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ブックマーク / rarememory.justhpbs.jp (3)

  • 車山レア・メモリーが語る諏訪高島藩二之丸騒動

    1) 二之丸騒動の時代背景 諏訪忠厚(ただあつ)は5代・忠林(ただとき)の子で、延享3(1749)年9月29日江戸・桜田の藩邸に生まれ、兄の夭逝により宝暦13( 1763)年18歳で藩主となり、従5位下安芸守となる。幕府の勤めは明和9(1772)年8月、将軍・家治の生母・心観院の法事に山内警戒道路供奉をした。彼は父以上に 生来病弱で、諏訪に帰城することも少なく、政治にも関心が薄かった。また江戸期は、 家老政治が確立した時代でもあった。高島藩でも3代藩主・忠晴の晩年から藩主は、政治にかかわらなくなった。 文芸等で遊ぶばかりであった。4代忠虎も俳句をよくした。5代・忠林は忠虎に子が無く分家(頼郷家)から入った。29歳で藩主になったが身体が弱く、その上養子ということもあって、学問には極めて熱心だが藩政を顧みず、藩主は飾り物となり、政治の実権は家老たちが握った。忠厚の頃には、家老権がますます増長す

  • 車山レア・メモリーが語る岡谷の山一(林組)争議

    岡谷の山一(林組)争議      Topへ 製糸業者の経営の実状は、生産生糸の予想原価計算をし、これに見合う原料仕入れと生糸販売に勤しんできた。一度、糸価が低落すれば、単純に従業員労賃を引き下げて調整し、最終的な製糸の損益のしわ寄せは労賃の決済で行われていた。 ところが、大正期の普通選挙権獲得運動や、労働者の雇用実態への不満、大正6(1917)年のロシア革命をうけて高まる労働運動と、その一方では、大正9(1920)年12月の米価急落による農業恐慌などで、製糸労働者の供給源を担う零細農家の疲弊は、労賃の減額で帳尻を合わせる経営だけでは、堪えられなくなっていた。 製糸業者の経営資金の供給者は、第19銀行などの地方銀行のほか、生糸売込問屋(うりこみといや;生産者から商品の販売を委託されて、輸出商や卸売商に売る問屋)や荷為替商である倉庫業者であった。明治34年、平野村の「陸川製糸」は60釜、従業員

  • 車山レア・メモリーが語る霧ヶ峰グライダー発展史

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