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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (15)

  • スター拒否できないかな - 我が九条

    いや、私のブコメにスターを付けている中に拒否したい人がいる。その人も別に私の見解が素晴らしいと思っているわけではなく、嫌がらせで、いわばストーカー行為として付けていることを言明しているので、何か気持ち悪いな、と。実害ないから、まあいいけど。 追記 そっか。こちらも先方様に対してスターを大量に付けてあげればいいんだ(笑)。もちろん嫌がらせで、ストーカー行為である、と宣言して(笑)。 追記 いやがらせでスターを付ける、と宣言した覚えがなければ該当していません(笑)。大方の人、ご心配なく(笑)。今のところ一個だけ確認しています。それと全く無関係の人の人のコメント欄でも改めていやがらせでスターを付けると宣言していました。私だけでなく、無関係な他人様まで迷惑をかけるのは止めてほしいです(苦笑) あと最高級のエンターテイナーがブクマの場を盛り上げる為に来てくださっています。ぜひブクマをご笑覧いただけれ

    スター拒否できないかな - 我が九条
  • 久間章生前防衛大臣の「失言」考 - 我が九条

    この問題に関しては様々な見方ができるだろう。私が今回試みたいのは、できる限り久間氏の発言を正確に把握し、久間氏の真意をつかむところにある。その上での論及でなければ、議論は所詮水掛け論になる。そのために必要な要件は二つ。まずは自分の思想的立ち位置を把握していることだ。自分の政治的偏向を自覚していないと、正確に把握することなど出来ない。自分の政治的立ち位置から来るバイアスを可能な限り排除するように意識しなければならないからだ。私自身について言えば、私の思想的立ち位置はもちろん左翼であることは論をまたないが、共産党的なマルクス・レーニン主義には明確に反対であり、マルクス主義であることをあまり意識していなかったが、近年はアイヌ史の研究に関与し始めたことから、自然に従属理論的な立場に傾斜している。憲法に関しては九条堅持、非核三原則の堅持、アメリカの核兵器使用に関しても非難する、という姿勢である。この

    久間章生前防衛大臣の「失言」考 - 我が九条
    westerndog
    westerndog 2008/09/30
    2007年7月の記事。
  • ナベアツで小学校教員が悲鳴だとか。それは指導力の問題だ(笑) - 我が九条

    日刊ゲンダイの記事。 3の倍数と3がつく数字の時だけアホに――。このネタで一躍ブレークしたお笑い芸人の“世界のナベアツ”。 ところが人気の急上昇と比例するように、教育現場から悲鳴が上がり始めている。 埼玉県の公立小学校で2年生のクラスを受け持つ女性教員(35)が疲れ切った表情で語る。 「国語の授業で教科書を朗読させると、数字が出てくるたびに子供たちが“アホ”になる。最悪なのが算数の時間です」 小学校低学年では“倍数”の概念がないため、1から100までどの数字でも全部アホ。算数はまったく授業にならないというのだ。 「単純な芸は子供がすぐ真似をする。ちょっと前は小島よしお。何か注意されても“そんなの関係ねえ!”と口ごたえする子供に辟易(へきえき)しましたが、ナベアツには完全にお手上げ。クラス全員がアホになって騒いでいる授業風景を想像してください。まるで悪夢ですよ」(前出の教員) それはそれで“

    ナベアツで小学校教員が悲鳴だとか。それは指導力の問題だ(笑) - 我が九条
  • チベット問題をどういう視座で分析するべきかー教条左翼の限界ー - 我が九条

    どこからかのリンクで「比較的マシなサヨでもこの程度なんだわなあ/「アリバイ的」ってw 」(「http://c.2ch.net/test/-/asia/1205846520/297」)と言われた。「マシなサヨ」と言われたのは光栄なことだが(笑)、反省すべき点もある。そもそも共産党という既成左翼に「アリバイ的」にでもチベット問題に関する声明を期待した私がバカだった、としか言いようがない。少し考えれば分かることだが、そもそもロシアマルクス主義を止揚できていない日共産党にチベット問題を考えることなどそもそも期待するだけ無駄だったのだ。 比較的チベット問題に関する事柄を主張している共産党の支部(「ポラリス-ある日共産党支部のブログ チベット自治区暴動への対応 中国政府の対応は誤り!」)でも「中国政府は、この「暴動」を単なる暴力行為として警察権を行使して取り締まれば済むはずではなかったか? 何故「

    チベット問題をどういう視座で分析するべきかー教条左翼の限界ー - 我が九条
    westerndog
    westerndog 2008/03/23
    「ウタリとは奴隷階級」初耳。
  • コメント削除のジレンマ - 我が九条

    マキャベリの『君主論』において、なかなか含蓄深い言葉がある。 古今東西多くの賢人たちは、想像の世界にしか存在しえないような共和国や君主国を論じてきた。しかし人間にとって、いかに生きるべきかということと、実際はどう生きているかということは、大変にかけ離れているのである。 だからこそ、人間いかに生きるべきか、ばかりを論じて現実の人間の生き様を直視しようとしない者は、現に所有するものを保持するどころか、すべてを失い破滅に向かうしかなくなるのだ。 なぜなら、なにごとにつけても善を行おうとしか考えない者は、悪しき者の間にあって 破滅せざるをえない場合が多いからである。 ネットイナゴ対策の基は「気に入らないコメントは削除」である。当然削除された側は「気に入られなかった」だけであり、そのコメント自体が不適切であったかどうかは問題ではない。そこの管理人とは所詮縁がなかった、ということだ。コメントを削除す

    コメント削除のジレンマ - 我が九条
  • 戦う相手はどこか - 我が九条

    私たちブロガーが戦うべき相手は何か。レイシズムを煽るネットウヨクか。反日を煽るブサヨか。人によってはそれらこそが戦うべき相手かも知れない。しかし私は最近主要な戦場はそこにはないように思えてきた。私はどちらかと言えば左派にカテゴライズされるだろうし、私自身左に偏向していることは自覚しているがゆえに、保守派に対して批判的言辞を弄してきたのは事実である。しかし最近私は左派ー右派以前にブロガーにとっての戦場があるように思えてきた。だから最近では保守派ブログに対する批判を止めた。そもそも私ごとき小物に批判されたとて、何ら痛痒を感じないだろうし、だからこそ先方に甘えて批判もしてきたのだが、私のやってきたことはあまり意味がないのではないか、少なくとも私がなすべきことは他にあるのではないか、と考え始めた。それはここ半年足らずのことである。 ブロガーである私がなすべきなのは、ネット上における言論を阻害する「

    戦う相手はどこか - 我が九条
    westerndog
    westerndog 2007/10/24
    かなり厳しめではないかなぁ
  • はしごを外される歴史認識 - 我が九条

    『沖縄タイムス』の記事(「http://www.okinawatimes.co.jp/day/200709291300_02.html」)から。 渡海紀三朗文部科学相は二十八日、沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日軍の強制を削除した高校歴史教科書の検定問題への対応で、沖縄タイムス社に「今回の検定に至る経緯や趣旨等については十分に精査していきたい」とコメントし、検定過程を詳しく調査する考えを明らかにした。 文科省はこれまで「教科用図書検定調査審議会が決めたことには口出しできない」などとして、検定を問題視しない考えを示していた。 渡海文科相が検定経緯の調査にまで踏み込んだコメントをしたことで、文科省側が検定結果を変更する可能性も出てきた。 紙は渡海文科相の就任後、沖縄戦の専門家がおらず文科省主導で審議が進んだ検定の経緯などについて質問書を提出。文科相が二十八日に文書で回答した。 渡海文科

    はしごを外される歴史認識 - 我が九条
    westerndog
    westerndog 2007/09/30
    「保守色の強い政権になればそれに従い、保守色が薄まれば、またそれに伴って検定基準が変わる、というのであれば、検定は百害あって一利なし、である」
  • 池田信夫氏の受けた「被害」 - 我が九条

    j0hn氏のブクマコメント。 はてブが原因になった「池田氏が遭ってる被害、出会った災難」がなんなのか詳しく知りたい。池田氏の不快感っていうならわかるんだけど。 sampaquita氏のブクマコメント はてなブックマークが目立つから槍玉に挙げられているだけで、単に否定的な言及を禁止したがっているようにしか見えないのがなんとも。 ekken氏の池田氏に対する意見(池田信夫さんへのブックマークコメントがネガネガな理由:ekken)。 池田さんは以前、反論などを削除しながら「これだけ多くのコメントが寄せられながら、反論らしきものはほとんど見られない」(ソースを見つけられなかったので、意訳です)と、コメントコントロールできるのを利用して自己の意見の正当性を高めようと画策した実績がある。 意見を異にする人であれば、こんな場所にはコメントしたくないと思うのは、むしろ必然でしょう。(中略) そんな扱いを受

    池田信夫氏の受けた「被害」 - 我が九条
  • コメント欄についての雑感 - 我が九条

    私はコメント欄を開放している。これはもともとこのブログが言論を目的としていないからである。ブログを始めた頃は、塾での仕事の愚痴をぐだぐだ書き散らすのが目的だったのだ。今でもそういう目的はないではない。だから最初の頃からおつきあいのあるブロガーは、基的に言論系ではないし、そことのつながりは今でも大切にしたいと私は思っている(向こうはどう思っているかは知らないが)ので、コメント欄は開放している。 ただ私なりの運営の原則はある。基は「黒木ルール」「匿名」による批判の禁止ルールについての適用である。 具体的には、 ・「匿名」であるか否かの判定は実名や電子メール・アドレスを公開しているか否かで行なわれるのではなく、その人が自分自身の考え方や趣味・嗜好に関してどれだけの情報を公開しているか否かで行なわれる。 ・論争に参加する人は、馬鹿なことを言ってしまったときに恥をかけるだけ十分に詳しく自己紹介を

    コメント欄についての雑感 - 我が九条
  • コメント欄に関する一考察 - 我が九条

    言論系のブログだからこそコメント欄を開放している、というブクマがあった。全面的に正しい、と思う。言論系こそ来はコメント欄を開放しなければならない。それはそう思う。しかし私がもし言論系のブログを立ち上げるならば、私自身はヘタレなので、多分コメント欄を閉鎖したままで一方的に自分の言論を垂れ流し続けるだろう。それが生産的であるかどうかは、問題だが。 地雷みたいなものがあって、特定の話題に触れると決まって匿名のコメント者が湧いてくる、という傾向がある。今はSNSに移行したので見られなくなったが、私が愛読していた鉄道系のブログは、人いわく「皇道派新右翼」だったそうで、2ちゃん関係者を自称していた人だったが、靖国問題でネットイナゴが湧いていた。小泉総理の靖国神社参拝を最大限褒めたからである。かように必ずしもネットイナゴ行為に及ぶのは「ネットウヨ」だけではない。ただ「ネットウヨ」の方が多数派なので、

    コメント欄に関する一考察 - 我が九条
  • 年頭の決意 - 我が九条

    安藤美姫選手が肩を痛めながら最後まで踊りきったのは、まさに戦後民主主義教育のたまものだ。 なんてアホなことを書くとその思考力が疑われるのだが、そういえば昔安藤美姫選手がトリノで「楽しめればいい」と発言したことを「戦後民主主義教育の弊害」と定義した思考力の疑われる大学教授がいたなあ、と思ってしまった。その人の研究業績とその人がその研究業績以外のところでまともかどうかは全く関係がない、ということを改めて思ったのだが、そこのところを勘違いしてはいけないな、と野依良治氏を見ていて思ったのだが、そもそも私自身に帰ってくる問題か。 塾禁止に関して「公教育を充実させれば塾は競争力を失って淘汰される」と事務局も言っている。確かに、と言いたいが、塾業界の人間で「その通り」と思う人はいないだろう。塾と一口に言っても、私のように中学受験オンリーの塾と、学習困難児を受け入れる塾とでは同じ「塾」というカテゴリーでく

    年頭の決意 - 我が九条
  • 学級運営 - 我が九条

    毎日新聞の記事より。http://www.excite.co.jp/News/society/20061124030100/20061124M40.125.html 要するに「なれ合い型の学級でいじめが生まれやすい」という話。管理型となれ合い型というのは教師の教え子への接し方によるものだそうで、有無を言わせず従わせる指導タイプと言い分を尊重する援助タイプがあり、指導タイプに偏ると管理型、援助タイプに偏るとなれ合い型になる、という。子どもの言い分は確かに尊重せねばならない。しかし尊重しすぎると学級崩壊に陥る。そこの線引きが難しい。 私は一年間の授業の最初にルールを示す。そのルールを守ることを生徒に求める。このルールは教室の秩序を維持するために必要なルールである。何よりも他人の邪魔をしない。授業進行の妨げをしない。以上である。それ以外は生徒の自由。と言っても以外と生徒に残された自由は少ない。そ

    学級運営 - 我が九条
  • なれあい型 - 我が九条

    中学二年生の時になれ合い型になってしまった教師がいた。私はその先生が好きだったし、多くの男子生徒からも人気があった。大学を出たばかりで、兄貴分のような感じが原因だったと思う。しかし女子生徒の一部に反発を買った。何が原因か私にはわからない。しかしその数人の女子生徒の反発でクラスは崩壊した。その女子グループは勉強の出来るグループだった。クラスでリーダー的存在だったので、クラス全体が教師糾弾大会と化してしまったのだ。学級崩壊は数人の生徒が動くだけで起こる。数人の生徒が教師の権威を侵する。大多数の生徒がよるべき規範を失う。 学級崩壊に直面した先生の対応がまずかった。温厚な先生だったがいきなりその生徒を怒鳴りつけたのである。それも意識的にではなく、思わず、という風情だった。ただ救いは女子の中でも主動的ではなかったグループが「先生も少しかわいそう」と言い出し、何となく収まったことだ。 塾での経験は、

    なれあい型 - 我が九条
  • 塾でのいじめ - 我が九条

    塾のいじめで保護者が出てくるいじめは対処がたやすい。いじめている方のクラスを下げれば大体収まる。クラスの降格は塾では大変なショックである。もちろん自分の親にもばれる。クラスが下がると志望校にも大きく影響するからだ。なぜ下がったのか。いじめだ、となれば完全に面目を失う。だから実際にはいじめで退塾になったものはいまのところいない。 問題は、このように顕然化し、親が出てくるような事案ではない。いじめられている人は、多くは自分がいじめられている事実を親にも教師にも報せようとしない。だから教師による対処が遅れがちになる。なぜ言わないのか。それはそこが彼にとっての「社会」だからだ。だからいじめられている方もいじめを含む人間関係を清算しようとは思わない。こういうケースでは教師が下手に介入するといじめがさらに陰湿化し、手の付けられない状況に陥りがちになる。しかし教師がよく観察していると、何となくわかるもの

    塾でのいじめ - 我が九条
  • いじめ - 我が九条

    今ホットな話題といえば、藤田東吾社長が官邸に押し掛けたことだろう。もっともマスコミからは黙殺されるだろうが、ワイドショーか週刊誌位は取り上げるか。しかし私がそれについて何か言及できるか、と言えばできない。 そこでもう一つホットな話題。いじめ。 塾でも当然いじめは存在する。ただ塾が学校と違うのは、塾でのいじめは塾の存亡にかかわる、ということだ。「あそこの塾はいじめを放置した」という話が広まれば、塾生は雪崩を打って辞めるだろう。悪い話は一瞬にして広まる。だからいじめの問題は放置できない。 もっとも塾では生徒の自主的な時間は少ない。行き帰り位だが、そこでいじめられている、というのもあり得るが、それは塾が関わるべき問題ではなくなっている。彼らの私生活までこちらは介入できない。塾も生徒も親もそれは了解している。問題は塾にいる時間である。学校が難しいのは、学校は生徒の全人格を管理するものと意識されてい

    いじめ - 我が九条
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