2008年2月26日のブックマーク (8件)

  • ララビアータ:地の塩 - livedoor Blog(ブログ)

    ようやく今学期の授業が終わった。いつもと別に変わりはない。ただ、今回は15年半勤めた東北芸術工科大学で最後の授業なので、それなりの感慨がなくもない。倫理学の授業が、事務当局の手違いで、補講の授業と重なってしまい、私の教室が急遽変更になったので、授業に出席した学生は三人だけだった。大部分の学生は、休講になったものと思い込んで、帰ったようである。学生諸君には、たいへん申し訳ないことをしてしまった。 最初この大学に赴任した時は、学生ともども新しい伝統をこの地に築くことを、それぞれに思い描いていたと思う。思えば、それは夢のような、ユートピアの可能性を信じることの出来た数年間であった。 今から四十年近くまえ、私自身が学生生活を始めた頃は、ちょうど学園紛争が始まった時代だった。当時の学生の主張が全面的に正しかったとは思わないし、良心的な先生はたくさんいた。そのころ大学当局を厳しく指弾していた学生たちが

  • ララビアータ:選民(その3) - livedoor Blog(ブログ)

    われわれは、レヴィナスのヨブ記解釈(または、内田樹氏によるその解釈)を要約して、「主体が象徴界に生まれる時、主体は象徴界に遅れをとらざるを得ない」と記した。主体にとって根源的な遅れとは、言語への参入によって初めて主体が成立するものである以上、主体は象徴界に対して常に遅れを取ったものとして登場せざるを得ないという事である。 象徴界への遅れは、万人にとっての宿命であるにもかかわらず、それが何故私の責任の根拠(そして自由の根拠)となり得るのであろうか? それは、どのような象徴界といえども、その中への私の同定、「それが私だ」を必要とするからである。テクストの中の私の同定とその引き受けを通して、私たちは言語主体になるのだ。私のことは、私が主体として成立する前から、すでに語られてしまっていたのだ。だからこそ主体は、テクストの中にすでに語られてしまっている自分自身を認知しなければならない。象徴界(言語的

  • ララビアータ - 田島正樹の哲学的断想 :選民 (補遺)

    選民(その1)補遺 神の選びは、普通は受難という形を取る。受難においてこそ、「何ゆえ、私が選ばれたのか?」という問いが、その真摯な切迫を帯びて問われるからである。思い上がった成功者や成り上がり者たちは、己れの成功を己れの「能力」によって納得して怪しまない。(古代ギリシア人なら、勝利と幸運によってかえって敬虔になったものだが) ヨブはその受難において、「何ゆえ、私が?」という問いに直面した。ヨブの「友人たち」は、口々にそれに安直で合理的な説明を与えるが、ヨブは納得しなかった。ユダヤ人の受難に、なんであれ合理的説明を与えようとする人は、不可避にこのヨブの「友人」の立場を取ることになるだろう。この種の第三者の語りがGerede(駄弁)に堕するのは、そのためである。 レヴィナスのヨブ解釈のすぐれた点は、ヨブの神に向けられた「何ゆえ、私が?」という問いが、そのまま神からヨブに向けられた問いとして理解

  • ララビアータ:選民(その2) - livedoor Blog(ブログ)

    「何故、私が?」という問いが立てられることこそが、神と直面して立つ事であり、ここから神とのコミュニケーションが始動する。しかしそれは、私自身がその譲りえぬ個別性で問われているからであろう。その問いは、「何故、ユダヤ人が?」という第三者の問いとは、まるで違う。この問いは、「何故、われわれユダヤ人が?」という形を取らない限り、まじめに問われるものとはならないだろう。それは、「何故、巨人が9連覇したのか?」という問いと大差ないものになってしまう(Gerede , Neugier)。 しかし、「何故、私が?」という問いと「何故、われわれユダヤ人が?」という問いの間には、ある種の政治哲学が挟まらねばならない。しかし、「私」を「われわれ」に昇格させるための政治哲学として、民族の理念に訴えるだけで十分であろうか?(とりわけ、「民族国家」を樹立しようとしたシオニストの政治が、最悪の政治を展開しつつある時に

  • ララビアータ:選民(その1) - livedoor Blog(ブログ)

    内田樹氏の『私家版・ユダヤ文化論』の後半を読む。『文学界』連載中少し前半部分を読んでいたものだが、その問題意識と方法論にいささか疑問を感じて、読み進むのをためらっていた。 氏の論述は多彩で、よく言えば光彩陸離たるものであるが、極めて深遠な洞察もあれば、いささか思いつきで筆を走らせたところもある、いわばまだら模様と言える興味深い作品に仕上がっている。例えば、反ユダヤ主義者はユダヤ人に魅せられている、その愛を強化するために迫害に及ぶのだ、といった主張。確かにそのような例もあるかもしれないが、それをもって反ユダヤ主義の質とか一般現象と主張するにはやや無理があろう。一般に、強い憎悪には敵対者へのアンビヴァレントな感情が付きまとう事が多い、ということはあるかもしれない。敵対性が、しばしば相似性、鏡像的分身関係に基づくこともよく知られている。しかしそのような心理の一般論をユダヤ人問題に「適用」する事

  • ララビアータ:マホメド・アタの告白 - livedoor Blog(ブログ)

    「テロリスト、モハメド・アタの告白」の断片の一部を掲載する。現実の事件や人物とは関係がないことは、ことわるまでもないだろう。 ビン・ラディン師については、よからぬうわさがないわけではなかった。CIAと関係しているというものである。おそらく根も葉もないものだろう。あれほどの自己犠牲をささげた人が、どうして敵に身売りする必要があろうか?そんなことをするくらいなら、はじめからサウジアラビアの王侯の一人として振舞っていればよかったのではないか?もちろんソ連と戦うために、十年以上にわたって師がCIAと深い関係を続けたことはたしかだ。現にいまこの瞬間も、師の親族が二十数名アメリカの各地にいるはずであった。彼らとビン・ラディン師とは反目しあっているようでもあり、裏で経済的つながりを持っているようでもあったが、連中はいずれもアメリカのお偉方と親しかった。反共の闘士であると同時に、目もくらむほどの金持ちであ

  • ララビアータ:「マホメド・アタの告白」つづき - livedoor Blog(ブログ)

    朝靄の中に輝く蛇のようなハドソン河が眼下に見えた。「神よ!御身のもとへ」とアタは叫びたかった。ようやく完成のときが近づいたのだ。一瞬の気の緩みもすべてをぶち壊しにしてしまう困難な仕事の孤独な緊張感から、もうすぐ解放される。もはや万々一にも失敗することはあるまい。あのまがまがしきTwin Towersに、首尾よく突っ込みさえすればよい。それは、数々の難しい航空技能を修得してきたアタにとっては、失敗するはずのない容易な業だと思われた。眼前に広がる世界はたしかに美しいといってもよかった。しかし、その中でいかに大きな試練をあなたは私に与えたものであろう?私はそれを果たしてあなたのもとへと昇ってゆくだろう。そのときこそあなたの前で、あなたが与えた謎について問いただすだろう。私にはその資格があるはずだ。義人ヨブのように、私はあなたに問いただそう。御身の栄光の為に、何故かくも大きな犠牲が必要だったのかを

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    仲春はゆっくりと通り過ぎる 寝て起きたら3月である。今日の東京の最高気温は20度を超えている。正月のインフルエンザが完治して、これでやっと健康で文化的な年度を始められるぞ、と意気込んだのも束の間、今度は原因不明の高熱を出して1週間寝込んだ。 脳がグツグツ煮える音が聴こえそうなほど…

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