青春の一時期、小林秀雄訳『ランボオ詩集』の毒気に中(あ)てられ、魂に火傷(やけど)を負った人は数知れない。かく言う私も、その末端に連なる一人である。その余熱は、いまだ体内に疼(うず)いている。 小林訳の魔力は、何よりも一人称の「俺」を主語とする断言の潔さにある。たとえば『地獄の季節』の冒頭を引けば、「嘗(かつ)ては、若(も)し俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴(うたげ)であった、誰の心も開き、酒という酒は悉(ことごと)く流れ出た宴であった」という調子である。 その後、小林訳の呪縛から逃れ出ようと幾多の新訳が試みられてきた。一人称だけをとっても「おれ(粟津則雄)」「ぼく(清岡卓行)」「私(宇佐美斉)」といった多彩さである。今回の鈴村和成訳は「僕」を選ぶ。すると先の一節は「以前のことをよく思い起こすと、僕の人生はパーティだったな、――心という心が開かれ、酒という酒が流れるパーティだったな」と一