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ブックマーク / gordias.hatenadiary.org (12)

  • お前ごときがサバルタンなものか! - G★RDIAS

    今年の6月末にガヤトリ・スピヴァクが来日する件で、私はこのブログでぐちゃぐちゃ言っていました。そこから、サバルタン研究者についての議論が始まりました。 [font-da][集会][海外]ガヤトリ・スピヴァク来日 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070614/1181823313 [kanjinai][雑記]「ここにサバルタンがいる」と言えるのか? http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070615/1181886496 [font-da][雑記]「サバルタン」って言うな! http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070615/1181917951 それでですね、結局、スピヴァクの話は聞けずじまいだったのですが、web上で沖縄講演会の報告をアップしている方がいらっしゃいました。実は、沖縄講演会は、スピヴァクの体

    お前ごときがサバルタンなものか! - G★RDIAS
    umeten
    umeten 2008/05/17
    >誰もがサバルタンを作る可能性がある/「真の弱者」論というサバルタン製造システム/改めて「非モテ」を振り返るとそれは多分サバルタンと呼べるものだったのではないか。不勉強だったのでその言葉からは離れたが
  • フリーターとジェンダー - G★RDIAS

    西田芳正「フリーター問題の背景と若者支援の方策−社会的排除の視点から」『2007年度大阪府立大学人間社会学部公開講座報告要旨集』より、興味深かった文章を引用する。 これは20歳、女性、高卒の方へのインタビュー 【相手がフリーターやったら?】 フリーターは(結婚は)無理。安定していないから。 【やっぱり正規の社員じゃないとダメなのね?】 別に社員とかじゃなくても、普通に鳶とか鉄筋の仕事をしている人でもいいねんけど、男でフリーターというのはイヤや。ちゃんとしてよと思う。 【女のフリーターはOKなのね?】 女の子は結婚して、一生働くわけじゃないと思っているから。男の人ってぜったに一生働かないとあかんやんか[誤植ママ]。(略)(交際相手に)サラリーマンとかはイヤや。 【何で?】 リストラとかイヤや。肉体労働をしている人の方が好き。男らしいし。 【好き!】 何か男らしいやん。大工さんとか。 ・・・[

    フリーターとジェンダー - G★RDIAS
  • 妥協するということ - G★RDIAS

    x0000000000さんの貴戸理恵批判を読んでいて、考え込んでしまった。貴戸さんの『フリーターズフリー vol.1 (1)』pp.139-149所収の論文を引用しながら、x0000000000さんはこう批判する。 さらに、水商売をする貴戸に向けた院生の「私にはできない」、あるいは「フェミニズムをやってるならどうしてそんなことをするのか」といった言葉に対して、貴戸は次のように反論する。 そういう彼ら・彼女らは、塾講師だの家庭教師だののバイトをしていた。私は心の中でため息をついた。おやじに尻撫でられるのくらい何でもないんだよ。子どもの尻を叩いて受験勉強をさせるのなんかに比べれば。私は馬鹿にされている方がマシだ。(p.145) どうしてこんなにニヒリスティックになるのだろう。確かに「フーコーとか読んだ後に教師のバイトをやること」は、必ずしも整合的であるとは言えないだろう。しかし、言い方や問い方

    妥協するということ - G★RDIAS
  • 錯綜する「女らしさ」 - G★RDIAS

    先日、友人が家に遊びに来た。彼女は大変カワイイ女子(ヘテロ)である。性格や仕草もカワイイが、それ以上に顔がカワイイ。しかも美容関係の仕事に就いているので、カワイサを際だたせる術も持っている。もちろん、私の友人の中でも1,2を争うモテ女子である。*1男がとぎれない。いいな、と思った相手を好きになる前に、告白されるという。常に、愛され側。すごいなあーと思っていたが、彼女は真剣に悩んでいた。 「もっと地味でいたい・・・カワイイ女を求められる。」 彼女は、そんなつもりはないのに、男に媚びる甘え上手、と周囲から言われてしまうことに傷つき、人間不信にさえなったという。彼女の中には、幼い頃からずっと抱えてきた、ジェンダー違和や、女としての身体へのコンプレックスもある。「女らしい」から愛されながら、「女らしさ」への苦痛も持っている。*2 そうこう考えていたら、おもしろい記事があがっていた。 「女らしくした

    錯綜する「女らしさ」 - G★RDIAS
  • 少女漫画と男性漫画の目の大きさ - G★RDIAS

    モテだの、媚びだの、ファッションだの関連話で、こちらの記事を読んだ。 で、なんですけどね。男性向け漫画の女性と女性向け漫画の女性ってのも顔が違うんです。少女漫画と少年漫画って、絵柄が違うでしょ?特に女性の描き方とか。 特に何が違うかっていいますとね。特徴的なのに、目の描きかたがあるんです。 なんと言いますかね、少女漫画だとかの、女性向け漫画だと、女性の目の書き込み量が男性向け漫画より「凄い」んですわ。 要するに、アレです。宝塚なんですよ。 pal9999「女性のメイクに関して的を絞って話すとですね」『pal9999の日記』(http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20070507/p1) 最近、少女漫画も目の描き方はアッサリしてきているので、「宝塚」というのは、いったいどんな雑誌を読んだのだろう、と思うが。もしかして、一条ゆかりを読んだのか?*1 それでも、CLAMP

    少女漫画と男性漫画の目の大きさ - G★RDIAS
    umeten
    umeten 2007/06/09
    「少女漫画」観(あるいは少女漫画の作風)の変遷
  • バージニア工科大学事件と「移民」 - G★RDIAS

    『現代思想』2007年6月号に、山薫子さんの「ディアスポラの子どもたち」が掲載されている。テーマは日にいるブラジル移民だが、枕として、バージニア工科大学事件の容疑者のことが書かれている。彼は、韓国からの移民だったのだが、その点は、事件発生時以降は、米国メディアでは強調されなくなった。 32人を銃で射殺した殺人犯はたまたま移民の子どもだっただけであり、ただそれだけだ。(240頁) しかしその結果として、彼は米国において居場所を奪われることになったと山さんは言う。 結局、「彼」は誰だったのか。何者として死んでいったのだろうか。 皮肉なことに、アメリカン・ドリームと「今よりもよい暮らし」を願って少年時代に後にした母国からは「同じ韓国人」と見なされるいっぽうで、人生の半分以上を過ごした米国では、同胞から切り捨てられ、アメリカのメディア報道では国籍や民族に関する詳細が省かれた、所属のない個人、

    バージニア工科大学事件と「移民」 - G★RDIAS
    umeten
    umeten 2007/06/07
    「彼」とはつまり単独者なのだ。アメリカであろうが、EUであろうが、中東であろうが、アフリカであろうが、アジアであろうが、日本であろうが、変わらずに単独者なのだ。
  • 中国の一人っ子政策:排卵誘発剤で双子出産増加 - G★RDIAS

    BBC国際テレビで、排卵誘発剤をもちいて、多胎児(双子以上)を産んで、一人っ子政策をすり抜けようとする中国人カップルが激増しているというレポートをやっていた。中国の一人っ子政策には例外があって、多胎児を妊娠した場合は、そのまま産んでよいということになっている。それを利用して、薬局で排卵誘発剤を買い、服用して、双子、三つ子を産むカップルが増えているということらしい。来は、医師の処方箋がないと排卵誘発剤は買えないことになっているが、実際は、処方箋なしで誰でも買える。BBCでは、記者が実際に薬局に入って、問題なく買っている映像が映っていた。 BBCサイトにもレポートがある。 The BBC's Rupert Wingfield-Hayes in Beijing says that the sale of fertility drugs to people without a prescript

    中国の一人っ子政策:排卵誘発剤で双子出産増加 - G★RDIAS
    umeten
    umeten 2007/05/27
    子供は金の子、というわけだ。
  • 非モテの男はモテモテになりたいの? - G★RDIAS

    モテについての自分のエントリーへのみなさんの感想を読んでいて、ふと思ったのだが、「非モテ」という自己認識をしている男子は、モテについてどういう意識をもっているのだろう? モテたい、というときに、「許容できる相手なら誰でもいいから恋愛を経験したい」と思ってるのか、 それとも、「モテモテくんみたいに、いろんな女にもてまくれたらどんなにいいだろう」と思っているのか。(こういう気持ちが少しでも心の中にあるのか?) どっちなの? あるいは、どっちでもないの? ちなみにkanjinaiが若いときには、非モテでしたが、上記は両方ありました。(いまは両方ともなくなっている気がする。) ___________________ 追記:続きを書いた。 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070523/1179846836

    非モテの男はモテモテになりたいの? - G★RDIAS
    umeten
    umeten 2007/05/06
    「独りで在る」ことを罪とみなされることが覆らないのであれば、それへの回避策としてなんらかの経験を得たいというくらいではなかろうか?つまり、所詮は二次的な問題。「独り=孤独=悪」とならないことが望み。
  • モテとはひとりの女を大切にすることである - G★RDIAS

    モテ/非モテということが、男子のあいだで話題になっているようだ。これについては、人生の先輩として言いたいことがいろいろあるので、少しだけ書く。 モテは、「ちょいモテおやじ」みたいに、いろんな女にちやほやされて、性的な視線を送られることというふうに理解されることが多いと思うが、そこをコペルニクス的転回しないといけないように思うのである。 そもそも、「いろんな女からちやほやされたい、あわよくば、いろんな女とエッチしたい」という願望は、「権力欲」にほかならない。このような権力欲に裏付けられたモテにこだわっているかぎり、光明はさしてこないだろう。(沼崎一郎はこれを「男力」として批判している)。 そのような観念に絡め取られたうえで発せられる「モテ/非モテ」のパラダイムを、脱出しないといけないのではないのか。 では、コペルニクス的転回後のモテとは、いったい何なのか? 私が思うに、モテる男とは(とりあえ

    モテとはひとりの女を大切にすることである - G★RDIAS
    umeten
    umeten 2007/04/29
    いいや違うね。正しくは、「モテる男とは、「相手の女をたったひとりの恋人として大切にしているように振舞うことができる」男」のことだ。
  • 「本当は、できるでしょう?」という暴力 - G★RDIAS

    老親への介護などの場面で、「介護をしたくない」と言うべきときに、「介護をすることができない」と言い換えようとするところ、そしてみんながその言い方を許してしまうところに、「姥捨山問題」の萌芽があるのではないかという問題提起を、x0000000000さんが行なっている。 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070406/1175824830 x0000000000さんは、さらにこうも言う。「「当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと、ここにもまた姥捨山問題が論及する暴力が潜んでいるのではないだろうか」(上記URL)。 それに対して、id:font-daさんが、そういう「当は、できるでしょう?」という言い方自体の中に、介護などの現場で揺れ動いている人々を追い詰める別種の暴力が潜んでいるのではないか、と批判している(ように私には見える)。 http://

    「本当は、できるでしょう?」という暴力 - G★RDIAS
  • ハンナ・アレント「道徳哲学のいくつかの問題」 - G★RDIAS

    遺稿集所収の論文。 責任と判断 作者: ハンナアレント,ジェロームコーン,Hannah Arendt,Jerome Kohn,中山元出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2007/02/01メディア: 単行 クリック: 37回この商品を含むブログ (17件) を見る ニーチェはみずからモラリストと名乗っていました。そして実際にモラリストだったのは間違いありません。しかし倫理に関するかぎり、生命を最高善とすることには問題があります。キリスト教的であるかどうかを問わず、すべての倫理は、死すべき人間にとっては、生命が最高善ではないことを前提とするものだったからです。そして人間の生においては、個別の生命体の存続と繁殖よりも重要なものがつねに存在するのです。 何が重要とされるかには、時代ごとに大きな違いがありました。ソクラテス以前の古代ギリシアで重要だったのは、偉大さと名誉でした。ローマで〈徳〉と

    ハンナ・アレント「道徳哲学のいくつかの問題」 - G★RDIAS
    umeten
    umeten 2007/04/06
    生命至上主義の近代的死生観という問題。まあ、道徳至上主義の中世的死生観で人命を軽視されてもあれなワケだが・・・
  • 藤田正勝『西田幾多郎――生きることと哲学』 - G★RDIAS

    西田幾多郎―生きることと哲学 (岩波新書) 作者: 藤田正勝出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2007/03/20メディア: 新書 クリック: 20回この商品を含むブログ (19件) を見る 西田が哲学を単なる知識のための哲学としてではなく、自ら生きるということと密接に結びついたものとして理解していたことが、これらの言葉から知られる。いかにして「真に生きる」ということが可能になるか、この問いこそが哲学の出発点であり、それを問い続けることが哲学であるという考えを西田は一貫してもちつづけていたように思われる。(p.6) 西田幾多郎は、「生きること」と哲学とを不可分のものだと考えていた、という藤田さんの説。このがやや西田や京都学派に入れ込みすぎの感は正直あった。たとえば、ベルクソンについても、同時代の西田より後、すなわちフランス国ではドゥルーズなどがベルクソン論を書いている。藤田さんの叙

    藤田正勝『西田幾多郎――生きることと哲学』 - G★RDIAS
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