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2005と<隧道レポート>に関するyamaigaのブックマーク (14)

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 馬場目隧道 南口捜索編

    ※このレポートのタイトルを水無沢隧道から馬場目隧道に変更しました。(2014/8/29) 私が住む秋田市で最長のトンネルは、平成18年現在でもなお、昭和9年に完成した一の隧道である。 ましてその隧道が、森林鉄道用の隧道であり、昭和40年代初頭には全てが廃止されていると言えば、なんと秋田市の開発の進んでないことかと驚かれるかも知れない。 だが事実、後にも先にも秋田市内にこれを超える長さの山岳トンネルは存在していない。 そんな曰わく付きの隧道を、私も過去何度となく訪れている。 2002年に自身としては始めてその坑口を発見し、その模様はこの山行がでも紹介している。 さらに2004年には水没する内部へ侵入、閉塞地点の模様をお伝えすることにも成功した。 だが、未だにこの隧道の秋田市側の坑口を発見したという報告は、内にも外にもない。 私も以前、捜索しに入山したことがあるが、その時は発見できずに撤収し

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 三陸海岸 真木沢隧道群

    三陸海岸は、東北地方の太平洋岸の北半分の大半を占める、全長600kmに及ぶきわめて長い海岸線の総称で、かつてこの地方が「陸前」「陸中」「陸奥」の3国であった事から比較的近代に名付けられた。 三陸海岸と言えば全国的に有名なのが、リアス式と言われる複雑で険しい海岸線である。 中学校の地理で必ず名前が出てくることもあって、皆様の多くも「リアス=三陸海岸」というイメージをお持ちだろう。 実際に三陸海岸の大部分にリアス地形が見られるわけだが、岩手県宮古市より北側では隆起によるリアス地形、宮古以南では沈降によって生じたリアス地形というように、出来上がり方に違いがある。 無論、この違いは地形的な違いにも現れていて、南三陸ほど規模の大きな湾が多く、したがってその水深も深く、天然の良港に恵まれる。 北三陸では徐々に海岸線が海側へと後退を続けており、海岸線から垂直に切り立つ断崖絶壁という、おそらく多くの読者に

  • 隧道レポート

    おなじみ、『山形の廃道 全国隧道リスト(昭和42年度版)』にて、特に凄まじいスペックを誇っていた隧道群がある。 それは、現在の岩船郡山北町。 かつてそこがまだ村であり、そして、その道も県道にすぎなかった時代だ。 異常な隧道達を抱えていた道の名は、主要地方道村上温海線。 それは、ほぼ現在の国道345号線勝木~村上間に相当する路線だった。 隧道群の多くは、リストに記載された直後から続々と新線に切り替えられ、放棄された。 なにせ、リストに記載された、同路線上の隧道は合計27もあるが、そのうち11までが車道幅員2m以下なのである。 おいおい、そんな隧道を車が通れるのかと突っ込みたくなるが、とりあえず絶対に通れなかっただろうものもある。 最狭の平木隧道など、幅0.9m高さ2mなのだから、自転車だって、乗ったままではちょっと無理。 そんな異常な隧道群のレポートは、すでに以前に行った。 「道路レポー

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 大沢田隧道 東北本線 (前編)

    2005年の春に山行がが挑んだ隧道の一つに、この大沢田隧道がある。 これは、東北線の旧線の隧道で、右図の通り、この隧道があるのは宮城県と岩手県の県境部である。 ただし、この県境にある東北線の隧道としては、有壁隧道がとみに有名であり、この大沢田隧道はこれまで商業誌ベースで取り上げられたこともない、ひっそりとした旧線である。 おなじ県境にある有壁隧道と大沢田隧道だが、これらは親子の関係にある。 東北線がまだ日鉄道株式会社によって敷設されていた頃、明治23年に完成したのが有壁隧道である。 そして、この有壁隧道が老朽化し、また前後の線形も良くなかったことから、日国有鉄道が路線を約2kmほど西に移設した折に建設されたのが、大沢田隧道である。 こちらは、大正の13年生まれだ。 よって、いずれも県境を貫く隧道である。 そして、この一ノ関と清水原駅の間の峠越えの隧道は、この二だけには留まらず、

  • 隧道探険隊

    広大な三陸海岸の一角にあり、その男性的な荒々しい景観から「海のアルプス」とも称されることのある北山崎海岸は、岩手県下閉伊郡田野畑村から普代村に続く、全長8kmの海岸線一帯を指す。 この南端にあるのが北山漁港のある北山浜と、矢越崎である。 北山漁港から矢越崎を越え、さらに南の机浜に至る約1kmの道には、幾つかの隧道が描かれており、その現状を確かめるべく、我々3名は2005年8月末に実踏調査を行った。 そこに存在した隧道と道は、我々の想像を遙かに超越した、凄まじいものであった。 現地へは、北山浜から入った。 主要地方道44号線から、標識に従って北山漁港への1車線の舗装路に入ると、約700mほどで漁港のある海岸線に下り、すぐに地図上に描かれた一つめの隧道が現れる。 しかし、想像していたようなものではなく小柄だが普通のトンネルであり、全部で3ある隧道の残り2についても、期待薄であると感じた。

  • 隧道レポート 津軽森林鉄道 相の股隧道と六郎越隧道

    で最初に完成した森林鉄道は、青森県の津軽半島を走っていた。 明治39年に、日三大美林の一つに数えられる、津軽半島のヒバ林を効率的に運材する目的で着工された日初の森林鉄道は、明治41年 から利用が開始され、42年にはその線である67kmが完成に至った。 線上では当初から外国製の蒸気機関車が用いられ、その当時の主流であった筏流しや、橇、手押しトロッコなどを圧倒する運材力を遺憾なく発揮した。 その後も支線の開設が相次ぎ、県内のみならず日国内でも例を見ないほどの細密な、半島の隅々まで行き渡る路線網が確立されたのである。 運材料の全盛期は、大正3年頃であったという。 交通の立ち後れていた半島内の住民の足としても活躍した津軽森林鉄道であったが、昭和26年には国鉄津軽線の一部が開通、昭和30年代からは全国の例に漏れず、トラック運材への転換が急速に進み、その茫漠な路線網も次第に無用のものとな

  • 隧道探険隊

    主要地方道寒河江西川線は、寒河江(さがえ)市のJR左沢(あてらざわ)線羽前高松駅付近で国道287号線から分かれ、国道112号線と寒河江川を挟み平行して西進。約13kmをもって西川町間沢にて国道112号線に合流して終わる、国道を補完し地域ネットワークを構成する路線である。 寒河江川に沿っては他に山形自動車道が、目を瞠るほどの高所を連続した橋梁とトンネルでもって通過しており、この三つの道が絡まり合うようにして、庄内地方と山形地方の動脈を形成している。 さてこの一角に、極めて現道の近くにありながら、今日ではその存在が現道から全く関知できなくなってしまった旧隧道が存在する。 その名も、吉川隧道。 「山形の廃道」サイトによると、昭和11年竣工の全長89,8m。 私がこの旧隧道の存在を「山形の廃道」さんのレポートにより知った2003年6月。 私は一度目の接近を試みている。 その日は抜けるような快晴で、

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 玉川森林鉄道 旧線 鎧畑ダム水没隧道群

    以前公開した廃線レポート「玉川森林鉄道」では、玉川森林鉄道のうち、起点から玉川ダムまでの区間を探索・紹介したが、途中の鎧畑ダム周辺にある新旧線については、新線のみを紹介している。 ダム湖(秋扇湖)に水没した旧線については、素通りせざるを得なかったのである。 だが、2005年7月末、ユウタ氏が当サイトの掲示板に投稿された写真を見て、私は驚いた。 そこに写っていたのは、これまでいくらダム湖の水位が下がっても決して地上には現れることがなかった、旧軌道跡の隧道のように思われたからだ。 再調査の必要を感じた私は、細田ミリンダ氏を誘って現地へ向かった。 → 問題の投稿写真。(ユウタさん ありがとうございます!) 角度がよく分からないものの、従来対岸から見えていた水没隧道よりもさらに深い位置にあるものに見えた。 文に入る前に、玉川林鉄について簡単におさらいしておこう。 玉川森林鉄道は、大正10年に生保

  • 道路レポート

    仙北鉄道は、宮城県北部にかつて存在した軽便鉄道で、登米(とよま)線と築館(つきだて)線の2があった。 登米線は大正10年の開通で、その経路は東北線瀬峰駅より東進し登米までの16km、惜しまれつつ昭和43年に廃止された。 一方の築館線は大正12年開通、瀬峰駅より北西へ進路を取り、築館に至る若干12kmの路線であった。 こちらは、アイオン台風の影響により昭和23年と早い時期に廃止されている。 往時には貨物列車も通い、仙北地方の縦断交通路としてそれなりの存在感があった仙北鉄道であるが、その沿線風景は殆どが平坦な水田地帯であり、駅を除くとあまり大きな構造物は無かったようである。 その全線におけるただ一つだけの隧道が葉ノ木山隧道であり、築館線の中程にて築館町・迫(はざま)町・瀬峰町の三町の接する丘をくぐっていた。 1. 築館側から接近 葉の木山隧道へと、築館町側(北)から接近を試みる。 それまで

  • 隧道探険隊

    大正の終わり頃、岩手県の馬淵川(まべちがわ)流域に、北上山地を縦断する遠大な鉄道計画があった。 それは、現在の岩泉町門(かど)地区にあった小川鉱山の経営者達が企図したもので、東北鉄道鉱業線と言った。 計画によればその経路は、小川鉱山から北西の国境峠を越え、その先は葛巻町内を馬淵川に沿って北西に進路を取り続け、最後は一戸町の小鳥谷(こずや)で東北線に接続するもの。 また、小川鉱山は終点ではなく、さらに岩泉町内を東進し太平洋岸の小(おもと)にあった茂師港までも計画されていたし、さらには現在のJR岩泉線の経路を通って茂市(もいち)へと進む支線まで予定されていたと言うから、一鉱山が計画した路線としては甚だ大がかりなものであった。 土地勘のない方には地名だけ羅列されてもちんぷんかんぷんだと思うので大ざっぱに言えば、今述べた路線を全て建設すれば、総延長は120kmを超える。 さらに、この長大な鉄道

  • 隧道探険隊

    山行がの歴史に欠くことの出来ない1ページを刻んだ笹立隧道。 2003年の2月初頭、善法寺側から雪の山道を辿り隧道に至り、そこで自身の限界と戦いながら、閉塞寸前となったおおよそ200mの洞内を、潜り抜けた。 その模様は、隧道レポートに認められているから、古い読者ならばご存じの方も多かろう。 しかし、今当時のレポートを改めて読み直してみると、誠に恥ずかしい部分が多い。 それは、文章の拙さや大仰な表現といった部分だけではなくて、むしろ、あの頃の現実そのものであった、装備の未熟さによるところが大きい。 そこがまた、必要以上に、私に苦痛と、恐怖感を強いていたのだろうし、穿った見方をすれば、そこが、レポートとして評判が良かった理由かも知れない。 話がそれた。 私は、あれから3年あまりを経た2005年の6月1日に、再訪した。 そして、隧道自体については、難なく通り抜けることも出来た。 一度は通り抜けてい

  • 隧道レポート

    またひとつ、「山形の廃道サイト御提供:全国隧道リスト」に記載の隧道が、廃棄されているのを確認したので、ここに報告する。 あなたはここで、 また一つ新しい体験をする! 今回紹介する廃隧道は、郡界隧道という。 この隧道は、『隧道リスト』によれば、「一般県道 亘理大河原線」上に存在したことになっているが、現在の郡界トンネルがあるのは、「主要地方道 亘理大河原川崎線(県道番号は14)」である。 そこは、トンネルの名が示すとおりの郡界であり、トンネルの西側は柴田郡大河原町、東側は角田市(昭和33年まで伊具郡角田町)となっている。 ただ、特に古くからある峠というわけではなく、旧隧道の開通を期に使われるようになった道のようである。 阿武隈山地の北端が白石川と阿武隈川に挟まれて先細りになっていく、その過程の低い稜線に、新旧のトンネルが、並んでいる。 大河原町の中心地である大河原は、白石川の両岸にほぼ均等に

  • 隧道レポート

    明治23年4月、東北線の前身である「日鉄道線」として、岩切・一ノ関間が開通している。 ここは主に宮城県から岩手県へと続く田園地帯を北上する区間だが、一ノ関手前に立ちはだかる有壁峠だけが、難所であった。 僅か高低差50mほどの峠であるが、当初ここには有壁隧道を頂点にした、最大16.7‰の勾配が控え、まだ非力だった機関車達を苦しめた。 しかし、大正13年には早々と現在の路線に切り替えられ、新たに大沢田トンネルが使用されるようになった。 こうして、他では例を見ないほど古く廃止された隧道が、永く地上に残されることとなる。 この有壁隧道の前後に残る廃線区間は、“その筋”では有名な廃線探索スポットであり、既に充分な調査が書籍などにまとめられている。 特に、お馴染み『鉄道廃線跡を歩く(第Ⅰ巻)』では詳細に紹介されている。 現地は、一ノ関市街から国道342号線を仙台方向に5kmほど南下し、小高い丘のよ

  • 隧道レポート

    北日の環日海を縦貫する羽越線は、新潟と秋田とを結び、東北の代表的な幹線鉄道の一つである。 とくに、奥羽線の一部区間がミニ新幹線化するなどして、貨物輸送に適しなくなって以来は、東北線とともに、北日の貨物輸送を担う最重要貨物幹線となっている。 日夜を問わず多数の列車が行き交う羽越線であるが、特に、山形県鶴岡市三瀬付近から新潟県村上市までの海岸沿いの区間は、大小の隧道が連続している、建設上の難所であった。 ここは、奇景とも称される「笹川流れ」の複雑な海岸線に鉄道が挑んだ場所であり、一部の駅間においては、地上部分よりも地下部分の方が長いと思われるほどだ。 羽越線の歴史は、幹線としてはやや後発ながらも、大正13年7月末に新津秋田間が全通している。 このうち、温海駅から鼠ヶ関駅間は、陸羽西線の一区間として大正12年に開通しており、全通時に羽越線に編入されている。 さらに、この二駅の中

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