タグ

儀礼的無関心に関するwata300のブックマーク (2)

  • 儀礼的無関心論争を改めてまとめる

    2003年11月に松谷創一郎さんが「ネットでの儀礼的無関心の可能性」等にて提唱された、リンクの自由に疑問を呈する「儀礼的無関心」なる考え方は大きな反響を呼び、 確認されただけで2か月程の間に250以上のサイトが言及するトピックとなりました。かつては これらの言及記事は「羊堂舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」 によって網羅されていたのですが、既に消滅し、当時の論争を追いかけることは難しくなってしまいました。 これはリンクの自由についての論争を知る上で勿体ないことだと思いますので、このページでは上記リンク集を復活させ、 更にそれらの言及記事を若干引用することで当時の論争をわずかでもお伝えしたいと思います。 このページのルール、概要 上記「羊堂舗 ちょき - 儀礼的無関心反応リンク集」からリンクされた、このトピックを扱った全てのページにここで再度リンクをします。 上記リンク集にはなか

  • 史上最大にして、最もささやかな宗教とその帰結:何故我々は満員電車で無視し合うのか?

    「みんながめいめい自分の神さまがほんとうの神さまだというだろう。 けれどもお互い他の神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」 (宮沢賢治『銀河鉄道の夜』初期形第3稿より) 人が、自分の生まれた村や町で一生を終えていた時代には(想像もつかないほど昔のことじゃない。時間にすれば、人類の歴史のうちほとんどがそうだった)、接する人たちは皆顔見知りで、村や町みんなで同じ神様を祭ったり拝んだりしていた。 コミュニティの中や近くにある岩やらトーテムを、コミュニティのみんなで拝んでおけば、自然と一体感がうまれてうまくいった。 これが原始的な宗教のかたちだった。 そして同じ神様を祭ったり拝んだりする人たちが、要するに「仲間」だった。 ところが、多くの人間が互いに大きく移動し合い、一人の人間がいくつもの集団に所属したり、見も知らぬ人の集まりがあちこちにできたりする時代となると、「同じモノを拝む奴

    史上最大にして、最もささやかな宗教とその帰結:何故我々は満員電車で無視し合うのか?
  • 1