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ここポイントとメタに関するumetenのブックマーク (10)

  • amazonでは遅すぎる - THE STANDARD REVIEW

    水村美苗「日語が亡びるとき」は、すべての日人がいま読むべきだと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan Twitter / Mochio Umeda: はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコ ... 梅田望夫さんの発言があまりにも問題な気がした : ロケスタ社長日記 NHKスペシャル - jkondoの日記 ジェイコンがNスペに登場する晴れの日に炎上をかまし、燃料の補給も怠らないモッチーはアレか、何か『泣いた赤おに』の青鬼的な演出でも引き受けたのか、と思いましたが。 はてブユーザーが当にバカかどうかはさておき、はてブみたいなサービス上で「を読んでから書け」というのは無理があると思うのですよね。トピックは2日も経てばホッテントリから消えていくわけですから、amazonからが届くのを待っていたら、ホットな話題に意見す

    amazonでは遅すぎる - THE STANDARD REVIEW
  • BLUE ON BLUE(XPD SIDE) 決断主義云々の続き(メモ)

    およそすべての決断主義についての論議においては「いかなる決断も過程の変化はもたらしても結果の変化をもたらさない」つまり「人間は何をやっても死ぬ」という観点を無視して話を進めてはならない。それは安易な物語への回帰でしかないからだ。とはいえ、そうした「物語=過程としての生」が「質=いずれ来るべき死」より優先されるのが人間の生だという面もあるのでまああれだけど、スターリンの最後の言葉のように、生とは「nonsense」なのだから、それを踏まえたうえでの悲劇的な喜劇として生の物語は描かれるべきであり、コードギアスとか「ぼくらの」とかはそれに対して(成功しているかどうかは別にして)意識的な部類だと思う。 それとも「俺は永遠に生きるぞ」とか考えてる? 「世に永遠に生きるものなし」ってダニー・エルフマンもバラライカさんもいってましたけど。 くどく繰り返していうと、エヴァが終わった、なんてのは妄想で、か

    BLUE ON BLUE(XPD SIDE) 決断主義云々の続き(メモ)
  • http://www.bmp69.net/mt/archives/2007/06/post_524.html

  • 宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読んでみた。 - sugitasyunsukeの日記

    宇野常寛「ゼロ年代の想像力」(『SFマガジン』07年7月号)を立ち読みした。全然ダメだろう。90年代の想像力は「ひきこもり」系「セカイ」系で『エヴァ』『ハルヒ』、00年代の想像力は「サバイブ」系「決断主義」で『コードギアス』『デスノート』、と。東浩紀のオタク論は前者に属し「古い」、後者の想像力が「新しい」。――こんなの、ただのマッピングに過ぎない。しかもかつて例えば磯田光一が左翼(共産党系)/サヨク(新左翼)を分離=切断した時の社会的な問題提起の感覚さえない。わずか10年の世代感覚の差異をちまちま論じ、後者を絶対化し前者を叩く。「コップの中の差異」以下の、この時間的空間的な狭さは何だろう。宇野は東には00年代的なサバイブの感覚がない、と難詰する。しかし、例えば最初期の東浩紀のソルジェニーツィン論やデリダ論は、「生きのびようとする戦略や意志の全く通じないスターリニズム的な世界の中で、生きるこ

    宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読んでみた。 - sugitasyunsukeの日記
  • しあわせのかたち 「好きな作家は?」と聞かれた時の模範回答

    春の伊予国漫遊記。松山・今治と愛媛の魅力を満喫してきました。 法事を兼ねて愛媛観光へ 2024年のGWは、毎年恒例の名古屋帰省ではなく自宅でゆっくり過ごしておりました。というのも、4月に法事のため愛媛・松山に親族大集合というイベントがありまして、そちらをGWの旅行代わりにしたという理由です。法事は日曜日の予定ということ…

    しあわせのかたち 「好きな作家は?」と聞かれた時の模範回答
  • 「科学モデルの説明」と、「科学モデルを用いた現実の説明」は違うんですよ - 赤の女王とお茶を

    一連の「経済・生産性論争」を観ての「感想」です。 一言でいうと、タイトルのような間違いというかあるいは意図的な混同が議論を迷走させている感じ。 経済学によらず、物理でも生物でもそうですが、ある「科学モデル」について説明するとき、そのモデルが最もうまく機能する「系(=条件の集まり)」を仮定します。 これを「理想系」といいます。 勘違い君が作ってくれたグラフだとか、こちらで「仮定」されている条件などがそれにあたりますね。 「理想系」内では、当然ながらモデルがうまく機能します。そりゃそうです。そのような系を作ったんだもの。 つまりこれは「現実の世界」を反映したものではなくて、「こういうリクツもありえますよ」、とプレゼンするための「お話」なのです。 これに対して現実世界に起こった出来事「現実系」を解析する場合には、モデル通りには行きません。なんせノイズ満載ですから。 かろうじて、実験できる系の場合

    「科学モデルの説明」と、「科学モデルを用いた現実の説明」は違うんですよ - 赤の女王とお茶を
  • また君か。@d.hatena - OFF 会 2.0

    書いてる途中で長く放置してしまったので一旦区切る。 で、この一年ほどの発見として、「いはゆる OFF 会」は結構不便というか、あれはあまりいいものではないよなということが、おれの中で表面化してきたという認識が、春頃からじわじわとあった。だったらどうなったらいいんだという話だが、それについての発見なども GW 以降にいくつかあったので、それについて書いてみたい。 「いはゆる OFF 会」FUCK OFF 「いはゆる OFF 会」は、そういう様式が成立したことによって、遍くネットワーカーの OFF 会開催障壁を引き下げる役割と負ったとは思うが、いまや多くのネットワーカーはその段階を過ぎ、その役割を終えつつある。それでもまだ多くの場合には「いはゆる OFF 会」という幻想は有効に機能しているようにも見えるが、しかし状況は流動しつつ複雑化しており、画一的なイメージによって、むしろ障壁が引き上げられ

    また君か。@d.hatena - OFF 会 2.0
  • コミュニケーションベタな人向けのオフ会の技術

    われながらオフ会ベタなのですが、はじめて行ったオフは高校1年生16歳の時。おいおいもう17年ぐらい前かよ。オンラインコミュニケーションのseventeens mapじゃないですかorz 久々にこういう話題を見ました。 「リアル主義」者は現実的か――オフ会なんてリアルじゃない! リアル主義と呼んでいるようで、顔を実際に合わせて話すオフ会のような行為が、ネットのコミュニケーションよりも価値が高いとする考え方に対する反論の内容です。 ポイントとなっている部分はこんな感じでしょうか。 1.そもそも全人格的な交流など現実的に実現不可能なものである。 2.オフ会=「ネット―リアル型」のつながりで求められるのは人格の全面ではなく一局面で、所詮はネットの延長でしかない。 3.「日人が行う議論」のほぼ全てが「声の大きいものが勝つパワーゲーム」に終始し、オフ会でも同様の展開になることがあるので時間の無駄であ

  • 作家のなりそこないと評論家が言われるのは作家性だけ自走してるから。 - モノーキー

    追記、当ブログ恒例、ここより優れたエントリ紹介。 NaokiTakahashiの日記 - 作家性よりも作品性だと思う。 [ [■ Takahashi's Web ■] ] 自分のヤツは批評家を論じるために作家性を持ち出したから、ああなったので批評そのものに於ける作品論なら作品性の方が適切かも。 批評家を説明するのに作家性を持ち出すと端的で判りやすかったので。 批評は作品性というより、作家性のカタマリなんで、そんな苦しいオレの言い訳。 http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20060918/p1 [single F - 試作実験用。暫定版。-] >批評家と批評に必要なのは「批評性」。批評性だけでは売れなかったりするから「作家性」を付加したり(そも、批評っつーか評論はそれはそれで作品でもあるので、作家性や作品性を分離不能だけど)もしたりも。 あれかもしれ

    umeten
    umeten 2006/09/17
    作家性(自分の言いたい事)だけ抽出して書くと批評家の文章になる。/批評家が書く話が面白くないのは作家性だけが立派でちっともお客さんに媚びてないから  つまり、読み手へのアプローチの手法の重要性の指摘。
  • 標準語とオタク - 烏蛇ノート

    しばらく放置してましたが、今回は軽めの更新です。シロクマ氏のところの記事に付いたブックマークコメントより。 rumble_pony 在京経験もなく、両親も標準語圏出身じゃないのに標準語を話せる、ニュアンスがいつの間にか標準語寄り。<男女ともにヲタ率高い 元のシロクマ氏の記事は「隠れオタク女性の見分け方」なんですが、それに対して付けられたコメントです。rumble_pony氏は「なぜそうなのか」の理由を書いておられませんが、私自身はこれにしっかり当てはまっています。実際のところ、どこまで当たっているのかは分からないんですが、とりあえず私の場合を書いてみようかと。 私は現在京都に住んでいますが、関西出身の人に対しては標準語寄りの関西弁、それ以外の地方出身(と思われる)人には標準語、と使い分けており、自分の地元の方言を使うことはありません。これは「わざと使わないようにしている」のではなく、「地元

    標準語とオタク - 烏蛇ノート
    umeten
    umeten 2006/09/15
    これは重要な指摘。付け加えていえば、オタクが嗜好する映像作品が一律、標準語で製作されている点も見逃せない。
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