warとhistoryに関するurbanseaのブックマーク (79)

  • 赤旗紙 「土人女を集め慰安所開設」/中曽根元首相関与示す資料/高知の団体発表

    中曽根康弘元首相が、戦時中に慰安所設置に積極的に関わっていた資料が防衛省の公開している文書の中から見つかったと、高知市の平和団体が27日、高知市内で発表しました。 明らかにしたのは、高知県内の戦争遺跡の調査や保存に取り組んでいる民間団体「平和資料館・草の家」の岡村正弘館長や馴田正満研究員(63)ら。 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上

  • 竹下勇 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "竹下勇" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) 名は竹下勇次郎。しかし任官当時、格下の竹下勇四郎機関士なる人物がいたことから、憤慨して改名してしまった。 日露戦争の前後にアメリカ大使館付武官として長らく対米研究を重ねている。柔道を通じてセオドア・ルーズベルトと親しくなり、アポなしでホワイトハウスを訪問しても咎められないほど深い仲になっている。帰国後は訪日したルーズベルト家を招いて饗応している。但し、あくまでもセオドアとの個人的な友情であり、太平洋戦争末期にフランクリン・ルーズベルトが急逝すると、日記に「天罰が下っ

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    urbansea 2011/04/16
    海軍大将 本名は竹下勇次郎。しかし任官当時、格下の竹下勇四郎機関士なる人物がいたことから、憤慨して改名 原宿竹下通りは竹下邸があったことに由来
  • 戦前・戦中スローガン集

    第7回 戦前・戦中 大日帝国スローガン集1.はじめに 大日帝国といえば、「欲しがりません勝つまでは」「月月火水木金金」などの、今から見ると衝撃的かつ刺激的なスローガンであまりにも有名です。では、この他には一体どんなスローガンがあったのでしょうか。調べていくうちに、実に多種多様なスローガンが国や地方公共団体、今でもお馴染みの民間企業・団体などから出されていることが解りました。そして、「近頃の若い者は・・」と言われ、その度に「昔の人だって・・」という反論が出されますが、まさにそれを表すかのごとく、現代でも全く転用可能なスローガンまでありました。 現在、朝鮮半島の北半分をしめる某国家の特異性が、この日をにぎわせていますが、その日にも、あんな時代があったんだなあと言うことが、このスローガンからも解ることでしょう。では、見ていくとしましょう。 A.国民国家精神総動員タイプ みんなで一致団結し

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    urbansea 2011/03/11
    「飲んでて何が非常時だ」「米が足りぬにまだ飲むか」
  • 蝦夷共和国 - Wikipedia

    12月15日には諸役を決定するための入札(公職選挙のこと)が実施された[4]。この背景として、脱走軍は榎武揚が指導者になっているとは言え、元藩主や元幕府老中といった大名クラスも参加しており、君臣の関係が複雑であったこと。また「陸軍派」と「海軍派」のグループもあり、「陸軍派」の中も、「彰義隊」と「小彰義隊」等の小グループがあり、全体として一枚岩に纏まってはいなかったことが挙げられる。ただし、この入札(投票)に箱館の住民は参加しておらず、旧幕府軍でも入札に参加したのは士官以上の者で旧幕府脱走軍の総数の3分の1程度にすぎず共和制といえるような公選ではなかった[4]。 「投票」総数856票の内訳は、以下の通りであった[7]。 榎釜次郎 156 松平太郎 120 永井玄蕃 116 大鳥圭介 86 松岡四郎次郎 82 土方歳三 73 松平越中 55 春日左衛門 43 関広右衛門 38 牧野備後 3

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  • 胡適 - Wikipedia

    胡 適(漢音:こ せき、慣用音:こ てき、1891年 - 1962年)は、中華民国の哲学者・思想家・外交官。もとの名は嗣穈、字は希彊、後に適と改名した。字は適之。 アメリカの哲学者ジョン・デューイのもとでプラグマティズムを学び、新文化運動の中心を担った。中国哲学・中国文学を広く論じた。北京大学教授のち学長。中国国民党を支持したため戦後は米国に亡命したのち、1957年に台湾移住した。 青年期[編集] 胡適別影 Who's Who in China 3rd ed. (1925) 1891年、江蘇省松江府川沙庁で生まれ、籍地の安徽省徽州府績渓県で育った。14歳のとき、社会進化論の書物『天演論(中国語版)』(T.H.ハクスリー著・厳復訳)を読んで感銘を受け、同書の中の用語「適者生存」にちなんで「適」と名乗るようになった[2]。 1910年(宣統2年)、19歳のとき、アメリカに留学し、コーネル大

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    urbansea 2010/11/27
    「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」で知る。1935年の時点で、米ソを巻き込むには、まず日本との戦争をまず正面から引き受け、2.3年負け続ける。すると米ソが極東に介入してきて、日本を打ち負かせる…云々。
  • 帝国国防方針 - Wikipedia

    帝国国防方針(ていこくこくぼうほうしん)とは、大日帝国における軍事戦略についての基的な方針を定めたもの。1907年(明治40年)、明治天皇が承認した。 概要[編集] 帝国国防方針は国防の基戦略を記した軍事機密文章である。[1]帝国国防方針、国防に要する兵力、帝国軍の用兵要領の三部から構成されている。第一部の国防方針は国家目標と国家戦略、また導かれる国防目的と国防方針、仮想敵国と情勢判断、所要軍備などについて述べられている。 第二部には所要兵力、即ち軍事政策の具体的な目標としての師団数、軍艦数などの数値目標が定められている。第三部には日の軍事ドクトリンと仮想敵国に対する個々の作戦計画大綱が述べられている。[2] 日陸軍が陸海軍作戦の統合的な国防方針を策定しようと発案したことがきっかけとなり、明治40年4月4日明治天皇により裁可されたのが最初となり、以後国際情勢の変化などに応じて変更

  • パンプキン爆弾 - Wikipedia

    パンプキン爆弾 パンプキン爆弾(パンプキンばくだん、かぼちゃ爆弾、Pumpkin bomb)は、第二次世界大戦(大東亜戦争 / 太平洋戦争)中にアメリカ軍が開発、使用した爆弾。弾体が橙黄色に塗装されていたことから「パンプキン」の名がある[1]。1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)「ファットマン」の模擬爆弾として知られ、日では一般に模擬原爆(もぎげんばく)と呼ばれている[1]。 正式名称は「1万ポンド軽筒爆弾」(Light-case,10,000-pound weapons)[1]。ファットマンとほぼ同一の形状を有し、質量もファットマンとほぼ同一になるよう調整された模擬原爆で構造分類上での通常型爆弾のコードネームである。マンハッタン計画に携わる、ロスアラモス研究所の科学者と兵士によって命名された。 この爆弾は原爆投下に備えた爆撃機乗員訓練のためと、今までに例のない特殊な形状

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  • ボストン茶会事件 - Wikipedia

    ボストン茶会事件(ボストンちゃかいじけん、英: The Boston Tea Party)は、1773年12月16日にイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンにおいて、植民地人の急進派がイギリス国議会(グレートブリテン議会(英語版))に対する抗議として停泊中の船舶から積荷の茶箱を海に大量投棄した事件アメリカ史において、後のアメリカ独立戦争への転機になった出来事と評される。 発端は1773年5月10日にイギリス議会で制定された茶法であった。この法律はイギリス東インド会社がアメリカ植民地で中国産の茶葉を直接販売するにあたって、販売独占権が与えられると共に、植民地に課せられたタウンゼンド諸法に基づく関税の実質的な免税を受けるものであった。この処置は植民地に正規輸入された茶葉の値段を押し下げる効果をもたらすものであったが、植民地ではもともとタウンゼ

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    urbansea 2010/10/16
    植民地人の間にはそれまで愛飲していた紅茶をボイコットする者が多くなり、代わりにコーヒーが普及した。現在でもイギリス人に紅茶党が多い一方、アメリカ人にはコーヒー党が多いが、この不買運動に由来
  • ハル・ノート - Wikipedia

    コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎駐米日大使と来栖三郎特命大使(1941年12月7日) ハル・ノート(Hull note)、正式名称:合衆国及日国間協定ノ基礎概略(がっしゅうこくおよびにほんこくかんきょうていのきそがいりゃく、Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)[1]は、対英米戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日(日時間11月27日[2][注釈 1])にアメリカ側から日側に提示された交渉文書である。 日側の求める日軍の中国駐兵を拒否して全面撤兵を要求するとともに、交渉過程では文書上は避けていた汪兆銘政権の否認を明確化、さらには仏領インドシナからの撤兵、日独伊三国同盟の破棄なども要求する非妥協的[3]、かつ日のそれま

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    urbansea 2010/10/12
    tentative and without commitment 試案にして法的拘束力無し。/井上寿一「吉田茂と昭和史」に、吉田茂はジョセフ・グルーに最後通牒でなく試案であることを確認したとある。
  • 菊池武夫 (陸軍軍人) - Wikipedia

    陸軍士官学校、陸軍大学校を経て日露戦争に従軍。歩兵第11旅団長・奉天特務機関長を務めた後、陸軍中将で予備役に編入となった。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校卒業(7期歩兵科)。陸軍歩兵少尉任官後、歩兵第23連隊(熊、第6師団)付、陸軍士官学校区隊長を経て、明治34年(1901年)陸軍大学校入校 1904年(明治37年)、陸軍大学校を中退し、歩兵第23連隊中隊長として日露戦争に出征。 後備第6旅団副官、韓国駐剳軍兵站参謀を経て帰還後、陸軍大学校に復校し、明治39年(1906年)陸軍大学校卒業(18期)後、参謀部出仕、第16師団参謀、北京駐屯歩兵隊長、歩兵第64連隊大隊長、陸軍大学校教官、参謀部付仰付(支那政府応聘)を歴任。 大正8年(1919年)、ヨーロッパへ私費留学。同年5月、男爵襲爵。翌大正9年(1920年)、帰国 大正9年(1920年)、歩兵第64連隊長。大正11年(192

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  • ブレスト=リトフスク条約 - Wikipedia

    ブレスト=リトフスク条約(リトフスクじょうやく、ドイツ語: Friedensvertrag von Brest-Litowsk, トルコ語: Brest Litovsk Barış Antlaşması, ブルガリア語: Брест-Литовски договор)またはブレスト条約(ウクライナ語: Брестський мир, ロシア語: Брестский мир)は、第一次世界大戦の終結を巡り、ブレスト=リトフスク(現在のベラルーシのブレスト)で1918年に締結された講和条約である。ウクライナ・ソビエト戦争の情勢もあり、独墺とウクライナ人民共和国とのブレスト=リトフスク条約、独墺とロシア・ソビエトとのブレスト=リトフスク条約の2つの条約がある[2]。 1918年2月9日(ユリウス暦1月27日)に結ばれた条約 - 中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、

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  • 上海天長節爆弾事件 - Wikipedia

    太極旗の下で宣誓する尹奉吉 朝鮮半島からの日による支配を駆逐する事を目的とする大韓民国臨時政府の内務総長・金九は、第一次上海事変での格納庫や軍需倉庫の爆破による後方攪乱、庄繁と内田康哉の暗殺計画などを策していたが、いずれも失敗に終わっていた。そんな中、この攻撃実行の恰好の機会に、自ら志願した[2]尹奉吉を攻撃の実行犯として差し向ける事にした。またこの攻撃計画には中華民国行政院代理院長(日の内閣総理大臣代理に相当)であった陳銘樞などが、朝鮮人側の要人であった安昌浩に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたため、日語が上手で日人に見える実行犯を使うことにしたからである。 金九は、上海兵工廠の庫長と第19路軍情報局長を兼任していた金弘壹(中国名・王雄)に水筒型と弁当型の爆弾各1個の製造を依頼した[2][3]。これは日の新聞が水筒と弁当

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  • File:Surrender of Japan - USS Missouri.jpg - Wikimedia Commons

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    urbansea 2010/09/25
    梅津美治郎と重光葵。もうちょっと上に振って、砲台に座っている人物の膝くらいまで入れれば、完璧な写真だろう。
  • 在郷軍人会 - Wikipedia

    1910年(明治43年)11月3日、予備役・後備役軍人の軍人精神向上、傷痍軍人・軍人遺族の救護等を目的に伏見宮貞愛親王を総裁として発足した。 これは当時の陸軍省軍事課長田中義一がドイツの仕組みを参考に組織を編成したと言われている。当初、陸軍のみの組織であったが、1914年(大正3年)に海軍も対象に加わり、陸海軍共通の組織となる。 会は、聖旨を奉戴し、軍人精神の振作、軍事知識の増進を主眼とし、ほかに社会の公益を図り、常に国民の中堅であることの実を挙げることを目的とする。 事業としては、 勅語、勅諭その他の奉読式、四大節その他における遙拝式 軍人精神の鍛錬、軍事学術の研究および演練その他 毎年の陸海軍記念日における祝典、戦没者の祭典、廃兵、戦死者および公傷病兵の遺族に対する慰藉 会員の応召準備整頓、召集事務幇助、徴兵志願兵検査および簡閲点呼参会者の指導 入営者その他に対する軍事教育 青年訓練所

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    urbansea 2010/08/29
    退役でなく予備役にある人によって構成 田中義一がドイツの仕組みを参考に組織を編成 天皇機関説撲滅運動など、軍部の政治力強化に協力
  • 石光真清 - Wikipedia

    駅に近い旧居が「石光真清記念館」として保存・公開されている[5]。 旧居は木造2階建てで、建築時期は不明[4]。長らく空き家で取り壊しも検討されていたが、地域住民や石光真清顕彰会が保存運動を展開。近所の女性が自身の所有地と等価交換をして2012年に市に寄贈した[6]。2014年から修復作業が始まり、一旦解体した後で柱などを再利用して4000万円をかけて再建した[4]。 明治元年(1868年) 8月30日 - 現在の熊山町に熊藩士・石光真民とその・守家の四男として生まれる。幼名は忠三、のち正三。 明治10年(1877年) 9月19日 - 父・真民が死去[7]。 12月1日 - 山小学校入学[2]。徳富蘆花(作家)、鳥居素川(『大阪朝日新聞』記者)、元田亨一(陸軍中将)、嘉悦敏(嘉悦氏房の二男、陸軍少将)らが真清や弟・真臣の親しい学友だった。 明治12年(1879年) 熊師範

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    urbansea 2010/08/06
    橋本龍太郎の系図に入ってくる人物 大陸での諜報活動家
  • 朝枝繁春 - Wikipedia

    経歴[編集] 海軍下士官であり、日露戦役後に船員をしていた朝枝進の長男として生まれる[1]。苦学のすえ福岡県立門司中学校を卒業し、1929年(昭和4年)4月に陸軍士官学校予科に入学する[1]。入校生は東京陸軍幼年学校から来たものも含めて総員356名であった。予科では、配属部隊が西義男、衛藤親美とともに歩兵第74聯隊附と決まる。その後の1931年(昭和6年)9月末、半年間の隊附勤務を終えて、科へ入校する。 三根生久大著『参謀部の暴れ者』の中で、陸士での成績について次のようにふれている。「私の隊附の時の訓育中隊長佐藤大尉が朝鮮の第七十四聯隊から東京に出張してきた折、自分の教え子の朝枝繁春の成績はどうなのだと科の私の区隊長の所に聞きに来たらしいんです。ところが、戦術は同期生中一番だというので安心したらしい。それはいいんだが、後がまずい。操行がなんと赤点だと言うんだ。それには佐藤大尉もびっく

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    urbansea 2010/08/01
    大本営参謀 近衛の「和平交渉の要綱」(国体護持のため、ソ連に軍人および民間人を労力としてソ連に提供することを申し入れる)を下地に同様の文書をソ連に送る。
  • 山縣有朋 - Wikipedia

    山縣 有朋(やまがた ありとも、旧字体:山縣 有朋󠄁、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日政治家[1]。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔[2]。変名として萩原鹿之助の名も用いた[3]。1871年以降に有朋の諱を称した[3]。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪[4]。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ[5]、学問を修めて松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事。高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。明治維新後の1869年

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    urbansea 2010/08/01
    山縣によって陸軍大臣をコントロールできたお陰で同輩中の首席である総理大臣にも内閣が維持できた。山縣の死によって総理大臣はそれこそ同輩中の首席となり、軍をコントロールできなくなる。
  • 国家総動員法 - Wikipedia

    国家総動員法(こっかそうどういんほう、旧字体:國家總動員法)は、1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって第73帝国議会に提出されて可決成立し、同年4月1日に公布[1]、5月5日に施行された法律。日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。 第26代内閣総理大臣田中義一の下で1929年(昭和4年)に策定された「総動員計画設定処務要綱案」から発展した法律である[2]。 1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗北にによって名目を失い、GHQ/SCAP被占領期にあって同年12月20日に公布された「国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律」(昭和20年法律第44号)により廃止され、効力が消失した[1]。 当初は企画院第一部が所管し、商工省(現・経済産業省)工務局・鉱山局と連携して執行。1943年(昭和18年)から降伏直後ま

    国家総動員法 - Wikipedia
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    urbansea 2010/07/29
    ルーデンドルフ体制=ドイツ戦争経済、すなわち海上封鎖などの影響で「市場経済から配給を中心とする統制経済にやむなく転換した結果できた社会主義経済」(別宮暖朗「帝国陸軍の栄光と転落」)の日本版。
  • 千人針 - Wikipedia

    千人針(せんにんばり)は、第二次世界大戦まで日でさかんに行われた、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作る祈念の手法、および出来上がったお守りのこと。武運長久、つまり兵士の戦場での幸運を祈る民間信仰である。 概要[編集] 1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で縫って結び目(玉結び)を一目つくってもらう。それを千人の女性に一人一針ずつ縫ってもらうことを目標に一枚の布を縫い進める活動。近所の人々や、往来で声を掛けあうのも当時は多くみられた。特例として寅年生まれの女性は自分の年齢だけ結び目を作る事が出来る。これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えにあやかって、兵士の生還を祈るものである。同様の理由から、ただ単に縫い目を並べるのではなく、虎の絵を刺繍で描いた例も多く見られる。また、穴の開いていない五銭硬貨や十銭硬貨を縫いこむことも行われた。これは「五銭」は「死線(しせん=四銭)」

    千人針 - Wikipedia
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    urbansea 2010/05/26
    政府は、日露戦争の頃には、千人針を含めた武運長久の民間信仰について、迷信であり「頑迷不識の徒」が行うものとして批判し、歓迎していなかった。しかし、第二次世界大戦期には、戦意高揚の手段として奨励に転換
  • 杉本五郎 - Wikipedia

    広島県安佐郡三篠町(現:広島市西区打越町)生まれ。少年期から将校に憧れ、1913年(大正2年)、質実剛健を伝統とする広島藩の元藩校である旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)入学。1918年(大正7年)修道中学校を卒業し[1]、陸軍士官候補生として広島の歩兵第11連隊に入隊。しかし同年起こった米騒動は、日帝国の内部的危機の開始を告げる大事件となり、国体安泰の安易な夢が一瞬に打ち破られ、杉の深刻な思索と悲壮な人生が始まった。小作争議が激化し日主義の屋台骨は揺らぎ始め、ロシア革命の影響で社会主義が台頭、また軍事的封建的支配の圧迫が加わり、社会に暗い圧迫感と絶望感が充満した。兵営の中から混乱した世の中を眺めた杉は、危機を直感し自ら救世の先達になる決意を固めたのでは、と言われている。しかし軍隊に入った杉には窓は一方にしか開かれておらず、皇国の精神を発揚し実践するための勉学と修養と

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    urbansea 2010/05/04
    「天皇信仰の極北」とされる遺言本『大義』 かくして軍神に>>手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。