<moku-go> 名古屋市の河村たかし市長が物議をかもした。1937年の南京事件の被害者について「30万人とされるような大虐殺はなかったのではないか」と発言した。 「30万ではない」説は日本国内では多数派だろう。ただし、では何人かとなると、20万説からゼロまで割れている。 中国は30万が定説だ。根拠は東京裁判や南京軍事法廷だと主張している。共産党中央と中国政府が認定した数字だ。河村氏はそれが正しくないと思うなら、党中央と中国政府に言うのが筋だろう。南京市の役人に「党中央の歴史認識は間違っている」とねじ込んでみてもらちは明かない。相手を間違えている。帰国した代表団は、なぜ席を蹴って抗議しなかった!とネットでたたかれているという。 タイミングも間違えている。ネットで2月23日付米国メディアCNNの書きぶりを検索してみたらいい。 出だしが「日本の市長が、多くの記録によって立証された、70年以上
高校世界史を学んだ日本人は、哲学者ソクラテスや歴史家ヘロドトスを生んだ古典古代のギリシャについて、必要以上に知っていることが多い。 しかし、この国は中世以後になると急に教科書から姿を消し、近代に入ってギリシャ独立戦争(1821~29年)で再び言及されるにすぎない。東ローマ帝国の滅亡以降、およそ400年にわたるオスマン帝国の支配から独立を目指した運動とその後の国づくりのあり方は、欧州連合(EU)に依存しがちで、独立自尊の経済運営を放棄してきた現代ギリシャの個性の原型でもある。 そもそもギリシャ独立戦争は、ウクライナのオデッサに住むギリシャ商人らの「フィリキ・エテリア」(友愛協会)が外国で煽動(せんどう)したことに端を発するが、英国詩人バイロンやフランスの画家ドラクロワらのヨーロッパ人の共感や英仏露など大国の参戦がなければ、大国のオスマン帝国からギリシャ人が分離独立する力はなかった。 しかも、
我々は直接に過去を知ることはできない。 人間の行動や思考が残したさまざまな痕跡を手がかりに、過去を再構成する以外にそれを知る術を持たない。 そのようにして再構成された過去を歴史といい、再編成の手がかりとした痕跡を史料という。 もとより人が残した痕跡は〈書かれたもの〉に限らないが、古文書、古記録をはじめとする文献史料は、長きにわたって史料のなかでとくに優越した地位を占めてきた。 以前は限られた人しか見ることができなかった文献史料が、一部ではあるが歴史資料集として編纂され、刊行物として活字化されることを経て、多くの人が見ることができるようになった。 加えて近年、そうした刊行物はインターネット上で誰でも検索/参照できるようになっている。 以下では、自宅で誰でも(基本的に)無料でアクセス可能な歴史史料を紹介する。 ここで紹介する歴史資料集は、大きく2つに分けることができる。 A.ひとつは各文書・記
9月2日に宝島社が厚木基地に降り立つマッカーサー元帥の写真を使用した新聞広告を出し反響を呼びました。 「いい国つくろう、何度でも」というコピーは太平洋戦争の敗戦から立ち直った日本の不屈の精神に訴える意図があったのだと思います。 しかしこの広告を見た読者の反応は「屈辱的」、「外から来る人が仕切らないと何もできない国への皮肉か」などネガティブなものが多かったそうです。 つまり「再起しよう」という宝島社の意図したメッセージより「占領」というイメージの方が強烈に前面に出てしまったわけです。 読者のリアクションなどを見ていて僕が感じたのはダグラス・マッカーサーという人に対する日本人の記憶が風化しており、マッカーサーという人物が誤解されているのではないかな?という点です。 【米国内では変人扱い】 ダグラス・マッカーサーは戦中戦後を生きた日本のシニア層の人々には愛着や郷愁を持って思い出される、ポジティブ
東日本大震災に伴う津波で大きな被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された。仙台平野は400~500年おきに大津波に見舞われており、街道は過去の浸水域を避けて整備された可能性が高いという。平川教授は「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と話し、今後の復旧計画にも教訓を生かすべきだと提言する。 国土地理院が作製した東日本大震災の浸水図に、平野を縦断する奥州街道と浜街道を重ねたところ、道筋の大部分と宿場町が浸水域の先端部からわずかに外れていたことが分かった。宿場町の整備後に仙台平野を襲った慶長津波(1611年)では、伊達領で1783人が死亡したとの記録が残る。平川教授は「慶長津波を受けて宿場町を今の位置に移したとも推察できるが、今回の浸水域と比べると見事なほどに被害を免れる場所を選んでいる。津
「中国語はおもしろい」(新井一二三著 講談社現代新書)90~94ページを読むと、中国近現代史における尖閣諸島の意味が見事に説明されており、今回のような騒動が再度起きることも予言されている。長くなるが引用させていただこう(太字引用者)。 広い世界における中国語についてさまざまな角度から見てきた章を終えるにあたり、国際語としての中国語の地位と日本の関係について考えてみたい。 現在、国連の公用語は六種類あり、英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・アラビア語に並び、東アジアの言葉としては唯一中国語が選ばれている。一九七一年に、それまでの中華民国に代わって中華人民共和国政府が国連代表権を獲得。二年後に中国語は本会議と安保理の作業用語に加えられた。一口に六種類の公用語と言うが、実際には英語とフランス語で国連業務の大部分は行われており、中国語に与えられたのはそれに次ぐ地位である。 とは言うものの、イン
日本の尖閣諸島周辺で起きた中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件をきっかけに、尖閣諸島の領有権にかかわる日本と中国の主張の対立が、国際的にも注目を集めている。日本共産党はすでに1972年に日本の尖閣諸島の領有は正当であるとの見解を発表しているが、この機会にあらためて尖閣諸島の領有の正当性について明らかにする。 一、日本の領有と実効支配 近代まで「無主の地」 尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られており、中国の明代や清代の文献に登場する。当時、琉球は中国との間で朝貢貿易をおこなっており、中国の使節である冊封使が琉球国王の代替わりにさいして往来した。琉球と中国大陸の福州とを結ぶ航路のほぼ中間に位置する尖閣諸島は、海路の目標とされていた。しかし、中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにで
8月10日、菅直人首相は韓国併合100年に関する談話を発表した。「歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います」 菅は、日本の「植民地支配」が韓国に与えた苦しみを認めて謝罪。さらに、朝鮮半島由来の文化財を返還することも約束した。 日本の指導者はたびたび過去の行為について謝罪しており、その膨大なリストにまた新たな項目が付け加えられたという皮肉な見方は、当然ある。そもそも、これ以上謝罪を繰り返したところで、日韓関係や日本のアジアでの立場の改善に役立つとも思えない。 一方、政治家の「自虐的」な言動を批判してきた日本の保守派は、この談話に猛烈に反発している。産経新聞は翌11日の社説で、菅首相の「一方的な歴史認識」を厳しく批判した。 ■右派の歴史認識は矛盾だらけ もっとも、右派の歴史修正主義者が反発
2010年06月06日00:00 カテゴリ社会・世界情勢 沖縄 チャルマーズ・ジョンソン氏の悲憤と慚愧 911直後から活動しているTUP(平和のための翻訳者集団)の山崎久隆さんが紹介してくださった、チャルマーズ・ジョンソンさんの5月6日付ロサンゼルス・タイムズ記事を転載します。 読むだにつらいのですが、アメリカの、しかもタカ派で鳴らした元CIA顧問の、沖縄を蹂躙してきた当事者としての、沖縄の人びとにたいする慚愧の思いがまっすぐ伝わってきます。その思いを、沖縄県外のすべての人びとは改めて噛みしめるべきだ、なぜなら沖縄県外の人びとの当事者性はチャルマーズ・ジョンソンさんに勝るとも劣らないのだから、そしてそれを受けて菅首相はじめ次期閣僚のみなさんは、ジョンソンさんの慚愧の思いを千倍、万倍にして引き受け、沖縄にこうべを垂れるべきだ、そうしたとき初めて、このくにはほんとうに変わることができる、私はそ
日本が第2次世界大戦で負けた原因はどこにあるのか? こう聞くと、たいていの日本人は「陸軍が悪かった」と答えるのですが、これは本当でしょうか? 戦史を丹念に追っていくと、無能で権威主義だった帝国海軍こそが日本を敗戦に導いた根本的原因だと判断せざるを得ません。しかし、戦後60年以上経った今でも「東京裁判史観」が幅をきかしているわが国では、いつまでたってもそうした見方は支持されないのです。 僕の知り合いだった故佐藤晃さんは、終戦以来ずっと「陸軍悪玉論」に疑問を感じていました。そこで、退職後に戦史研究を始め、その成果を執筆してきました。テーマは一貫して「海軍無能論」です。そこで、その成果の一部を紹介したいと思います。 (当初、ご遺族から全文公開の許可をいただいたのですが、翻意されたので、法的に問題ない範囲での紹介にとどめます) 海軍の誕生と消滅 1867年、明治維新が成立すると、明治新政府は、日本
12日は天皇陛下のご即位20周年にあたりました。 逃げ腰熱湯浴の端くれとして、さっそく香港各紙の取り上げ方でも。 今回のご即位20周年、中国や香港、台湾の各紙が記念式典や街角の様子なども伝えているのですが、いちばん取り上げられたのは12日に発表された20周年に際しての記者会見の内容。なかでも皇室継承問題などよりも着目されたのが、在日外国報道協会からの代表質問であったこのくだりです。 問3 両陛下にお伺いしたいと思います。陛下が即位なさったのは,いわゆるバブル経済のただ中でありましたが,この20年は日本にとって大変厳しい時となりました。ご存じのように高齢化が進み,人口が減少し始め,経済は不安定です。両陛下は,日本の将来に何かご心配をお持ちでしょうか。お考えをお聞かせください。 天皇陛下 今,日本では高齢化が進み,経済が厳しい状況になっています。しかし,日本国民が過去に様々な困難を乗り越えて今
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