「幸田さんは年齢七十二歳、体重五十二キロ、この点をご配慮――どうかよろしく」。山崩れの現場にある砂防事務所へ伝えられた言葉を、幸田文(あや)は喜んだ。人の背中を拝借してでも、行ってみたい心が勝った。1976年(昭和51年)、崩壊地「見てある記」の旅は始まる。 「祖母は体に厚みがあって、当時の女性としては大柄でした。家事労働で鍛えていましたから」。文の孫で、すらりとした長身の青木奈緒さん(53)は言う。5歳で母を亡くした文は、女学校に入学すると父で作家の幸田露伴から徹底的に家事を仕込まれる。幕臣の子だった露伴の口癖は「脊梁(せきりょう)骨を提起しろ」。その命に従い、背骨をまっすぐに立て、幸田家を「崩れ」から守ってきたその人が、自然のなせる崩壊に心を奪われた。 きっかけは、楓(かえで)の芽吹きを見に出かけた静岡市・梅ヶ島の安倍川源流で目にした大谷崩(おおやくずれ)だった。1707年の宝永地震で