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  • ララビアータ:神様っているの? - livedoor Blog(ブログ)

    『ドリーム・ナビ』の原稿で、執筆予定者のS氏からの原稿が届かないという緊急事態で、急遽ピンチ・ヒッターとして執筆を要請された。「神様っているの?」という題で、3日以内に原稿を送れという。その間に大先生からの原稿がとどけば、私の原稿は没になるらしい。あんまりな条件だと思わないでもないが、物書きの能に従ってつい原稿を書いてしまった。じゃらしのようなものである。こうやってホイホイ原稿を書いてしまうところが、とかく編集者の方から私が軽んじられる理由かもしれない。とにかくそうやって書いた原稿が、以下のものである。 ――「信頼」のように生まれつつある神―― サンタクロースを気で信じる人などいないだろうが、幼い時は、下の中の贈り物はサンタさんからだと言われる。それは、両親がそっと置いたもの。 けど、両親は何故こんな手の込んだ嘘をつくのだろう?自分たちの贈り物を他の誰かからのものだと思わせよう

    yob
    yob 2012/11/28
    この執筆条件はすごいな。
  • ララビアータ:スピノザとライプニッツ - livedoor Blog(ブログ)

    マシュー・スチュアートの『宮廷人と異端者』(書肆心水)を読んだ。スピノザとライプニッツ両哲学に興味がある人にとっては、見逃せないである。両哲学者の書簡を含むテクストはもちろん、その周辺の人々の資料にも目くばせが行き届いた興味深い一冊。著者は哲学者たちの理論や人間性の解釈にまで立ち入った上で、彼らの複雑な影響関係について独創的な解釈を打ち出している。 1676年11月ライプニッツはハーグにスピノザを訪ねているが、このときの対談は、通常言われているよりも濃密で長時間(少なくとも数日間)にわたるものであったらしい(p−251)。ライプニッツには、既にスピノザの説を受け入れる準備が整っていたのだが、このときの対談を境にして、ライプニッツは次第にスピノザから距離を取り始め、やがてまったく敵対的なものと見なしてゆく。これを著者は、思想史的ドラマとしてのみならず人間ドラマとして描き尽くそうとしている。

  • ララビアータ:入不二氏からの批判 - livedoor Blog(ブログ)

    以前、拙著『神学・政治論』に対して入不二氏から頂いたご批判に、不十分ながらお答えしたいと思う。入不二氏のご批判の全文はネット上に公開されているから、たやすくご覧いただけるはずである。 image01.wiki.livedoor.jp/i/i/irifuji/921bce92560bd0be.pdf [信仰について] 入不二氏は、私の中に二つの像が混在しているのだが、それは不整合であると言われる。一つは「正反対であるかに見える二つの項(信仰と無信仰)の間の移行」を説くものであり、もう一つは、「前のめりの切迫主義」「決断主義」というものである。そして、後者は哲学ではなく、個人的性向にすぎないとされる。むしろ、信仰に対して逆向きの力があるように、決断主義的態度に対しても「中庸」のようなバランスが求められるのではないか、というのである。 私が「移行」というのは、決してバランスをとる態度ではない。信

  • ララビアータ:スピノザ批判 - livedoor Blog(ブログ)

    スピノザは難しい。部分を読むときにも、つねに全体を思い浮かべる必要があるからである。それは、いわゆる「幾何学的な表記」を鵜呑みにしてはいけない、ということを意味する。スピノザが証明と呼ぶものは、幾何学の証明とはまったく違っている。幾何学の場合には、定理の証明は公理や定義などを参照するだけで、一歩一歩理解してゆくことができるが、たとえばスピノザの神の存在証明を、『エチカ』の初めの数ページだけで理解することはできないのである。 私は、スピノザを理解するためには、結局スピノザの一部を批判して切除しなければならないと考えるようになった。スピノザを真に生かすためには、どうしてもそれが不可避だと思われたからである。そのことを二点ほど、簡単に指摘しておきたい。 スピノザは、『エチカ』第二部のある個所で、「光が光自身と闇とを顕すように、真理は真理自身と虚偽との規範である」と述べている。これは真理と虚偽の非

  • ララビアータ:スピノザ的洞察 - livedoor Blog(ブログ)

    デカルトとスピノザほど違ったタイプの哲学者はいない、と言えるほど両者は違っている。 スピノザは『知性改善論』で、よく知られたデカルト批判を展開している。真なる認識に達するために、もし確実な方法が必要なら、それと同様にハンマーを造るのには、ハンマーを鍛える道具がなくてはならず、その道具を造るのにまた別の道具が必要となり…という具合で、ハンマーを造ることは不可能であるということになってしまう、というのである。しかし実際には、こんな「論証」によってハンマーを造ることの不可能性が証明できたわけではない。何か手近にある道具を使って、別の道具を造ることができ、それを使ってさらに手持ちの道具を増やし、ついにはハンマーをつくることができるようになるように、真理を探求するにも、低い段階から始めて、それを使いながらさらに確実な広範な知識を手にすることができる、というのである。 ここにはスピノザの最初の洞察が瞥

  • ララビアータ:丸山真男の「福沢諭吉論」 - livedoor Blog(ブログ)

    ゼミで丸山真男の「福沢諭吉の哲学」を取り上げたついでに、梅克己の「マルクス主義と近代政治学―丸山真男の立場を中心として―」と、鎌田哲哉氏の「丸山真男論」を久しぶりに読み返してみた。以前に読んだときには読み飛ばしていた所もあり、あらためて深い感銘を受けたが、いまでは以前より両論に対する私自身の批判点もはっきりしてきたので、その点についてノートしておきたい。ついでに述べれば、梅論文は、丸山自身が唯一「見当違いがない」(『戦後日の革新思想』p−394)と認めたものであり、鎌田論文は1998年「群像新人文学賞」の受賞作品である。(この作品を選出した当時の『群像』の見識と、何より鎌田氏を応募させる気にさせることができた柄谷氏をはじめとする選考委員の面々は、栄誉に値すると思う。) 梅の丸山論は、蠟山政道のマルクス主義批判から始まる。――史的唯物論の立場からは、政治の自律性が否定され、したがって

  • ララビアータ:エヴァンズの「情報」観念ノート - livedoor Blog(ブログ)

    エヴァンズの指示理論において、指示対象と名前の使用とを結び付ける情報というリンクが重視されているのは、エヴァンズに興味をもつ人々には広く知られていることであるが、この概念をどう位置付ければよいのか、いま一つ明らかでない。 エヴァンズはフレーゲの名前の意義(Sinn)理論がしばしば誤解されてきたことを指摘している。 フレーゲは、意味の理論を、文の真理がその構成要素からどのように決定されているかということを軸に、つまりその論理的構造を軸に作ろうとする。簡略に言うと、文の意味を理解することはその適切な使用条件(通常は真理条件)の理解であると見なす。そして、文がその意味論的に分析される部分からその真理値を決定されると見なされる限り、その諸部分が文の真理条件の決定に貢献する仕方を、その部分の意義と見なすことができる。つまり、フレーゲの理論では、意味へのアプローチはあくまで真理値(文の意味論的価値)の

  • ララビアータ:暴力について - livedoor Blog(ブログ)

    内田樹氏は、『ためらいの倫理学』の中で、「私は戦争について語りたくないし、何らかの「立場」も取りたくない」(p−18)と述べている。それは、NATOによるユーゴ空爆に対して、スーザン・ソンタグがきっぱりと支持を表明したことに対する批評の言葉である。氏の批評の中には、耳を傾けるべき重要な論点がいくつか含まれている。たとえば「現場を直接経験した、または目撃した人間には、それについて語り、判断すべき何らかの特権的資格がある」かのように言いたて、その体験者でない者たちの言説を抑圧することは、許されないといった論点である。 しかし、内田氏の主張はそれにとどまらない。たとえば、次のような記述が特徴的である。 「誰か」が戦争を始めた。「誰か」が戦争を終わらせるべきだ。問題は「誰か」を特定することだというロジック…このあまりに分かりやすい図式には一つだけ欠点がある。それは「主体」たちは、絶対に自分が「邪悪

    yob
    yob 2011/04/06
  • ララビアータ:花井一典氏の思ひ出 - livedoor Blog(ブログ)

    北大の旧友からの電話で、花井一典氏の急逝を知らされた。24日に北大文学部でお別れの会があった。北大へは、ほぼ20年ぶりである。 花井氏(以下敬称略)は、知る人ぞ知る中世・古代哲学者である。わたくしとは大学同期で、言葉に尽くせないほど彼にはお世話になったのだが、ここ15年ほどはほぼ絶交状態が続いていた。どうしてこんなことになってしまったのだろうか? 花井は、天才的な語学力とたぐいまれな学識にもかかわらず、人自身には全くそんな自覚は思いもよらないものだった。それは、彼が言語と思想の当の深みについてあまりにも通暁していたために、自分の学識を、それに比してごく控え目なものと認識していたからである。 彼は格的な学者によくある偏屈さのために、世渡りが器用と言えるものではなかった。そのためか、彼は就職の面でも他の同僚よりずっと不運であったと思う。花井の恩師であった斉藤忍随先生が急逝されたことも(1

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    yob 2010/09/28
  • ララビアータ:革命的左翼の保守主義的基盤 - livedoor Blog(ブログ)

    歴史に対する見方として、進歩的・保守的二通りの見方があるとしてみたらどうであろうか? 前者は、歴史というものを一歩一歩の積み重ねによって連続的に前進するものと表象する。富や知識は蓄積されてゆくのだから、昨日よりは今日今日よりは明日の方がいくばくか進歩しているはずであるし、それらは一足飛びに飛躍できるものでもあるまい。 これに対し後者は、我々の相続遺産(精神や文化)の起源を遡及して問う見方である。歴史の中には時を超えて永続するものがあるはずだが、しばしばそれは見る影もなく歪曲され、通俗化された理解の中に埋もれてしまっている。それをその起源にさかのぼって取り戻そうとするのである。 ロストロポーヴィッチがチャイコフスキーの音楽について語ったところによれば、「我が国では、チャイコフスキーの音楽はある伝統に組み込まれているが、その伝統たるや、幾世代にもわたって培われてきたいろいろの要素を、それも外面

  • ララビアータ:左翼的政治 - livedoor Blog(ブログ)

    白井聡氏の『物質の蜂起をめざして』を読んだ。『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)以来二冊目である。どちらの著作も面白く啓発的であるが、詳しい検討はまたの機会として、そこで検討されていたシャンタル・ムフの「ラディカル・デモクラシー」の主張について考えてみたい。 カール・シュミットが民主主義の質を被治者の同一性に見たのと違って、白井氏によれば、ムフは多元性を積極的な価値として民主主義の根幹に据えようとする(p−192〜)。この点で、ムフは自由主義の伝統に立つと言えよう。アレントやハーバーマスにおいても同様な立論が見られる。このような立場では、問題はこの多元性を維持するための必須の制約条件を求めることとなろう。あまりに「破壊的」な立場は、討議の空間そのものを棄損する恐れがあろうから、無制限の寛容は認めがたいからである。 このような多元主義(自由主義)と民主主義を結ぶ要は、討議における合意の形

    yob
    yob 2010/07/24
  • ララビアータ:鄭大世(チョン・テセ)よ、胸を張れ! - livedoor Blog(ブログ)

    鄭大世よ、胸を張れ! 強豪ひしめくグループGにあって、君たちはブラジル相手に立派に戦った。今や第二戦ポルトガル、第三戦コート・ディヴォワールにも敗れ、リーグ戦突破の道は閉ざされた。 君のすぐれた天分をもってすれば、テーハンミングの大合唱を背に受けて、輝かしい道を駆け抜けることも約束されていたはず。そのとき君は、はるかにめぐまれた条件のもとで、はるかに華やかな栄光に包まれていただろう。 しかし、君は、母の祖国を選んだ。国際的に孤立し、轟々たる非難にさらされた祖国。君の母上が、在日同胞の弟妹の星になれと、君に諭されたから。約束されたはずの幸福と名誉をもたらさず、多大な苦難のみを背負うことが明らかなとき、君は、祖国の苦難をみずから背負い、祖国の人々の哀しみに、みずから寄り添う道を選んだ。 それでこそ、あっぱれ愛国者! 朝鮮人民共和国の国歌を歌いながら、涙を流す姿は、我々の胸を打つ。常々、君の祖国

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    yob 2010/06/28
  • ララビアータ:村上春樹氏の『風の歌を聴け』 - livedoor Blog(ブログ)

    ゼミの学生からの希望で、村上春樹氏の『風の歌を聴け』を読むことになった。私はまだ彼の小説を一つも読んだことがないので、何の予備知識もなくこの小説を読んだ。もちろん、若い学生諸君がこの小説をどのように読んでいるのだろうか、興味もあった。 「主人公の女が妊娠中絶しますよね? あれどう思いました?」と私が、この小説を取り上げることを希望した学生に聞いてみると、「えっ!そんなところありました?」と驚く(!)。この小説は、ご存じのようにこれといった事件が起らない小説だ。その中でほとんど唯一と言っていいような事件が女の妊娠中絶である。その中心の筋さえも気づかないで、どうしてこの小説の愛読者になれるのであろうか?私のような古いタイプの小説愛好家にとっては、なんとも不思議である。以下、私の読後感想を思いつくままに書きつけておこう。 小説は、1970年8月8日から8月26日まで19日間に起こった事件からなる

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    yob 2010/06/15
  • ララビアータ:キルケゴールの「反復」 - livedoor Blog(ブログ)

    先日、畏友のアリストテレス学者からメールを頂戴し、彼が指導した学生の修論でキルケゴールを扱ったものが添付されてあった。その中に拙著の『神学・政治論』からの引用があったので、何かコメントがないかとのことである。なかなかの力作で、私として格別異論が有るわけではないが、それに刺激されてあらためてキルケゴールについて考えて、コメントさしあげた。以下、その大意を記しておく。 拙著で私は、キルケゴールのレギーネ事件について、一応の推理をしている。 キルケゴールは1840年27歳の時、17歳の少女レギーネ・オルセンと婚約する。しかし約一年後、この婚約はキルケゴールの方から一方的に解消された。『恐れとおののき』『反復』『あれかこれか』などに始まる著作は、ほとんどこれ以後、堰を切ったように執筆されたものである。レギーネとの婚約は、それが『反復』『あれかこれか』などの作品に大きな影を落としているだけに、その解

  • ララビアータ:朝青龍関の引退 - livedoor Blog(ブログ)

    朝青龍関が引退を表明した。まことに残念であり、口惜しい。 いつから日人は、ここまで劣化したのであろうか? いつから他人の「品格」をあげつらうような発言が日語に登録されたのであろう? もともと己れを棚に上げて他人の「品格」を批判するようなふるまいは、あまり上品なものとは思われていなかった。「いったい何さまのつもりなのか?」 マスコミ一体となったすさまじい反朝青龍キャンペーンは、もはや全社会的いじめである。 「暴行事件」と言われるが、その詳細についてわれわれは何一つ知らない。たとえ訴追されたとしても、判決が下るまでは推定無罪と取り扱われねばならない。まして、不起訴どころか「容疑」さえないのである。我々にしても酒を飲んで口論くらいはするだろう。民事的係争が有ったとしても、人たちの間で示談が成立しているのに、他人がどうして騒ぎ立てるのか? どこかの四流の脚家が、どうしてあれほどまで傲慢な態

    yob
    yob 2010/02/05
  • ララビアータ:『神学・政治論』の解説 - livedoor Blog(ブログ)

    先日、京都の研究会で、拙著『神学・政治論』について経済学者のI氏から、ヘーゲルの下りが難しいと指摘を受けた。氏のような炯眼の教養人からさえ難解と言われるようでは、さすがに私も罪を認めざるを得ない。読み返してみると、確かに妙に読みにくい個所である。私の悪い癖であるが、以前ほかで論じたことと重なるところがある場合、説明を省略しがちで、その結果、必要以上に難解になってしまうようだ。以前ヘーゲルについて論じたことがあるが、今回はついでにヘーゲル哲学を近代政治哲学の文脈において、功利主義と社会契約説の両方を踏まえたものとして位置付けるという調子のいいことを考えたため、切り捨てるに忍びなかったものである。以下、できるだけわかりやすく解説を試みよう。 [ヘーゲルと功利主義] 功利主義とヘーゲルを関連させるくだりは、大雑把に言えば、功利主義の快苦の原理が、快を得ようとする欲望、苦を避けようとする欲望と、そ

  • ララビアータ:反実在論 - livedoor Blog(ブログ)

    すでに何度も論じてきたことだが、十分に理解が行き渡らないもどかしさを感じるので、もう一度徹底的に分かりやすく論じてみよう。 箱の中に碁石が入っている時、その数は偶数であるか否かどちらかだ、と言えるだろう。あるいは「碁石の数は偶数だ」という言明は、真か偽かどちらかだと言える。それを実際に確かめることに先んじて、真か偽かが決まっている、偶数であるか否か決まっている、と考えられる。この場合、この言明の真を保証している実在論的根拠(ここでは、箱の中に実際入っている碁石)があると言えるからである。 これに対して、これからサイコロを振って出る目の数は偶数であるかないかどちらかだ、と言えるだろうか? この場合、未来に起こる出来事としては、サイコロの目は未だ存在していないのだから、それを決定するための実在論的根拠が存在していないのだと言うべきだろうか? おそらくそうではない。この場合にも、サイコロの目に1

  • ララビアータ:アドルノのオデュッセイア論 - livedoor Blog(ブログ)

    アドルノは述べている。 「オデュッセウスの断念はいまだ決定的性格のものではなく、たんに、一時的に先に延ばしただけのことにすぎない。彼は復讐の実行を思いとどまるにしても、おおむね後でより徹底的にそれを実行している。…復讐は裁判上の訴訟手続きに変わる。つまり、神話の圧力を最終的に充たすことが支配の具体的手段になる。諦念を伴った復讐は義とせられるのである。」(『啓蒙の弁証法』岩波書店p-116~117以下同様の訳から) 『オデユッセイア』についての格的検討は別の機会にしたいが、私見によれば、その主題のひとつは正義についての古代人的関心にあった。その点では、アイスキュロスのオレステス三部作などと共通の政治哲学的関心があったのだ。 オデュッセウスが約20年にわたる留守の間、ペネロペとテレマコス母子は、大変な危機状況にあった。もし、幼いテレマコスを連れてペネロペが誰か有力貴族の一人と結婚していたら

  • ララビアータ:自然と芸術 - livedoor Blog(ブログ)

    すでにここに書いたこともあると思うが、かつてボストンに、留学していた法哲学の友人I氏宅を訪ねたとき、毎日のように近所の知人たちを招いて開かれていたパーティーで、たまたま能の話になったことがあった。私は能に詳しいなどとはとても言えたものではないが、それでも以前は暇にまかせて足かけ20年ほど、先生について謡曲や仕舞や大革を習っていたことがあるので、いくらか聞きかじり程度の知識はある。 そこで、能はひとことで言うとどんなものか、と聞かれたので、「まあ、退屈boringなものです」と答えた。すると、テキは目を丸くして、私がboringの意味を取り違えているのかといぶかりながら、そんなboringなものをどうして20年も勉強したのか、と聞く。まったく単純な連中だと思いつつ、in order to investigate why it is so boring(なぜそんなにも退屈なのかを探求するため)

  • ララビアータ:芸術作品の普遍性 - livedoor Blog(ブログ)

    最近上梓した拙著『神学・政治論』は、これまでのどの拙著にもましてわかりにくいとの苦情を耳にするので、折に触れて少しばかり説明を加えてみたい。説明はしばしばもとの文章に含まれる含蓄や隠し味を語りだすものであるから、それ自身、冗漫に流れ、味わいに欠けたもの、無粋なものになることはやむを得ない。 ギリシア的観点からすれば、自由と自由の共和国(ポリス)は、きわめて例外的に人為的に達成された創造的偉業である。政治とは、自然の一部ではなく、自然の上に築き上げられた芸術作品のようなものだ。それが何らかの普遍性をもつとしても、決して自然法則のような普遍性ではなく、芸術作品のような普遍性であろう。(p-8) 私はここで、哲学も政治も基的にはギリシア起源のものであるという、かなりバイアスのある主張をしている(cf.p-19~20)。哲学はともかく、政治さえギリシア起源というのはなぜなのか、いかなる意味でそう