もしも「主体」なるものが「ある」というふうに「言った」とき、果して、そこで、何が起きていると言えるであろうか? 子供は、産まれた時点では、「何者でもない」。ジョン・ロックはそれを、タブラ・ラサ(白紙)と言ったわけだが、ということは、私たちは、大人になるという過程を経ることで、「何者かになった」ということになるであろう。これが、 主体 である。主体は、「何者か」を現わす。つまり、私たちが、ある人を「主体」と呼んだ時点で、その発話「自体」が、相手を、なんらかの「主体」として、 既に 扱ってしまっていることを含意しているわけである。 私たちは、人を「何者か」として扱わずにすますことができない。その人が「何者であるか」を「既に了解している」から、私たちは、その人を「主体」として扱うことができているのであるから。だとするなら、問題は、 すでに「どこか」の時点で相手を「主体」として扱ってしまっている