がない。 (2)現存の「哲学」は伝統的に現実の女性を蔑視し、排除しながら構築されてきた。「女性は抽象的思考が苦手であたまが悪い」など。そういう学問に女性が興味をもたないのは当然。(また、女性蔑視してる哲学教師も多いから学生はそれを内面化する) (3)現存の「哲学」は、学問内容として、「女性の経験」を取り込んでこなかった。女性は哲学に、みずからの経験に響く要素を感じず、興味を持てない。裏返して言えば、現存の「哲学」は過度に男性ジェンダー化されている。 ほかにもあるかもしれない。私は個人的には(1)は無意味、(2)と(3)が大きい

    女性が哲学に惹かれない(らしい)のはなぜ? - G★RDIAS
  • やりまくらないでもフェミニスト - G★RDIAS

    友人と、パット・カリフィア(アメリカのレズビアン・フェミニスト。SM愛好家で70年代からフェミニズム内で、フェミニズムの不正を告発する、というスタイルをとっていた。)『パブリックセックス』を読んでいるときに、「非一対一(アン・モノガミー)」という一文を、「反一対一(アンチ・モノガミー)」と読み間違えて笑われたことがある。それくらい、カリフィアの文章は刺激的だ。 カリフィアは自分の愛する人への所有欲を隠さない。「私が私である」ことの孤独を埋めるために、愛する人に自分を映し込み、切り裂き一つになりたいと思う自己愛も隠さない。「あなただけを愛する」と誓うことの快楽も隠さない。その上で、カリフィアはこう言う。 ほかの女が彼女に欲情するところを見ると、わたしはうれしくなる。それは、彼女の質の高さと邪悪さを認めたわたしの判断力を、確認させてくれるものだからだ。「遊んでおいでよ」とわたしは彼女に言う。そ

    やりまくらないでもフェミニスト - G★RDIAS
  • 想像力の欠落が大惨事を招く

    ずいぶん前になるが、これは東海村でウラン溶液のバケツリレーやってたら臨界事故を招いた事件のときに柳田邦男が評論していた内容だ。「そもそも『これをやったら、こうなる』という推理をしながら、やらないからこうなるわけだ。『幼児がうるさいから殴ったら、死んだ』とか『いじめてたら自殺した』とか。最近の日人は想像力が欠落している」とかいう話だった。 仕事でも同じことで、「電話しなけりゃこうなる」とか「説明しなけりゃこうなる」とか思うわけだ。「だから、どうしてそれをやったら(もしくはやらなかったら)どうなるか想像してみなかったのだね? こうなることは火を見るよりも明らかではないか」とプリミティブな失敗をやらかした某君に昨日説教をしてたら・・・ 「自分はそういうのが苦手なんです。想像力が乏しいんです。どうすればできるようになりますか?」と聞かれた(ってか逆ギレ?)。それで、僕なりの回答を書いておく。 「

    想像力の欠落が大惨事を招く
  • 働かなくても食っていける社会がもうすぐやってくるよ―アンカテ(Uncategorizable Blog)

    昨日のエントリを書くために自分の過去ログを検索していて再読したが、道に落ちてる直径30cmのケーキに出くわしたアリさんモデルという表現は、実に、今、WEBで起こっていることの質を表現していると思う。 Skypeやグーグルが何でもかんでもタダで提供するのは、第一には自分たちだけではとてもいくれないからだ。 そして、これはそんなに特殊なことでも不思議なことでもない。 書でいわれる「リアル社会」を、私はかねがね「脳化社会」と呼んできた。ネットの社会は、私から見れば、「リアル社会」がより純化したものである。 「リアル」な社会とは、養老氏の言い方で言えば「脳化社会」、つまり、シンボルの操作で回っている世界である。だから、現代の労働は大半がシンボルの操作である。 そして、純粋なシンボルの操作であるプログラミングという作業においては、生産性の個人差が非常に大きく、今までの社会は生産性の低い方の人間

    働かなくても食っていける社会がもうすぐやってくるよ―アンカテ(Uncategorizable Blog)
    tukinoha
    tukinoha 2007/01/31
    まったくそのとおりだと思う。エネルギーの問題から見ても、必ずそうなる。
  • 女性専用車両に乗れない“恋愛強者”たち:電脳ポトラッチ

    女性専用車両に乗れない“恋愛強者”たち ● 同じ社会に生きていても、これほどまでに実感や印象が違うんだよなあ・・・と改めて感じたこの記事。非モテ関連の話題で知った。「女性は優遇されている・男性は女性より抑圧されている」という論旨である。 はてな周辺では強く同意されていた記事でもあり、2chの「男性論・女性論」板などを覗いてみると、おおむね同じような見解が男性視点によるスタンダードとして広まっている。(※この記事に限っては書き手は女性) だからこれが一方に於ける「実感」であることに疑問の余地はないけれど、あえて反対側から見た「実感」を述べてみたい。 ● ブスでも女はお客様 メディアの中で、女性はあくまでも「お客様」なのである。だからイケメンタレントは、それがお笑い芸人であっても女性に「キモイ」とか「ブス」とか言わない。女性にとても優しいのである。 見ているお客様の機嫌を損ねない様に。

    tukinoha
    tukinoha 2006/12/28
    『「強者である」ことと、「強者であると見なされる」ことは違う。』まったくその通り。
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