尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月28日 - 1977年〈昭和52年〉6月28日)は、昭和期の露天商、関東尾津組組長。 来歴[編集] 東京府本所相生町(現在の東京都墨田区)に鍛冶職人の子として生まれる。母は水戸藩の士族の娘であったが、尾津が2歳のときに出奔し消息不明になる[1]。 独力で府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)に合格するが、継母の反対により入学を許されず、激怒した尾津は家を飛び出した[2]。 職を転々とした後、的屋組織飯島一家に属す[3][4]。右翼団体「皇国決心団」を組織し、摂政宮(後の昭和天皇)の車列警備を妨害したブラジル公使に抗議しブラジル公使館に殴り込みをかけるなどの売名行為を行った後、新宿で関東尾津組を結成[4]。 関東尾津組は多摩川沿岸、八王子・川越の手前までを縄張りに入れたが、1930年(昭和5年)に「関東兄弟分連盟」を結成して勢力を