不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 能楽師(下掛宝生流ワキ方)である安田登さんによる『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』。 これはおもしろかった。 白川静さんが好きな僕には納得感もあった。 有名な「四十にして惑わず」も、「惑」という文字自体が孔子の時代になかったのだから、「40才になったら迷わない」という意味ではないだろう、と著者は考えます。 白川静さんも『漢字―生い立ちとその背景』で「人が神とともにあり、神とともに生きていた時代には、心性の問題はまだ起こりえなかったのであった」と言っているように、「心」という漢字自体が孔子が活躍する、ほんの500年前にできたにすぎない。「心」がついた「惑」は孔子の時代のさらに500年以上あとにようやく登場する。 であれば、孔子が「四十にして惑わず」などと