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2014年10月3日のブックマーク (4件)

  • 清里観光振興会/清里の歴史/清里を育てた人<ポール・ラッシュ博士>

    清里物語 清里は、標高千二百メートルの高原です。 水はつめたく、空はひろく、はるかに富士山が浮かんで見えます。秋と冬が長く、最低気温はマイナス二十度にまで下がることがあります。 この八ヶ岳山麓の高原が清里と呼ばれるようになったのは、たぶん明治八年からです。この年二月十五日、当時浅川村と樫山村が合併して清里村となりました。何のとりえもない、小さな村でした。 夏、清里は若者の街になります。駅前の通りも清泉寮も、民宿もペンションも喫茶店もお土産品店も、人、人、人であふれます。赤いパンツのサイクリングの一団が、牧場の間を駆け抜け、二人づれが手をつないで、ソフトクリームを買う順番を待っています。 清里は変わりました。 私たちが開拓者としてこの清里へやって来たとき、ここは一面の荒野でした。 私たちのふるさとは、東京の水ガメといわれる小河内ダム(奥多摩湖)の水の底です。 このダムを作るため

    清里観光振興会/清里の歴史/清里を育てた人<ポール・ラッシュ博士>
  • あの清里に行った

    もっぱら工場とか団地とかジャンクションを愛でています。著書に「工場萌え」「団地の見究」「ジャンクション」など。(動画インタビュー) 前の記事:駅の漏水対策「駅もれ」がすてき > 個人サイト 住宅都市整理公団 70、80年代に「高原の原宿」と言われ、首都圏の学生や若い社会人の間で定番の小旅行先としてたいへん賑わっていた清里。「清里」という言葉を見聞きするだけで当時の雰囲気が甦るのではないか。っていってもそれってぼくより上の世代だよな。 ぼく自身もテレビや雑誌で目にするだけで、訪れたことはなかった。清里で楽しむ年齢としてはまだ若すぎたし、家族で行くようなところではないと感じていた。あそこはカップル(当時はアベックといったかもしれない)の聖地だったはずだ。ぼくの10歳ぐらい上、現在50歳前後の方々が清里経験者ではないか。 自分と親の世代には無縁な清里だったが、それでもファンシーな店舗とペンション

    whalebone
    whalebone 2014/10/03
    『1938年に入植者がやってきて本格的にここを開拓するのだが、彼らは東京の水ガメであるあの小河内ダム建設により水没する村の住民たちだったのだという』
  • 園山研究室選択性緘黙HP|筑波大学 人間系・障害科学域(行動情緒障害学)

    選択性緘黙の概要 名前について  「選択性緘黙」と「場面緘黙」 選択性緘黙は、日では「場面緘黙」と呼ばれることの方が多いようです。 基的な症状はただ1つ、「家庭で家族が相手であれば自由に話せるにもかかわらず、学校や幼稚園など、家族以外の人が相手の場合に話せなくなる」ことです。 しかし、家庭で家族が会話の相手であっても、近くに家族以外の人がいたりすること話せなくなる人もいます。また場所が学校であっても、放課後の誰もいない教室で、母親と二人きりであれば話せたり、近所のいつも遊んでいる幼なじみと二人きりで遊んでいる時には話せる子どももいます。 したがって、緘黙(話せない)は場面(学校や幼稚園など)によって決まるものではなく、その場にどのような刺激(人や物理的環境)や活動があるかによって話せたり話せなくなったりします。このことから、私は、場面緘黙ではなく、「選択性緘黙」の用語を用いています。し

  • 戦争と平和の資料館 ピースあいち【所蔵品の紹介】