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ブックマーク / shinichiroinaba.hatenablog.com (6)

  • ヘイトスピーチと言論の自由につき思いつき - shinichiroinaba's blog

    生煮えで恥を晒すところが多いがちょっと書いてみた。 == 応用哲学会のシンポで若い人たちが報告したヘイトスピーチの言語哲学的解剖はとても面白くて論文になるのが待たれるけど、帰りにちょっと大庭弘継君と話した通りいろいろ難しいところもある。 言語行為論を用いてヘイトスピーチを発話行為であり、通常「言論の自由」が想定している発話と行為の切断、行為から切断された独立の言論空間の設定を悪用したものである、という指摘はたしかに正しい。言論の自由が前提としている言論空間の中では、たとえ大量殺戮の計画とそれについての討論であれ「決してそれが実行に移されることはない」という前提が確固として守られるのであれば、当然に許容される。ヘイトスピーチについても同様の論法がある程度は可能だろう。すなわち、それが実生活における差別行為を伴う、帰結することがなければ、だ。ところがいわゆるヘイトスピーチはこの境界を侵犯してい

    ヘイトスピーチと言論の自由につき思いつき - shinichiroinaba's blog
    yasudayasu
    yasudayasu 2017/05/08
    言論の自由が前提としている言論空間の中では、たとえ大量殺戮の計画とそれについての討論であれ「決してそれが実行に移されることはない」という前提が確固として守られるのであれば、当然に許容される。
  • ベーシックインカムとベーシックキャピタル――と金融屋 - shinichiroinaba's blog

    主義が嫌いな人のための経済学 作者: ジョセフ・ヒース,栗原百代出版社/メーカー: エヌティティ出版発売日: 2012/02/09メディア: 単行購入: 20人 クリック: 834回この商品を含むブログ (16件) を見るを読んでいて著者ヒースが「ベーシックキャピタルよりベーシックインカムの方がまし」という主張を「双曲線割引」というか「あぶく銭は身につかない」効果から説明している(北米先住民居留地における一時金や、宝くじ高額当選者の事例などで補強している)のを見て少し考えた。 言われてみればかなりもっともらしいのだが、ここに金融セクターは必ずやビジネスチャンスを見出すはずである。 ベーシックインカムが導入されれば、その受給権は将来にわたる担保として機能するので、既存の消費者金融はそこに新たなフロンティアを見出すであろう。 ベーシックキャピタルが導入されれば、これを預かって人のかわり

    ベーシックインカムとベーシックキャピタル――と金融屋 - shinichiroinaba's blog
    yasudayasu
    yasudayasu 2012/02/21
    ベーシックインカムが導入されれば、その受給権は将来にわたる担保として機能するので、既存の消費者金融はそこに新たなフロンティアを見出すであろう。
  • 「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog

    公共領域、公共空間、「市民的公共圏」としての都市と都市間交通網を無視するわけにはいかないが、ハーバーマスの視点はそこにはあまり向けられない。ハーバーマスが重視するのは、そしておそらくはロックの場合もそうなのだろうが、文字言語を介したコミュニケーションのネットワークである。古典古代の市民社会においてももちろん文字は存在したが、そこはいまだ基的に写の世界であり、活字による大量印刷は存在しなかった。ロックはすでにグーテンベルグ以降の存在であり、ロックの哲学において「世論」はキー概念のひとつである。そして18、19世紀に焦点を当てるハーバーマスにおいては、消費財、あるいは産業となった文学と、何よりも新聞、ジャーナリズムがクローズアップされる。「文芸的公共圏」なる語が用いられるゆえんである。 もちろんここで我々はベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」を支えるインフラストラクチャーとしての「

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  • 「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog

    市民社会は個人、あるいは、自然人のことをしか「個人」と呼びたくなければ個体の集合体ではあるが、それ自体は個体ではない。ではこの市民社会を構成する「個体」とは何であろうか? 実はそれは、ただ一人の自然人個人をしか含まない場合においても、通常は「個人」とは言い難いところがある。市民社会を構成する個体ないし個人とは、(一般的には複数の)個人とその保有する――「持つ」――資源からなるシステムである。「資源」はここでは通常は、世界に存在する人以外のもの、のことであるが、「通常」ではない(しかし歴史的には決して「以上」にでもない)ケースにおいては、人――自然人もまた「資源」でありうる。つまりは奴隷である。自然人の――これをどう定義するかは問題だが――「部分」もまた「人以外のもの」と扱われうる場合にはその限りにおいて「資源」でありうる。 このようなものはいくつかのカテゴリーに分けられる。先述の「個体」と

    「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog
  • シノドス・セミナー「社会学の居場所」 - shinichiroinaba's blog

    こちらでご報告した、2009年12月13日に行われたシノドス・セミナーの記録です。『アルファ・シノドス ―“α-synodos”』vol.46(2010/02/15)、vol.47(2010/3/1)から転載。 ================ 「社会学の居場所」稲葉振一郎 今日お話ししようと思っていたことが何点かあります。『社会学入門』(NHK出版)を読んでくださった方の多くは、このには穴があることに気づいておられて、その穴が今後どのように埋められるかと思ってらっしゃると思います。日はちょっとそれを意識しながらやっていこうと思っています。一つには、ある程度書き込んだけれども、入門書にはふさわしくないのではないかと、削った話題が一つあります。第12講で、科学的アプローチと工学的アプローチという対比を行いましたが、来はあそこで、より具体的に説明するために力学系モデルの話をしていたんです

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  • 「公共政策論」メモ - shinichiroinaba's blog

    今日しゃべったことをもとに。無断引用は禁止ですよ。 ================== この講義では最終的には「政治」のぼくなりの定義を与えることを最終的な目標としているが、さしあたりはテキスト『「公共性」論』の前半に即する形で、「市民社会」の概念について考察していきたい。これを言い換えるならば、ユルゲン・ハーバーマスの言う「公共性の構造転換」について考察していく、ということである。 ハーバーマスが同題の有名な著書で問題としたのは文字通り「公共性の構造転換」であるが、それは正確に言えば「公共性」一般ではなく、「市民的公共性」の「構造転換」である。そこでは「市民的公共性」の「成立」についてもまた論じられており、それはハーバーマスの言葉を使えば、宮廷、王権、王の身体が社会の全体性、統合性を表現するメディアとなる絶対王政の「具現的公共性」から、市民間の自由なコミュニケーションこそがそうした表現

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