頽廃卿ポッピー @BigBrother_Popy 戦列歩兵って相手から撃たれても平然と隊列を崩さず前進し続ける場面が映画でよくあるがあれって本当に可能なのか? 正面から撃たれた時点で隊列が乱れるけど突撃する、もしくはその場でこちらも銃で応戦、最悪の場合は恐怖で総崩れとかの方がありえそうなんだがあんな平然としていられるものなのか? pic.twitter.com/BYydJDXubb
TTさんのコメントへの返事を保留にしっぱなしの状態で先にお返事するのもどうかと思うのですが、なまえさんのコメントでゆるめに書いたところにツッコミが入ったのでとり急ぎお返事。 >原爆開発に参加した科学者たちも誇りを持ってやっていたわけです。 この言い方ですと、科学者たちが喜び勇んで原爆を開発し、投下した時の驚異的な力に歓喜を上げたかのように読み手は受け取りますね。 歴史修正主義は誰のせい? コメント欄 「喜び勇んで」までは事実ですよ。みんながみんなそうだったわけではないでしょうが、マンハッタン計画に参加したリチャード・ファインマンのエッセイにそのような記述があります。 たとえば機密保持のため計算の目的を告げられずに働いていたエンジニアにファインマンが、戦争に勝つために原爆を作るための計算をしているのだと告げたところ、エンジニアの士気は大いに高まり作業効率は10倍近く改善されたというのです。*
戦国時代で最も優れた戦術家は誰か。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「それは毛利元就だろう。元就は圧倒的に兵力差のある戦闘にも勝ち続けた。一方、天下統一を果たした徳川家康にはそうした華々しい戦績はなく、戦術面では平凡な武将だった」という――。(第2回) 【画像】本郷和人『徳川家康という人』(河出新書) ※本稿は、本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)の一部を再編集したものです。 ■2度と博打的な戦をしなかった織田信長 基本的に戦いは、兵力が多いほうが勝つ。この原則を踏まえた上で、優秀な兵器をそろえて、そしてしっかりとご飯を食べさせる。そうして戦っていくわけです。 だから戦国大名たちも富国強兵を進めて領民を増やし、商業を振興した。そうして兵を増やし、金を儲けて優秀な武器を購入する。またしっかりと食糧を整えて戦いにのぞむ。そうしたことができる人が優秀な戦国大名であって、三国志の諸葛孔明(
※本稿は『十四世紀の歩兵革命』の記事と合わせて読むことを推奨する。 中世ヨーロッパは、騎兵が優越的な立場を築いていた時代として知られている。この「騎兵の優越」の概念の中で、戦争の主役は馬に乗り騎槍を水平に構えて突進する騎兵である。そしてその認識は、中世末期から近世初頭にかけて強力な投射兵器が戦場に現れると「騎兵の優越」が失われ、歩兵と砲兵が力を発揮する新時代が到来したという、不正確な理解へとつながる。 もちろん実際の展開は、そのような単純なものではなかった。ここでは中世の騎兵が一般に思われているほどに圧倒的な存在ではなかったことを示し、その文脈の中で再定義された中世ヨーロッパにおける「騎兵の優越」を明確にする。 「騎兵の優越」の論点 中世ヨーロッパにおける「騎兵の優越」には大きな主題が四つ存在する。一つは時期的な議論で、いつから始まったのかという問題である。次の二つは表裏の関係にあるが別個
NBC News @NBCNews Ukraine President Zelenskyy to U.S. Congress: “Remember Pearl Harbor ... Remember Sept. 11 ... Our country experiences the same every day." nbcnews.to/3q9zVSb pic.twitter.com/Wkl71CS4Gq NEWSMAX @NEWSMAX Zelenskyy: "Remember Pearl Harbor, the terrible morning of December 7, 1941, when your sky was black from the planes attacking you, just remember it. Remember September 11, a terr
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76年前の4月、沖縄での特攻作戦が始まり、鹿児島の基地から飛び立った多くの若者が戦死しました。その基地の跡地にできた祈念館のひとつが、今月展示を見直して再開しました。背景には、ある遺族の思いがありました。 (鹿児島放送局記者 庭本小季) 【特攻隊の祈念館がリニューアル】 キャンプ場や公園が広がる南さつま市の吹上浜。市民の憩いの場所になっていますが、悲しい歴史も伝えられています。76年前、日本軍が特攻の拠点として使った「万世飛行場」があったのです。 万世飛行場は終戦までの4か月間使われ、ここから飛び立った201人の特攻隊員が戦死しました。残された資料が少ないことから“幻の飛行場”とも呼ばれています。 跡地に作られた万世特攻平和祈念館は、この4月からリニューアルしました。かつての展示は、遺書や遺影、軍服などが中心でしたが、特攻隊の歴史をより身近に感じてもらおうと、時計や手帳といった生活用品など
パイロットが搭乗したまま航空機を敵艦に突っ込ませる特攻隊の「体当たり作戦」は、「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」と語った海軍航空部隊の隊長がいたというほど、生還の望みをもてないものだった。 作家・保阪正康さんの著書『昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日本人』(角川新書)より、特攻の始まり、そして特攻隊員たちの知られざる本音について一部を抜粋する。 ◆ ◆ ◆ 特攻の始まり 初めて戦術としての組織的な特攻隊の出撃は、昭和19年10月25日。海軍の神風特攻隊である。 この年、各地の守備隊が次々玉砕するなど、戦況は著しく日本に不利となった。軍事指導者たちの無能ぶりからなんら打開策が見いだせないまま、戦争はズルズルと泥沼に陥り、犠牲者をいたずらに増やしていた。その中から出てきたのが「体当たり攻撃」作戦だった。 まず海軍が、人間魚雷「回天」を開発した。もっとも初
75年前の広島と長崎への原爆投下についてアメリカでは「戦争を終わらせるために必要だった」とする意見が根強くありますが、有力紙ロサンゼルス・タイムズは「日本に原爆を落とす必要はなかった」などと主張する異例の論説を掲載しました。 この中では、当時のアメリカのトルーマン大統領は、ソビエトが参戦すれば日本の敗北が決定的になることを認識していたとしたうえで、「歴史的な資料は、原爆が使われなくても日本が降伏したであろうことを示している。それをトルーマン大統領や側近たちも知っていたことは、文書から明らかだ」として、日本に原爆を落とす必要はなかったと主張しています。 そして、アメリカで現在、人種差別が再び社会問題となっていることを踏まえ、「アメリカ人が自分たちの国の負の歴史を見直している今こそ、日本の都市に対する核兵器の使用について、国民の間で率直な対話をするのにふさわしい時だ」と指摘しています。 アメリ
特定領域研究「日本の技術革新-経験蓄積と知識基盤化-」 第 3 回国際シンポジウム研究発表会 論文集 2007 年 12 月 14 日・15 日 戦前期の航空機用揮発油の技術開発 Development of Aviation Gasoline Production in Pre-war Japan 三輪 宗弘* MIWA Munehiro 海軍燃料廠、航空機用ガソリン、太平洋戦争、接触分解、日本経済史 Naval Fuel Depot, Aviation Gasoline, Pacific War, Catalytic Cracking, Japanese Economic History 要旨 昭和 10(1935)年に所謂 100 オクタン価問題が話題に上り、日本海軍は航空機用揮発油の品質と数 量の確保という問題に直面した。備蓄量のある重油から航空機燃料を取得するという方法が考慮され
~大海戦の呼び名にまつわるややこしい話~ (目次にもどる) 時は1916年5月31日、第一次世界大戦の真っ最中。所は北海のデンマーク北西沖、スカゲラック海峡の出口付近で、第一次世界大戦最大の海戦が発生した。英独海軍の主力どうしが激突した、世に言う「ジュットランド海戦」である。 ……と、ここまで書いたところで、筆に迷いが生じてしまう。それは、この海戦の呼び名がひとつに決まっていないからである。 ネット検索でヒットするものだけでも、「ジュットランド(沖)海戦」「ジャットランド(沖)海戦」「ユトランド(沖)海戦」などがみられる。 これら異なる呼び名は、どうやって生まれてきたものであろうか。以下にいささかの臆断を含む考察を述べたいと思う。 そもそも、この海戦の当事者はこの海戦をどう呼んでいるのか。 イギリス海軍の公式第一報(6月1日)にはこう書いてある。 On the afternoon of W
★(5) 1944年10月25日、フィリピン・レイテ沖で作戦行動中の米護衛空母群に、250キロ爆弾を抱いた日本海軍の零式艦上戦闘機(零戦)5機が次々と突っ込んでいった。うち1機が、米護衛空母「セント・ロー」に体当たりして爆発した。同艦は大爆発とともに波間に消えた。 これらは、ルソン島から飛び立った関行男大尉率いる神風特別攻撃隊・敷島隊による攻撃だった。同じ日、敷島隊以外の特攻機13機もフィリピン各地から出撃し、大きな戦果を上げた。 この日だけで、「セント・ロー」のほか、護衛空母「サンチー」と「スワニー」「カリニン・ベイ」が大破し、護衛空母「サンガモン」「ペトロフ・ベイ」「キトカン・ベイ」が損傷した。米軍は128機を失い、戦死・行方不明者は1500人、戦傷者は1200人に上った。 これは、わずか18機による戦果である。神風特別攻撃隊による体当たり攻撃は、その是非はともかく大勝利だったのだ。
日本で敗戦と言えば、太平洋戦争での敗戦を指すことが多いと言えます。一般人が映画などで触れる日本の戦争映画は、戦艦大和や本土空襲、原爆、せいぜい南方占領地などを主題にしたものが多いため、中国戦線に関する認識がかなり希薄だと言えるでしょう。このため、“日本はアメリカに負けたのであって中国には負けていない”と言った自慰的思考にはまる人は少なくありません。日本極右が排外感情を煽ろうとするとき、国内矛盾を転嫁するスケープゴートとして、中国を格好のターゲットとするのもそのためです。ですが、“日本はアメリカに負けたのであって中国には負けていない”という日本極右の主張は歴史的事実なのでしょうか。 日本軍侵攻に救われた共産党? 1937年からの日中戦争は日本では「支那事変」と呼ばれ、日本政府は「事変」であり「戦争」ではないと唱えていました。日本海軍にとっての主敵は米英、日本陸軍にとっての主敵はソ連であって中
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