赤松則村のページ。「鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、それまでの播磨国守護職を没収されるなど優遇されなかった事が知られている」 赤松氏のページ。「赤松円心は後醍醐天皇に味方したにもかかわらず、建武の新政で守護国を没収された」 これだと建武の新政で播磨国守護職を没収された、つまり建武の新政以前の鎌倉時代には播磨国守護だったように読めるが、実は違う。そもそも播磨国という「大国」の守護職を赤松氏という得宗との関係も定かではない武士に任せるわけがないではないか(まあ得宗被官かもしれないが、得宗被官であれば守護にはなれないだろう)。 ウィキペディアの「播磨国」のページにに播磨国守護職がまとめられている。それによると「梶原景時→小山朝政→後藤基清→小山朝政→小山長村→小山宗長→北条時宗→北条兼時→六波羅探題北方兼任」となっている。小山長村は北条時輔の義父にあたる。1276年には北条時宗つまり得宗が守護と