タグ

天気の子に関するwozozoのブックマーク (4)

  • 『天気の子』帆高の「あの言葉」が脚本から消えた理由 | 文春オンライン

    新海誠7作目の劇場アニメーション映画として2019年に公開された『天気の子』。「これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語」というキャッチコピーがつけられ、前作『君の名は。』同様その1年のNo.1ヒット映画になった同作。その最後のセリフがなぜ生まれたのか。アニメ評論家の藤津亮太氏が読み解いた。 ※記事では映画のラストシーンに触れています。 ◆◆◆ 『天気の子』のラストシーンは「大丈夫だ」という言葉で締めくくられる。どうしてこの映画は「大丈夫」という言葉で締めくくられることになったのか。それはこの映画が無力な子供たちの物語だからだ。 『天気の子』に描かれた“ガラス細工のような世界” 物語の語り手は、家出少年の帆高。故郷の島を出て雨の降り止まない東京にやってきた帆高が出会ったのが陽菜。陽菜は1年前に母親を亡くし、弟・凪と2人暮らし。陽菜は、雨ばかりの世界に晴れ間を作ることがで

    『天気の子』帆高の「あの言葉」が脚本から消えた理由 | 文春オンライン
  • nix in desertis:『天気の子』感想・批評

    〈セカイ系としての『天気の子』〉 自分としては作がセカイ系であるかどうかとか,セカイ系の定義にはあまり興味がない。むしろ作の場合,人類が滅びるような障害を乗り越えられる程度の障害に縮小したところを評価したい。人類を滅ぼさんでもセカイ系はできるし,やってよいのだという意味合いでなら作をセカイ系の文脈で語るのは面白いと思う。もう,ヒロインとセカイのどちらかしか選べないという結末しかないのに我慢する必要はないのである。東京は部分的に水没したし,陽菜は晴れ女の能力を失った。それでも都民はたくましく生きている。 そもそも須賀の言う通り,陽菜が帰ってきたから雨が降り続いているなんて因果関係がはっきり証明されているわけではない。2人は降り続く雨を気に病まなくていい。まさに「大丈夫」なのだ。実は選択でさえないかもしれないという読み方を残している。読み方の選択の余地があり,選択を迫られているのはむしろ

  • 映画感想文『天気の子』 - 関内関外日記

    美しい娘の物語は、年とった人たちの心にも、豊かな期待を起こさせるものと見えて、このわたしどもの国にも、そうした話がたくさん残っていて、幼い耳へ順ぐりに、吹き込まれ吹き込まれして参りました。これも、そう言う噂の一つなのです。 「神の嫁」折口信夫 「……なんだっけな、マーだったかな、マー君? いや、違う? ムーのあんちゃんよ、ようわしを見つけたもんよな。ようわしの話を聞きにきてくれたもんよな。そうよ、わしこそが、この国の天気を変えてな、国の形を変えた張人よ。おう、ちょっとまってくれ、準メーンの発走だ」 ずぶ濡れになった、色とりどりの勝負服を身にまとった小さな小悪魔たちに導かれ、泥水を跳ね上げながら馬たちがゴール板を通り過ぎていった。老人は、紙の馬券を握りつぶしてぽとりと落とした。 「まったく、しょうもねえなぁ……。おう知ってるか、今の府中で走ってる馬の、八割はガリレオいう馬の血を引いとるんじ

    映画感想文『天気の子』 - 関内関外日記
  • 『天気の子』が映すエンターテインメント産業の功罪 新海誠監督が選択したラストの意図を考える

    もちろん『天気の子』についても、早くも記録している大きなヒットに比例するように多くの批判はある。今回の焦点はやはりラストの描写だろう。(ネタバレになってしまうが)晴天と引き換えに体を蝕まれて行くヒロインを救った代償として、東京には異常気象が続き、ついにはゆるやかな時間をかけて水没し、首都としての機能を失うことになる。それは『君の名は。』で隕石の衝突による地域社会の消滅を描いて批判を受けたことの裏返しにもみえる結末だが、「無責任だ」「セカイ系的な自意識のために社会を犠牲にしている」という批判はやはり出ている。新海誠監督と川村元気プロデューサー、野田洋次郎氏らの間で激論が交わされたことがツイッターで明かされ(7月19日公開の映画にも関わらず、ストーリーの議論をしていたのは6月末である。川村プロデューサーは生きた心地もしなかっただろう)あまりにも完成が遅れたためメディア向けの試写会も一切行われな

    『天気の子』が映すエンターテインメント産業の功罪 新海誠監督が選択したラストの意図を考える
  • 1