下瀬火薬(しもせかやく)は、大日本帝国海軍技師の下瀬雅允が実用化した火薬(砲弾の炸薬)である。日露戦争当時の帝国海軍が使用し、日露戦争における大戦果の一因とされた。 成分は純粋ピクリン酸であるが、砲弾への充填方法に特徴があった。具体的には、金属と反応するピクリン酸を、腔発が発生しないように、かつ大量に、砲弾に充填する技術を確立していた[1]。一方、帝国陸軍が用いたピクリン酸炸薬である黄色火薬では腔発が多発したという[2]。 1931年(昭和6年)2月時点の下瀬火薬の領収規格によると、下瀬火薬は純粋ピクリン酸である(それ以前の規格の変遷は不明[3])[3]。 下瀬火薬は1888年(明治21年)に実用化され、1899年(明治32年)には大量生産が開始され、日露戦争(1904年〈明治37年〉 - 1905年〈明治38年〉)で大きな役割を果たした(「歴史」節で詳述)。 日露戦争当時、他国海軍の用い