2023年10月7日、中東ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエル領域に侵攻、民間人を虐殺したことを受けて、イスラエル側の空爆による大規模報復が開始されました。この記事では、双方に懸念される戦争犯罪の国際法上の評価についての可能性をメモしています。

なんでワイに取材が来るのかよく分かりませんが、とりあえず「どうでもいいんじゃないですか」という話はします。 そもそも、99年文春が報じたジャニーズ告発記事で、最高裁が「ジャニー喜多川による性暴力の記述は真実」と認定した時点から四半世紀も、それもジャニー喜多川さんが亡くなられた後も何事もなかったかのようにジャニーズ事務所は運営されてきた経緯があります。 それまでのあいだ、文春やBBC以外はこれらの性被害の問題について報じたメディアはほぼ絶無であって、いまさらジャニーズ事務所が釈明のための記者会見を開催しても独自ネタも特になく質問を一問二問するだけのことにどれだけの意味があると思ってるんでしょうか。 また、更問による質疑が国民の知る権利に資し、理解を深めるという話が出ていましたが(江川紹子さんもTwitterXで書いてましたが)… そもそも被害者のいるジャニーズ事務所問題というコンプラ上問題の
※noteは圧力で消される可能性もあるので、私と訴訟しない限り削除できない自分トコのサイトにも同じ内容を置いておくことにする。 「呉座勇一先生の裁判を支える会」のサイトに「呉座先生、日文研復職のお知らせ」が掲載された。 2023年8月に大学共同利用機関法人人間文化研究機構との間で取り交わされた和解条項の合意に基づき、本年11月1日より、呉座勇一先生が国際日本文化研究センターに助教として復職される予定です。 呉座先生が名実ともに、歴史学者としての再スタートを切られることに対し、支援していただいた皆様とともに、心より喜びを共有したいと思っております。 今後とも、何卒、よろしくお願い申し上げます。 呉座勇一先生の裁判を支える会 代表 中田大悟 呉座勇一先生の裁判を支える会 「研究・教育・言論・メディアにかかわるすべての人へ」という文書に発起人の賛同者多数の名前を添えて公開され、その騒動を理由に研
秋田県秋田市が1995年から28年にわたり、生活保護の「障害者加算」を誤って過大に支給し、対象者に過支給分の返還を求めていることが判明した。これまでに過支給した世帯数や総額は不明。秋田市は過支給が把握できた38世帯に対し、時効が適用されない過去5年分の過支給額を返還するよう求めている。突然、多額の返還を求められた受給者からは「貯金もない状態で、払えるわけがない」との声が上がる。 秋田市によると、過支給のミスは会計検査院による5月の検査で発覚した。市はそれまで精神障害者保健福祉手帳(精神障害者手帳)の2級以上を有する生活保護受給者に対し、障害者加算を一律に支給していた。だが、会計検査院の指摘で「障害基礎年金の受給権があり、年金の請求手続きをしていない人」などは本来、対象外だと分かった。障害者加算の認定については、厚生労働省が1995年、各都道府県や中核市などに文書で通知していたが、市は何らか
1年以上前に引き受けすでに広報もされている(注)、ひょうご部落解放・人権研究所主催の「ひょうご人権総合講座」(2023年8月~12月)の「ジェンダー①(総論)講義(11月2日予定)」について、依頼取り消しの連絡を受けた(9月22日)。 取り消しの理由は、添付文書の通り(この文書は同研究所から公開の許可を得ている)、6月14日にWANサイトに掲載された「LGBTQ+への差別・憎悪に抗議するフェミニストからの緊急声明」に対して私がSNS上に公開した「トランス問題と女性の安全は無関係か――『LGBTQ+への差別・憎悪に抗議するフェミニストからの緊急声明』についてフェミニストからの疑問と批判」(2023年7月6日note公開)に問題があると、同研究所の協力者から批判があり牟田は講師としてふさわしくないと判断されたからということだ。研究所自体としては、「主張の適否を判断するものではな」く、「意見の違
オープンレター~女性差別的な文化を脱するために本日、呉座勇一氏(歴史学者)がオープンレター差出人らに名誉毀損に基づく損害賠償請求をした訴訟について、呉座氏が、オープンレターが名誉毀損で違法であるとの主張を撤回し和解を申し出ましたので、オープンレター側は和解に応じることとしました。 名誉毀損で違法であるとの主張が撤回されることは極めて異例であり、我々は、これを勝利和解であると評価し、ご報告する次第です。 和解条項 反訴原告は 、別紙添付「オープンレター」が反訴原告の名誉 を毀損する違法な文書でないとの反訴被告らの主張を受け、それが違法であるとの主張を撤回することとして和解の申出をしたところ、反訴原告と反訴被告らとの間で、次のとおりの和解の合意が成立 した。 1 反訴原告、反訴被告ら及び補助参加人(以下「本件当事者」という。)は、別紙添付「オープンレター」が、反訴原告による利害関係人に対する誹
今、ひとりの書店主として、伝えたいこと 7月、8月と、これまで以上に廃業に追い込まれる書店が増えていった。 社長さんがいつも気にかけて下さっていたので好意を寄せていたダイハン書房の廃業のニュースは、特に堪えた。恐ろしくなった。今でもその時の衝撃を思い出すと背筋が寒くなる。 9月14日、また理不尽に思うことが、あった。 京極夏彦の新刊の発売日だった。 毎日、数百点も発刊される本を、事前に、アンテナを張って入手することは、小さな書店にとっては、生命線ともいえる。配本自体が、書店の規模で、ランク付けされているから、うちのような13坪しか無い店は、何もしないと新刊の配本すらされないのだ。 最近は事前に取次か、版元に、お願いして配本をつけていただくこともあるが、これは、発売日の2週間以上ぐらい前でないと、手続き上、間に合わない。 大型書店に当たり前のように見計らいされる本でも小さな書店には入らない
『ジェンダー目線の広告観察』を上梓して、ポリタスTVに出演する機会を得た。本の刊行から間もない時点での出演だったので、番組を見て本を手に取ってくれる方が多く本当に感謝している。 この番組の中で、作家の白岩玄氏が男性学研究者の田中俊之氏との対談の中で「バカとエロの大縄跳び」と表現したことについて言及し、男性向けエステの広告の表現を分析した。「バカとエロの大縄跳び」とは、男性が成長過程で仲間からの同調圧力として経験する、一緒にバカなことをしてエロを受け入れないと周囲から男の子として認められないという強制力を持った言動のことを指す。 この言葉を反芻しながら、旧態依然としたジェンダー規範と性差別的なジェンダー役割構造の再生産から抜け出せないでいる広告産業全体のことのみならず、男性中心社会のハラスメント構造について考える。 男同士で連むことで大縄跳びを延々と回し続け、そこから「一抜けた」と離脱するこ
先日行われた山本太郎氏の集会(山本太郎とおしゃべり会@福島県郡山市、2023年9月4日)で、陰謀論者と見られる人物が質問したことが一部で話題になっていた。 他にも質問したい人が大勢いるだろう中、延々とマイクを握って陰謀論を連発し、山本太郎氏をイルミナティ呼ばわりする姿は顰蹙を買っていた。一方筆者として気に掛かったのは、この人物が陰謀論の基礎事項である、イルミナティや人工地震について説明を求められても適切に答えられていなかったことであり、陰謀論に対しては批判的なスタンスの筆者もこれには「もっと愛を持って陰謀論に向き合って欲しい」と思ってしまった(勿論、愛があったとしてもルール無視の行動が肯定されるわけではない)。 そこで筆者は、陰謀論者なら知っておいてもらいたい事項についてひとまず50の問題を作成した(折角なので今更ながらに書いておくと、筆者は昨年11月に行われ、鈴木エイト氏、能町みね子氏、
■ 自己紹介こんにちは。松嵜未来です。 共同通信社大阪支社写真映像部に所属するカメラマンです。2019年に入社し、福島支局、本社写真映像部などで勤務し、大阪支社には2020年に赴任しました。 私が報道カメラマンを目指した経緯などは、こちらを読んでもらればと思います。 ■ 撮影までの経緯今年の阪神は、10連勝した8月に早々とマジックが点灯し、9月も優勝を決めた14日まで負けなしでした。マジックナンバーは急速に減っていました。アレの1週間ほど前から、共同通信大阪支社もそわそわし、アレに備えた記者やカメラマンの配置をどうするか、頭を悩ます人の姿が目立ち始めました。 語り継がれる過去のアレを思い起こすと、グリコの看板で知られる道頓堀の戎橋えびすばしは取材対象として外せませんでした。 戎橋は大阪の繁華街「ミナミ」の象徴的な場所 で、これまで 阪神タイガースが優勝した際にも多くのファンが詰めかけました
誰にでも納得できないことというものはある。 その「納得できないこと」というのは心のモヤとして溜まり続け、酷いとシコリとして残ってしまう。 私も先日、納得できないことがあった。 怒りというものは得てして意に沿わないことで起こる。 解せない・釈然としない・不服である・面白くない・気に入らない… そういった感情が怒りに繋がっていく。 私の場合は毒マロが来て悲しんでいたら、 「そんなことでパニックになるな」と冷やかされ、「お前が悪い」と二重に叩かれた。 なぜ悲しい気持ちですら他人に指図されないといけないのか、それでその人達に怒った。(効果は得られなかった) むしろ毒マロ以上にそういう風に「自分は違うけど?」と上から目線で指摘してくる人に腹が立った。 私は共感が欲しかったのに帰って来たのは冷酷な分析、 よく「女は話を聞いて欲しかったのに、男はアドバイスする」という事例に似ている。 怒りの第二段階とい
みんながみんなとはいわないが、製本をする人の多くが活字あるいは活版印刷に興味をもっている。手製本をするなら本文は活版印刷でと考える人もいるし、表紙に意匠をほどこす方法の一つとして活版印刷を取り入れる人もいる。またルリユールでは、革装の表紙に箔押しで題字を入れる場合が多く、自ずと金属活字の世界に足を踏み入れることになる。工芸的なアプローチで本に迫ろうとしたとき、活版印刷と手製本は分かちがたい関係にある。 そんな活字および活版印刷にまつわる展覧会「活字 — 近代日本を支えた小さな巨人たち」を見ておきたくて、横浜市歴史博物館を訪ねた。会場内には書体デザイナーやグラフィックデザイナーと思しき人も多く、江戸時代の木版印刷や明治時代の活字見本帳などに熱心に見入っていた。 わたしのお目当ては「世界三大美書」なるものだった。何でもかんでも「三大」とか「美○○」などと銘打てばいいってもんじゃないと思うが、本
2021年に改訂されたIFLAの学校図書館マニフェスト暫定版の仮訳です。ご指摘を受けて修正いたします。これはユネスコの承認を受けていない暫定版です。最終版は内容が変更される可能性があります。最終版ではないことをご理解ください。 学校図書館プログラムのビジョン学校図書館プログラムは、有資格の学校図書館専門家、コレクション、そして包括的で公平な教育における読み書き能力、思考力、グローバル・シティズンシップのための積極的な協力を通じて、学校コミュニティ全体の教育と学習を改善し、向上させる。 学校図書館プログラムの使命学校図書館プログラムとその資格を持った学校図書館専門家は、学校コミュニティのすべてのメンバーが、批判的思考をする人、効果的な読書家、責任ある情報の利用者、評価者、創造者となることができるよう、学習経験、資料、学習スペースへの公平なアクセスを提供することにより、生徒の成長に焦点を当てる
2023年6月26日にアルテスパブリッシングから発売された拙著『聴かずぎらいのための吹奏楽入門』は、ありがたいことに概ね好評な反応をいただいております。 しかしリアクションのなかには、批判の声も複数いただきました。SNSやメールで届いた様々な批判的見解の根幹はおおよそ一致していて、それは…… 吹奏楽という閉じた世界を飛び出そうとうたっているのに、コンクールをメイントピックにするのは不適切ではないか? ひとりひとり細部は異なりますが、確認できた範疇では「コンクールを通して吹奏楽を語ること」が批判に共通する要素になっています。 わたし(小室)と漆畑、ふたりの共著者は、どうしてコンクールを軸にして吹奏楽の本を書くという判断をしたのか? それをご説明すれば、少なくとも著者にとっては前述したような批判が的外れにしか見えないということがお分かりいただけるかと思います。 理由1)出版社からの依頼内容に沿
「聴かずぎらいのための吹奏楽入門」(漆畑奈月、小室敬幸)を読了。吹奏楽というガラパゴス化した世界を外の聴衆へと啓く、といった意気込みのようなのだが、終始、ガラパゴスの論理と言葉とでつづられた対談、というのが正直なところ。なぜ、ここまで吹奏楽コンクールを軸に展開しなくてはならないのか。 日本の吹奏楽界がコンクール(全日本吹奏楽コンクール)を軸に回っていることは論を俟たない。子供(≒未成年、くらいのつもりだが)というものは社会的な尺度をもたず、それゆえに、よほど老成でもしていない限り自分を客観的に見定める方法を知らない(「中二病」なんて言葉が生まれるゆえだ)。よって、自分を褒めることも叱ることもできない彼らは、人からの評価を何より欲するもので、実際、大人が思う以上に競争好きだ。それゆえに、吹奏楽の場合、コンクールで審査員という権威に、金賞・銀賞といった賞を以って承認してもらいたいと思うのだろう
はじめに さて、前回の最後に私はこう申し上げました。 私がこの雑文を書き始めてから、かなりの時間が経過しております。その間、この雑文を書くためにへっぽこ勉強をしているうちに、己の勉強不足を痛感したり、「これまでの自分の仏教観を修正せざるをえないのではないか?」と感じることが多くなってきました。私の現在の仏教観は、この雑文を書き始めた当初のそれとは異なるものになっていると言わざるをえません。 ゆえに、どういう立場でこんなものを書いて発信しているのかを明らかにしないまま話を進めるのは不料簡ではないか、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておく必要があるのではないかと思った次第です。 そこで、次回から2回ほどかけて、この雑文を書き始めた当初と比べて、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておきたいと思います。 そういうわけで、己の仏教観をどのように訂正したのかを、へっぽこ勉強を
一生懸命書いても読まれなかったブログ記事僕がビジネス雑誌の編集長をしていた時の話である。月刊誌だったため、読者との接点を増やそうと思い、毎週、編集長ブログを書いていた。内容は、その週に出会った人との会話や、雑誌を作りながら考えた経営マターについてなどであり、固定読者もついてそこそこ人気のコンテンツとなった。中でも、読んで面白かった本の記事がよく読まれ、紹介した本の著者や出版社からお礼を言われることも度々あった。 このブログでは、雑誌の発売に合わせ、月に一度は、自分の雑誌の内容紹介をしていた。制作の裏話も含めて、僕らがこんな想いで最新号を作ったので、是非読んでほしいと言う内容である。 ところがである。この月に一度の「自分の雑誌の最新号」についてのブログは、毎回ページビューが伸びないのだ。読者は少ならずこの雑誌に興味を持ってくれているはずなのに、その雑誌の内容について書くと読む人が少なくなる。
冒頭の〈ハプバ記事〉に面食らい、息をつかせぬその後の展開と筆致にぐいぐいと引き込まれ、本作を一気に読み終えた時、これはまさしく「受胎小説」だったのだ、という驚きに心身が慄いた。本作の語り手である釈華、そして紗花という二人の女性は、ともに受胎を夢見る――しかも、出産や育児という未来を想定しない受胎を。彼女たちの欲望が、小説の構成そのものと共鳴するかたちで読者を捉える時、暴力的なまでの強度を有した読書体験が生まれる。 体感としての〈健常者優位主義マチズモ〉 第一二八回文學界新人賞、第一六九回芥川賞受賞作『ハンチバック』は、著者である市川沙央が、釈華と同じ筋疾患先天性ミオパチーの当事者であることも大きな話題となった。しかし、障害当事者の声を率直に綴っているとか、健常者のまなざしからは取りこぼされてしまう差別構造をあぶり出しているとか、そういったありふれた定型文で本作を評することは決してできない。
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