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ブックマーク / note.com/fumiken (12)

  • 疲れたときの「気休め」に。|古賀史健

    リフレクソロジーこと、足裏マッサージが好きだ。 たとえば肩や腰を揉むマッサージの場合、かなりの高確率で「揉み返し」がくる。とくにぼくの場合、身体の疲れが限界に達した段階で「いますぐどうにかしたい!」とマッサージ店を訪ねることがほとんどなので、人気店やその店長さんの予約をとることはむずかしく、テキトーなお店の、指名ではない誰かさんにマッサージを受ける機会が多い。結果、相性もなにもあったものではなく、翌日に猛烈な揉み返しがやってくる。 一方、足裏マッサージに揉み返しは、基的にない。足にたまった疲れは緩和され、施術中うとうと眠ってしまうこともしばしばで、肩腰のマッサージほどには揉み手を選ばない。肩が凝っているときには「肩のツボ」を押されて激痛が走り、胃の調子が悪いときには「胃のツボ」に、頭脳労働が過ぎるときには「頭のツボ」に悶絶する。まったく人体の不思議である。 しかし、人体の不思議であるがゆ

    疲れたときの「気休め」に。|古賀史健
    umaken
    umaken 2021/06/22
  • 逃げられないから、逃げるんだ。|古賀史健

    いったいカツオは、なにを慌てているのだろう。 夏休みのこの時期、カツオは毎年夏休みの宿題に追われている。サザエから叱られ、ワカメにたしなめられ、タラオから頓狂なアドバイスを受け、居間に陣どる波平の目を、逃れようとする。小学生のころ、ぼくはその気持ちがまるで理解できなかった。自分のなかに「夏休みの宿題を出す」という選択肢が、まるっきりなかったのだ。カツオの学校はたいへんなのだろうなあ、と思うくらいしかできなかった。 作家の浅生鴨さんから「 #8月31日の夜に 」というハッシュタグとその企画趣旨を教えられ、じぶんもなにか書いてみようと思ったものの、宿題ひとつをとってもそんな体たらくで、ぼくは 8月31日の夜について書くべきことをあまり持っていない。ただ、「思えばあそこからはじまったんだよなあ」という夏の終わりについての話を、ひとつ思い出した。長くなるだろうし、うまく書けるかわからないけれど、書

    逃げられないから、逃げるんだ。|古賀史健
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    umaken 2018/08/27
  • リスペクトとは、どういうことか。|古賀史健

    百家争鳴、とはこのことである。 サッカーW杯・ロシア大会がはじまってからというもの、サッカーという競技について、それぞれの試合について、各選手のプレーについて、監督の采配について、たくさんの人がたくさん語り合っている。きのうもタクシーの運転手さんからベルギー戦の感想を訊かれた。試合終了直前の失点について彼は、ああすればよかったんだ、こうすればよかったんだ、の自説を展開していた。ツイッターでも、フェイスブックでも、おそらくインスタグラムでも、さまざまなサッカー論や戦術論が語られているのだろう。基的にぼくは、たとえその声がどんなに的外れなものであれ、たくさんの人びとが「それ」を語り合う状況をいいものだと思っている。 それで、サッカーにかぎらずぼくが「それ」についてなにかを語ろうとするとき、ひとつだけ気をつけていることがある。 いま、この時期であればサッカー日本代表のたとえがいちばんわかりやす

    リスペクトとは、どういうことか。|古賀史健
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    umaken 2018/07/14
  • 酔っぱらいとインターネット。|古賀史健

    20代のころぼくは、しばしば泥酔していた。 いや、しばしばというのはウソで、飲むとほとんど毎回泥酔していた。記憶をなくすまで飲んでこそ酒だと考え、三軒目から先の記憶がすっぽり抜け落ちているだとか、どうやって家に帰ったかわからないだとかの話を、武勇伝のように語っていた。そこまで飲めないお前は弱虫なのだ、とでも言わんばかりに。 多くの酔っぱらいと同じく、酒を飲んだぼくは声が大きくなり、態度が大きくなり、あらゆる動作がおおきくなり、つまりは行儀が悪くなっていった。しかもタチが悪いことに、いつのころからか服を脱ぐようになっていった。さすがにズボンを脱いだことはないけれど、上半身は裸になり、がははとおおきく笑ってみせた。 あれはいったい、なんだったのか。ずっと不思議だったのだけど、最近ようやく答えがわかった気がした。 要するに、自信がなかったのだ。 そのままでは受け入れてもらえる自信がないから服を脱

    酔っぱらいとインターネット。|古賀史健
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    umaken 2018/05/19
  • 正論を口にするときの危うさ。|古賀史健

    こういうとき、おれは調子が悪いんじゃないか。 きょうの note はなにを書こうかな、とキーボードに置いた指を眺めていたとき、ふとそう思った。書くことが浮かばないなあ、と中空を見上げてぼくは、「最近の○○な風潮、どうも間違ってると思うんだよね」的な話を書こうかな、と思いついた。○○についてだったらいくらでも書けるし、ちゃんと書けば、まじめな提言にもなりそうだ。よーし、○○について書こう。 そうして指を動かしはじめたときにふと、これっておれの不調をあらわしてるんじゃないか、と気づいたのだ。 どういうことか。 自分になんの関係もないはずの他人に、自分にこれといった実害をもたらしているわけでもない他人のやってることに、「それはいかがなものか」とケチをつける。そのケチの論拠として、もっともらしい倫理を持ち出したり、道徳を振りかざしたり、「それによって困っている人」や「傷ついてる人」を捜してきたりし

    正論を口にするときの危うさ。|古賀史健
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    umaken 2018/05/18
  • こんな映画に泣いてしまうなんて。|古賀史健

    職業病だと言えば、それまでの話なのだけど。 を読むとき、雑誌を読むとき、ウェブ上の原稿を読むとき。どうしてもぼくは「自分だったらどう書くんだろうなあ」を考えながら読んでしまう。結果、とくに批判的な目で読んでいるわけでもないのに、どうしても厳しい評価に行きつくことがある。「もったいないなあ」「惜しいなあ」と残念がったり、場合によっては少しムッとすることさえある。これは、文章表現の巧拙について言っているのではない。文章表現に関していえば、ぼくだって十分に下手だ。 ぼくが許せないのは、ひと言でいえば「サボり」だ。 もうちょっと発想を転がせば、もうちょっと考えを深めれば、もうちょっと言葉を探していけば、その手間を惜しまなければ、もっとわかりやすくておもしろい原稿になっただろうに。最初に思いついた視点や展開、言葉に満足して、それ以上を考えようとしなかったから、こんなもったいない原稿になっているんだ

    こんな映画に泣いてしまうなんて。|古賀史健
  • 渋谷とインターネットとSNS。|古賀史健

    ぼくという人間は、どこまで人間を信じることができるのか。 しつこいと思わず聞いてほしい。一昨日、豪雪のなかでキーケースを落としてしまったぼくは、落としたであろう渋谷駅から隣駅までのあいだを2・5往復も歩き回った。下を向いて、ひたすら足元を眺めて、歩き回った。道中のどこかで落としていることは間違いない。消失することなどありえないのだから、こうして雪にまみれて歩いているあいだも、地球上のどこかに鍵は存在する。問題はそれが道路の上に落ちているのか、すでに(ぼくではない)誰かさんのポケットに収まっているのか、そこだけだ。 もともとぼくは人間というものを信じている。その善意を信じ、良識を信じ、知性を信じている。そうでなければものを書く仕事なんてできないと思っているし、ましてや何か月も、ときには何年もかけて一冊のを書き上げることなどできやしない。書くことの根幹には、読者への深い敬意と信頼がある。これ

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    umaken 2018/01/25
  • 心配される、という才能。|古賀史健

    きのう、オフィスに今井くんが遊びにきた。 もともとぼくは、年齢に関係なくほぼすべての人を「さん付け」で呼んでいるのだけど、今井くんはなぜか今井くんだ。きっとそれは、彼がもともと星海社という出版社で、カッキー(柿内芳文)のアシスタントみたいなことをやっていたからだろう。担当編集のカッキー経由で「今井さん」と会っているうち、いつしか呼び名が「今井くん」になっていった。 オフィスにやってきた今井くんにぼくは、「せっかくきたんだから、このへん掃除していってよ」とお願いした。ここで「わはははは」と笑ってごまかす人もいれば、怪訝と軽蔑が入り混じった表情でこちらを睨む人もいる。けれども今井くんはどちらを選ぶこともせず、「あ、いっすよ」と、そそくさと掃除をはじめた。 片づけてくれたお礼にと、そのあと一緒にごはんをべに行った。 カッキーをはじめとして、今井くんにはたくさんの師匠がいる。スクラップの加藤隆生

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    umaken 2017/09/12
  • 文章の書き方と考え方、その一提案。|古賀史健

    読書感想文の書き方について、お話しさせていただいた。 ほぼ日のなかでもひときわ大好きなコンテンツ、「勉強の夏、ゲームの夏。」に呼んでいただいての話だ。毎年「意外と高学歴な人々」が講師として招かれるこの企画(たとえば去年は瀧哲史さんなどが登場されている)に、意外と低学歴な自分が出てもいいのだろうかと内心不安に思いながら、ぼくなりの書き方や考え方について、おしゃべりさせていただいた。 もともとぼくは「ことばの正しい文章」や「読みやすい文章」であれば、練習次第で誰にでも書けるようになるし、それでライターとして最低限の仕事を果たせるようになると思っている。むずかしいのは、その先にある「おもしろい文章」を書く力であって、もしかするとそこには才能めいたものが必要になるのかもしれない。これが才能の問題なのか、技術や態度の問題なのか、ぼく自身まだ答えが出ていないところだ。 今回お話しさせていただいたこと

    文章の書き方と考え方、その一提案。|古賀史健
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    umaken 2017/08/28
  • 世間が狭いのか、視野が狭いのか|古賀史健

    世間って狭いねえ、と思うことがあります。口にすることさえあります。 ほら、あっちを見てもこっちを見ても、ともだちばかりじゃないか。知り合いばかりじゃないか。東京に住んで、メディアに関係するような仕事をし、多少なりとも経験を重ねていくと、そう思いたくなる状況に置かれます。 でも、狭いのは世間ではありません。自分の視野が、狭くなっているのです。 そしてなにより怖いのは、「世間って狭いねえ」とニヤニヤしたがるひとは、たぶん「よのなかの広さ」を知りたがらず、ほんとに狭いところで狭いコンテンツを再生産していくことになるだろうな、というところ。 よのなかの広さに愕然として、「うわーっ。オレってば、なんにも知らないまんまこの歳まで生きてしまったよ。なんて広いんだ、世界!」と立ち尽くすこと。これにわくわくできるひとだけが、明日も明後日も10年後もおもしろい人間であれるんじゃないのかなあ。 世界は広く果てし

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    umaken 2016/08/01
  • ぼくが考えをまとめるときにやってること|古賀史健

    自分の考えをまとめるとき、世間の方々はどうしているのだろうか。 たとえばよく、あたまのなかにあることを紙に書き出しなさい、というアドバイスを耳にする。たしかに企画を考えるとき、ぼくもそれに似たこと(それを少しだけ発展させたこと)をよくやる。けれどもそれは、どちらかというと追い込まれたときにやることだ。普段歩きながらやるようなことじゃない。 で、40年以上生きてきて最近気づいたのだけど、どうやらぼくは歩いているとき、あたまのなかで「自分インタビュー」をやっているようだ。 「古賀さん、トランプ現象についてどう思われますか?」とか、「古賀さん、今度のについて、ひとつだけポイントを挙げるとすれば?」とか、あるいは「あなたはなぜ、そんなにカツカレーが好きなんですか?」とか、架空のインタビュアーがあたまにいて、その質問にいろいろ答えながら歩いている。 このときぼくは、けっこう雄弁だ。うまいたとえを持

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    umaken 2016/08/01
  • 『ミライの授業』発売です。|古賀史健

    親愛なるフリーランスのみなさま、ご存じだったでしょうか。 住民税1期分の納付、昨日までだったんですよ。ほら、お手元のカレンダーをご覧ください。きょうは下半期のはじまり、7月1日なのです。 ぼくはこの日を指折り数えてたのしみにしていました。おもわず住民税の納付期限を失念し、延滞金の支払いを確定させてしまうほど、たのしみにしていました。 なぜか。そんなに下半期がうれしいのか。 違います。きょう7月1日が、構成をお手伝いさせていただいた、瀧哲史さんの新刊『ミライの授業』の発売日だったからです。 担当の豪腕編集者・講談社の加藤晴之さんを通じてこの企画について知らされたのは、たしか1年半くらい前のことだったと思います。『僕は君たちに武器を配りたい』や『武器としての決断思考』などの著作で知られる、エンジェル投資家にして京都大学客員准教授の瀧哲史さんが、まったくあたらしいの構想をもっている。つい

    『ミライの授業』発売です。|古賀史健
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    umaken 2016/07/02
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