1) 二之丸騒動の時代背景 諏訪忠厚(ただあつ)は5代・忠林(ただとき)の子で、延享3(1749)年9月29日江戸・桜田の藩邸に生まれ、兄の夭逝により宝暦13( 1763)年18歳で藩主となり、従5位下安芸守となる。幕府の勤めは明和9(1772)年8月、将軍・家治の生母・心観院の法事に山内警戒道路供奉をした。彼は父以上に 生来病弱で、諏訪に帰城することも少なく、政治にも関心が薄かった。また江戸期は、 家老政治が確立した時代でもあった。高島藩でも3代藩主・忠晴の晩年から藩主は、政治にかかわらなくなった。 文芸等で遊ぶばかりであった。4代忠虎も俳句をよくした。5代・忠林は忠虎に子が無く分家(頼郷家)から入った。29歳で藩主になったが身体が弱く、その上養子ということもあって、学問には極めて熱心だが藩政を顧みず、藩主は飾り物となり、政治の実権は家老たちが握った。忠厚の頃には、家老権がますます増長す